韓国経済新聞が発刊する文化芸術月刊誌「arte」の2026年8月号で、建築家・隈研吾氏の特集が掲載されている。特集の中で、本サイトの運営者である宮沢洋が隈研吾論(約1万字)を依頼され、執筆した。少し長くなるが、日本語版の全文を本サイトに掲載する。なお、「arte」については公式サイトをご覧いただきたい。

■彼に代わる建築家は存在しない?
5年ほど前から「隈研吾ウオッチャー」を自称している。2020年に出版社を退職してフリーランスとなり、最初に書いた書籍が『隈研吾建築図鑑』だった。その本では国内の50の隈建築をリポートし、その後も、隈の新作はできる限り見に行くようにしている。もしかすると、本人以外で最も多くの隈建築を見ているのは自分ではないかとさえ思う。
「なぜそんなに隈さんの建築が好きなのですか」と聞かれることもある。実を言うと、隈の建築がもともと好きだったわけではないし、今でもすごく好きなのかはよくわからない(人としてはとても信頼している)。
筆者は1990年から2020年まで30年間、日経BP社の建築専門雑誌『日経アーキテクチュア』の記者として、隈の活動を見てきた。隈の建築はどれも「写真映え」する。話もうまいので、雑誌に取り上げやすい。しかし実物を見ると、その挑戦的なディテールや表裏のはっきりしたデザインに、「あれ?」と思うことも少なくなかった。2000年代序盤までは、「日本を担うかもしれない」建築家の1人にすぎなかった。
しかし、2010年代年以降の彼の活躍の華々しさは、筆者の予想をはるかに超えていた。「なぜこれほど依頼が舞い込むのか」「なぜここまで一般の人に受け入れられるのか」。そんなことを考えさせる建築家は、それまでいなかった。

その理由探しに真剣に向き合おうと思ったのは、自分が出版社を辞めたからだ。「建築の面白さを専門家だけでなく、一般の人にも伝えたい」。そんな思いで独立した自分にとって、第一歩にふさわしいと思えたのが隈の建築群を読み解く本だった。人気の理由の分析についてはその本をご覧いただきたい。
その本を見たのか、あるいは「隈研吾ウオッチャー」を自称しているのが目にとまったのか、今回の原稿を依頼された。
筆者に与えられたのは、こういうお題だ。
「今日、彼に代わる建築家が存在しないのはなぜか、その独創的かつ独歩的な意味を紐解く」──。
なるほど、確かに隈に代わる建築家は(少なくとも日本には)存在しないように思える。
例えば、同世代で活躍する妹島和世、あるいは彼女が西沢立衛と組んだSANAAであれば、後続の建築家たちに「妹島っぽい」「SANAAっぽい」と言いたくなる人が何人もいる。だが、隈の事務所からは、藤原徹平、中村拓志、原田真宏(MOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO)といった有名建築家がぞろぞろ巣立っているのに、誰も「隈っぽい」感じがしない。
個人的にもその理由を考えてみたいと思い、今回の原稿を引き受けることにした。
■「批評」からの出発
とはいえ、論考だけで納得させるほどの力量は筆者にないし、建築の専門家以外、そんなものを読まないだろう。そこで隈の転機、あるいは彼独特の姿勢を象徴するプロジェクトを時系列に10件選び、それらの写真を見ながら少しずつ理由を考察していきたい。
あらかじめキーワードを2つ挙げておくと、「縄文」と「メタファー(比喩)」である。
① 伊豆の風呂小屋(1986年)
この住宅は隈にとって“実作”のデビュー作である。静岡県熱海市に1988年に竣工した。太平洋と伊豆大島を見渡す高台に立つ。

その前に、隈が実作デビューする前のプロフィルをざっくり振り返っておこう。
1954年生まれ。神奈川県横浜市の大倉山で育った。父親は三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)の社員。小学校高学年のとき、1964年東京オリンピックの建築群、特に丹下健三(1913~2005年)が設計した「国立代々木競技場」に心を動かされ、建築家を志した。自宅の“ボロ家”に手を入れるのが好きな父親の影響もあった。
進学校の栄光学園中学校・高等学校に進み、高校時代は長身を生かしてバスケットボール部でセンターを担当。高校卒業後、現役で東京大学理科一類に進学。
2年時の進学振り分けでは目指す工学部建築学科に進み、大学院では原広司(1936~2025年)の研究室に所属。有名な「集落調査」にも参加する。
同級生の多くは、いわゆるアトリエ系の設計事務所に進んだが、隈は「社会にもまれるために」と組織設計事務所の日本設計に就職した。「やみ雲にただ反骨精神があって、その意味がわからないまま、主流に対して反抗していた」と当時を振り返る。
日本設計に約3年勤めた後、新たな経験を積むため、戸田建設設計部に転職。米国コロンビア大学建築・都市計画学科客員研究員(1985~1986年)を経て、1986年に篠原聡子と空間研究所を設立。1990年に現在の隈研吾建築都市設計事務所を設立した。

