「丸ノ内総合改造計画」のデザインを主導し、「新東京ビルヂング」をはじめとする数多くのオフィスビルの設計を手掛けた杉山雅則。しかし、三菱地所設計による杉山押印図面の悉皆調査(第9回参照)からも明らかとなったように、杉山の設計作品は丸の内エリアに留まらず、そして、オフィスビルだけでも決してなかった。本稿では、杉山が丸の内エリア外、すなわち「丸の外」で手掛けた多種多様な建築の魅力を概観する。(種田元晴=文化学園大学准教授)
[協力:三菱地所設計]

杉山雅則が関与した「丸の内」と「丸の外」の仕事
三菱地所設計が総力を挙げて取り組んだ、杉山雅則の押印のある図面の悉皆調査がひと段落した。1916年~1987年までの70余年にわたって三菱地所が設計した4,000件弱もの全国の物件が手分けして調べ上げられ、その結果、計192件に杉山雅則の関与が認められた(詳細は第9回および参考文献[1]参照)。その中には、新築のみではなく改修や増築なども含まれてはいるものの、一人の設計者が手掛けた件数としてはかなり多い。デザインの先導者として、杉山がいかに厚く信頼されていたかがうかがえる。
悉皆調査の結果を確認したところ、192件中、丸の内エリア(現在の千代田区丸の内1,2,3丁目、大手町1,2丁目、有楽町1丁目)とその近辺に計画された建築は、数えたところ39件であった。
表01_杉山が設計に関与した丸の内エリアとその近辺の建築39件
(三菱地所設計による杉山押印図面悉皆調査結果をもとに筆者作成)

※建物名称等の情報は竣工当時のもの
逆を言えば、残りの153件(約80%)は丸の内エリア外、すなわち、「丸の外」の建築だったということである。丸の内の百尺オフィスビルの設計者として知られた杉山であったが、実は、「丸の外」での仕事の方が多かったのである。ちなみに、192件中、東京都内での仕事は88件であった。杉山の関与した建築の過半数は東京以外のものだった。
ちなみに、丸の内エリアとその近辺の39件の内訳は、事務所25件、銀行12件、その他2件(ポンプ場と駐車場)であった。つまり、ほぼ事務所と銀行である。杉山による丸の内エリアのオフィスビルについてはすでに第7回で詳述したが、それらと時期を前後して、その近辺(東京駅の東側)にも、「ニュー・トーキョービル」(1957年竣工)、「木下商店ビル」(1961年竣工)、「朝日ビル」(1964年竣工)、「三菱銀行京橋支店」(1971年竣工)など、古典建築的格調と近代建築的洗練の両立した奇をてらわない端正なファサードを持ち、街に対して品格ある存在感を放つ名作ビルが、杉山の関与によって実現していた。





杉山による「丸の外」作品の全体像
では、杉山による「丸の外」の建築にはどのようなものがあるのか。「丸の内」と「丸の外」を合わせた全192件の用途の内訳については、前稿(第9回)でも鰐淵氏によりその概要が示されたが、ここでさらに詳細を記しておきたい。すなわち、事務所57件、銀行55件、厚生施設27件、工場22件、学校7件、その他24件の計192件であった([1]参照)(注1)。
上述した39件を除き、「丸の外」の建築に注目すると、事務所32件、銀行43件、厚生施設27件、工場22件、学校7件、その他22件の計153件となる。「丸の外」でも銀行と事務所が多いけれど、厚生施設、工場、学校などはすべて「丸の外」のものであったことが改めて見えてくる(逆を言えば、丸の内が実に純度の高いビジネスセンターとして整備されていったことも浮き彫りとなってくる)。
このうち、厚生施設は、主に取引企業の社宅あるいは独身寮、および保養所である。工場はそのほとんどが戦前期のもの。学校は、ひとつを除いて同じ学校なので、7件だけれど計2校。その他24件はホテル、店舗、住宅、宗教施設、研究所、倉庫、体育館、パヴィリオンと実に多種多様で興味深い。以下、それぞれの用途ごとに、杉山の「丸の外」建築を具体的に見ていきたい。
アントニン・レーモンド離日後、その事務所をたたむ任を担った杉山が三菱地所へと移籍したのは、1942年の1月のことであった。第5回記事でも触れたとおり、その頃の日本といえば、いまだ都市部には平穏な日常が流れていたものの、日中戦争の長期化、太平洋戦争の勃発などのために物資不足に陥っていた。三菱地所も、それまでのように鉄やコンクリートを潤沢に使った大規模な建築を建てられる状況にはなく、入社当初の杉山に与えられた仕事も丸の内のオフィスビルではなかった。杉山の証言によればそれは、「三菱重工や三菱電機の工場がほとんどで、そのほか病院、工場の寄宿舎といった軍需関係ばっかりでした。すべて木造です」([5], p.252)とのことであった。
戦時中の中核的仕事としての工場建築
入社直後の1942年4月~1945年2月にかけて立て続けに計18件もの工場建築の図面に押印がなされていた。年間5~6件のペースで工場建築に関わっていたことになる。
杉山の証言のとおり、その主なものは三菱重工業(玉川・川崎・古河)と三菱電機(神戸・福山・伊丹・福岡・和歌山)の工場だった。太平洋戦争勃発以降、三菱重工業は主に陸海軍の航空機の製作に、三菱電機は無線機やサーチライトなどの製作に大忙しであった。三菱地所はそれらの工場適地選定・買収、工場の設計・建設および社宅・厚生施設の建設に全面協力していた([2],pp.459-465参照)。
その他、日本光学工業(後のニコン)戸塚・川崎・大宮工場や満州光学工業(日本光学工業が設立した現地法人/奉天)、日本建鉄(三菱電機の関連会社)船橋工場、三菱化工機船橋工場、三菱鋼材深川工場など、三菱系列を中心に多様な企業の工場建築を手掛けている。

