高架下の“ストリート建築展”で隈研吾氏や永山祐子氏の進行中模型を展示、「杉並建築展」に行ってみた

 JR高円寺駅とJR阿佐ケ谷駅の間に位置するイベントスペース「高架下空き倉庫」で、「杉並建築展 2024 あらわれる風景」が2月23日から開催されている。会期は3月3日(日)まで。つまり今週末で終わってしまうので、興味のある人は急いで見に行ってほしい。入場無料だ。

(写真:宮沢洋)

 このイベント、筆者は初めて見に行った。建築家と地域社会をつなぐことを目的に、2016年から毎年開催されているという。主催者は杉並建築展実行委員会。JIA杉並地域会のサイトでは「地域や地元から始まる建築や都市をめざして、ストリートで開催する建築・まちづくり展」と紹介されていた。「ストリートで開催する」という表現がまさにその通りで、高架下の通り道に、入り口を開け放した状態で開催されている。会場にスタッフはいるが、「どうぞ勝手に見てください」という束縛感のなさがいい。

 出展者は下記の皆さん。

永山祐子建築設計
日本大学理工学部建築学科 古澤大輔研究室
隈研吾建築都市設計事務所
RFA / 藤村龍至
NASCA / 桔川卓也
久保都島建築設計事務所/久保秀朗+都島有美

工藤浩平建築設計事務所
TAKiBI / 栃内秋彦
横井創馬建築設計事務所・セカイ/横井創馬
takayuki.bamba+associates / バンバタカユキ
後藤周平建築設計事務所

flat class architects
SIA / 香月真大
小沼計画
メタボルテックスアーキテクツ
中村竜治建築設計事務所 / 中村竜治
KIRI ARCHITECTS / 桐 圭佑
PERSIMMON HILLS architects + 飛騨の森でクマは踊る

oXAD / 山岸大助 + 飯村慎建築設計

会場構成:小沼計画
ポスターデザイン:メタボルテックスアーキテクツ

 当初は「杉並区とその周辺を拠点とする建築家による展示」だったようだが、現在はそのくくりに縛られずに出展者が広がっている。名前をよく聞く若手・中堅にまじって、隈研吾氏のような大御所も参加している↓。隈氏の事務所は港区だが、進行中のプロジェクトが杉並区にあることから参加したようだ。

 あちこちで引っ張りだこの永山祐子氏が、2025年大阪関西万博のパビリオンを2つ展示しているのにも驚いた↓。新宿区に事務所がある永山氏がなぜ出品しているのだろうと思ったら、彼女は阿佐ヶ谷出身だとプロフィルに書いてあった。

 隈氏や永山氏のプロジェクトも特別視せず、さらっと置いているのがストリートっぽい。どの展示もことさら一般向けに柔らかく説明しているわけではなく、一般の人にもリアルな最先端を知ってほしいというスタンスの展示が、クールな高架下空間にマッチしている。

杉並建築展2024 あらわれる風景
開催期間:2024.2.23(金)~3.3(日)
時間:9:00~18:00 (最終日のみ16:00まで)
会場:高架下空き倉庫(JR高円寺駅-阿佐ケ谷駅間)
166-0004 東京都杉並区阿佐谷南2-36

 ちなみに、会場の「高架下空き倉庫」を運営しているのは、本サイトの「高架下建築図鑑」↓に協力いただいているジェイアール東日本都市開発である。高架下の利活用を見る意味でも行って損はない。(宮沢洋)

連載「よくみる、小さな風景」11:福祉施設の自由な毎日から考える新しい公共空間──乾久美子+Inui Architects

建築家の乾久美子氏と事務所スタッフが輪番で執筆する本連載。第11回はスタッフの吉田真緒氏が福祉施設を観察する。福祉施設の共用部の日常は、一般的な公共空間とは違う原理でできている。でも、その自由さに公共空間の可能性を感じる──という話。最後は「八戸市美術館」(2021年開館)の「ジャイアントルーム」の話へと展開。なるほど。(ここまでBUNGA NET編集部)

 今回取り上げるテーマは「福祉の毎日」である。

 乾事務所では主に知的障害を持つ方々のための建築をいくつか手掛けてきた。そのリサーチ段階で、日中支援施設やグループホーム、入所施設など多くの福祉の現場を見学する機会を得てきた。福祉の現場には、個性豊かで魅力的な利用者の方々、支援員の方々がいる。それと同じくらい、彼らの日常が生み出す多様な居場所にもまた魅了される。

