戦前、アントニン・レーモンドの片腕として事務所を支えた杉山雅則。レーモンドがアメリカへ帰った後、事務所はほぼ閉業状態となり、レーモンドからの後押しもあって、1941年に杉山は独立する。しかし仕事はなく、翌1942年、三菱地所に入社することに。ときは太平洋戦争激化の渦中。戦時下、杉山はどのようにして建築と向き合い、そして、終戦後はどんな建築を実現させたのか。本稿では、三菱地所入社当初の仕事に焦点をあて、戦中~終戦後の杉山雅則を取り巻いた状況を概観する。(種田元晴=文化学園大学准教授)
[協力:三菱地所設計]

三菱地所入社の経緯
1941年の早春、杉山雅則はアントニン・レーモンドの東京事務所を引き継ぐような形で独立し、レーモンド事務所のあった銀座・教文館ビルのなかに杉山雅則建築事務所を開設した([1][2]参照)。すでに戦時体制下となっていて、建築の仕事は軍需関係くらいしかない。独立はしたものの、民間の建築ばかりを手掛けてきた杉山には、軍需施設のツテなどなく、仕事はなかった([3]p.43参照)。

そのようななか、三菱地所が人を求めているという話が杉山の耳に入る([2]p.252参照)。三菱といえば、かつてのレーモンド事務所は「三菱21号館」(1914年竣工、1963年解体)にあった。それに、レーモンド事務所で担当した「旧赤星鉄馬邸」(1934年)は、三菱財閥の4代目総帥・岩崎小彌太(1879-1945)が初代理事長を務めた成蹊学園の目の前にあり、そもそも「旧赤星鉄馬邸」は、子どもたちをここに通わせるために建てられたものだった。そして、その子息のひとりがアメリカでレーモンドと吉村順三に会い、レーモンドから杉山への援助を頼まれていた(詳細は第4回参照)。杉山は、三菱とは少なからぬ縁があった。

そんなことで、子息を通じてか、「旧赤星鉄馬邸」の施主であった実業家・赤星鉄馬に頼み、三菱地所の初代会長(現在で言う社長※当時三菱では「社長」の呼称は三菱合資会社社長の岩崎小彌太にのみ用い、分系会社のトップは「会長」と呼ぶ慣わしであったという[4]p.389参照)を務めた赤星陸治(1874-1942)に宛てて紹介状を書いてもらうこととなった(詳細は第2回参照)。ただ、このとき陸治はすでに病気で、面会謝絶だったという([2]p.252参照)。しかし、鉄馬の手紙のおかげもあって、1942年1月、杉山は晴れて三菱地所への入社を果たす。杉山に今後を託すかのようにして、丸の内の建設に尽くしてきた赤星陸治は、杉山の入社2か月後に息を引き取った。

入社当初の仕事
杉山が三菱地所に入社した頃はすでに、鉄やコンクリートをふんだんにつかって民間ビルを新築する時勢ではなくなっていた。周知のとおり、日中戦争の長期化により、当時の日本は物資が乏しかった。前年1941年の夏には、日本軍が資源を求めて南部仏印へと進駐。そして杉山が入社する直前の1941年12月、ついにアメリカとの戦争がはじまった。真珠湾攻撃による太平洋戦争への突入をきっかけに、政府は経済産業に対する統制を一層強めていった。それでも、国策遂行のための執務は忙しくなるばかりであり、それに伴って事務室の需要は増していた。
そんな状況下で、三菱地所は1939年以降、丸の内にいくつかの木造事務所建築を建てることとなる。しかし、これらも、戦局の悪化による強制疎開のため、ほとんどが強制的に取り壊されるか、空襲で焼けてしまった([4]pp.422-425参照)。
このようななか、杉山が入社当初に手掛けた主な仕事は、分系会社の三菱重工や三菱電機などの木造の工場や寄宿舎、病院といった軍需施設をつくることであったという([2]p.252参照)。