隈は、建築家として名を成す前から、「刺激的な建築批評を書く若手」として注目されていた。隈自身が「原点」と位置付けるのが、1986年10月に上梓した『10宅論』(トーソー出版)だ。副題は「10種類の日本人が住む10種類の住宅」。日本の住宅を「ワンルームマンション派」「清里ペンション派」「カフェバー派」「ハビタ派」「アーキテクト派」「住宅展示場派」「建売住宅派」「クラブ派」「料亭派」「歴史的家屋派」に分類。特に「アーキテクト派」については、神格化された篠原一男(1925~2006年)や安藤忠雄(1941年~)の住宅を“嫌味”たっぷりに解説した。ちなみに、『10宅論』というタイトルは、篠原一男の著書『住宅論』(1970年)のパロディである。
この『10宅論』と「対になっている」と隈が語るのが、同じ1986年に完成した「伊豆の風呂小屋」である。
依頼主は知人の知人で、温泉の権利のある高台に安い土地を買ったので、「脱衣場が大きくなったような建物」を設計してほしいという要望だった。それを聞いて隈は、「当時人気だったコンクリート打ち放しに対して、どれだけ逆をやれるかを考えた」という。
その反骨心は、建物の外観を見れば一目瞭然。まるで災害後に仮復旧したバラックのようだ。「同時代の建築(住宅)の在り方への批評」がストレートに形になったものであり、それゆえ、その前提を知らなければ形の意味を理解するのが難しい。
筆者は2024年に、隈から声を掛けられてこの住宅を見る機会を得た。完成から40年近くたっているのに、建物がきれいであることに驚いた。依頼主がずっと大切にしてきたことがうかがえる。
それに加えて、2つの点で隈の建築的特質がすでに表れていることに感動を覚えた。1つは「パラパラ感」。普通ならば大きな面で構成するであろう部位を意図的に細かく分け、それぞれが分離しているように感じさせる。
もう1つは「洞窟感」。象徴的なのが、依頼主が重きを置いた2階の浴室で、三角形の平面が海に向かって突き出し、2面の窓が開く。洗い場側は天井が煙突のように高い。ここから外を見ると、洞窟の暗がりから海を見るような見え方だ。


■批評性が裏目に
今見れば、90年代初頭に世界的な流れとなる「脱構築主義(デコンストラクティビズム)」の先例にも見える。だが当時、これが建築専門誌に発表されても大きな話題になることはなかった。
それでも、若手批評家としては、『グッドバイ・ポストモダン―11人のアメリカ建築家』(1989年)の出版で、さらに注目度を高めた。これは1985年から2年間、コロンビア大学で客員研究員を務めていたときのインタビュー集。ポストモダン全盛期の1989年に「グッドバイ」というタイトルがいかにも隈らしい。
この本を上梓した1989年に、東京都内に「建築史再考」(第18吉田ビル、現・ジョワレ南青山)が完成。91年には「ドーリック」と 「M2」が完成する。
②M2(1991年)
「M2」は、隈の人生に最も強いインパクトを及ぼした建築といえるだろう。隈はこれによってその名を広く知られるようになり、結果的としてその後の多くの仕事を失った。
もともとは自動車メーカー・マツダの子会社「M2」の本社ビルとして完成した(2003年に葬祭場に転用)。外観には西洋建築史の引用がこれでもかと埋め込まれている。特に、巨大な渦巻(イオニア式)の柱頭装飾を模した塔屋は、今でも環状八号線のランドマークだ。


