国の重要文化財に指定するよう文化審議会が文部科学大臣に答申を出していた「太陽の塔」が、8月27日に重要文化財に指定された。それもあって、東京・南青山の「岡本太郎記念館」で開催中の「生命の樹―もうひとつの太陽の塔―」展を見てきた。





筆者(宮沢)はこれまで、この塔を「建築側」の視点でばかり見てきたのだが、本展は改めて“産みの親”である岡本太郎のエネルギーにどっぷりひたることのできる内容だった。特に心を引かれたのは、第二展示室の動画展示の中で登場したこのスケッチ。

塔が、丹下健三による「大屋根広場」を突き破る前の初期スケッチである。日付は昭和42年6月1日。この時点では、屋根の下に収まっている。それが2週間後のこのスケッチ↓では…。

おお、大屋根に穴が空いた。そして、その年の年末には、実現案に近い形でメディアに公表される↓。

同じ動画で、万博協会らしき会議の場で、岡本が塔のプレゼンをしているシーンにも目が釘付けになった(面白くて2度見た)。岡本のエネルギッシュな説明に対して、表現が悪いかもしれないが、参加者のほとんどがシラーッとしているのである。



筆者はかねてから、丹下は岡本のこの案を面白がっていたのではないかと推論しているのだが(一般には丹下は困っていたとされる)、自分の説が裏付けられる感じがした。だって、丹下が面白がらなかったら、こんな無茶なアイデア、この空気感の中で実現するはずがない。
丹下が太陽の塔を実現するために推挙した懐刀(ふところがたな)が「吉川健」だ。重要文化財内定時(2025年5月)にも書いたのだが、参考までにその部分だけコピペしておく。
集団制作建築事務所を率いた吉川健の存在
太陽の塔は当然、岡本太郎1人では設計できない。岡本のイメージを「建築」として実現したのは、丹下の推薦で実施設計を担当した集団制作建築事務所である。同事務所の吉川健が中心になった。

吉川健については、現在の建築界ではそれほど知られていない。以下は、筆者が前職時代、太陽の塔が一般公開されるタイミングで関係者に聞いて調べた吉川のプロフィルだ。
吉川の生年は1927年ごろ。北海道大学建築学科を卒業後、東京大学大学院に進み、1953年から60年まで東大丹下研究室に在籍した。在籍中、丹下の代表作である墨会館(1957年竣工)、香川県庁舎(1958年竣工)などを担当した。丹下が大学の研究室と別に都市・建築設計研究所(URTEC、初代代表は神谷宏治氏)を立ち上げたのと同じ1961年に、吉川は船木幹也ら北大の同級生3人で集団制作建築事務所を設立した。丹下の下を独立する形となったが、丹下からの信頼が厚く、「太陽の塔」という難題の共同設計者に推薦された。
その後、集団制作建築事務所の仕事は北海道のプロジェクトが増え、1976年に東京事務所を閉鎖し、北海道に拠点を移した。吉川氏は1977年から室蘭工業大学の教授を務めた。そして、1986年に50代で早逝した。
「大屋根を突き破る岡本太郎の塔の案を見て、丹下健三を中心とする大屋根設計チームはカンカンに」──というエピソードがよく知られている。しかし、実際の内部空間を見れば、最終的には岡本と丹下ががっちりタッグを組んでいたことは間違いない。2人が対立したまま、あれほど見事に、腕の中のエスカレーターを屋根裏に接続できるはずがない。その要になったのが吉川健だったのだ。

2人の“重要文化財建築家”によるコラボ建築
そして、「集団制作建築事務所」「吉川健」と聞けば、丹下健三好きはピンと来るだろう。
旧香川県立体育館(1964年)の設計を、丹下率いるURTECと共同で担当したのも集団制作建築事務所なのだ。

吉川が同事務所を設立したのが1961年。体育館での共同を通して丹下は吉川に全幅の信頼を置き、決して失敗するわけにいかない太陽の塔を吉川に任せたのだ。
吉川は、太陽の塔が重要文化財となることで、まだ10人しかいない“重要文化財を設計した戦後建築家”となった。ということは、旧香川県立体育館は、2人の“重要文化財建築家”のコラボレーションで生まれたことになる。関係者の方々には、これを機にその重みを改めて考えていただきたい。(宮沢洋)
■展覧会概要
生命の樹―もうひとつの太陽の塔―
会期 2025年7月2日(水)〜2025年11月3日(月・祝)
開館時間 10:00~18:00(最終入館17:30)
休館日 火曜日(祝日の場合は開館)、年末年始(12/28~1/4)及び保守点検日。
観覧料 一般¥650(¥550) 小学生¥300(¥200)※( )内は15人以上の団体料金
会場:岡本太郎記念館 〒107-0062 東京都港区南青山6-1-19 表参道駅より徒歩8分
岡本太郎記念館の公式サイトはこちら→https://taro-okamoto.or.jp/