戦争が激しさを増してくると、兵士だけでなく、軍需工場の労働者も不足する。この事態は三菱地所にとっても無関係ではなかった。社員にも次々に徴用令書(軍需産業への動員命令)が送られてきたという。しかし、三菱地所では「貴重な社員をできる限り現職にとどめるため、軍需生産に従事していた三菱重工や三菱電機などの分系会社社員として出向させるなどの措置をとった」([4]p.475)という。
三菱地所設計の調べでは、杉山が分系会社に出向されていた記録はないようである。しかし、杉山は徴用も徴兵もされなかったと思われる。それは、上述のとおり、杉山が三菱地所で軍需施設の設計に関わっていたからだったのかもしれない。
在籍41年間の図面を調査中
ところで、三菱地所設計では現在、杉山雅則が関わった建築作品に関する悉皆(しっかい)調査が進められている。杉山が在職であったのは1942年1月から1983年3月までの41年間。その前後を含めた約4000件ものプロジェクトの図面を網羅的に調査し、現在のところ、177件に杉山の印が押されていたことが確認できている。
ひとつひとつの案件は規模の小さいものではない。それにしては関わっている数が膨大なので、そのすべてにどこまで主体的に関わっていたのかは現段階では定かでない。もしかしたら、そのなかには、上職として確認印を押しただけのものもあるのかもしれない(杉山の仕事ぶりからは、そのようにただ確認しただけで済ませるプロジェクトがあったとは筆者には思えないが)。
単純に177件を41年で割れば、年間4、5件ということになる、それでも、ひとつの案件が1年で片付くとは限らないので、なかなかのものである。しかし、レーモンド事務所時代に数多くの小さくない仕事を同時にこなした経験をもってすれば、タフな杉山にとっては容易なことだったのかもしれない。いずれにしても、少なくとも、入社当初の戦中に、実際に手足を動かして取り組まねばならなったはずの若き日のプロジェクトには、杉山が担当者として濃密に関わっていたにちがいない。

そんな杉山印のあるプロジェクトのリストには、戦中のものとして23件の工場、出張所、寄宿舎等が見受けられる。そのいずれもが、三菱重工業、三菱鋼材、三菱電機、三菱商事、三菱化工機、日本建鉄、日本光学、満州光学などの関連会社のものである。所在地も玉川、深川、戸塚、川崎、大宮、船橋などの東京近郊のみならず、神戸、長崎、福岡、福山、大阪、和歌山などの遠方、あるいは、北安、牡丹江、奉天などの外地に至るまで、広範にわたっている。入社当初から杉山が多忙を極めていたことがうかがえる。
「堅実」と「忠実」の符合
当時の三菱地所の社員は、原則として新卒採用は採らなかったという。建築史家・藤岡洋保によれば、「1960年頃まで三菱地所は原則として大学新卒者ではなく、実績のある建築家をスカウトするというやり方で設計スタッフを確保していた。彼らは入社時点ですでにベテランであり、優れたノウハウと高い設計能力を持っていた」([5]p.53)という。この方針もあって、杉山もまたベテランとして採用され、入社早々に即戦力として多数の軍需施設を手掛けたのであった。
また藤岡は、「当時の三菱地所が求めたのは(もちろんいまでもそうだろうが)奇抜で華やかなデザインをする建築家ではなく、ディテールなどの技術面をしっかり押さえられるバランス感覚に優れたタイプの建築家だった」([5]p.53)といい、そのスタイルの特色を「堅実」と言い表した。レーモンド仕込みのモダニズムを徹底的に仕込まれ、そして廻り階段をはじめとした複雑なディテールを巧みにおさめる技術をもった杉山の建築家としてのスタンスは、まさに、この「堅実」によくあてはまるものであった。
それに、明治期近代建築の移入をもたらしたジョサイア・コンドル(1852-1920)の最初の弟子であった、後の初代技師長・曾禰達蔵(1852-1937)が、コンドルの推薦で三菱社に転職し、やがて丸の内の美観の礎を築き、初代技師長として定年まで勤め上げた姿([6]参照)と、昭和期近代建築の盛隆を刺激したアントニン・レーモンドの愛弟子であった杉山が、レーモンドの後押しで三菱地所に転職し、やがて「丸ノ内総合改造計画」による美観の新生を支え、そして一介の技術者として定年を過ぎても勤め上げた姿には、その立場は全く異なるものの、どこか重なるものがある。
いずれも、外から日本を見る目を師から学び、自らの使命を全うする強い意志を貫いた実直さが共通するのではないか。前稿(第4回)では、杉山の仕事ぶりを「忠実」と表現した。上記のような曾禰以降に継承されたであろう「堅実」な社風と、杉山の「忠実」な職風が見事に響き合ったからこそ、杉山は重用され、長きにわたって社に仕えることになったにちがいない。


