2024年の元日に起こった「令和6年能登半島地震」から1年、ライフライン復旧の遅れは指摘されているものの、各地域は復興に向けて歩み出している。NPO法人HOME-FOR-ALL(東京都中央区、理事長:伊東豊雄氏)が取り組む「能登みんなの家」プロジェクトもその1つ。26年ごろまでに石川県珠洲市、輪島市、能登町で計6棟のみんなの家が生まれる予定だ。
第7回JIA(日本建築家協会)神奈川建築フォーラム2024が24年12月7日に開かれ、「みんなの家~能登の現在と未来~」と題して、若手建築家6組が各プロジェクトのアウトラインを説明。最後にディスカッションを行った。JIA神奈川代表の柳澤潤氏(HOME-FOR-ALL理事、コンテンポラリーズ、関東学院大学教授)が総合司会を務めた。
「みんなの家」のプロジェクトは、2011年の東日本大震災をきっかけに始まった。仮設住宅団地の集会所などとして、建築家と住民が対話を重ね、人が集まり、皆が居心地よく過ごせるもう1つの家づくりを目指した。その活動は自治体や企業、団体の支援によって拡大し、東北で16棟、地震や水害に遭った熊本では規格型を含めて130棟以上が完成している。



「能登みんなの家」プロジェクトがこれまでと違うのは、運営者と一体になって計画を進めていることだ。24年5月にクラインダイサムアーキテクツのメンバーとHOME-FOR-ALLの事務局メンバーが能登に赴き、インフラに頼らない生活の知恵を視察。併せて、現地でボランティア活動をする人をはじめ、いろいろな人に集まってもらい、今後どういうことをしていきたいか、HOME-FOR-ALLと一緒に何かできないかなどを話し合って方向性を決めていった。
「能登みんなの家」として現在、石川県珠洲市、輪島市、能都町で6つのプロジェクトが進行中だ。そのうち、「狼煙(のろし)のみんなの家」は日本財団の「憩いの場プロジェクト」に採択され、施工フェーズへと移った。ほかのプロジェクトも同様の助成プログラムでの採択を目指している。日本財団の憩いの場プロジェクトでは、地元のNPOや社団法人などが運営者になり、運営者が申請することが求められる。最低5年間、施設を運営していくことが1つの条件となる。
黒瓦などで風景を継承しながら、災害に強いオフグリッドの建築に
「能登みんなの家」では3つの方針を定めている。1つ目は「地元の人の思いをかたちにする」こと。みんなの家を運営するのは、自身も被災者である有志が集まる団体となる。個性ある運営者のビジョンを設計に反映することで、中長期に活用され、地元の人たちが成長させていける場を目指す。
2つ目は「持続可能な自立した建築にする」こと。豊かな自然の中に集落が点在する能登半島では、震災以前から、水道や電気などのインフラに依存しない自給自足の生活の下地があった。みんなの家では、自然環境を生かしたオフグリッドの施設計画とし、その価値を発信する場を目指す。さらに、その地域の生業(なりわい)を担う拠点となることで、自立した運営体制をつくる。
3つ目は「能登の文化を未来に継承する」こと。能登にはそこで育まれた独自の文化があり、地元の誇りになっている。被災によって建物は壊れ、産業の存続も危ぶまれているが、みんなの家は、そうした文化を伝承していく場を目指す。建物に用いる材料の選定、既存施設や地域活動との連携によって、個性豊かなみんなの家をつくる。