「ポストモダン」の流行に乗ったものと語られることが多いが、隈の意図は「ポストモダンへの批評」だった。ポストモダンに乗じた安易な歴史引用が広まるなかで、そのパロディとして提示したのが巨大な渦巻や、未完のロシア構成主義の引用だった。
隈は、「当時のポストモダン建築のやり方、例えばマイケル・グレーブス(米国の建築家、1934~2015年)の様式の受け入れ方はダサい、と思っていた。そのアメリカ風のフェイクっぽさをなくしたい。それを徹底的に断片化することでリアリティーをつくり出したいと思った」(*『隈研吾建築図鑑』のインタビューより/以下の*も同じ)と振り返る。
派手な歴史引用をいったん置いておくと、そのデザイン手法は「伊豆の風呂小屋」と似ている。正面外観は、大きな面を分割してパラパラ感を強調。内部の目玉は、縦方向に長い洞窟状の空間だ。
この洞窟状空間について隈はこう語っている。「M2って、真ん中に洞窟みたいな穴が空いているでしょう。あの穴って、広重美術館(那珂川町馬頭広重美術館、2000年)で貫通している穴にも通じる。V&Aダンディー美術館(英国、2018年)もそう」(*)。
こうも言う。「洞窟的なものの中に自分が包み込まれる感じ。映像として距離を置いて見るのではなくて、体を没入させ、体を震わせたい。それが僕の最初からの設計の癖なんですよ」(*)。
■失われた10年
隈にとって「M2」は、「建築史再考」(1989年)、「ドーリック」(1991年)と並ぶ“ポスモダン批評”3部作的なプロジェクトだったが、その立地の良さと引用のわかりやすさもあって、建築界を越えて一般メディアにも大きく取り上げられた。完成直後にいわゆる「バブル崩壊」の現象が顕著になり、この時代の隈建築は結果的に“バブルの負の遺産”のように扱われていく。

その影響は大きく、隈の東京での仕事はパタリとなくなった。隈はその後の10年を「失われた10年」と呼ぶ。
隈のプロジェクトはほとんどが地方都市となり、設計手法にも迷いが生まれる。
それでも隈は、試行錯誤の中で、その後のステップとなる建築をつくり上げる。その1つが亀老山展望台だ。
② 亀老山展望台(1994年)
瀬戸内海の大島(愛媛県今治市)の南端にある展望台の建て替えだ。かつての展望台は、山頂の公園にオブジェとしての展望台を据えた一般的なものだった。隈は、外観を見せずに、地面に亀裂のような空間をつくり、そこを巡る構成とした。前を歩く人の動きが風景を誘導する。


隈はこう振り返る。「M2で叩かれて、それがトラウマになって、最初の頃は土で埋めればいいと思ったわけです。建築のガーンと突出した感じを消していきたい。磯崎新さん(1931~2022年)とか黒川紀章さん(1934~2007年)の世代に特徴的な、建築が政治や経済を引っ張る箱モノ建築に対する嫌悪感があって、それを否定するのに、まずは埋めてしまえばいいと思った」(*)。
この手法は、「伊豆の風呂小屋」から続いてきた洞窟状空間の上部を取り去ったものと見ることもできる。また、同時代の外観先行の建築に対する批評ともいえるだろう。
誰も見たことがない形状のこの展望台は、人気を博した(今も見学者がとても多い)。だが、自身ではどこかスッキリしないものを感じていたという。
「埋めて“残る”部分のコンクリートの質感が気になり始めた。ブリッジとかも、コンクリートの質感を生で出してしまっている。別のやり方はなかったのかなと思い始めた」(*)

■批評から比喩へ
「別のやり方」は、やはり地方都市で見つかった。2000年に栃木県で完成した「馬頭町広重美術館」(現・那珂川町馬頭広重美術館)と「石の美術館」だ。これらの完成により、隈の「失われた10年」は終わりを告げる。
そこに至る葛藤を隈はこう振り返る。「亀老山展望台の後も、海外のコンペなんかでは埋める案をずいぶん出したんです。でも、埋めちゃう案はなかなか通らない(笑)。埋めるのってお金もかかるし、そもそもクライアントがそういうことを望んでいない。じゃあ、別の消し方があるんじゃないかって考え始めた」(*)。
④那珂川町馬頭広重美術館(2000年)
歌川広重の浮世絵を展示する美術館である。明治時代の実業家のコレクションが馬頭町(現・那珂川町)に寄贈され、計画が始まった。地元の八溝(やみぞ)山で採れる八溝スギのルーバーで壁と屋根を覆った。
スギのルーバーは、日本建築学会賞作品賞を受賞した「森舞台」(1996年)や「葉山文化園」(1999年)でも使っていたが、ここではシンプルな切妻型の建物の全面を、縦方向のルーバーで覆い尽くした。隈は「建築を消す」ことを意図したと語っているが、意図に反して外観の発信力は極めて強い。