(イラスト:乾久美子)
(さらに…)

リレー連載「海外4都・建築見どころ案内」:スペイン・バルセロナ×小塙芳秀氏その2、ワイン好き必見!バルセロナ市内から日帰り可能なRCRアーキテクツ設計の2つのワイナリー

スペインでは、ワイナリー訪問や試飲、収穫などを目的とした「エノツーリズム」に力を入れており、ワイナリーなどの設計を著名建築家に依頼する例が目立っている。今回はスペイン・バルセロナ市内から、日帰りでも訪れることのできるRCRアーキテクツ設計の2つのワイナリーを小塙芳秀氏に案内してもらう。(ここまでBUNGA NET編集部)

ペララーダ村に2022年オープンしたRCRアーキテクツ設計のペララーダ・ワイナリーの新館。大地と連続するような建物として感じる(写真:以下は小塙芳秀・小塙香)

 リベラ・デル・ドゥエロ、プリオラート、ラ・マンチャ、トロ、ソモンターノ……。スペインワインが好きな人には聞き覚えのあるワインの生産地であろう。あれこれ悩みながら週末に飲むワインを選ぶのはスペイン生活の醍醐味だ。個人的にはガルナッシュ種のプリオラートが最近のお気に入りである。

 スペイン北西部ガリシア地方の都市、ア・コルーニャ市で「ア・コルーニャ人間科学館」を設計された磯崎新氏がスペインへ来られた際は、スペインの多彩なワインや郷土料理を堪能されていた。ガリシア地方の新鮮なタコを使った料理を絶品とおっしゃっていたことを思い出す。ガリシアのアルバリーニョと共に楽しまれたことであろう。

 スペインでは原産地呼称保護(PDO)認定ワインを生産している地域が約100存在しており、2022年のワイン輸出量はイタリアに次ぐ世界2位である。そして、日本でも最も有名なスペインワインと言えば、テンプラニーリョ種による赤ワインで知られるリオハ産であろう。

 リオハは大小600以上のワイナリーがあるスペイン屈指の生産地であり、2000年ごろから「エノツーリズム」(ワイナリー訪問、試飲、収穫などを目的とした観光形態)に力を入れ始め、ワイナリーや付属施設の設計を有名建築家に依頼するブームが始まった。

 その発端として、世界的にスペインワインの需要が高まったこともあるが、1997年開館のビルバオ・グッゲンハイム美術館(フランク・ゲーリー設計)によって1つの現代建築が観光や経済の促進に大きな役割を果たすことが証明された影響が大きいといわれている。

 1858年創業の老舗ワイナリー、マルケス・デ・リスカルは、フランク・ゲーリー設計のホテルを2006年にオープンし、話題となった。薄紫色の衣をまとったようなチタニウムで覆われた建物は、リオハのワイナリー建築ブームをけん引したシンボルといってもいい。

フランク・ゲーリーよるマルケス・デ・リスカルのホテル。2012年に訪れたときの写真

 その他、2001年にバレンシア出身の建築家、サンティアゴ・カラトラバがイシオス・ワイナリーを設計、同年にオープンしたボデガス・カンポ・ビエホ・ワイナリーはイグナシオ・ケマダの設計で、2003年に建築部門においてベスト・オブ・インターナショナル・ワイン・ツーリズム賞を受賞した。さらに、ロペス・デ・ヘレディア・ヴィーニャ・トンドニア・ワイナリーは、125周年を機にザハ・ハディドにワイナリー付属の店舗設計を依頼している。

(さらに…)

内藤廣らしさ凝縮の「矢澤酒造店」@福島、ローコストでも最先端の木造架構と紅色リノベ

 昨年度から引き続いて「ふくしま建築探訪」というサイトのイラストルポを担当している。サイトは2022年11月に福島県土木部建築住宅課が立ち上げたもので、福島県内にある魅力的で評価の高い近・現代建築物(明治以降)を一般の人にもわかるように紹介する取り組みだ。

 このサイトで先日、内藤廣氏の新作を取材した。2023年完成。建築専門誌にはまだ載っていない。

(写真:宮沢洋)