1つのチームで復興を支援するプラットフォームを発足
活動報告の口火を切ったのは金沢工業大学建築学部建築学科教授で、JIA石川地域会副会長を務める竹内申一氏だ。竹内氏は、伊東豊雄建築設計事務所を退所して2011年に金沢市に移住、金沢工業大学に着任した。カタチアーキテクツとして設計活動も行う。能登半島地震以降、新たな肩書が加わった。能登復興 建築人会議副会長とGAPPA noto(ガッパ・ノト)会長だ。
「24年の能登半島地震のときは金沢の自宅にいた。ニュースなどで被害状況が徐々に明らかになり、建築に携わる人間、大学で教育に関わる人間として何か動き出さないといけない思った」。地元のJIAをはじめ、建築に関係する人たちと話し合い、立ち上げたのが「能登復興 建築人会議」(会長:水野一郎氏)だ。JIA北陸支部石川地域会や石川県建築士事務所協会、石川県建築設計監理協会が幹事となって運営する。石川県で能登半島地震復旧・復興アドバイザリーボード委員を務める小野田泰明氏(東北大学大学院教授)の「1つのチームになって復興に当たっていくことが非常に大事で、そういうプラットフォームづくりをすべきではないか」というアドバイスを基にしたという。
「同会議を24年4月に発足し、被災した自治体を訪問して聞いたところ、求められているのは住宅相談だった」。「本当に自宅を解体しなければいけないのか」と考える被災者が多く、建築士に見てもらって最終判断をしたいという要望が多かったからだ。しばらくは住宅相談が続きそうだと竹内氏は話すが、能登に数多く残されている文化財や文化財に相当する建物の被害調査も日本建築学会と協力して進めている。
「住宅相談を継続するなかで、文化財に相当する建物まで含めれば3000件ほどに上ることがわかった。能登は、特殊な風土や歴史を持ったエリアを形づくっており、そういった風景を守っていくことも建築人会議で進めていかなければいけないと話している。喫緊の課題は被災した古民家をいかに修繕して活用していくかだ」
建築人会議に加えて、もう一つ立ち上がったのが、竹内氏が会長を務めるGAPPA notoだ。ガッパ(GAPPA)とは、石川県の方言で「一生懸命になる」という意味を表す。石川県や富山県、福井県の大学に打診して24年9月に発足。現在、参加学生は100人ほどに上る。能登を定期的に訪問し、仮設住宅団地を対象にコンサートを開いたり、住環境の改善に取り組んだりしている。熊本地震の後、九州大学の末廣香織教授を実行委員長に、九州大学の学生が取り組んだKASEIプロジェクトを参照した。「現地とコミュニケーションをとりながら、ゆくゆくは各地域のまちづくりに学生たちの思いや考えを少しでも反映できればいいなと思っている」。

漁業や林業など、地域の生業を生かした場に
「能登みんなの家」プロジェクトには6つの計画があり、それぞれ設計を進めている。竹内氏に続く活動報告では、6組の若手建築家が各プロジェクトについて説明した。6組のプレゼンからポイントをピックアップしてお伝えしよう。6組の先陣を切ってクラインダイサムアーキテクツが担当する「狼煙のみんなの家」が、日本財団の助成プログラムに採択され、施工フェーズに移っている。

久山幸成氏(クラインダイサムアーキテクツ):狼煙のみんなの家の運営を担うNPO奥能登日置らいは、能登の自然について体験や学習を通して伝える活動などを震災前から継続されている。その代表が狼煙地区の区長であり、被災した直後から半壊した集会所で、この場所の未来をどうするか地元の人たちと話し合ってこられた。狼煙のみんなの家で考えているのは、単なる集会所の代替ではなく、地元の生業が生かされたプログラムだ。近くの道の駅が割と農産物を中心としているので、ここでは漁港の在り方について反映したい。小さなキッチンと小上がり、土間が一体となった構成とし、地元で愛されている2本のサクラをすぐ目の前に望む構成とした。震災以前に住民が集っていた神社の仮宮も集約。しめ縄編みやそば打ちなど、地域の行事ができるようにして、使いながら先を考えていける場所を考えた。


榮家志保氏(EIKA studio):鉢ケ崎のみんなの家が計画されているエリアは、他のみんなの家とはかなり地域性が異なる。オートキャンプ場や海水浴場などがあり、観光客が訪れる場所だった。今は仮設住宅が並び、解体工事業者用の宿舎もある。オートキャンプ場はボランティアの宿泊場所になっている。敷地は珠洲ホースパーク内にある。ここは競走馬を引退した馬の受け入れ場所で、仮設住宅などの間を、馬が散歩している。みんなの家には、仮設住宅の住民や工事業者などが気軽に立ち寄れ、生活を少しでも楽にしてくれる飲食店や総菜屋を設け、近隣の人たちが集まるきっかけとなる居場所にしたい。さらに、馬を眺める、世話をすることなどで互いに心身がケアされる場、能登を訪れた人が馬との関係について学び、能登での新たな活動を生み出す拠点とすることも考えている。数年後に仮設住宅などはなくなるので、どうやって自立して運営するかが大きなポイントだと思う。