⑤石の美術館(2000年)
こちらは、古い石蔵を再利用し、石を素材とするアートやクラフトの展示空間として再生させたもの。主要部の壁は、石の水平ルーバーと、約3分の1のピースを抜き取ったポーラスな組積造の2種類のディテールを組み合わせ、独特の光の効果を内部につくり出した。それ以外にも石の職人とさまざまなディテールを考案した。


自然素材を主役にした2つのプロジェクトは、「あのM2の隈研吾が転向か?」と建築界で話題を呼んだ(少なくとも当時、筆者が在席していた編集部ではそう話していた)。
当時は「転向」にも見えたが、つぶさに見れば根底のところは変わっていない。どちらも外壁はパラパラしているし、内部は洞窟のような不整形な穴だ。
ここでの変化を挙げるならば、1つには、隈が「面を構成する無数の小さな穴」の効果を自覚し始めたことだろう。隈はこの頃から、こうした手法を「粒子」と表現し始める。
そしてもう1つの変化は、創作の起点を「批評」から「メタファー(比喩)」に移したことだ。
石の美術館でいえば、当時、石を積極的に使っている建築家はほとんどおらず、先行する何かに対する批評ではない。石を使ったのは、ここがかつて石で栄えた町であり、石が生活の近くにあったという歴史のメタファーである。
広重美術館の場合はメタファーがさらに重層的で、全体の形は「江戸時代の民家の切妻」、スギのルーバーは「広重が描く雨の線」、室内で用いている太鼓張りの和紙は「浮世絵の和紙」と、いくつかの要素に分解したうえでメタファーを再構成している。
「批評」は、建築界の外に向かっては伝わりづらいが、「メタファー」は伝わりやすい。これらの建築は一般メディアでも取り上げられ、再び隈の活躍の場が拡大する。
■『負ける建築』
2000年代、2010年代は「隈研吾ビッグバン」ともいえる大活躍の時代となった。そして、2019年に「国立競技場」が完成。ついには国家的な建築家となる。

そのすべてに触れるスペースはないが、活躍の導火線となったであろう2004年の2つの出来事に触れておく。1つは『負ける建築』(岩波書店)の出版だ。1995年以降に発表した文章を集めたもので、阪神大震災やオウム真理教事件、9.11テロなどのトラウマについて書いている。
なんといってもタイトルが良かった。先行する権威や社会常識に対してあれほど批評的だった隈が、自身を「負ける」建築家と位置付けたのである。
隈の代名詞としてあまりにも有名になったこの本だが、実は読んでみても「負ける建築とは何なのか」を具体的に説明する部分はない。それまでの隈のスタンスとの違いを象徴するのは、「批評性とは何だったのか」という章だ。
隈はここで、批評性は20世紀の建築家たちにとって最大のテーマとなったが、実はそれは建築を必要とする側とそれをつくる側にあるズレをごまかす「後ろ向きな保身術」だった、と述べる。本心なのかはわからないが、少なくともそう喝破することで、自身がデザインの起点として批評性を押し出すことを禁じ手とした。
2004年で特記したいもう1つは、東京都世田谷区に完成した「村井正誠記念美術館」だ。私設の美術館なのであまり知られていないが、筆者が多くの隈建築を見た中でも「最も隈らしい」、言い換えると「他の建築家にはつくれない」と思う建築だ。
⑥村井正誠記念美術館(2004年)
日本の抽象絵画の草分け・村井正誠(1905~1999年)のための美術館である。画家が生前にアトリエとして使っていた小さな部屋を保存し、その外側に大きな箱をかぶせ、隙間部分を展示空間とした。外壁の縦ルーバーには、解体した家の屋根の下地に使われていたスギ板を用いた。建物の前の薄く水を張った水盤には、もともと庭に放置してあった村井の車が置かれている。ぼろぼろの材料が空間の質を高めている。