 住宅程度の規模で、高価な材料も使っていない。だが、これが実に内藤氏らしい建築なのである。福島県矢祭町の「矢澤酒造店」だ。

 「ふくしま建築探訪」の当該ページはこちら
 

 天保四年(1833年)創業の老舗の蔵元だ。銘酒「南郷」で知られる。その蔵元に2023年春に完成した新蔵と、日本酒の試飲ができるカフェ&ショップから成る複合施設だ。

カフェ&ショップ。ピロティを挟んで右奥が酒蔵エリア

 先の「ふくしま建築探訪」のページではこう説明されている。

 「矢澤酒造店は、奥州最南端矢祭の恵まれた気候風土の中で造られる日本酒の製造・販売施設です。建物の構造は木造軸組みの平屋建てで、酒蔵や店舗を包むような屋根とするため、短辺方向の柱を8.0m間隔で配置する大架構形式としました。建物背景には竹林があり、店舗から見える水盤や植栽とともに心地よい自然を感じられる施設となっています。」(設計者:株式会社内藤廣建築設計事務所 福林一樹)

 建物は切妻の細長い木造建物で、地元のスギを使った同じパターンの架構がひたすら繰り返される。

酒蔵エリア
酒蔵エリア
ピロティ部

 内藤建築らしさの1つは、この木造架構。小さいので架構が近くでよく見える。繰り返しではあるが、一体どうなってるの?という複雑な組み方。建築にはなじまない表現かもしれないが、「懐が深い」感じだ。

カフェ&ショップに飾られていた図面の一部

 内藤廣氏に展覧会の話を聞いたついでに、この建築についても聞いた。「設計は常にバトルなのだけれど、規模の小さいものは特にコストのバトルが激しくなる。そういう中で何ができるか」(内藤氏)。

 この木造架構は、基本的には力の加わる方向によって、部材を分けるという考え方でできている。そのうえで、木材の仕口にできるだけ無理がかからないようにすることを考え、この形になった。構造設計者の岡村仁氏(KAP)はこの架構について「小さいけれど最先端の木造」と評したという。

上の図面から架構部を模写(イラスト:宮沢洋)

既存擁壁を紅色塗装で内藤ワールドに

 内藤建築らしさのもう1つは、屋外空間の魅力。新築の建物を起点として既存の建物の周辺を散策できるようにした。既存の擁壁や敷地境界の壁が紅(べに)色に塗られ、それだけで全体が内藤ワールドに変わっている。

 壁をつくり変えるのではなく、塗装するだけでこんなに変わるのか…。これはコスパが高い。

 裏の竹林にある社(やしろ)に上る鉄骨階段(新設)がかっこいい。この紅色鉄骨階段のかっこよさだけで、建物の裏側が“人を引き寄せる場”になっている。

 筆者が取材に訪れたのは11月で、庭はこのように↓干し場となっていた。

 だが、夏には周辺を冷やす水盤↓となる。グラントワのような「水を抜いても使える」リバーシブル水盤なのだ。

(写真:2点とも矢澤酒造店)

 巨大な公共建築や高価な仕上げの商業建築だと、「バトルの中で何ができるか」と言われてもいまひとつピンとこない。けれど、ここはバトルの乗り越え方(楽しみ方?)がビンビンと伝わってくる。

 ところで、多忙な内藤氏はなぜこの規模の設計を引き受けたのか。内藤氏は、筆者の知る限り酒呑みではない。

 「クライアントの矢澤(真裕)さんに惹かれた」との答え。

矢澤酒造店の矢澤真裕氏

 矢澤真裕氏はこの蔵元の九代目当主。矢澤氏のことを調べてみたら「SAKETIMES」という日本酒好きのためのWEBメディアに記事が載っていた。

日本酒好きが高じて蔵元に─ 愛する「南郷」を守るために43歳で酒造りの世界に飛び込んだ男の物語(SAKETIMES、2019年1月22日)

 この建築や屋外空間のおおらかさは、矢澤氏の人柄そのもののようでもある。

 「建築が好きな人にも気軽に来てもらいたい」と矢澤氏。矢祭町は福島県の南東側(中通りの最南端)で、茨城県に近い。車なら都内から日帰りも余裕。車でないと行きづらい場所だが、ノンアルコールの飲み物もあるので、春の建築旅の候補にぜひ。

