戦前の鉄筋コンクリート造モダニズム建築の造形美をよく伝える吉祥寺郊外の「旧赤星鉄馬邸」。90年の時を経たとは思えないほど状態よく残されたこの豪邸に近年、注目が集まっている。その設計を担ったのもまた、アントニン・レーモンドのもとにいた杉山雅則だった。「旧赤星鉄馬邸」の空間的な魅力と建物に刻まれた物語について、写真家・吉田誠氏によるカットとともにひもといてゆく。(種田元晴=文化学園大学准教授)
[協力:三菱地所設計]

「旧赤星鉄馬邸」のあらまし
吉祥寺郊外の豪邸「旧赤星鉄馬邸」が注目を集めている。アントニン・レーモンドの設計により1934年に建てられた、戦前モダニズムの趣をよく残す希少な鉄筋コンクリート造の大型住宅である。
赤星家はもともと麻布鳥居坂に自宅(元・井上馨邸)があったが(同地は後に岩崎小弥太邸となり、現在はレーモンドの弟子であり杉山の後輩にあたる吉村順三・前川國男と、坂倉準三の3者により設計された国際文化会館が立つ)、関東大震災でこれが半壊してしまう。ちょうど開学したばかりの成蹊学園に子を通わせるべく、吉祥寺に所有していた当地へと移ったとされている([1]参照)。

武蔵野市の「旧赤星鉄馬邸」は1934年に竣工。1944年には日本陸軍に接収され、翌年にはGHQの接収となった。そして、GHQ統治中の1951年、鉄馬は死去してしまう。その後は、鉄馬の親族が一時期暮らしたのち、1955年にナミュール・ノートルダム修道女会へ売却され、修道院となった。1979年には、南北を挟むように礼拝棟と修室棟が増築。その後、丁寧に使われるとともに、英語教室やクリスマス会などを通じて周辺地域との良好な関係を構築しながら維持された。しかし、次第に修道女の数も減り、2021年に武蔵野市に譲渡されることとなった[2]。
主を変えて住み継がれ、周辺地域の人々にも愛されて、翌2022年には国有形登録文化財に指定された。そんな「旧赤星鉄馬邸」の設計をレーモンドのもとで担当し、その造形美の実現に貢献したのが杉山雅則なのであった。

吉祥寺駅から西へ歩いて10分ほど、成蹊学園の目の前に、その広大な敷地が広がっている。敷地面積は4500㎡弱で、当初はもっと広く7000㎡あったとのこと([3]参照)。南北に長い敷地の北側に母屋があり、南側に広大な庭をもつ。母屋の主要な室は途中で少し折れ曲がった長方形平面に収められ、その北側に中庭を挟んで勝手口や使用人室、厨房などがとりついている。南の庭からは、白く四角い矩形に横長の連続窓が開いたインターナショナル・スタイルのまばゆい姿を拝むことができる。壁面をよく見れば、型枠の跡が残っていて、建設当初は打ち放しのブルータルな表情をもっていたことがわかる。

来客を豊かに迎える玄関とアプローチ
その平面計画にも注目したい。東側の前庭(アプローチ空間)、南側の主庭(寛ぎの空間)、北側の中庭(大通りとのクッションになる空間)がバランスよく配されている。日当たりよく緑豊かな南側には開口部を多くし、大通りに面する北側には壁を多く設けているのも合理的。一見敷地とずれて配置されている平面形状も、南北軸に沿っている。矩形が複雑にまとめられたような平面形状ながら、客の動線、家族の動線、サービス動線も明快に分離されている。実に機能的に、合理的に計画された建築であることがその平面からよくわかる。



門の前に立つと、まずもって縦長のスリット窓が開いた曲面壁がアイストップとして目を引く。その脇につく玄関ポーチの大庇には、屋根にハンコ注射状に開く丸穴にガラスブロックがはめ込まれ、光の粒が来訪者を出迎える。玄関扉は木戸とガラスの二重のもので、障子の桟を思わせる細い鉄骨フレームが柔らかく土間を照らしている。



らせん階段の造形美
玄関ホールの左側には、先ほどの曲面壁に沿ってこの住宅のシンボルともいえる、スリットからの逆光が映えるらせん階段が美しく収まっている。この階段の圧倒的な造形美が、この家を訪れる者に、この先さらにどんなに素晴らしい空間が待ち受けているのだろうという期待をまず抱かせる。

これを見た瞬間に、杉山雅則は廻り階段をつくらせたらピカイチだという、前稿で藤森照信氏から伺った話がすぐさま思い出された。この階段こそ、担当者であった杉山渾身の造形であったにちがいない。4本の縦スリット窓とらせん部分が見事に絡み合って、踏板に光の筋を射し入れ、手すり壁の折り返しで陰翳を演出し、そして裏側の曲面に照り返して階段の存在感を際立たせている。この階段部分にかけられた杉山のエネルギーの高さがしのばれる。