隈は言う。「村井先生の古い家がある状態を見に行ったときに、『自分の生まれた家とそっくりだ』と思ったんですよ。戦後の木造とはちょっと違うんです。手づくり感がある。数寄屋建築みたいに“いやらしい手づくり感”ではなくて、お金がなくて手づくりするしかなかった感じ。それが、自分が育った家と似ていた。僕は、この家の質感を引き継ぎたいと思った。そのためには、古材を徹底的に主役にしたらいいんじゃないかと思った」(*)
新築でありながら、記念館に特有のよそよそしさがない。室内に保存した村井のアトリエは、平面上、中心からずれた奇妙な位置にあり、村井が今にもふらりと現れそうなリアリティーを感じる。結果的に吹き抜けがコの字の洞窟状になっているのも、隈らしい。
おそらく隈はこのプロジェクトを通して、自分の“好み”を再認識し、こうした手法を展開していくことに自信を持ったと思う。
■「縄文」と「メタファー」
隈自身の言葉ではないが、隈の好みは「縄文的」であると思う。洗練を意味する「弥生的」と対になる言葉だ。
縄文と弥生は日本史の時代区分用語で、世界史的に見るとどちらも「新石器時代」だが、縄文は採集や狩猟を中心とした時代、弥生は大陸から伝わった水稲農耕や金属器を使う時代を指す。形容詞的に使う場合、「縄文的」は「自然と共生するアニミズム・直感・躍動」、「弥生的」は「秩序や合理性を重んじる農耕・管理・洗練」などの例えに用いられる。
日本では1950年代に、「日本的な建築とは何か」を、縄文的か弥生的かに二分する形で議論する「伝統論争」というものがあった。当時、縄文的に分類されたどの建築よりも隈の建築は縄文的であると筆者は思う。
ここでようやく、本稿のお題である「今日、彼に代わる建築家が存在しないのはなぜか、その独創的かつ独歩的な意味を紐解く」の話となる。
筆者が思うに、隈の建築的特質は、空間体験としての「縄文的」(パラパラ感・粒子・洞窟)と、デザインのロジックとしての「メタファー」の大きく2つによって規定されている。モダニズム以降の建築家で「縄文」を志向する人はそもそも少ない(日本でぱっと思い浮かぶのは象設計集団や藤森照信、海外だとフランク・ロイド・ライトか)。
そもそも少ない中にあって隈は、発想としては逆方向とも思われる「メタファー」を駆使してデザインを進める。普通、「メタファー」を好む建築家は、「弥生」に属する人だ。
仮に隈的な「縄文」の作法を真似しようと思っても、そういうマインドの人が隈的な「メタファー」を生み出すのは難しい(AIの進化で今後可能になるかもしれないけれど)。それが、隈が“孤高の建築家”である大きな理由だと思うのだが、いかがだろうか。
■批判の先へ
与えられたお題に対してはここで終わってもよかったのが、直近の隈を巡る話題と、今後について、少しだけ触れておく。
まず、2020年代になって、SNS上で“隈バッシング”といえる状況があったこと。これには「国立競技場」で国民的建築家となった隈への反発心や、やっかみもあっただろう。
どんな批判かというと、「外部に使った木材が傷む・腐る」という話題と、「どの建築も同じに見える」という指摘だ。
前者の「木材問題」の中で特に注目を集めたのは、前述の「那珂川町馬頭広重美術館」だ。
⑦那珂川町馬頭広重美術館リニューアル(2026年)
この施設では議論の末、屋根の上の傷んだルーバーを元の八溝(やみぞ)スギから木材風のプリントを施したアルミ角パイプに置き換えた。壁のルーバーは八溝スギを再び八溝スギに交換している。


約1年半の改修工事を経て2026年2月に営業を再開した。現地を訪れると、ピカピカに新しくなったことはすぐにわかるが、屋根のルーバーがアルミに変わったことは、言われなければわからない。この話題については、リニューアル以降、SNS上でもひとまず沈静化しているようだ。
もう1つの 「どの建築も同じに見える」という指摘についても、隈の中で少し変化があったように見える。例えば、以下の2つの近作だ。
⑧MoN Takanawa(2026年)
隈が設計に参加した「JR高輪ゲートウェイ駅」に直結する「TAKANAWA GATEWAY CITY」内に2026年3月に開館した。地上6階・地下3階の複合型ミュージアムだ。隈は外装デザインアーキテクトという立場で参加している。
国立競技場以降の隈建築には外観が強く主張するものが少なかったが、これは外観のインパクトがすさまじい。横ルーバーがぐるぐるとつむじ風のように上昇していく。
ぐるぐるは単なる意匠ではなく、一部が屋外スロープとなっている。このスロープが内部の巨大な洞窟空間とからまって、出たり入ったりしながら屋上庭園まで歩いて登れる構成だ。
外装のルーバーは、木材と植栽ボックスを組み合わせたもの。屋外で木材を使用しているのは「批判に応えていない」と思うかもしれないが、ここでは国産の木の板ではなく、高耐久のアコヤ材(ラジアタバインをアチセル化処理したもの)を使っている。