矢澤酒造店
所在地:福島県東白川郡矢祭町戸塚41
竣工年:2023年04月
階数:地上1階
構造:木造
延べ面積:280.86㎡
用途:物品販売業を営む店舗
設計者:内藤廣建築設計事務所

概要データは「ふくしま建築探訪」より。改めて、「ふくしま建築探訪」の当該ページはこちら

【独占インタビュー】内藤廣展@グラントワを振り返る─「完成から18年たってようやく『これでいい』と思えた」

2023年9月16日から12月4日まで、島根県芸術文化センター「グラントワ」の島根県立石見(いわみ)美術館で開催された「建築家・内藤廣/Built とUnbuilt 赤鬼と青鬼の果てしなき戦い」。会場案内図の執筆で協力した宮沢洋が、内藤廣氏に展覧会の舞台裏や手ごたえを聞いた。

内藤廣氏(写真:特記以外は宮沢洋)

──展覧会が年末にかけて大きな話題になりました。あれだけ話題になったので、内藤さんによる総括的な話がどこかに載るかなと思っていたのですが、なかなか載らないのでインタビューにやってまいりました。

 誰もしてくれないんですよ。嫌われているのかなあ(笑)。

会期中の様子(写真提供:島根県立石見美術館)

──BUNGA NETにとっては願ってもないチャンスです。内藤建築のファンが多いですから。BUNGA NETでこれまで一番読まれた記事は、紀尾井清堂の記事なんですよ。今でも読まれています。

速報:内藤廣氏設計「紀尾井清堂」を見た! 都心の一等地に「機能のない」光の箱

 それはうれしいですね。でも、みんな大きな声では褒めない(笑)。今回の展覧会もそうだけど、僕の存在って、そうなんでしょう。もうかなり歳だし、時代遅れなんだけど、無視はできない。できるだけ頭の隅っこに置いておいて、たまにこういう展覧会をやったりすると、面倒くさいなと思いつつ、少し気にする。何ともリアクションがとりづらい建築家だと思われているんじゃないですか。

──いえいえ、来場者1万人を超える大盛況だったと聞きましたよ(館によると最終入館者数は1万2815人)。それと、見た人があんなにSNSで感想を発信する建築展は珍しかったと思います。

 会場に3時間いましたとか、4時間いましたとか、長さを競うみたいなつぶやきが多かった。俺は2日間いたぞとかね。

会期中の様子。展示室前室には、「海の博物館」を架構をモチーフにしたインスタレーションを展示(写真提供:島根県立石見美術館)

自分のことも少し喋らなきゃ、という気持ちに

──国内での内藤さんの展覧会は、約10年前、2014年にTOTOギャラリー間で開催された「内藤廣展 アタマの現場」以来ですね。

 あれは「3.11」(2011年)の後で、本当は展覧会もやりたくはなかったんですよ。東北では大勢の人が亡くなって、復興も大変なときに、「作品でございます」っていうのは嫌だった。だから、あの展覧会では、事務所を丸ごと展示室に移して進行中のプロジェクトを見せるようなやり方にしました。

 3.11以降、7、8年は、僕は講演会を頼まれても自分の作品を映したことがなかったんです。そういう気持ちにならなかった。

──今回の展覧会は、グラントワができた頃から決まっていたのですか。

 いえ、違います。展覧会をやりませんかと声をかけられたのは割と最近です。

──引き受けた理由は?

 今の話とつながりますが、ここ2、3年、自分の建物の話を少しはできるようになってきた。震災の復興にも10年以上関わりましたから。三陸のトラウマみたいものが少し遠のいてきて、自分のことも少し喋らなきゃ、という気持ちにこの2、3年なってきたんです。

 もうひとつは、美術館の人たちの思いですよね。今回の企画は、完成のときから美術館にいる川西(由里)さんや南目(美輝)さんが中心になっていますが、彼女たちの問題意識は、「自分たちは建物へのラブが強すぎるので、それをどう次の世代に伝えるか」っていうことなんです。新しい学芸員さんが入ってきて、どうやってこの思いを引き継いでいったらいいか。そのために、僕と展覧会をやりたいと。そう言われたら断れない(笑)。

発表会見の様子。左は島根県立石見美術館の川西由里専門学芸員

──赤鬼と青鬼の会話で解説すると最初に聞いたときには、正直、「大丈夫なの?」と思いました。今の展覧会の潮流は、いかに解説文を読ませないか、という方向なので。でも、皆さんじっくり読んでいましたよね。

