一般の人が“名建築”として思い浮かべる建物は、いわゆるアトリエ系建築家が設計したものとは限らない。大組織に属する設計者がチームで実現した建築にも、広く世の中に知ってもらいたい物語がある。大成建設が設計を手掛けた名作・近作をリポートする本連載。今回は、今年2月に国の登録有形文化財となった「国際基督教大学(ICU)本館」を訪ねた。一般的にはW・M・ヴォーリズの名作として知られる建築だ。そこに“物語”がある。
[協力:大成建設設計本部]
東京都三鷹市の「国際基督教大学」(以下、ICU)は、さながら建築博物館のようなキャンパスだ。ウイリアム・メレル・ヴォーリズ、アントニン・レーモンド、前川國男、隈研吾といった、建築史を彩る著名建築家による施設が並ぶ。

建築好きにはよく知られるキャンパスだ。だが、私立大学かつ大きな旗竿のような敷地形状ということもあり、フラリとは入れない。筆者も見たことがなかった。今回、大成建設から「ICUの本館を取材しませんか」と声を掛けられ、小躍りしたものの、「あれ、本館はヴォーリズの設計では?」と不思議に思った。

「中島飛行機三鷹研究所」としてつくられたICU本館
ICUの本館は2026年2月10日、国の登録有形文化財となった。文化庁が運営するポータルサイト「文化遺産オンライン」ではこう説明されている。
「旧中島飛行機三鷹研究所設計本館を戦後に転用した大学校舎。キャンパス中心部に建つ鉄筋コンクリート造3階建で中央5スパンを4階建に増築し、正面性を強調。平面は各階中央ホールから左右に中廊下を延ばす。ヴォーリズ事務所改修による端正な外観の校舎。1944年竣工、鉄筋コンクリート造4階建、建築面積2752㎡」
どこにも大成建設の名前は出てこない。だが、ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964年)が新築として建てたのではなく、戦中に建てられた「旧中島飛行機三鷹研究所設計本館」を改修したものだということがわかる。

本館は同月27日に発表された「第35回BELCA賞」のロングライフ部門にも選ばれている。その概要データにはこうある。
設計者:
【設計】
大倉土木㈱設計部(新築時(中島飛行機))
ヴォーリズ建築事務所(大学改修時)
大成建設㈱一級建築士事務所(保存改修時)
【設計監修】
一粒社ヴォーリズ建築事務所(保存改修時)
施工者:
大倉土木㈱(新築時(中島飛行機))
大成建設㈱(大学改修時)
大成建設㈱(保存改修時)
そうか、ヴォーリズが改修する前の建物が大倉土木(大成建設の前身)の設計だったのか。
話を聞いてみると、その歴史がめっぽう面白い。本館の魅力は、キャンパス整備を巡る“物語”と密接に結びついている。なので、戦前から時代を追ってお話ししたい。
なお今回の取材では、2024年春~25年春にかけて実施した本館改修工事を担当した大成建設設計本部建築設計第五部の西尾吉貴設計室長、岡田麻友子氏、根本一希氏が、大先輩たち(大倉土木設計部)の仕事を案内してくれた。

「飛行機王」と呼ばれた実業家・中島知久平
物語は、1人の実業家と3人の建築家がカギを握る。
1人目のキーマンは中島知久平(ちくへい、1884~1949年)だ。中島は、日本初の民間飛行機会社「中島飛行機」の創業者。「飛行機王」と呼ばれた実業家・政治家である。
現在の群馬県太田市で農家の長男として生まれ、18歳の時に軍人を志して上京。海軍機関学校を卒業し、海軍の軍人となる。ライト兄弟の動力飛行(1903年)に影響を受け、海軍を退官して飛行機の研究・製造を開始。苦労の末、1919年に「四型6号機」を完成。以後、陸軍や海軍からの大量受注により、中島飛行機は大きな発展を遂げる。
1930年以降、衆議院議員として連続5回当選し、鉄道大臣や軍需大臣も務めた。

その飛行機王が、日中戦争からの戦雲が深まる中、特殊攻撃機やジェットエンジンなどの開発のためにつくったのが中島飛行機三鷹研究所である。つまり、軍需施設だ。
中島飛行機の生産拠点は現在の武蔵野中央公園付近にあった(中島飛行機武蔵製作所)。だが、開発部門は各地に分散しており、中島はこれを1カ所に集約することに並々ならぬ熱意をもっていた。中島は当時、脂の乗った50歳代半ばで、国会議員。資力もあった。
中島が敷地に選んだのは三鷹の「泰山(たいざん)荘」(実業家・山田敬亮の別荘)の一帯だった。周囲に航空関連企業が多く、調布飛行場(当時は建設中)が近いことが理由だった。試験機をつくりやすく、出来上がればすぐに調布飛行場で飛ばすことができる。
中島飛行機は1940年に泰山荘の一帯を購入。ここに研究施設を新築する一方で、泰山荘を自らの住居とした。新研究所の拠点となる本館は、1941年12月8日に起工式が行われた。くしくも真珠湾攻撃の日だった。資材や作業員が不足するなかで工事が行われ、1944年初春に完成した。
大倉土木の加倉井昭夫が設計を担当
出来上がった本館は、左右対称のシルエットは現状とほぼ同じ。だが、中央部分のボリュームは小さく、窓は庇によって水平方向が強調されている。室内は各階とも間仕切りがほとんどなく、ワンルームに近いシンプルなものだった。中島は「すべて大理石を使い、世界に誇れる豪華な建物にしたい」と語っていたそうだが、実際には、内装が全くない状況で使われたという。

