さて、問題です。この小さな建物をデザインしたのは誰でしょう?

…という問題にしようかとも思ったのだが、見出しに書いてしまったのでお分かりであろう。答えは日本最大、グループ全体では約3000人の規模を誇り、今年創設125年、過去には東京タワーや東京スカイツリーを設計し、現在は渋谷駅周辺の再開発の中核を担う、あの日建設計である。
「はっと目を引く新たなまちのシンボル『町田駅前交流拠点 はっとまちだ』が誕生」というプレスリリースが日建設計から送られてきて、写真に載っていた施設のあまりの小ささに「うそっ!?」と思い、実物を見に行ってきた。

おお、本当に小さい。建物面積22.7㎡。木造一部鉄筋コンクリート造。平屋だが、屋根が8mと縦に長い。筆者の知る限りでは、若き日の安田幸一氏(当時、日建設計)が担当した「桜田門の交番」(1993年)が日建作品の中で最小クラスだが、それよりもずっと小さい。
しかも「桜田門の交番」がある意味、日建らしいソリッドなデザインであったのに対して、はっとまちだは、シンボルの銅葺きの屋根が、スナフキンの帽子あるいはきのこの山のよう。外壁は色味のある小さな石が洗い出しになっている。

その規模といい、ファンタジックなデザインといい、「日建らしくない!」と思いつつも、それこそが「実に日建らしい」と感じた。どういうことかは後述する。
民間交番の跡地に建てられた寄合発信拠点
設計の中心になった日建設計企画開発部門コモンズグループコマーシャルエクスペリエンス部の佐野勇太氏(下の写真右)と、発注者・運営者である町田まちづくり公社事業部中心市街地活性化推進課長の鈴木不二人氏(下の写真左)が案内してくれた。

そもそも何の施設なのか。概略はプレスリリース(町田まちづくり公社と⽇建設計が共同で2025年5月8⽇に配信)のコピペで楽をさせてもらう(太字部)。
株式会社町田まちづくり公社(本社:東京都町田市、代表取締役社長:石阪丈一、以下「町田まちづくり公社」)が建築主・運営者を務め、株式会社⽇建設計(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:⼤松敦、以下「⽇建設計」)が建物の設計及び活用方法の検討支援等を担当した「町田駅前交流拠点 はっとまちだ」が2025年3月30⽇(⽇)にオープンしました。
本施設は町田駅周辺地区都市再生整備計画の一環として、官民連携で長期にわたり検討を重ね実現しました。商店街や芹ヶ谷公園をつなぐ回遊ルートの中継地として、まちの案内機能、商品販売、休憩スペース等を備えた新たなまちのシンボルとしての役割が期待されています。

■「 はっとまちだ」の特徴
「はっとまちだ」は、「歩いて楽しいまち」を実現するため、地域の治安を守るため道路上に配置されていた民間交番を新たな交流の場へと機能拡充した全国的にも先進的な事例です。
はっとまちだは、1つの空間に3つの窓口「information」「takeout」「shop」と1つの広場「spot」を備えています。そして、道行く人々が立ち止まり思わず驚きや興味を感じてくれるような「よりどころ」となることを目指しています。 町田の「今」を体感できる場であり、特徴的な建物のデザインによって町田市民や来街者にとってのシンボルとなることが期待されています。
■はっとまちだの機能
・「information」:公社スタッフが常駐し、道案内や駅周辺の店舗、イベントに関する情報を提供
・「takeout」:市内の飲食店や、市内で創業を希望する個人や事業者がテイクアウト専門で出店し軽飲食を販売
・「shop」:市内事業者やクラフト作家の商品を作り手の想いとともに紹介し販売


・「spot」:ベンチや植栽を配置し、歩行者が気軽に立ち寄れる空間を整備。地域イベントやワークショップ等の開催が可能。

■「はっとまちだ」のコンセプトとデザイン
「はっとまちだ」は、道行く人々が思わず立ち止まり、「はっとする」ような新しい発見や驚きを得ることができる場所です。人々がふらりと立ち寄る「小さなよりどころ」であり、またここでまちの情報を得てまち全体と繋がる「人とまちの接点」でもあります。⽇常の中で自然に心の安らぎを感じることのできる「小規模なアクティビティを通して人とまちがつながるきっかけとなる場所」を目指してデザインしました。

また、道路上で超小型マーケット機能を兼ね備えることによって、まちの中で新たな交流や発見を促進し、近隣の商店・地域の活性化にも貢献する役割もあります。これまでの町田の中心市街地にはないスケール・形状・素材を採用した独創的なデザインによって、視認性が高く、まちの風景の中でひときわ目を引く存在となりました。人々の記憶に残り、SNSなどを通じて自然と拡散されることで、まちの象徴となることが期待されます。デザインの力を通じて、市民がまちへの誇りや愛着を感じるきっかけとなることを目指しました。