奥へと連続する1階の諸室
玄関ホールの右側にある扉を開けると、ガラスのコーナー窓が南の庭の景色を取り込む、開放的で大きな居間が広がっている。可動間仕切で半分に仕切って2室にして使うこともできる。隅には暖炉があり、その周囲には当時のままの家具が残されている。なお、室内の家具はすべてレーモンド夫人のノエミが手掛けたという。居間前の廊下北側には腰窓で接する坪庭がある。ここは南側の光豊かな開放感とは対照的に、むしろ翳りを内部にとり入れるかような設えとなっているのが印象深い。



居間の前の廊下を奥へ進むと、建物の折れ曲がりにあわせてやや湾曲した2つ目の階段が現れる。南側には夫人室があり、さらに奥には可動間仕切で仕切られた4人の子ども部屋が続いていた(現在は壁の位置が変えられている)。子ども部屋から居間までは、互いに扉で接続されて、廊下を介さなくとも行き来できるようになっていたことも興味深い(現在は壁で仕切られている)。プライバシーを一応は保ちつつも、広い家の中で互いの気配を感じ取れるように、との工夫であろうか。なお、平面がへの字に曲がっているのは、これらプライベートな室が玄関や居間の来客から見通せないように、との工夫であるという。この廊下の突き当たりには、伝統的な設えの2層の蔵が、近代的な空間の連続と違和感なく接続している。



2階の主な見どころ
2つ目の階段から2階へ上がると、目の前にインナーバルコニーが広がるホールがかつてはあった(現在は、バルコニー部分は部屋として閉じられているため、ホールがやや暗い)。建築家の住宅というのは、その多くに豊かに内外の関係を調停する「つくられた外部空間」を持つものが多い。ここでも1階、2階ともに、窓と庭のあいだを調停するテラス・バルコニーの「つくられた外部空間」が、心地よい窓際空間を生み出していたのであった。今後この部分は是非復原してほしい。

2階ホールかららせん階段へ向かう途中には、専用の水まわりが付属する贅沢な主寝室と、造り付け家具に彩られた扉のない廊下と一体的なホール状空間の書斎がある。書斎の隣には和室があって、かつてはそちらとも襖をあければ一体となったようだ(今は壁で分割されている)。そして、このホール状の書斎の北側には、造り付けの戸棚越しに、玄関ポーチの大庇と同形状の丸いハンコ注射状のガラスブロック窓が開いている。「旧赤星鉄馬邸」の北側は、先に示した通り、大通りの喧騒を遮断するべく、壁や中庭が多い。ガラスブロック窓は静穏性を確保するために壁状の採光面として設けられたものであろうが、結果としてそれが室の印象を決定づけるような意匠性を発揮していて興味深い。



赤星鉄馬と杉山雅則
赤星鉄馬(1882-1951)は、薩摩出身の武器商人・赤星弥之助(1853-1904)の長男として東京神田に生まれた。父が薩摩の濃密な人間関係を生かして得た土地や古美術品を含む莫大な遺産を受け継ぐも、所有欲には乏しく美術品は売却。その利益をもとに日本初の学術財団「啓明会」を設立したり、米国ペンシルベニア大学への留学を機に知ったブラックバスを日本に広めつつ、釣りの愛好者が集う「アングリング倶楽部」の設立に奔走したり、日本人による初のゴルフクラブ「東京ゴルフ倶楽部」の当初からの会員であったなど、文化的な活動に身を投じた人物であった。
その「アングリング倶楽部」の建物は、レーモンドの改修設計(1925年竣工)によるものであった。ここをよく訪れた鉄馬やその弟たちはレーモンドの建築を気に入ったという。また、レーモンドは鉄馬と同様に「東京ゴルフ倶楽部」の会員だった。鉄馬の弟でゴルファーの赤星四郎は「藤澤カントリー倶楽部」のゴルフコースを設計したが、そのクラブハウス(1932年竣工)はレーモンドの設計によるもので、担当者は杉山雅則であった。また、「東京ゴルフ倶楽部」のクラブハウス(1932年竣工)もレーモンドが手掛け、こちらも担当は杉山である。鉄馬には4人の弟がいるが、そのうち喜介、四郎、六郎の3人の住宅はレーモンドの設計による([1]参照)。ただし、これらは杉山の担当ではなかった。吉祥寺の鉄馬邸に先駆けて竣工した四郎の週末別荘(1931年竣工)と喜介邸(1932年竣工)は、吉村順三が担当したものであった[5]。 赤星鉄馬邸を担当した後、杉山は続いて同じく吉祥寺からほど近い「東京女子大学礼拝堂・講堂」(1938年竣工)を担当する。そしていつからか、杉山は吉祥寺に居を構えることとなる。杉山にとって吉祥寺は、鉄馬との関係からか、大事な土地であった。
さらにその後、レーモンドがアメリカに帰国した後(1942年)、杉山は三菱地所の設計部門(現在の三菱地所設計に至る)に移籍する。その際に頼りにしたのは、赤星鉄馬であった。杉山は、鉄馬に頼んで三菱地所の会長であった赤星陸治に紹介状を書いてもらったのだった([6]参照)(ちなみに、後述の玄田悠大氏によれば、鉄馬と陸治は同じ苗字ながら親戚関係にはないとのこと。陸治もまた鉄馬よりも前に成蹊学園そばの土地を所有したことがあったことや、ともに岩崎小弥太と懇意であったことなどから二人が親しくなったのではないかと玄田氏は推測する)。
さて、「旧赤星鉄馬邸」研究の第一人者で近代建築保存運動を展開するDOCOMOMO Japan事務局長の玄田悠大氏に、「旧赤星鉄馬邸」における杉山雅則の貢献について伺ったので、少しここで触れておきたい。先の藤森氏からの指摘にあった、廻り階段の図面を巧みに描けるのが杉山の特技であったという話は、玄田氏も聞いたという。論文([2],[3])を執筆する際に、レーモンド事務所にある旧赤星鉄馬邸の図面を一通り確認したとのことだが、そのなかに洗練された曲線が美しい階段室の展開図と階段室を裏側から描いたパースがあった。その図面の「DRAWN BY」と「CHECKED BY」にまたがって「m. sugi」と署名があることから、この図の作成者は杉山だった可能性があると玄田氏はにらむ。わざわざ裏側から描いたパースまで添えている点に、階段の三次元的な複雑な形状への思い入れがみてとれるのではないかとのことであった(玄田氏による旧赤星鉄馬邸の記事[9]も合わせて読まれたい)。

