藤森式解説02:バウハウスにこだわり続けた清家清、バウハウスに揺れる丹下健三──「 モダニズム建築とは何か」スピンオフインタビュー

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藤森照信先生と私(宮沢洋)の共著『画文でわかる モダニズム建築とは何か』が彰国社から5月10日に発刊になった。この本は、藤森先生の著作『人類と建築の歴史』の一部を宮沢がイラスト化したもので、巻末に藤森先生へのインタビューを収録している。実はそのインタビュー、盛り上がり過ぎて全体の半分しか載せることができなかった。あまりにもったいないので、残り半分を本サイトで3回に分けて掲載することにした。今回は2回目。(書籍の詳細は彰国社サイトを)

宮沢:これまでのお話だと、先生は丹下健三さんの日本での活躍は、先生の言う“アメ玉”の新たな広がりとは捉えていないということですか。

藤森:広がりとは捉えていますよ。でも日本版ですね。だけど、丹下さんが純粋にコルビュジエと違うのは、晩年はガラスの建築をつくるでしょ、たくさん。あれはやっぱりミースですよ。

丹下さんはロンドンのCIAMの大会に行き、そのあとフランスに行って初めてコルビュジエを見るんですよ。で、その時にすごく違和感を感じたらしい。ヨーロッパからアメリカに移って初めてミースも見るんですね。シーグラムビルとか。それにすごく感動する。それで日本に帰ってきて、ミース調のものを少しやる。清水市庁舎とか。で、大失敗する。全然日本の技術がついていかない。雨漏りはするわ、夏は暑いわ。

宮沢:それでまたコルビュジエに戻るわけですか。

藤森:失敗して、コルビュジエでずーっと行く。でも、丹下さんはミースとコルビュジエの間をずっと揺れていた。

宮沢:そうなんですか。

藤森:生涯そういうところがあった、丹下さんには。

戦後初期の清家清は“木造のミース”だった

宮沢:私は最初にも言いましたけれど、90年代に建築をやるようになって、その時にはすでにモダニズムの神はコルビュジエだったんです。グロピウスとかミースとか言う人は私の周りにはほとんどいなくて、コルビュジエこそがモダニズムの教祖なんだと、そういうふうに刷り込まれました。

藤森:日本はそうなんだよね。

宮沢:なぜバウハウスを一緒につくったグロピウスやミースはそんなに日本では評価されなくなったんですか?

藤森:最初はされたのよ。

宮沢:戦前は、ですね

藤森:戦前は、堀口さんや石本喜久治が訪れ、山脇巌とか山口文象が学んで、バウハウスが直接入ってきますから。それに一世代遅れてコルビュジエです。バウハウスは評価されていた。「戦前の段階で、ミースって知ってましたか?」って、丹下さんに聞いたんですよ。そうしたら、「そういうような名前の人がいることは知っていたけど、誰も関心を持たなかったし自分も関心なかった」って。


宮沢:知っていたけど、それほど興味はなかったと。

藤森:でも、名前は知っていた。なんかバウハウスにいるぞ、みたいな。誰も関心は持たなかった。ただ、世界的にミースが関心を持たれるようになるのは戦後ですから。バルセロナパビリオンとか、現代の最も主流になる鉄とガラスとコンクリートでつくる、さらに鉄とガラスだけで建物を基本的につくるってことはミースですから。それをやってからですよね。だから戦前の段階でミースを知っているというだけでも先端的です。

宮沢:海外の情報が少ないんですね。

藤森:ただ、謎もあってね。清家清さんは明らかにミースなのよ。それが謎なの。どこでミースを?って。丹下さんは戦前にはミースという存在に興味がないわけ。清家さんは戦後すぐの頃からミースですから。木造のミースです。

(イラスト:宮沢洋)

宮沢:そういう言われると、ミースっぽい木造ですね。

藤森:それでグロピウスもすぐにわかるわけだよ。日本へ来て知るわけ、清家っていう変わったやつがいるって。それで、ボストンへ帰って清家さんをすぐに呼ぶの、ボストンに。清家さんはグロピウスの下でしばらく働いて、また帰ってくる。

清家清「自邸」の窓が「トゥーゲントハット邸」式である謎

宮沢:清家さんはどこでミースを知ったんですか?

藤森:あの人の経歴は海軍技術将校として建築をやり、それから東工大の先生になり、その最中にグロピウスに呼ばれて行った。ただ、その前に「斎藤邸(齋藤助教授の家)」とか、初期の木造がミースのデザインでつくられてる。それが、謎。その問題を清家さんに聞いた。ミースとの関係を。そうしたら、話をそらす。冗談言って話をそらす。ミースの直接的な影響もあって、清家邸の窓って下に沈むんですよ。あんなことはミースだけがやっていた。ミースが全面的に「トゥーゲントハット邸」でやってます。

宮沢:ガラス窓を下に下げるんですか?

藤森:そう、下げちゃう。そうすると窓が消えるの、突然。ほんとに。トゥーゲントハット邸は、私見に行った時はやってくれた。今みたいにしっかり保存される前ね。それを清家さんは「自邸(私の家)」でやってる。絶対これはトゥーゲントハット邸をまねた以外にない。で、聞いたけど答えてくれなかった。

宮沢:なんで答えないんしょうね。

藤森:どうしてなんだろうね。林昌二も清家清に同じこと聞いた。そしたら「俺も聞いたけど答えてはくれなかった」って。林さんは清家さんの教え子で、それも最初のお弟子さんみたいなものだからね。それでも答えてくれなかった。でも。答えてくれなかったってことは「そうです」ってことです。「違います」とは言わなかった。

藤森式解説03に続く)

(書籍の詳細は彰国社のサイトを)