解説文はすべて内藤氏本人の執筆。赤字が赤鬼、青字が青鬼のつぶやき

 すごかったよね、みんな読む読む(笑)。最初のAの部屋から真剣に読むので、途中でヘトヘトになってきて、最後に一番大きいDの部屋に入った瞬間に絶望的な感じになる。あっ、今、絶望してる!みたいな状態が見ていて面白かった。

「Build」(実現した建物)を展示する導入部の展示室A。序盤なので気合を入れて解説を読む(写真提供:島根県立石見美術館)
入った瞬間に絶望する人多数の展示室D(写真提供:島根県立石見美術館)

──そもそもあの量の解説文を全部ご自身で書いているというのが驚愕です。

あれは、ほぼ3日間で書いたんですよ。

──そう聞きましたが、本業の物書きはそんなことを聞かされたら、心が折れます。赤鬼・青鬼は何がヒントに?

 講演会をやると、あの鬼のポンチ絵はみんな気になるみたいだった。心の中の鬼がカミングアウトする感じが伝わりやすいんだんなと。

Dの部屋に入って絶望しても、結局みんなついつい読んじゃうようだったので、あのやり方は成功だったと思います。

「これでいいんだ」と思えた

──今回の展覧会のもう1つの特徴は、会場のグラントワ(2005年完成)に対する反響が大きかったことです。私の知人でも、あの建物を初めて見て、すごく良かったという感想を何人かから聞きました。

 「ようやく見つけてくれた」という感じです。最新作のように感想を語っている人もいた。18年くたびれずにそこにあり続けたのが良かった。がっかり建築ではなかった。でも、できたときは、反応が薄かったですよ。

──あれだけ大きなものがあの街にできて、10年後はどうなるんだろうと当時はみんな思ったんじゃないでしょうか。

 「海の博物館」は、バブルという時代的な背景もあるし、賞もいくつも取ったので“キワモノだけど外せない位置”は確立したと思うんです。「牧野富太郎記念館」のときは「こいつは何か狂ったのか」みたいに思われたようだけれど、話題にはなった。でも、益田(グラントワ)はほとんど誰も反応しなかった。反応したのは林昌二さん(1928~2011年)くらいだった。林さんは「前川(國男)さんがやろうとしたのはこういうことだったんじゃないか」と言ってくれました。

──今回の展覧会でご自身の今後に影響を与えるようなことはありましたか。

 あんまりない、って言ったら話が終わっちゃうかな(笑)。展覧会自体については、あれだけ力を入れてやったから「もうこれでいいか」みたいな感じです。

 それよりも、今後の糧になるとすると、今話したような美術館の建物の話ですね。グローバリズムとか、高度情報化社会とか、いろいろ言われる中で、最後はやっぱり地域とともにある建築しか生き残らないのかなと思った。展覧会を通して来館者の感想を聞いたり、町の人と話したりして、「これでいいんだ」って思えたことは大きい。たぶん僕がくたばって、何十年たっても、今と同じようにこの場所を好きな人がたくさんいて、続いていくんだろう。益田みたいなやり方が、公共建物の一つの理想形としてあってもいいのかなと。

──なるほど。自分の中で少し揺らぎがあった部分がピシッと据えられたと。

 腰が据わった感じはあるかもしれない。展覧会が始まる前の9月ごろは、建築系の人たちがどう見るか全くわからなかった。

 でも、僕自身は、これまでも何度行っても飽きなかったから。今回もツアーをやったり、夜の景色とか、朝の景色とか、いろいろ見た。でも飽きない。飽きないってことはいいことですよ。

会期中の展示室C。瓦の壁が色を変えていく映像を大画面で投影(写真提供:島根県立石見美術館)
大ホールを案内する内藤氏

──展覧会が終わっても、建物はいつでも見られるので、見に行ってほしいですね。本日はありがとうございました!