近藤哲雄氏(近藤哲雄建築設計事務所):珠洲市大谷町は、能登半島で外浦と呼ばれるエリアの真ん中より少し先端に近い場所に位置している。能登半島地震で被害がけっこう大きかった地域で、24年9月の能登半島豪雨でも大きな被害を受けた。そのため、みんなの家の敷地がなかなか決まらず、12月5日にやっと決定した。黒瓦が印象的で、商品化住宅などほとんどない堂々とした風格の木造建築が町並みをつくっており、残ってほしい。珠洲市では1軒当たりの住宅面積が平均で200m2超あるという。こういう文脈に合ったみんなの家にしたいと思っている。運営を担うNPO外浦の未来をつくる会(設立準備中)と打ち合わせをしたとき、移住者が割と多く、地元の方々と一緒に活発な活動をしているのが印象的だった。みんなの家の話をするときだけは、未来の話ができてとても楽しいとお聞きし、うれしかったことを覚えている。これから設計をどんどんと進めていきたい。


廣岡周平氏(PERSIMMON HILLS architects):飯田のみんなの家の運営者はNPOのガクソーで、教育やメディア、まちづくりの3事業を手掛け、教育については寺子屋のような活動をしており、学習塾があまり多くない地域に貢献している。たぶんメンバーの多数が移住者で震災前から飯田町の雰囲気が好きで集まってきて地元とコミュニケーションをとっていた。同町にあった2拠点とも全壊したので、その片方にみんなの家を建てる計画になっている。商店街の中で、被災してもはす向かいに移転して営業を再開した書店など、前向きな近隣などと連携して「公園のようなまち」として復興を目指す拠点となる。道と一緒につくる建築、闇を照らすぼんぼりのような建築、育てていくキャンパスとしての建築を考えている。例えば、壁はガクソーのメンバーや住民とDIYで塗るなど、子どもたちも関与しながらつくってもらうと彼らの活動とも親和性が出るのではないかと考えている。


松田彩加氏(松田彩加建築設計事務所):輪島市の深見町は、輪島の中心部から車で15分ぐらいの場所に位置し、その先には高名な白米千枚田(しろよねせんまいだ)がある。林業や漁業、農業を生業としてきた。林業はヒバで知られ、各戸が競うように家を建てており、能登瓦と下見板張りの大きな家による素敵な風景が広がっている。設計は式地香織建築設計事務所の式地香氏と協働している。深見のみんなの家では、「みんなで町のことを共有する場所」「自然とともに生きる未来に向かうための活動の場所」「町の集落の記憶、里山・里海の生活文化を次世代に継承する活動の場所」の3つのコンセプトを掲げている。公費解体が決まった建物について、解体前に部材を運び出して活用させてもらうよう、建て主に交渉している。プログラムとしては、かまどと囲炉裏のあるおむすび食堂、多様な人たちをケアする入浴施設を計画。海に続くように中央に道を通した分棟案とした。


工藤浩平氏(工藤浩平建築設計事務所):前職のSANAA時代、宮城県東松島市の宮戸島で、復興まちづくりと宮戸島月浜のみんなの家を担当した経験があり、今回はアドバイザーの妹島和世さんと一緒に鵜川 みんなの番屋に取り組んでいる。能登町の鵜川は、能登空港から車で30分ほど南下した場所で、漁業で栄えてきた。敷地がある町の中心部は、何度か現地に行った際、公費解体が進んでいて職人しかいないような状態で、この場所にどうやって人を呼び込むかが課題となる。漁師の方が中心となってここでは、みんなの番屋をつくる。番屋は漁師が漁に出るまで過ごしたり、漁から戻った後に食事をとったりする場だ。宮戸島での経験をお伝えし、まちづくり推進委員会を立ち上げた。関係者が主体となってつくるので、協力いただけるよう町長に面会してお願いできた。漁師の考え方を基に海の資源を通じたコミュニケーションスペースをつくろうと、飲食空間や共同キッチン、フリースペースを計画している。

