20代からファッション雑誌を見るように建築の本を読みふけっていた田中仁氏(ジンズホールディングス代表取締役CEO)は、30代前半に自宅の建設を決意した。白羽の矢が立てられたのは京都の建築家・横内敏人氏だ。ローコストながら庭と一体の癒される空間が完成。横内氏にとってその後のひとつの原点となる一方、田中氏の生活が一変。JINSの眼鏡事業が生まれる原動力となった。(ここまでBUNGA NET編集部)
建築雑誌を読み始めて数年がたった頃、自然と「いつか自分の家を建てたい」という思いが芽生えた。若くして始めた雑貨事業は、紆余曲折を経ながらも軌道に乗りつつあったが、心身ともにかなり疲弊していた。そんな折、手にした『住宅建築』という雑誌の中で、一軒の家に目を奪われた。
場所は東京・目黒と書かれているが、鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれ、まるで都会とは思えない静けさと湿り気を帯びた空気感が漂っていた。設計者は京都在住の建築家・横内敏人さんだった。
解説によれば、横内さんの理念である「自然との一体感」を体現し、木材や土壁といった自然素材がふんだんに使われている。建物はL字形に構成され、中庭を中心に居室が配置されていた。中庭には主木としてヤマボウシが植えられ、四季の変化を室内から楽しめるという。


また、和室や茶室といった伝統的な要素も取り入れられており、現代的でありながらも日本の住宅文化を色濃く感じさせる設計だった。住宅密集地という制約の中で、中庭形式を採用し、居間と茶室が対峙する空間構成にも引かれた。
「これぞ現代の洗練された日本の家だ」と感じた私は、「こんな家で暮らせたら、日々の疲れも癒えるだろうな」と想像を膨らませた。とはいえ、当時は資金も土地もなく、夢は夢のままだった。
そんなある日、何気なく通りかかった前橋駅近くで、一画の更地が目に留まった。広すぎず狭すぎず、家を建てるにはちょうどよいサイズに思えた。不思議に思って調べてみると、その土地は区画整理で生まれた換地で、前橋市の所有地だった。
やがてその土地が売りに出されると知り、多少値は張っていたが思い切って手を上げた。幸運にも購入が叶い、33歳を迎えたばかりの私は、地元の信用金庫からの融資を受け、家を建てる決断をした。1996年のことである。
「どうせ建てるなら、あの雑誌で見た横内敏人さんにお願いしたい」。そう思い、雑誌に載っていた連絡先に電話をかけた。電話口に出た横内さんは非常に丁寧に話を聞いてくれ、「ぜひ詳しいお話を伺いたい」と言ってくれた。
そこで週末を利用し、家族4人で京都にある横内敏人建築設計事務所を訪ねた。事務所は安藤忠雄氏設計による「B-Lock神楽岡」というコンクリートブロックの集合住宅の一室。面談では、なぜ横内さんにお願いしたいのか、また予算に限りがあることなどを率直に伝えた。
「ぜひ前向きに検討したいので、現地を拝見させてください」と言っていただき、その日は京都を後にした。
ガルバリウム鋼板の外観に「工場のようだな」と戸惑う
しばらくして横内さんから連絡があり、前橋の土地を見に来てくれた。
その後の打ち合わせでは、スケッチと模型を持参され、家のコンセプトを丁寧に説明してくれた。庭と一体化したプライバシー性の高い設計で、開放感も確保されていた。外壁には当時では珍しかったシルバーのガルバリウム鋼板を採用するとのこと。第一印象は「ちょっと工場のようだな」と戸惑ったが、低コストを実現する上では納得せざるを得なかった。



完成してみると、無機質な外観と有機的な内装のコントラストが絶妙で、今でもとても気に入っている。限られた予算の中でも茶室を設け、庭には蹲踞(そんきょ)や手水鉢も据えた。妻が表千家に習っていたこともあり、私も一時、一緒に稽古に通っていた。ある夜は、お茶の先生や友人の僧侶を招いて、蝋燭(ろうそく)の明かりの中で「夜咄」の茶会を開いた。
庭に赤い毛氈(もうせん)を敷き、明かりを頼りに茶室へと歩みを進める。亭主と客人が向かい合い、静寂の中で茶懐石が運ばれる。本来ならば静謐な時間を過ごす場だが、その日はお酒も進み、深夜まで続く賑やかな会となった。
建築の記憶は人の感情を深く揺さぶるものだと実感

この家が完成したことで、生活が一変した。ゴールデンレトリバーを飼いはじめ、料理をするようにもなり、疲労よりも「日々に張り」が感じられるようになった。
そんな暮らしの中から、やがてJINSという眼鏡事業が生まれ、福岡市天神に2001年、JINSの1号店がオープンした。そしてこの「前橋の家」との縁は、30年の時を経て新たなつながりを生むこととなり、あらためて“縁”というものの奥深さを実感している。その“新たな縁”については、後の回に改めて触れたいと思う。
やがて事業の拡大とともに、さらなる成長を目指して都内への進出を考えるようになった。ちょうど子どもたちの進学も重なり、家族で東京へ拠点を移すことになった。そうして前橋の家はしばらく空き家になっていたが、大手ゼネコンに勤める知人が「ぜひ譲ってほしい」と申し出てくれたことをきっかけに、思い切って売却することにした。
今でも前橋に帰ったときには、その家の前を通ることがある。すると、当時の暮らしや心の風景がふっと蘇り、なんとも言えない感慨に包まれる。あの思い出深い家も、今では新たな住まい手のもとで、また別の家族の記憶を育んでいるのだろう。
そしてこの家は、私にとってだけでなく、建築家・横内敏人さんにとっても、特別な意味を持つ家だったのかもしれない。横内さんにインタビューをした編集者によれば、ご本人も「前橋の家」がその後の住宅設計におけるひとつの原点になっていると語っていたという。
ローコストゆえに限られた条件のなかで丁寧に紡ぎ出された空間構成の試みが、後年の横内作品にも何らかの影響を与えているとすれば、建て主としてこれほど、うれしいことはない。建築の世界では「記憶をつなぐ」という言葉をよく耳にするが、なるほど確かに、記憶は人の感情を深く揺さぶるものなのだと、この家を通じて実感した。
この「前橋の家」は『住宅特集』1998年4月号(新建築社)にも掲載されている。(田中仁)
※次回は7月半ばに掲載予定