本館の設計・施工を担当したのが大倉土木だった。依頼の詳しい経緯はわからない。図面も大成建設には残っていないという。軍需施設であったことから終戦時に資料が処分されたと想像される。
設計の中心になったのは大倉土木の加倉井(かくらい)昭夫だ。彼が2人目のキーマンである。
加倉井は1909年茨城県生まれ。東京芸術大学を出た後、1932年に大倉土木に入った。戦後は、駒沢オリンピック公園陸上競技場で知られる村田政真建築設計事務所に籍を置き、1969年からは武蔵大学人文学部の教授も務めた。
加倉井は個人としての設計活動も行っており、「近代数寄屋」と呼ばれる住宅を残した。特に有名なのは、東京都杉並区の角川庭園にある「幻戯山房」(旧角川家住宅主屋、1955年竣工、登録有形文化財)。角川書店の創業者で俳人の角川源義の邸宅だ。
俳人でもあった加倉井と、リアリストの飛行機王・中島
ネット検索で「加倉井昭夫」と調べると、「加倉井秋を」という俳人の名が最初に出てくる。建築家の加倉井昭夫と同一人物だ。俳人としても超一流だったことがわかる。戦前・戦中も俳人として活動していた。筆者は全くの門外漢だが、こんな句が有名だという。
「そばへ寄れば急に大きく猫柳」(加倉井秋を)
なんとも、のどかな日常の一瞬をうたった句だ。そんな加倉井が戦中に軍需施設の設計をしていたというのは、一体どんな気持ちだったのだろう。
なぜ加倉井が担当者だったと言い切れるかというと、大成建設には存在しない当時の図面がICUに残っており、そこに加倉井の承認印が押されているからである。


中島飛行機からの信頼は厚かったようで、加倉井の経歴を見ると、1945年には一時的に「第一軍需工廠」(中島飛行機が軍の直轄となった時代の名称)に籍を置いている。
何度も「軍需施設」と書いてきたが、加倉井がそういう意識で設計していたかはわからない。というのは、クライアントである中島知久平が、起工式の日の真珠湾攻撃を知り、「これで日本はダメだ」と漏らしたと伝わるからだ。欧米の航空機のレベルを知っていた中島は、アメリカと闘ったら負けると直感したのだろう。
それに遡る1938年の武蔵野製作所の建設時には、こんなことも言っている。「中島飛行機は戦争に勝っても負けてもつぶれる。勝てば飛行機はこんなにたくさん要らない。そうなったら低馬力の自動車工場にするより仕方ないだろう」。そんなリアリストの中島とやりとりしていた加倉井は、戦争が終結した後を想定して、何にでも使えそうなユニバーサル空間を設計したのかもしれない。
戦争が終わると、中島飛行機は生産を中止。終戦の翌日には定款を変更して「富士産業株式会社」と改称して、平和産業への転換を模索する。しかしGHQから4大財閥に準ずるものとして解体命令を受けた。「スバル」で知られる富士重工業は、中島飛行機が離散集合を重ねた末にたどり着いた会社である。
ICUの「主任建築家」は2人の候補者から選出
ICU創立の動きは終戦直後の1945年9月からスタートした。第二次世界大戦の反省から、日本を世界に開き人類平和に貢献する人を育成するべく、日本と北米のキリスト教関係者が協力して計画を進めた。
1948年3月、中島飛行機三鷹研究所跡地が建設地に決定。1949年6月、静岡県御殿場のYMCA東山荘に指導者たちが集まり、「国際基督教大学」が創立した。