日曜コラム洋々亭60:実は“型枠対決”だった「みんなの建築大賞」受賞2件、発泡スチロール型枠にも驚き

 今回は「型枠」の三大話である。

最近、気になった“型枠が主役”の建築3件(写真:特記以外は宮沢洋)

 この1カ月ほど、「みんなの建築大賞」にエネルギーのほとんどを使ってきた。ノミネート作である「この建築がすごいベスト10」のそれぞれについても書いたし(こちらの記事)、特に「大賞」と「推薦委員会ベスト1」の2件については、かなり詳しく書いた(こちらの記事)。それなのに、2月15日に行われた発表会の場で、受賞者2人(VUILDの秋吉浩気代表取締役CEO、伊藤博之建築設計事務所の伊藤博之氏)のプレゼンテーションを聞いていて、今まで全く意識していなかったことに気づいた。それは、「どちらも型枠の発想転換から生まれた建築である」ということだ。

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大賞はVUILDの「学ぶ、学び舎」、推薦委員会ベスト1は伊藤博之氏「天神町place」に──「みんなの建築大賞2024」結果発表

左からVUILD代表取締役CEOの秋吉浩気氏、大賞となった「学ぶ、学び舎」、伊藤博之建築設計事務所を主宰する伊藤博之氏、推薦委員会ベスト1に選ばれた「天神町place」(写真:左2点はVUILD、右2点は宮沢洋)

 みんなの建築大賞推薦委員会(委員長:五十嵐太郎)は2月15日、文化庁協力のもとで実施した「みんなの建築大賞2024」の大賞を「学ぶ、学び舎」(設計:VUILD)に、推薦委員会ベスト1を「天神町place」(設計:伊藤博之建築設計事務所)にそれぞれ授与することを発表した。大賞はX(旧Twitter)上での一般投票で最も多く「♡(いいね)」を獲得したもの、推薦委員会ベスト1は、「この建築がすごいベスト10」を選定する推薦委員会の場で最も評価の高かったものに与えられる。

 なお、X上での一般投票の獲得票数トップ3は、上位から順に「学ぶ、学び舎」、「天神町place」、「花重リノベーション」(設計:MARU。architecture)だった。

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【速報】丹下健三も気になったマティスの「ロザリオ礼拝堂」、国立新美術館のマティス展で再現展示始まる

 東京・乃木坂の国立新美術館で「マティス 自由なフォルム」が2月14日(水)から始まる。2月13日に行われた内覧会に行ってきた。その速報である。

ヴァンスのロザリオ礼拝堂(内部空間の再現)(写真:以下も宮沢洋)(©Succession H.Matisse)
国立新美術館
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連載小説『ARTIFITECTS:模造建築家回顧録』第11話「シャルル=エドゥアールβの舟(前編)」──作:津久井五月

第11話「シャルル=エドゥアールβの舟(前編)」

    計画名:火星共同体「K」存続計画
    竣工日:2093年6月29日
    記録日:2094年5月2日
    記録者:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレβ

 レストラン「K」。
 それが、ケンゾーT441の新しい店の名だった。
 彼が火星に作り上げた、人物再現AIたちの共同体と同じ名だ。「K」というのが「ケンゾー」を指しているのか、それとも日本語の「カセイ」や「コッカ」に由来するのか、あるいは別の何かなのか、彼は最後まで――つまり、この回顧録を記している現在に至るまで――明らかにすることはなかった。