⑨福井県立大学恐竜学部学部棟(2026年)
これは2025年春に開学した“日本初の恐竜学部”である福井県立大学のための新校舎である。建設地は、福井県勝山市の「福井県立恐竜博物館」(2000年、設計:黒川紀章)の隣で、2026年春から利用を開始した。
地上3階建ての本体部分の外壁は、ひと目見て「地層」だ。恐竜の化石が発掘された「手取層群北谷層」の地層をイメージした縞模様とした。地層を表現するため、外壁のコンクリート面にウォータージェット処理を施した。水平方向に複数パターンの異なる削り方を用いて、地層に見せている。
地層的な表現の壁をこれまでいくつも見てきたが、コンクリートでここまで地層を感じさせるものは初めて見た。これは「木材問題」を受けて生まれた“新しいザラザラ表現”の1つと言ってよいだろう。
雨が当たる部分に木材は使っていないが、庇の下や内部空間には木材を使用している。内部の目玉の「アブドミナル(腹部の意味)ホール」は、1階から3階まで吹き抜けで、恐竜の肋骨をイメージさせる空間がカーブしながら上昇していく。「恐竜」から「骨」のメタファーを取り出すのはいかにも隈らしい。


⑩新福岡県立美術館(2029年度)
完成はまだ先だが、2030年代の隈作品を占うものとして筆者が注目しているのが、2029年度に開館予定の「新福岡県立美術館」だ。隈は2023年に行われたプロポーザルで設計者に選ばれた。
敷地は福岡市中央区の大濠公園。地下1階、地上4階。現・福岡県立美術館(1964年、設計:佐藤武夫)の建て替えで、広さは現美術館の約2倍となる。

完成イメージ図を見ると、外観は徹底的に水平性が強調されている。これは隈作品では極めて珍しい。公式サイトには「伝統的な日本建築特有の深く持ち出した庇(グリーンイーブス)を設けることで、直射日光を遮ることができ、施設の環境性能の向上に寄与します」「建物の高さを、隣接する日本庭園に向かってステップダウンさせることで、庭園との一体化を促し、周囲の環境と調和した美しい空間を生み出しています」と説明されている。
庇を受ける部分には木材が使われるようだが、壁はコンクリートのカーテンウオール。「ウオーターウオッシュ」とあるので、「福井県立大学恐竜学部学部棟」のようなザラザラした質感になるのだろう。
内部の目玉は「メディアヴォイド」と名付けた吹き抜け。隈らしい洞窟状空間だ。イメージ図を見ると木を使うのは上部だけで、空間の印象としてはツルッとしたものになるようだ。


隈は「違う」と言うかもしれないが、完成予想図を見ると「巨匠の建築」という印象を受ける。これまで「巨匠」とか「大御所」とか言われることを嫌ってきた(=批評から逃れる逃げ道をつくってきた)隈が、ついに真っ向から批評されることを覚悟で取り組む建築であるように筆者には見える。その完成が楽しみでならない。
了
著者:宮沢 洋(みやざわひろし)
画文家、編集者、BUNGA NET代表兼編集長。1967年東京生まれ。1990年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、日経BP社入社。日経アーキテクチュア編集部に配属。2016年~19年まで日経アーキテクチュア編集長。2020年4月から磯達雄とOffice Bungaを共同主宰。2021年5月、株式会社ブンガネットを設立。著書に『隈研吾建築図鑑』、『誰も知らない日建設計』、『画文で巡る! 丹下健三・磯崎新 建築図鑑』など。「みんなの建築大賞」推薦委員および事務局長、「東京建築祭」実行委員、文化庁「建築文化フェロー」。
参考文献:
隈研吾建築図鑑(宮沢洋著、2021年、日経BP)
NA建築家シリーズ 隈研吾(日経アーキテクチュア編、2010年、日経BP)
負ける建築(隈研吾著、2004年、岩波書店)
※上記は韓国経済新聞が発刊する文化芸術月刊誌「arte」の2026年8月号↓より、宮沢洋が寄稿した文章の原文(日本語)を同誌の許可を得て引用した。「arte」については公式サイトを。