■はっとまちだ概要
住所:町田市原町田6丁目13番14号
面積:建物 22.7㎡(建物裏広場「spot」26.9㎡)
建物構造:木造(一部鉄筋コンクリート)高さ8m、銅葺き屋根
竣工:2025年3月
機能:案内窓口、情報発信窓口、飲食提供窓口、休憩・イベントスペース
開所⽇時:年中無休(年末年始除く)、11時から18時
建築主・運営者:株式会社町田まちづくり公社(都市再生推進法人)
どうだろう。イメージできただろうか。一部をはしょってもこのくらいの説明文が必要になる珍しい施設だ。AI的にざっくり要約すると、「かつての民間交番の跡地に建てられた、案内所と複数の物販スペースから成る寄合発信拠点」といった感じか。
まちづくりの相談の中で依頼、採算度外視で全力投球
リリースのはしょった部分には、これまでの中心市街地まちづくりの経緯がとうとうと書かれていて、そこにも日建設計は関わってきた。


そう聞くと、「ああ、今後、日建設計の設計でドーンとでかいビルができるんだな」と、うがった目で見てしまう。が、そういうことでもないらしい。あくまで、まちづくりの相談の中で持ち上がった小さな計画に、採算度外視で全力で取り組んだ、ということらしいのである(筆者が騙されていなければ)。
「採算度外視で全力で取り組んだ」と書いたのは、通常は入れない建物内に入れてもらって、この天井を見たからだ。うわ、なんじゃこりゃ。

このウロコのような板、全部形が違うらしい。天井が回転曲面ではなく、微妙に不整形だからだ。


外から見ると、軒裏部分にウロコの一部が見えるものの、まさか天井裏にずっと続いているとは思わない。夕方になるとアッパーライトが点灯し、外からも見えるそう。とはいえ、真上までは見えず、チラリとだろう。まるで、裏地がゴージャスな帽子のよう。
コンピューターを使うとはいえ、施工性や耐久性の検証などを考えたら、上司に止められそうなデザインだ。止めなかった(むしろ煽った?)上司は、旧NADのリーダーであり、一方で渋谷スクランブルスクエアなどの巨大建築を手掛ける勝矢武之氏(設計監理部門設計グループ部長)だという。
日建設計は「粘菌」に似ている
外も中も、多くの人がイメージする「日建らしさ」からは遠い。だが、その“力の入れ方”が日建設計らしいなと思うのである。
筆者は2022年に『誰も知らない日建設計』(日本経済新聞出版刊)という本を書いた。その中で、過去も含めた日建設計の特質を「粘菌」に例えた。少し長くなるが、引用する(太字部)。
アメーバ状の粘菌は、神経組織を持たない原生生物でありながら、「迷路を最短ルートで解く」ことで知られる。こんな実験だ。粘菌の中でも真正粘菌変形体と呼ばれるものを、迷路に閉じ込める。入り口と出口に餌を置く。最初は迷路全体に粘菌が広がるが、行き止まりの経路にある部分を衰退させ、やがて入り口と出口を結ぶ1本の経路に収束する。ひも状につながった粘菌の姿は、まさに迷路の最短ルートだ。(中略)
なんとも不思議な話である。この本でなぜ突然、粘菌の話をしているのかというと、筆者には日建設計という組織が「粘菌」に見えるからである。強い指揮系統がないのに、時代とともに形を変え、新たなニーズを見つけて徐々に拡大する。
粘菌は、前述のように、脳や神経系はなく、どこかで指示を出しているわけではない。しかし、原形質の持つ物理化学的な性質、例えばリズムやパターン形成などが巧みに組み合わさることによって、迷路を最短ルートで解く。これは数理モデルによって理論的に説明できるという。つまり、指令ではなく、もともと組み込まれている“アルゴリズム”によって迷路を解くわけだ。
この後、本の中では日建設計の粘菌っぽさを分析しているのだが、ざっくり言うと、「強い指揮系統がないのに、個々が将来の危機を察知、あるいは未来の可能性を見出して新しい領域を切り開き、それがやがて大きな幹へと育っていく」という流れだ。命令で動いていないから、個々は新たな挑戦に全力なのだ。エネルギーのかけ方として合理的ではないが、突破力がある。だから125年も続いてきた。
この「はっとまちだ」、平日でもすごくにぎわっていて、周辺の活性化に寄与しているように見えた。まちづくりとしてはまずます成功していそうだが、日建設計的にはどう評価されているのかはわからない。もし社内で「日建らしくない」という声が出ていたとしたら、「それは違うでしょ」と助け舟を出したいと思った次第である。

それと、デザインが日建設計らしくないと何度も書いてきたが、明らかに日建設計らしい点が1つあって、それは屋根が銅板葺きであること。日建設計の大元である住友グループは、別子銅山の銅事業で発展した。資料のどこにも書かれていないし、佐野氏もひと言も言っていなかったが、「あの屋根は日建設計DNAのアピールだ」と日建設計ウオッチャーの筆者はなんだかうれしく思ったのであった。(宮沢洋)