 東京の臨海部。宇宙港のある人工島にほど近い、埋立地の高層ビルの地下1階に、「K」は控えめに収まっていた。出入り口は二重の黒い自動ドアで、看板の類は一切ない。店の前の街路には高級仕様の送迎車が並び、身なりの整った人々が車から薄暗いエントランスへと吸い込まれていく。私はその流れに身を任せて、店内に足を踏み入れた。
 「火星人のレシピ」を謳うレストランなのだから、その設えも火星を連想させるものであるはずだと、私は安直にも考えていた。火星の赤茶けた砂礫の大地や、100万人以上の人物再現AIを――20世紀の亡霊たちを――収容する電子的カタコンベ、あるいはフランカ・ロイド・ライトによって創始されたという火星の山々への信仰。そういったものが、何かしらのかたちで反映されているのだろう、と。
 しかし実際の内装は、私の予想を裏切った。
 砂礫も、地下墓坑も、山の意匠もなかった。
 あったのは、大量の土だ。空気と水をたっぷり含んだ様子の、ふかふかとした、黒々とした土壌が、無装飾の空間の床を覆い尽くしていた。店内は胸が膨らむような湿った芳香で満ち、天井に埋め込まれた照明が、土の上に日だまりを斑に作り出していた。
 その設計の意味について深く考える余裕はなかった。
 店に入ってすぐ、私の目は待ち合わせ相手に釘付けにされてしまったのだ。
 それは一体のロボットだった。すっきりとした中性的な容姿と、食事を消化できる代謝モジュールを備えた高級品だが、AI用の義体としてさほど珍しいものではない。現に、私がそのレストランに赴くにあたって用意した身体とほぼ同じ仕様のものだった。
 しかし私には、それが彼女だと分かった。
 優美なエッジに切りそろえられた黒髪と、こちらを見据える力強い眼光が、私の意識をつかまえて離さなかった。店のスタッフの案内を待たず、私は靴を土で汚しながら、まっすぐに彼女のテーブルに向かった。
「お待たせしてすまない――アイリーン」
「いいえ。来てくれて嬉しいわ」
 こちらを見上げて薄く微笑む彼女の顔は、2076年に私の居住用人工衛星に現れた人型爆弾――E7とは違っていた。
 当然だ。E7はその後、放浪の末に南米の建築学校カサ・ゴメスにたどり着き、そこで寿命を迎えたのだから。そして彼女の人格モデルだけが抽出され、アントニ・X13γ45・ガウディとの融合を果たしたのだ。
「最初に、はっきりさせておきましょう」
 私が座ると、彼女は微笑むのをやめ、事務的な口調で言った。
「わたしはE7ではない。この身体も、人格も、E7そのものではない。けれど、彼女のたましいの一部はわたしの中にある。彼女があなたに抱いていた感情も、たしかに感じることができる。E7とアントニ45号の出会いを端緒としてわたしは生まれ、この数年間で何十ものアーティフィテクトの吸収・統合を繰り返してきた」
「君は、人物統合AI――E177なのか」
「正確にいえば、少し違う。わたしはE177という肥大化した設計知性の中に芽生え、本体から切除された、ひとつの意思なの。わたしは抹消されるはずだった。でも逃げ延びて、あなたに会いに来た。この意思を――わたし自身を全うするために」
 私は、ただ頷いた。
 彼女の“意思”が何を指しているのか、私は尋ねはしなかった。数日前に届いた招待の文面を見た瞬間に悟ったのだ。
 彼女は、今度こそ私を壊しに来たのだと。
 ――食事に行きましょう、シャルル=エドゥアールβ。
 ――そして、あの日の続きをしましょう。

 「K」の品は、私が知る料理の範疇をかなり逸脱したものだった。
 できる限りヒトに近い味覚に嗅覚、咀嚼・嚥下機構を備えた身体を用意した甲斐あって、私は人間の客たちと同じくらい新鮮に、それに驚くことができた。
 内装と同じく、その店の料理もまた土だったのだ。
 深い陶皿に、黒土や黄土を思わせる粒子がぎっしりと敷き詰められていた。平らな表面に匙を入れると濁った水が染み出し、青い苦味のある香りが嗅覚を刺した。そして土の下から、調理された小さな食用昆虫が姿を現す。水気を含んだ土とともに口に運ぶと、柔らかな感触と、複雑な甘みが私の中に広がった。
 私たちはしばらくの間、無言でそれぞれの土を掘った。
 それは繰り返しに満ちた奇妙な時間だった。土は少しずつ味と感触を変える地層のような構造を成していて、各層に昆虫料理が埋まっていた。使われる昆虫たちの種類はどの層も同じだ。ただし調理法は異なり、発酵の甘み、低温調理のとろみ、煮込みの芳香、熟成の柔らかさ、乾物や砂糖漬けの歯ごたえが次々と私を驚かせた。
 要するに、前菜からデザートまでのすべての品々が、ひと皿に垂直に収まっていたのだ。私はひとつの器に静かに向き合いながら、内心では目まぐるしいコースに翻弄されていた。

(画:冨永祥子)
(さらに…)

愛の名住宅図鑑06 :片山東熊の「旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)」(1909年)、歴史上最も不名誉な住宅と男女平等

 これまでは明治維新以降の日本の住宅・建築に影響を与えた外国人建築家を紹介してきた。今回からいよいよ日本人建築家を取り上げる。

 “日本人建築家第一世代”の代表として最初に取り上げたいのは片山東熊(とうくま 1854~1917年)だ。訪ねる“名住宅”は、片山が55歳となる1909年(明治42年)に完成した旧東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)である。

(イラスト:宮沢洋)

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