「コロナ後に建築はどう変わるか?」「建築実務者に求められる新たな資質は?」──。そんな議論も盛り上がりつつあるが、残念ながら、医学的知識も実際の設計経験もない私(宮沢洋)には、そんな難しい未来予測はできそうにない。これほど目まぐるしく変わる社会状況のなかで、私がこのサイトで伝えるべきは、「変化」よりも「変化に揺るがない真理」や、「普遍的な言葉」なのではないかと思い始めた。
SNSでは、「7日間ブックカバー・チャレンジ」の輪が広がっている。「好きな本の表紙を1日1冊、7日間投稿」し、そのバトンをリレーしていくものだ。それにあやかって、私の好きな建築家の言葉を1日1人、計7人取り上げていくことにした。
言葉を拾い出すポイントは、「社会が大きく変わっても揺るがない真理」「ものづくりに勇気を与える姿勢」の2点。引用は過去の書物からになるが、私は相棒の磯達雄と違って、それほど読書家ではないので、全著作を対象にするような大風呂敷は広げられない。自分が日経アーキテクチュア在籍時に何らかの形で関わった書籍や特集記事などから言葉を拾い出していく。
1人目は、宮脇檀(まゆみ)だ。1936年に名古屋市で生まれ、東京芸術大学、東京大学大学院修了後、朝吹一級建築士事務所を経て、1964年に28歳で宮脇檀建築研究室を設立。主に住宅設計で名を成す。エッセイストとしても活躍した。1996年にがんの告知を受け、1998年に62歳の若さで亡くなった。
まずはこの言葉から。
「個はもちろん大事だけれども、個を守るためには周りだということです」(「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊より引用)
1981年の日経アーキテクチュアのインタビュー記事の言葉だ。1980年に「松川ボックス」で日本建築学会賞作品賞を受賞した翌年だが、宮脇は住宅のデザインの話はほとんどせず、周辺環境の話ばかりしている。例えばこんな具合だ。
「私は今まで小さな零細な住宅をやってきたが、やはり住宅1軒では絶対に限界がある。そういう小さな住宅は守りの姿勢で、周りをクローズして中だけはいい空間をつくるのだから、ある意味では客にフィットするわけですね」
「どちらかというと(周辺環境に対して)背中を向けて閉鎖的すぎた、という反省から環境に目を向け始めたわけです」
今回のコロナ禍を経て、個人住宅の防衛意識は高まるだろう。クライアントはおそらく、より内向きになる。住宅設計の打ち合わせに臨む際に、宮脇の言葉はひとつの楔(くさび)になるのではないか。
「住宅」への熱意
「住宅」のイメージが強い宮脇だが、生涯に手掛けた総数815のうち、住宅は235。意外にも7割以上は非住宅だ。秋田相互銀行のシリーズ(1970年~)や出石町役場、和鋼博物館(ともに1993年)のように非住宅の代表作もある。とはいえ、宮脇自身、やはり住宅に並々ならぬ思いがあり、エネルギーを注いできた。
「住宅が設計できれば、あらゆる建築物の設計ができる」(「巨匠の残像」2007年/日経BP社刊より引用)
これは、所員として長年、宮脇を支えた山崎健一氏が宮脇からよく聞いた言葉だという。宮脇が住宅にこだわり続けたのは、東京芸術大学時代の師である吉村順三の影響であろうと山崎氏は指摘する。
もちろん、それもあるだろう。ただ、私はこうも思う。多忙な宮脇が、雑誌のエッセイ執筆など一般への発信に多くのエネルギーを注いだことを考え併せると、宮脇は「住宅のクライアント(一般の人)が変われば建築の可能性が広がる」と考えていたのではないか。
先の1981年のインタビューで宮脇はこんなことも言っている。
「いま文明国で住環境、空間、建築に対する教養が一番、低いのは日本です。食とか、衣に関してはレベルが高いし、よく発言するし、クリエートするけれども、住、空間、インテリア、都市、環境に関しては、誰も発言しないでしょう」
「僕の夢は、電車の中で普通のサラリーマンが建築や住まいの本を教養として読んでくれることです」(いずれも「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊より引用)
2つ目の言葉、そのままこのサイトの序文に載せたいくらい、私の思いと同じだ。
宮脇の住宅に対する思いが詰まったこんな言葉で、今回の記事を結びたい。宮脇ががんの告知を受けた後に、スタッフの山崎健一氏に語った言葉だ。
「治療後、体力が落ちれば、大きな仕事はできないだろう。だけど、やっぱり住宅が好きなんだ」(「巨匠の残像」2007年/日経BP社刊より引用)
◆参考文献
「建築家という生き方」2001年/日経BP社刊/発行時定価1800円+税/出版社在庫なし、中古本はアマゾンなど
「巨匠の残像」2007年/日経BP社刊より引用/発行時定価2200円+税/出版社在庫なし、中古本はアマゾンなど
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村野藤吾(2020年5月13日公開)