大手アイウエアチェーン「JINS」の創業者として、若手建築家を起用し、独自性ある店舗を生み続けてきた。この10年は故郷・前橋市のまちづくりにも精力的に取り組む。田中仁氏は建築の魅力をどう見いだし、どんな思いで建築づくりやまちづくり、ビジネスの間を行き来してきたのか。幼少時から現在までを振り返ってもらう。(ここまでBUNGA NET編集部)

リスクを取って建築の可能性にかけ、まちづくりに生かしたい
BUNGA NETの宮沢洋さんから建築に関する連載の話をいただいた。
私はただの建築好きで、建築の専門知識は全くない、いわばズブの素人だ。そんな自分が建築を語るのはおこがましいと思った。しかし、よく考えてみると、自分に専門的な知識を求めているわけではないだろうし、何かしらの意図があるのかもしれない。そう思い、しばらくたってから宮沢さんにメールで尋ねてみた。
宮沢さんからはすぐに返信があり、3つの視点から依頼したいという。その内容は以下の通りだ。
1つ目――建築の可能性に期待していること。これについては全くその通りで、自分は建築というものが単なる構造物ではなく、人の気持ちや行動まで変える無限の可能性を秘めていると感じている。
2つ目――単なる普請道楽ではなく、リスクを負って取り組んでいること。これについても、店舗設計では外装だけでなく内装にも早くから若手建築家を起用してきたことから、専門誌でも取り上げてもらったことがある。なぜ建築家だったのか、そのことについてはこの連載の中でも触れたいと思うが、未知なる領域、いわゆるリスクにも取り組んできた自負がある。そして3つ目にもつながるが街の開発ではさらに大きな挑戦をしている。
3つ目――まちづくりに結びついている、ということ。私にとっては、単に結びついているというのではなく、建築そのものをまちづくりに生かそうとしている。都心も地方も、いくつかのデベロッパーを除いてほとんどが“算数”で成り立つ建築になっている。投資額、償却額、家賃、利回り、回収年数――などがその指標だ。ほとんどの場合、売却を前提にした開発が行われるのが当たり前の時代だから、これは当然のことなのかもしれない。


ただ、こうした建築は単調で、何もかもがつまらない。少し素材や色が変わったところで、本質的には代わり映えのない建築が街を埋め尽くしている。建築家が起用されても、個性を発揮できる範囲は限られていると聞くこともある。
しかし、私が力を入れて取り組む前橋のまちづくりにおいて、そうした開発とは一線を画している。その結果はまだ分からないが、1つだけ言えるのは、ユニークでなければ面白くないということだ。ここでいう「面白い」とは、人を引き付ける魅力があるかどうかを意味している。
そもそも、なぜ建築に興味を持ったのか。私にとって建築とは何か。建築への期待などを、経営やまちづくりの視点から語ることにも意味があるかもしれない。
内容は稚拙かもしれないが、それでも良いのかと宮沢さんに確認したところ、「そういう視点で建築の話をしている人はいなかったのでぜひ」と言われ、せっかくの機会なので、これまでを振り返る機会としても良いと考え、僭越ながらお引き受けすることにした。そんな事情で書くことを読者の皆様にはご容赦いただきたい。
養蚕農家の築120〜130年の家で幼少時を過ごす
建築に興味を持ったのは、いつからだろうか。20代前半、私の趣味はハウスメーカーの展示場巡りだった。展示場を訪れると、おしゃれで夢のような生活が提案されていて、ワクワクしたことを覚えている。多いときには毎週、展示場を見て回った。瀟洒な玄関から始まり、ダイニングやキッチン、リビング、主寝室、浴室、トイレに至るまで、それまで育った家とは違う世界が広がり、未来に対する希望で心が満たされたような気分になったのを思い出す。しかし、そんな素敵な体験を繰り返していたにもかかわらず、数年後には飽きてしまった。おしゃれではあるけれど、何か物足りなさを感じるようになった。
そのとき、本屋で見つけたのが建築の本だった。特に『新建築住宅特集』や『住宅建築』という雑誌が目に留まった。そこには、建築家の思想や考え方とともに、建築家が設計した家が掲載されていた。そこで初めて、家をつくるにも建築家という存在があり、その思想が家という形になっていることを知った。「なんだ、いいじゃないか、かっこいいぞ」と思い、さまざまな家を見ながら、そこに住んでいるような妄想をすることで、想像力がかき立てられた。
なぜ展示場巡りに飽きてしまったのだろうか。それは、おそらく子どもの頃の記憶が蘇ってきたからだろう。3歳くらいだっただろうか、私は祖母の膝に抱かれながら日なたぼっこをしていた。場所は、当時の実家の縁側だ。そのとき、近所のおばさんがやってきて、祖母と世間話をしていた。日だまりの中で、私はあまりの心地よさに眠りについた。そんな体験が、今でも鮮明に思い出される。

私の実家は、田舎の旧家で本家にあたる。盆暮れ正月には、親戚一同や近所の人も含めて、50人以上が集まり大宴会になる。当時の家は、築後120〜130年くらいたつもので、北関東の養蚕農家のつくりだった。総2階建てで、まず玄関に入ると土間があり、右手にはかつて馬を飼っていた場所があり、そこは上がり座敷に改修されていた。左手には木を張った上がり端があり、土間の奥には食卓、台所が続き、さらにその外に五右衛門風呂のある小屋があった。
母屋は、大黒柱を中心に大きな座敷が二間あり、奥座敷には床の間があった。その二間に沿うように、北側にも二間続いていた。2階に上がると、養蚕で使っていた大きな空間が広がり、その奥に子ども部屋が二部屋並んでいた。天井を見上げると、「気抜き」と呼ばれる屋根の頂部に設けた小屋根が2つ見える。突き当たりの子ども部屋の窓から見えるのは、屋敷内の土蔵や祖父母の住む離れで、その奥には桑畑が広がり、家の周りを巡る道路の向こうに隣家が見えた。
子どもの頃、私はその窓から外を見て、ボーっとしていた。忘れられないのは、月明かりに照らされた桑畑の美しさだった。桑の葉は深い緑色のはずだが、月の鮮やかな黄色い光を受けて、キラキラと輝いていた。とても美しかったが、その光はどこか切ない感じがした。

そんな記憶があるせいか、ゴッホの名作『夜のカフェテラス』は、私の好きな絵の1つになっている。その後、機会があり南フランスのアルルを訪れ、その地を見てきた。絵の中のカフェそのもので、夕暮れから夜が深まるにつれて、黄色い壁が華やかに輝く一方、どこか切なさを感じる印象が、月明かりの桑畑と重なった。
そんな環境で育った体験が、ハウスメーカーの展示場巡りの中で鮮やかに蘇り、家というものに強く興味を抱くようになった。それからというもの、ファッション雑誌を見るような感覚で、建築の本を購入し、読みふけっていた。(田中仁)
※次回は6月半ばに掲載予定