「能登みんなの家」は急を要するが、継続性も重要
6つのみんなの家の説明後に行われたディスカッションは、短時間ではあったが、興味深い内容だった。「能登みんなの家」プロジェクトは、震災復興を目的としたものだが、こうしたプロジェクトが求められているのは復興にとどまらないだろう。今後、日本各地で顕在化していくだろう課題を先取りしている。例えば地方の中核都市であっても、中心市街地は空洞化しており、近隣のコミュニティーは失われつつある。今後の建築家の仕事を考えるためにも、今回のディスカッションのアウトラインをまとめておく。
柳澤:6組のプレゼンテーションを見て、竹内さんの感想をお聞かせください。
竹内:これまでのみんなの家と違うのは、NPOなど運営を担う皆さんとの会話が成立した上で、現地に入り込んで対話を重ねていくこと。仮設住宅の集会場とは異なり、かなり長期にわたって建築が役割を果たしていく必要がある。皆さん、どのくらいのタイムスパンを設定されているのか、まずはお聞きしたいですね。
柳澤:ありがとうございます。仮設住宅地の中にある小さな公民館というのが、みんなの家の始まりに求められた役割です。それに対して今回は、どちらかと言えばもう少し自立的にみんなの家があり、どれだけ持続的に役割を果たすかというテーマがあります。久山さんからコメントをお願いします。
久山:みんなの家について、被災地の一時的なシェルターというより、日常的に人が集まる場所としてどうあるべきかと常々考えてきました。今回の狼煙のみんなの家をはじめとするプロジェクトは、日本財団の助成プログラムへの応募を前提としています。地元のNPOや社団法人などが運営者になり、運営者が申請したプログラムに従って考える。最低5年間、施設を運営していくことが1つの条件で、運営への助成は最初の2年間に限られます。
狼煙のみんなの家の場合、今の集落規模だと半壊した集会所を維持していくのは大変なので、仮宮も併せてこれからの地域の集会所として計画し、運営者がどう地域とつながるかを考える。比較的急を要するけど、先の継続性も検討しながら進めています。
柳澤:深見のみんなの家を運営する紡ぎ組は、地域を紡いでいくことを考えているようですね。松田さんたちは紡ぎ組とはどのくらいのスパンを前提に話し合っていますか。
松田:5年を目標に考えているようです。まず1年間は研修期間のように捉えていて、おむすびの販売数、お風呂の利用者数を見ながら、1つ軌道に乗ったら次に進めようとしています。古材の販売も考えていらっしゃる。町にはリタイヤした高齢者の方がおり、仕事のスキルはお持ちなので、町や高齢者の人たちと一緒に運営していく意向です。
柳澤:能登のみんなの家では、地元の生業として成立させようというのがこれまでと違う点の1つです。一方、榮家さんたちは引退した競走馬に関して考えなければならず、5年とかではなくもっとロングスパンで見ないといけないですよね。
榮家:運営者は5年なんて違う、10年いやもっと先を見ないといけないという思いを持っておられる。というのも人口がどんどん減っている地域で、震災がより拍車をかけると感じているから。能登について学びたい、引退馬について学びたい。そうした2つの軸から活動や事業化を考え、能登の各地に展開していく拠点にできないかと考えていらっしゃる。
柳澤:鉢ケ崎のみんなの家の役割は、ほかのプロジェクトと比べて広がり方が違って面白いですね。一方、かなりまちなかにあって、まちづくりに密接に関係していると感じたのが飯田のみんなの家です。運営を担うガクソーの人たちとはタイムスパンについてどう話しておられますか。
廣岡:彼らと話していて思うのは、直近5年という話でもあるし、もしかしたらもっと先を見据えているのかもしれないけど、何か淡々と続けていくのをイメージしているようだということです。だから将来ビジョンと言うより、生業として成立させるという方が近い。ただ、ガクソーのメンバーは、外から来ている人、別の場所にいながら参加する人など、関わり方は様々です。
柳澤:近藤さんはこれまで敷地が決まらない中で、黒瓦という伝統というか、連棟による集落に着目して提案をされています。みんなの家の役割を近藤さんはどう感じておられるかお聞かせください。
近藤:大谷で現地の方々と話をしていると、ものすごく前向きな話ができるということもあると思いますが、期待の大きさを感じます。もちろん全部に応えられたらいいけれど、個人的な思いとしては、具体的に答を出すというより、目的がなくてもとにかく行くことのできる居場所ができたらいいなと。いろいろな困りごと、やりたいことにみんなの力で応えていくことができます。これまで敷地が決まっていなかったこともあり、黒瓦を載せた建物を発想したときは、とにかく人が来られて、まちの風景がなくなりつつある中、せめて黒瓦の風景を残したいと考えました。
柳澤:工藤さんは今日、鵜川の話をされるとき、かつての宮戸島での経験を伝えたと言っており、単純に経験を設計に落とすだけでなく、新鮮に映りました。今回、HOME-FOR-ALLの活動に加わってみて、みんなの家の役割をどう捉えましたか。
工藤:鵜川はすごく小さい町だけど、他の人たちのことを考える余裕はない。実際のところと分断されている。そうした意味からいけば、それぞれもう少し共通部分を持ってまちを考えるようなきっかけづくりがみんなの家に求められると思います。宮戸島では、それぞれの浜が独立しており、震災復興で1つになった。最近、設計をする中で分断をつなげる機会が多いが、そうした分断をつなげる媒介としてみんなの家はあるべきだなと感じています。