開学を目指して、ただちに、「主任建築家」の選定が始まった。候補になったのが、残り2人のキーマンであるウイリアム・メレル・ヴォーリズとアントニン・レーモンドだ。
ヴォーリズはそもそもキリスト教の伝導のために日本に来た人なので、教会などキリスト教施設とは縁が深く、実績も多い。一方のレーモンドも数多くの教会を設計している。どちらも候補者として適任と思われるが、作風は対照的だ。ざっくりいえば、8歳上のヴォーリズが装飾の細やかさで勝負する“柔”のデザインであるのに対し、年下のレーモンドは、構造と素材で勝負する“剛”のデザインだ。
2人が提案した新キャンパスのマスタープランも対照的だった。
レーモンドのプランは中島飛行機時代の建物をすべて壊してゼロから新しいキャンパスをつくるもの。ヴォーリズのプランは、中島飛行機時代の建物をできるだけ改修して使おうというもの。理事会はヴォーリズを主任建築家に選んだ。戦後の激しいインフレや、募金が思うように集まらない状況がヴォーリズへの追い風になったと思われる。

わずかな操作で「ヴォーリズらしさ」
中島飛行機時代の建物では、本館のほか、西側にあった格納庫(ハンガー)も改修活用の対象となった。だが、格納庫については体育館に変える改修設計案が入札寸前までいったものの、実現に至らず、後に解体された。

改修された本館は、1953年4月の開学時には図書館、研究室、実験室、食堂など主要機能がすべて納まる、文字通りの拠点となった。内部は元の柱割りに合わせて、東西方向に中廊下を設け、部屋を細かく分けた。かつては仕上げのなかった室内に、内装が加えられた。

外観上は当初のシンメトリー性を生かし、中央に4階を増築。両端にコンクリートを打ち増して、シンメトリー性を強調した。窓回りは水平ルーバーの印象を弱めて、縦長の窓と柱の印象を強めている。構造設計は、後に東京タワーなどを設計する内藤多仲が担当した。改修の施工は大成建設が行った。
現在のツートーンのタイル張りは2003年の外壁改修時のもの。ヴォーリズの当初の改修時には、質素なモルタル仕上げだった。ヴォーリズの建築で言うと、「豊郷小学校旧校舎」(1937年)にかなり似たものだったと考えられる。

加倉井が設計した旧本館はシャープでツウ好みな外観だったが、ヴォーリズはそれをわずかな操作によって“誰の記憶にも残る”外観に変えてしまった。さすがはヴォーリズ。一方で、元のシンメトリー性を生かした点は、原設計に対するリスペクトにも思える。
本館中央の軸線と東側の正門から伸びる軸線が交差する部分に、礼拝堂が建てられた。開学後の1953年秋に着工し、1954年に完成。白いモルタルのロマネスク風で、正面中央に丸いバラ窓がある、いかにもヴォーリズらしいデザインだった。
ヴォーリズは開学から数年間、主任建築家を務め、学生寮や教職員住宅などを新たに建てた。


2代目主任建築家としてレーモンドが復活
主任建築家争いに負けたレーモンドはどうなったかというと、ICUから退場、というわけではなかった。ヴォーリズの体調不良などもあり、ICUでは1956年夏ごろから2年ほど主任建築家が不在となる。その後任として、1958年にレーモンドが2代目主任建築家の地位に就いたのである。
レーモンドはまず、音の問題があった礼拝堂(反響が大きくて説教が聞こえにくかったという)を改修し、全く違うデザインに変えてしまった。それが現在の礼拝堂だ(1960年改修)。さすがはレーモンドで、言われなければ全く改修とは思えないモダンな空間だ。


レーモンドはほかにも学内にさまざまな建築を建てた。あまりにも長くなるのでここでは割愛する。ただ、本館に関わるこのエピソードだけは書いておきたい。それは学生たちが「ばか山」と呼ぶ本館前の丘のことだ。

ばか山は、レーモンドの設計で図書館(1960年)を建設する際、地下を掘った残土を盛ったものだ。芝生で包まれたその丘は、とても日当たりが良くて心地よく、「学生が授業をサボって昼寝をしてしまい、ばかになる」というのが名前の由来だという(諸説あり)。


この丘にはもう1つ、言い伝えられていることがあるという。それは、「レーモンドがヴォーリズの本館を隠したくて、土を盛った」というもの。つまり、2人の確執から生まれたものなのだ、と。

単なる学内伝説かもしれない。だが、土を捨てるところは広大なキャンパスにいくらでもあるし、礼拝堂の激変ぶりを見るとそんな仮説が生まれることはわかる。
しかし結果的に見れば、この丘はないよりもあった方が絶対にいい。建物の水平性に対して変化が生まれるし、何より、学生たちがくつろぐ姿はすごく平和に見える。