「旧赤星鉄馬邸」のこれから
それにしても、一部増改築が行われてはいるものの、「旧赤星鉄馬邸」は当時の姿がよく保たれていて、90年の時を経たとは思えないほど状態がよい。とても丁寧に使われ、保全されてきたことが伝わってくる。修道院として使われた期間が長かったことによるのだろう。武蔵野市がまとめた聞き取り[7]によれば、週に一度床はワックスがけがなされ、庭もよく手入れがなされたという。
武蔵野市が取得し、文化財指定されてからは、年に2度ほど、春と秋の一週間ほどずつ、実験的に一般公開されてきた(直近では2025年4月16~20日)。その後も武蔵野市により、広大な庭との一体的な利活用の方法が、まさに今、さまざまに検討されている。庭側に増築された修室棟を解体し、オリジナルの間取りに復原するなど、レーモンドの設計時の姿に戻すことも検討されているようである。
そして、活用を検討する委員会の場では、レーモンドだけでなく担当者であった杉山雅則についても注目すべきとの議論もなされていた[8]。それは、杉山が吉祥寺に住んだ武蔵野市民であったこととも関係するのだろうけれど、それ以上に、レーモンド事務所の番頭格として、実質的なデザインを担っていたことへと敬意が込められてのことであったにちがいない。「旧赤星鉄馬邸」は杉山雅則のレーモンド事務所時代の代表作の一つといえる建築なのであった。
次回は、レーモンド事務所時代に杉山が手掛けたもうひとつの代表作「東京女子大学礼拝堂・講堂」(1938)について、現状の写真とともにひもといてゆく。
参考文献
[1]与那原恵『赤星鉄馬 消えた富豪』中央公論新社, 2019
[2]玄田悠大「宗教法人が近代建築の保全継承に与えた影響―旧赤星鉄馬邸:カトリック・ナミュール・ノートルダム修道?会による東京修道院開設から武蔵野市への譲渡に至るまで」宗務時報文化庁宗務課編 , 125号, 2022.3, pp.22-34 [3]玄田悠大ほか「文化財として未認知のモダニズム建築にみられる保全継承プロセスに関する一考察:アントニン・レーモンド設計「旧赤星鉄馬邸」を対象として」日本建築学会計画系論文集793号, pp.668-679, 2022.3 [4] 第4回旧赤星鉄馬邸の利活用に関する有識者会議(2023年5月30日),参考資料3 設計当時の配置図(レーモンド設計事務所所蔵) https://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page/001/043/974/4-san3.pdf
[5]『アントニン・レイモンド作品集 1920-1935』城南書院、1936.2
[6] 藤森照信「丸の内をつくった建築家たち―むかし・いま」,『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』, 1992.4, pp.252-253
[7] 第4回 武蔵野市旧赤星鉄馬邸保存活用計画策定委員会, 資料7 ナミュール・ノートルダム修道女会資料調査報告, 2025.3.13
[8] 第1回 武蔵野市旧赤星鉄馬邸保存活用計画策定委員会 議事要旨(2024年8月 22日)
[9] 玄田悠大「アントニン・レーモンド「旧赤星鉄馬邸」環境と建築、その解としての窓」, 窓研究所, 2025.4


種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。1982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。2017年日本建築学会奨励賞受賞。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。主な論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。
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