今回はプロセスが重要で今までにない価値が生まれる
柳澤:本日の6組のプレゼンでは、直接はコミュニティーの話が出てきませんでした。しかし震災復興ではコミュニティーに関してソフトの問題は大きいし、ハードも大事ですよね。もちろん祭りの話もあるけれど、竹内さんはどうすればコミュニティーを持続できるとお考えですか。
竹内:能登半島地震では、集落単位で仮設住宅に入居できるよう東日本大震災と比べると厳密に管理していますが、子どもの学校の問題から都市部に移転したり、高齢者が畑や田んぼの手入れのために半壊住宅に残っていたりするケースが見られます。仕事があるかないかは大きく、若い人たちは仕事がないから戻れないという問題があります。人がいないとコミュニティーは存続できないので、新しい参入者は外せず、移住者が積極的に地域に関わることも必要でしょう。
皆さんが各地で取り組んでいるみんなの家でも運営に移住者が関わる場合があり、みんなの家がコミュニティーの起点になるといいなと思います。能登のみんなの家では、どういう施設をつくっていくのか話し合って決めており、そうしたプロセスがすごく大事なんだろうと本当に感じました。その結果、みんなの番屋のように違う名前に変わる可能性もあるかと思います。今までとは違う価値が出てくることになり、素晴らしいことだと感じました。
柳澤:まとめていただきありがとうございます。24年3月の第35回JIA神奈川建築WEEKかながわ建築祭2024で「『みんなの家』って何だろう。これからの公共のあり方を問う」と題してシンポを行いました。そのとき、みんなの家というのは「小さな公共」だという話もありました。本日、能登のみんなの家のプレゼンを聞いて、もうちょっと自立した、何かその場所でしかできないものだと感じました。最後に各人から、自分が各地でやっていることは何か一言で説明いただきましょう。
久山:24年3月のJIAシンポの時点では、みんなの家が「小さな公共」という話も出ました。しかし、公共性というのは何かをつくって与えらえるものではなく、何か一緒になってつくり上げていくものではないかと実際のプロジェクトを通して実感しています。
榮家:皆さんの話をお聞きして、ものすごく活動的な人がたくさんいるんだと思う半面、内向的な人はそれ以上にたくさんいて、能登に興味はあるけど、どこにどうやって行ったらいいか、わからない人たちもいるんだと思いました。できるだけ間口を広げることも、今手掛けてるみんなの家では大事だと感じています。
近藤:これまで個別に何となく話を聞いていましたが、まとまったプレゼンを見て皆さんの活動を知ることができ、自分にとって重要な日になったと感じています。大谷のみんなの家に限って言うと、みんなが楽しみにしている場所ではないかと捉えています。
廣岡:みんなの家が何かっていうより、どんな役割を果たせるのかという問いに対する答になると思います。これまで自分が手掛けてきたプロジェクトとそう変わらず、人が思う喜びを共有していくプロセスのために、みんなの家を考えていきたいなと思います。
松田:これは私個人の考えですが、深見町は過疎化した限界集落だったので、自分が好きな町が残るように、町が成立するための生業を考えたり新しい事業を考えたりと、新しい価値観を今ある町に加えて実行していく場所になっているのではないかと思っています。
工藤:自分の場合、みんなの家は「自分ごとになれる場所」かなと思う。自分の範囲をどこまで広げられるかという場所が、まちみたいなところになっている。こう捉えると、自分ごととしていくきっかけの場所になってくるんじゃないかと感じています。
柳澤:24年3月のシンポと比較すると、関わる人が増えれば増えるほどみんなの家の役割は広がっていき、定義もそれぞれに必要だとすごく感じました。(森清)