香川県丸亀市の「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(MIMOCA)」(設計:谷口吉生、1991年完成)で、4月12日から「猪熊弦一郎博覧会 EXPO INOKUMA」が始まった。会期は7月6日まで。筆者(宮沢)は初日の12日朝に行われたガイドツアーに案内人の1人として参加したのだが、その後、大阪・関西万博やら篠原一男展やら建築イベントが目白押しで、1週間遅れのリポートになってしまった。
しかし、個人的興味として一番書きたかったのはこの記事だった。なぜなら、筆者の長年の疑問、「なぜ谷口吉生は猪熊弦一郎画伯の絵を消すという暴挙に出たのか?」という問いに自分なりの答えが出たからである。

その前に、ノーマルな展覧会リポートをさらっと。
猪熊弦一郎って誰?という方も中にはいるかもしれない。あなたがその名を知らずとも、絶対に猪熊画伯の絵は目にしている。これを描いた人だからだ。


そう三越の包装紙だ。これは、日本の百貨店初となるオリジナル包装紙で作品タイトルは「華ひらく」。1950年に猪熊がデザインした。猪熊が千葉の犬吠埼を散策中、海岸で波に洗われる石に着想を得てデザインしたものという。
建築好きは、あちこちの有名建築で目にしているだろう。よく知られるものにはこんなものがある。


猪熊は単に「建築にアートを置く」作家でなく、「多くの建築家に設計の機会を与え、自分も関わることでその質を高める」名プロデューサーであり、名コラボレーターであった。以下は本展の公式主旨文(太字部)。
猪熊弦一郎(1902-1993)の画家としての作品世界にとどまらず、著名なアーティストとの交流や建築家との協働、デザインの仕事、そこから生み出された文化的所産に焦点を当て、ご紹介いたします。
猪熊は20世紀に活躍した画家です。生涯現役で活動し、その画業は70年の長きに渡ります。一貫して絵画における「美」を追求し、一方で常に新しい表現に挑戦することで画風が変化し続けました。戦前はパリ、戦後はニューヨーク、ハワイと海外に拠点を置き国際的に活動しました。
本展では、戦後の猪熊の画業について、絵画以外の活動に注目します。1949年に猪熊が中心となって設立した「新制作派協会建築部」会員との協働、猪熊自身が手がけたデザインやパブリックアートの仕事、ニューヨーク滞在時に日米文化交流で果たした役割や世界的なアーティストとの交流、故郷の香川県に今の「アート県かがわ」につながる文化的な礎を築いたことなど、国内外に遺した足跡をたどります。

本展は建築史監修者として五十嵐太郎・東北大学大学院教授が参加している。「建築史監修」と限定されていたので、全体の一部が五十嵐氏の管轄なのかと思ったら、ほとんど全部が建築がらみ。これは「建築展」と呼んで全く問題ないだろう。

この年表↓に名前が上がっている人たちと猪熊との関係を示す資料がずらっと並んでいる。ほとんど初めて見るものばかりだ。

で、筆者は五十嵐氏との名コンビで、無料配布のハンドアウトを作成した。表がMIMOCAの見どころマップ、裏が谷口吉生氏のお薦め建築マップだ。いずれも選と文が五十嵐氏、画が宮沢だ。(なぜ名コンビなのかはこちらの記事を参照)


その流れで、開幕記念のMIMOCAガイドツアーの案内役を五十嵐氏とともに務めたのである。筆者は建築ガイドの依頼は基本的にお断りしているのだが(裏方の人間なので)、谷口建築の魅力を伝える企画とあらば断るわけには…と、引き受けてしまった。地元KSBがその様子を取材していたので、ご興味のある方は下記のアーカイブ(YouTube)をご覧いただきたい。(谷口氏のことになるとノリノリで話してしまうのが恥ずかしい…)
https://news.ksb.co.jp/article/15710880
「正面の壁画は猪熊らしくない?」の謎を解く
そして、ここからが筆者が長年謎に思っていた正面の壁画について。開館して何年か後に筆者は初めて実物を見た。描かれている個々のモチーフは猪熊の絵だとすぐにわかるが、真ん中に余白を残してU字型にモチーフを並べる画面構成が「ずいぶん変わってるなー」と思っていたのだ。正直、絵を描く人間から見ると、この画面構成はいいのか悪いのかよくわからない。