藤村朗と大江宏
杉山が入社した当時、杉山にとっての上司は4代目技師長・藤村朗(1887-1966)であった。藤村は上記に反して、東京帝国大学卒業と同時に新卒採用で三菱合資会社地所部に入った。以降、2代目技師長・保岡勝也(1877-1942)、3代目技師長・桜井小太郎(1870-1953)を支え、とくに桜井の片腕として「三菱銀行本店」や「丸ノ内ビルヂング」をはじめとする大正~昭和初期の主要な建物のほとんどを手掛け、丸の内の都市景観を完成させていった。藤村は、杉山入社4年後の1946~48年には社長に就任。退任後も1956年~66年に死去するまで、取締役に復帰して、杉山が中心的に手掛けることになる「丸ノ内総合改造計画」に関わった([6]参照)。
杉山は入社当初の藤村について「厳粛な感じで、藤村さんが部屋に入ってくると設計室は森閑として音もなく、といったムードになりました」と語っている([2]p.252)。なかなか緊張感のある間柄であったらしい。


もうひとり、杉山と同時期にいた人物にも着目したい。大江宏(1913-1989)である。大江は、太平洋戦争が始まる半年以上前の1941年春頃から、敗戦後の不安定な社会情勢下にあった1946年までの5年間在籍した。入社のきっかけは、藤村朗からのスカウトである。大江は東京帝国大学卒業後、文部省に入ったが、設計の機会には恵まれなかった。そんな矢先に藤村の自宅に呼ばれ、建築をつくりたいならうちにこないか、と誘いを受けて転職することになった。入社当初の仕事は荻窪の三菱銀行の木造独身寮であったという。
大江の父・新太郎(1879-1935)は、日光東照宮の改修を手掛けた建築家として知られている。藤村は、鳥居坂の岩崎小彌太邸(ここはもともと赤星鉄馬邸であったところであり、現在は国際文化会館が建つ敷地)の設計を、自社でやらずに新太郎に頼んだ人物だった(以上、[7]参照)。藤村にとって新太郎は大学の先輩でもあり、敬愛する建築家であったらしい。そして宏は、その子息であり、後輩でもあった。また、大江宏は、成蹊学園の出身であったので、三菱との縁もある。そのようなことから、藤村は大江宏に目を掛けたのだと思われる。
杉山は1942年1月の入社であったので、前年入社の大江宏はすでに職場にいたわけである。短い期間とはいえ、杉山と大江宏とは確かに同時期に在籍していた。しかし、両者の接点を示す言説は残念ながら見当たらない。
ちなみに、大江が成蹊高校を卒業したのは1934年であった。同年、杉山はその目の前に「赤星鉄馬邸」を完成させた。つまり、大江の在学中に、杉山は至近の現場に通っていたのである。三菱地所で2人にどのような交流があったかは定かでないが、しかし2人は、三菱地所で出会う以前に、同じ場所に通っていた者同士という縁があったのだ。そのような縁のあった2人に、全く接点がなかったとは思えない。この点はいずれ明らかにしたい。
レーモンド事務所との二足の草鞋
ところで、レーモンド設計事務所会長の三浦敏伸氏より、こんな話を聞いた。戦後に、杉山が株式会社レーモンド設計事務所の初代社長になっていた、というのである。これには驚いた。
杉山はかつて「戦争が終って、レーモンドが事務所を東京に再開される事になって、私にも強く事務所へ復帰する事を懇望されたが種々の事情で参加しなかった」[8]と語っていた。しかし実際には関わっていたらしい。ただし、社長の就任は1950年3月25日で、同年12月28日には中川軌太郎に社長を交代している。在任期間は9か月のあいだだけだったので、実質的には「参加しなかった」ということなのかもしれない。
一方で杉山は、藤森照信の聞き取りに対して「他のレーモンド事務所OBが再建したので、自分もと思って社長の中川軌太郎さんに辞表を出したんですが、事情はわかるが忙しいから残ってくれといわれ、結局、半日は地所、半日はレーモンドという奇妙な勤務が認められて、1年ほどそんな状態でした」とも語っている([2]pp.252-253)。社長を交代してから辞表を出し、1951年末までの1年ほど、三菱地所とレーモンド事務所を行き来していた、ということのようである。
この時期、実際にどのような働き方をしていたのか、どの建築に関わったのかなど、まだ謎は多い。それでも、レーモンドの無茶な懇望も無下にできなかったところに、忠節を尽くす杉山らしさが垣間見えて興味深い。
(なお、杉山が「参加しなかった」と言っていたのは1956年。まだ二足の草鞋の勤務体制から日が浅かったため、他の社員の手前、公言するわけにはいかなかったのかもしれない。一方「半日はレーモンド」と言っていたのは1991年。すでに晩年であったために真相を語った、ということだったのかもしれない。)
敗戦直後の基盤づくり
終戦直後の三菱地所の仕事は、丸の内での焼跡改修や木造事務所ビルの新築、爆撃された工場の復旧のほか、住宅不足を背景に企業や戦災者から依頼を受けて建設された応急簡易住宅などであった([4]p.545参照)。東京での大きな仕事がなかったこともあってか、北海道の炭鉱住宅群や木造営林局事務所のほか、大阪や名古屋、福岡などでの仕事が盛んであったという([4]p.546-552参照)。杉山も「北海道の炭住(炭鉱の住宅)が大量にあって、それで地所は食いつないでいました。ふつうの都市のバラック住宅もやりました」([2]p.253)と語っている。
三菱地所の作品集[2]には、巻末に主要作品の一覧があるが、1940年代のものはひとつも載っていない。作品としての建築というよりも、社会維持のための基盤としての建物づくりが主流だった時代を反映している。この時期の杉山もまた、これに大いに貢献していたのであった。

