最強の道後建築案内05:伝説の地方建築家、松村正恒の少し意外なクール系建築_BUNGA NET

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 この松山シリーズの中で、おそらく今回が一番ディープな内容となる。ほとんどの人はどの建築も知らないだろう。建築編集者歴30年の私も、1つも知らなかった。でもすごくいい。建築家・松村正恒(まさつね、1913~1993年)の民間建築である。取り上げるのは例えばこれだ。

地元・松山の人以外にはほとんど知られていないこの建築。設計:松村正恒(写真:宮沢洋)

 おお、ネルヴィか、キャンデラか? いえ、違います。1960年代から松山市に設計事務所を構えて活動した松村正恒(まさつね、1913~1993年)である。

 建築に詳しい人なら松村正恒の名前は知っていると思う。八幡浜市役所の職員から、全国区の高い評価を得る建築家となった伝説の建築家だ。実作としてまず思い浮かぶのは、重要文化財となった「日土(ひづち)小学校」だろう。

日土小学校(イラスト:宮沢洋)

 建築史家の松隈洋氏(京都工芸繊維大学教授)が日本経済新聞に寄稿した「八幡浜と松村正恒『日土小学校』」という記事(2021年1月22日付)が、とても分かりやすいので引用する。

 1913年に愛媛県大洲市に生まれた松村正恒は、2歳で父親と死別し、母親とも離れて里子に出された。その孤独な幼少期の経験がそうさせたのか、第1次世界大戦後の過酷な時代の中で虐げられていた人々や子供たちを救いたいとの思いを抱いて育ったという。上京して武蔵高等工科学校で建築を学ぶ一方、日比谷図書館に通い、児童問題に関心を寄せて、卒業設計は「子供の家」をテーマとする。

 35年の卒業後、帝国ホテルを設計したF・L・ライトに師事した土浦亀城の事務所に入所したが、その華やかさには馴染(なじ)めず、「国際建築」の翻訳の仕事を通して最前線の近代建築の動向に触れつつ、託児所建築の勉強ノートを作り始める。日中戦争下のことだった。その後、太平洋戦争下に農地開発営団へ転職し、敗戦後は郷里へ戻り、八幡浜市役所の営繕技師となる。そして、いくつかの建築に続いて、58年に竣工させたのが、日土小学校である。

 そこには、松村が長く温めてきた、弱者の立場に立ち、野に咲く一輪の花のように、建築は自然で簡素であれ、との思いがこもった清新な空間が広がり、今もなお、子供たちの歓声が響いている。(文:松隈洋)

 素晴らしい文章。松村の誠実さや温かさが行間から伝わってくる。私も以前、「日土小学校」を取材したことがあり、代表作には学校が多いので、松村をヒューマンな公共建築設計者と認識していた。

 しかし、ここで取り上げるのはすべて民間の収益施設。ヒューマンというよりも、「クールでかっこいい」系だ。竣工年順に見ていこう。

激薄の庇に目が点、「日産プリンス愛媛販売」

◆日産プリンス愛媛販売
松山市福音寺町261
設計:松村正恒
竣工:1963年

庇が激薄! 鉄筋入ってるの? ディス・イズ・モダニズム。もうすぐ築60年なのに、昨日できた建築のよう。

クセのある彫刻的造形、「河野内科」

◆河野内科
松山市千舟町2丁目7−1
設計:松村正恒
竣工:1967年

これはキュビズム建築? モダニズムを超越した彫刻的造形。

丹下健三を思わす構造表現、「城西自動車学校」

◆城西(じょうせい)自動車学校
松山市中央1−1−41
設計:松村正恒
竣工:1976年

 繰り返されるアーチ。これもディス・イズ・モダニズム。この記事の冒頭の写真は、この教習所だ。丹下健三の「ゆかり文化幼稚園」(1967年)を思わせる。

 どうでした? 私はちょっと意外だったものの、「ヒューマンなだけの松村正恒」よりも、「クールなデザインだってできちゃう松村正恒」に、より心を惹かれた。こんな魅力的な建築群を教えてくれた松山の知人たちに感謝したい。

 今回の3件をミカン色のピンでマップに加えた。松山の辺りを拡大してみてほしい。

 次回は『誰も知らない日建設計』の著者の責務として、日建設計の松山建築をリポートする(宮沢洋)

次回の記事:日建設計巡り(2021年10月27日公開予定)