筆者のような並の絵描きと世界的に名をはせる名画家との大きな差は、画面全体の密度感を整える能力であると筆者は思う。“絶対密度感”とでも言おうか。キース・へリングのように全体を同じ調子で密度を揃える人もいるし、歌川広重のように場所によってバランスを変えながら密度を調整できる人もいる。
それでいうと、猪熊は前者のキース・へリングのタイプだと思う。1つ1つのモチーフは子どもの絵のようだが、全体の密度感が心地よいのだ。子どもには描けない。例えば、常設展で展示されていた猪熊作品でいうと、こういう絵↓だ。

1階にある図書館(ここも谷口吉生氏の設計)の室内には、猪熊の横長の絵が常設されている↓。これにもほとんど余白はない。

なのに、この正面の壁画はどういうことなのか。

2019年に、谷口氏にインタビューしたとき、この絵は「私(谷口)が猪熊先生の絵の一部を消したものなんです。若気の至りでしたね」と、谷口氏の口から聞いて驚いた。「こっちの方がいいと思いますよとおそるおそる見せたら、猪熊先生はしばらく黙っていましたが、納得してくれました」と谷口氏は笑いながら語った。

ちょっと面白過ぎるエピソードで「話を盛っている?」という感じもしたので、記事には入れなかった。だが後に、別のインタビュー記事で、谷口氏が同じ話をしているのを読んだ。盛ってはいなかったのだ。
そうすると新たな疑問が沸く。「こっちの方がいい」と思ったのはどういう理由からだったのだろうか。あの美学の持ち主に「なんとなく」などあるはずがない。もしかしたら猪熊の他の作品に、そういう謎の余白のある作品があったのだろうか。
何かの資料に、この壁画は当初、「○と×」を並べた絵を想定して進めていたというエピソードが載っていた。「子どもでも描ける絵がいい」ということで猪熊がそれを提案したのだという。だが発注者側から「もう少し具象的なものがいい」というリクエストがあり、同じく子どもでも描けそうな馬を中心とする現在の絵になった。
本展でその「○と×」のスタディがずらっと並んでいた。



やっぱり、同じ密度で○と×が並んでるじゃないか。謎の余白はどれを見てもない。
余白はやはり谷口氏の発想で生まれたものに違いない。だとすると、親友(谷口吉郎)の息子とはいえ、猪熊がなぜ自分の作風とは違う余白に納得したのかも不思議だ。筆者だったら「自分をわきまえなさい」と言う。
前述のガイドツアーの後、改めて正面外観を見ていた気づいたのである。「そういうことか!」

2人の大巨匠には申し訳ないが、説明力に自信がないので写真に補助線を引かせてもらう。

これは正面全景を引きで見た時、庇の広がりを強調する構成になっているのだ。
左側の方が微妙に絵の要素が多いことも、この角度↓から見ると納得がいく。

左側には駅方向から道路をわたる横断歩道があり、敷地内に入る数段の階段がある。その先には入り口と大階段があり、来館者は基本、この位置に立つ。そのときに、大階段の黒いボリュームを含めて最も全体のバランスが取れるように余白を残したのだ。
この建築を「額縁のような建築」と評することがよくある。それは間違いではないが、額縁と壁画がセットで1つの作品なのである。「作品を生かす枠」程度のものではなく、切り離すことができない作品そのものなのだ。
ということを、いくつもの建築に関わってきた超建築好きの猪熊画伯は瞬時に悟ったのではないか。2人とも雲の上なので、正解はわからない。でも、そんなことも想像できるから建築体験は面白い。(宮沢洋)