50年代初頭の担当作
1950年代前半の杉山の仕事についても触れておきたい。この頃にどんな建築を手掛けたかはまだ調査中であるが、「丸の外(丸の内の外側)」での仕事もあったようである。
杉山最初期の「丸の外」建築にして、代表作のひとつである新宿の「文化服装学院円型校舎」は、1955年に竣工した。その落成記念の座談会の中で杉山は近作について聞かれ、「最近は日本橋の北海ビル。それから東京ビルなどの設計のお手伝いをしました」([9]p.34)と述べている。

「北海ビル」は、日本橋に1955年に竣工した「北海道拓殖銀行東京支店」。「東京ビル」は丸の内に1951年に竣工した「東京ビルヂング」である。どちらも、ポツ窓が整然と穿たれ均整のとれた立面を持つ品のよい建築であった。いずれも現存しない。



昭和30年代になると、日本は高度成長期に突入する。その世相を受けて、大型事務所ビルの需要も増えていった。そうして、戦後初期の三菱地所における最大級の代表作「大手町ビルヂング」「新大手町ビルヂング」(いずれも1958年竣工)が建ちあがってゆく。いずれも、杉山がデザインを担ったものであった。
やがて三菱地所は、一連の「丸ノ内総合改造計画」へと着手する。「丸ノ内総合改造計画」の構想は、1952年の渡辺武次郎(1894-1999)の社長就任とともにはじめられ、1957年に本格化した。外国人からみたらスラムを連想されてしまうものとなった老朽化した赤レンガ街を、その調和と美観を継承しながらも新たな需要に応えるべく、スカイラインの整然と揃った近代的で静謐な大型ビル街へと蘇生する企てであった([10]pp.100-101参照)。そして、その一連のビル群のデザインのほとんどもまた、杉山が手掛けたのであった。
次回は、戦後初期の三菱地所の代表作にして現存最古の丸の内建築のひとつである「大手町ビルヂング」を取り上げ、その担当者・杉山雅則の果たした役割と建築的な魅力をレポ―トする。
参考文献
[1] 堀勇良『日本近代建築人名総覧増補版』中央公論新社、pp.698-699
[2] 藤森照信「丸の内をつくった建築家たち―むかし・いま」、『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』、1992.4、pp.194-254
[3] 西澤泰彦「レーモンド事務所の思い出 杉山雅則氏に聞く」,『SD』286号、1988.7
[4] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 上巻』三菱地所, 1993
[5] 藤岡洋保「真の「堅実」にこだわる」、『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』、新建築社、1992.4、pp.47-54
[6] 平井ゆか「[コラム2]初代技師長 曾禰達蔵|丸の内で、ひたむきに創り続けた建築家」、『三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集1890-1973』、新建築社、2020、pp.34-35
[6] 野村和宣「[コラム4]4代目技師長 藤村朗|戦前から戦後のリレーデザインのキーマン」、『三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集1890-1973』、新建築社、2020、p.99
[7] 大江宏「大江宏―わが軌跡を語る」、『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑧大江宏』、新建築社、1984.6、pp.181-193
[8] 杉山雅則「レーモンド夫妻のこと」日刊建設通信新聞、1956年4月8日[日]
[9] 杉山雅則・宇治川良男・大地茂雄・遠藤政次郎・閨間助三郎「座談会 本校舎落成にあたって」、文化服装学院同窓会誌『すみれ』第6号、1956.3、pp.30-35
[10] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 下巻』三菱地所, 1993
[11] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 史料・年表・索引』三菱地所, 1993
種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。1982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。2017年日本建築学会奨励賞受賞。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。編著に『有名建築事典』(学芸出版社、2025)。主な本稿関連論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。
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