建て替えの可能性があった本館
本館を巡る最近のエピソードにも触れておきたい。実は本館は、2016年時点のキャンパスグランドデザイン計画では、建て替えられる可能性があった。鉄筋コンクリート建造物の寿命は築 60~70 年程度という、建設業界で広く共有されていた理解からだ。そのときの配置図には、本館の位置に「新本館」と書かれている。
これに対し、同窓生などから残すべきという声が出たことや、高齢鉄筋コンクリート造の修繕・保存の事例が実際に出てきたこともあり、保存活用の方向に風向きが変わった。曲折を経て、2024年に大成建設が改修することになった。
この件について筆者がネットを調べていて、感動したことがある。それは、反対の声を挙げた中に現役の学生たちがいたこと。自分が学生だったら、古いよりも新しい校舎の方がうれしいだろうと思う。彼らは校舎そのもの保存ではなく、「ばか山空間をこわさないで!」と訴えたのだ。署名を集めるサイトを立ち上げ、こう訴えた。
「ICUのばか山は、単なる広場ではありません。一人で思索に耽りながら過ごすこともでき、学生同士が対話をすることもできる場所です。天気の良い日には、ここで授業を行うことさえあり、ICUの学生、卒業生にとって、最もICUらしい場所として、なくてはならない場所です。卒業後も、再びこの場所に戻ってくる卒業生は多く、日本にも、海外にも、同じような空間が存在している大学は稀であり、唯一無二の、ICU生のアイデンティティーとも言える場所なのです」
素晴らしい文章。レーモンドもヴォーリズもこれを読んだら、手を取り合って泣くのではないか。
「この建物をどう発信していくか」が重要
2024年の大成建設による改修では、躯体の断熱を強化し、窓をLow-E複層ガラスに交換した。講義室のゾーニングによる冷暖同時運転を導入し、室外機と室内機を同フロアに設置することで能力低減を抑え、最適運用を図った。CO2濃度制御やLED照明、リバースリターン方式によるポンプ動力の削減など、省エネルギーへの多面的な取り組みを実施した。



BELCA賞では、こう評価された。
「外壁における給排気開口への配慮が十分にされており、正面側における表情を大きく変えることなく、集約的に建物の正面に開口を設けることを意図して避けている。これによりファサードにおける象徴性とキャンパス全体の雰囲気を継承している」
改修が完了し、登録有形文化財となり、さらにBELCA賞も受賞したICU本館。改修時に大学側の中心になった中嶋隆常務理事(財務担当)は、同大の同窓生だ。「自分の学生のころは名建築だなんて思ったことはなかった。今はSDGsの時代なので、手を入れて長く使えるならばそうした方がいい。ただ、学生たちに我慢をさせる残し方であってはならない」

手を入れて使い続けてこその保存、という考え方は筆者も大賛成だ。建築史の世界ではオーセンティシティ(真正性)が重視される。もちろんそれは重要だと思うが、この建築の場合、当初の研究所時代から大きく変わっている。先に述べたように、外観の見え方も2003年の外壁改修で大きく変わった。おそらく、それぞれの時代の改修がなかったら、残っていなかっただろう。
中嶋常務理事はこう続ける。「これからこの建物をどう発信していくか。有名建築家が設計したからというだけでは学生や一般の人には伝わらない。戦争のためにつくられた建物が、今は平和を考える器になっている、というメッセージが重要なのではないかと考えている」
これも、おっしゃる通り。世界に「分断」という言葉があふれる今、“戦争と平和”を同時に考えられるこの建築は、とてつもなく大きな意味を持っているかもしれない。憩いの象徴となったばか山と併せて、“戦争と平和”を広く発信する場となってほしい。(宮沢洋)
■概要データ
国際基督教大学本館(旧旧中島飛行機三鷹研究所設計本館)
所在地:東京都三鷹市大沢3-10-2
竣工年:1944年
主な改修年:1953年、1981年、2003年、2013年、2024年
設計:大倉土木設計部(新築時(中島飛行機))、ヴォーリズ建築事務所(大学改修時)、大成建設(保存改修時)、一粒社ヴォーリズ建築事務所(保存改修時設計監修)
施工:大倉土木(新築時(中島飛行機))、大成建設(大学改修時、保存改修時)
構造:鉄筋コンクリート造
階数:地上4階(竣工時は地上3階)
延べ面積:9248.84m2(竣工時はおそらく8300m2程度)
■参考文献
『ある土地の物語: 中島知久平・ヴォーリズ・レーモンドが見た幻』(樺島 榮一郎著、2019年、北樹出版)
第35回BELCA賞ロングライフ部門選考評
武蔵野市公式HP武蔵野ヒストリー「中島飛行機」

※本稿ではICUキャンパス内にあまたある建築群のほんの一部しか触れられなかったので、主要な建築についてもっと詳しく知りたい方は、同学の同窓生で青山学院大学教授の樺島榮一郎氏(専門はメディア研究)による『ある土地の物語: 中島知久平・ヴォーリズ・レーモンドが見た幻』(2019年、北樹出版)をお読みいただきたい。この記事でも大変参考にさせていただいた。
https://www.hokuju.jp/books/view.cgi?cmd=dp&num=1093&Tfile=Data
※参考まで、筆者がキャンパス内で心惹かれた建築たちを以下に。