ちなみに、表1に挙げた木造の「興農会館」「北海道拓殖銀行日本橋支店」(ともに1948年竣工/現存せず)は、軍需工場としての役割を終えて縮小された日本建鉄船橋工場内の木造建物の資材を転用してつくられた([2],p.502,554参照)。まるで古典建築のスポリア(部材再利用)のように、杉山の作品における戦中から建築への循環が垣間見えて興味深い。

戦時下の三菱地所はオフィスビルではなく工場建設が主な仕事だった。つまり、杉山は、しかたなく工場の設計に回されていたというようなことではなく、当時の社の中核的な仕事として、制約の中で質の高い工場の設計を任されていたのにちがいない。杉山は、入社直後から社の中核的な仕事に関わっていたのであった。
その後も三菱地所では、とくに1950年代以降、工場建築が数多くつくられているが、これらには杉山はあまり関わっていない。その頃、三菱地所の主な仕事は丸の内の事務所建築と全国の銀行建築へと推移していた。これに伴って、杉山の主戦場もそちらへとシフトしていた。杉山が常に社の主力として中核的な仕事を任されていたということが、このことからも改めて浮き彫りになってくる。
厚生施設としての社宅・研修所・社交場
厚生施設は主に社宅と研修所である。三菱地所の寮や保養所、三菱石油、三菱信託銀行、三菱電機など系列会社の社員寮のほか、東京銀行、東海銀行、八十二銀行、明治生命、東京海上火災、日本通運、文化服装学院など取引のある各社の職員寮・研修所も手掛けていたようだ。敷地も東京近郊のみならず、北海道、愛知、兵庫、栃木、長野、岩手とさまざまである。
これらに加えて、いくつかの社交の場の新築や改修にも杉山は関わっていた。
ジョサイア・コンドルの設計で1908年に建てられた岩崎家高輪別邸は30年後に三菱社に譲渡され、社交の場「開東閣」となった。戦中は中華民国政府代表者らの来賓宿舎として使われたりもしたが、空襲に遭い大部分を焼失する([2],p.447-448参照)。焼け残った洋館の部分も戦後にGHQに接収されたが、1956年にようやく接収解除、三菱地所の所有となった。その後、洋館の改修がなされ、三菱各社の利用に供する迎賓館として1964年に再生された。杉山はこの改修設計に関わっていた。
同年、従業員数の増加を背景に、「開東閣」敷地内北側に独身寮「養和塾」も竣工。さらに翌1965年には「養和塾」に隣接して社員の懇親や出張者の宿泊のための「高輪倶楽部」も竣工する([3],p.182-183参照)。これら3つの高輪建築の改修図面にも杉山の押印があった。同時期、日光・中禅寺湖畔に立った「三菱中宮荘」(1964年竣工)も杉山の押印のある作品であった。

また、「超高級の迎賓館」([3],p.177)といわれた「東京銀行永坂公館」(1964年竣工/現存せず)も杉山が手掛けたものであった。その門扉のデザインは、レーモンドのもとで担当した「旧赤星鉄馬邸」(1934年)の門を想起させる。高級でプライベートな社交の場と周囲の住環境との境界のあり方にふさわしいデザインは、「旧赤星鉄馬邸」で体得したものだったのかもしれない。


現場の目線を大切にする姿勢を糧に、従業員の豊かな生活のための場を手掛ける一方で、レーモンドのもとで深めた社交の場のふるまいへの素養を糧に高貴な空間にも対応できる幅の広さには、杉山の建築設計者としての特別な才覚が見出せる。
地方都市の事務所ビル
「丸の外」でも、杉山が手掛けた主要なものはやはり事務所ビルだった。戦時中は軍需工場に加えて牡丹江・北安・哈爾賓など三菱商事の中国出張所建設にも関わっていたようである。終戦直後(1940年代)には、古河電工(名古屋)、東京海上火災(甲府・沼津)、農林中金(岐阜)など、各社の地方支所ビルといった小規模なものが続くが、1950年代後半から「大手町ビルヂング」(1958年竣工)をはじめとする丸の内エリアの大規模ビルを成功させると、地方でも大規模なビルを任されるようになってゆく。
とくに、三菱地所が手掛けた地方都市における二大オフィスビル「北海道ビルヂング」(1962年竣工/現存せず)と「大名古屋ビルヂング」(1963年竣工/現存せず)の両方に杉山が関与していたことは特筆に値する。
「北海道ビルヂング」は三菱地所の北海道における自社ビルの嚆矢であり、厳しい冬期の凍害を避けて工期短縮を成し遂げた画期的プロジェクトであった。その外装は、旧北海道庁やサイロなどにみられる、北海道の象徴ともいえる赤レンガ建築をイメージしたタイルで仕上げられた。空調設備などは丸の内のオフィスビルと同等に備えられた([3],pp.169-170参照)。交差点に隅切りのある9層ボリュームに柱勝ちの連窓が穿たれた外観は「大手町ビルヂング」を彷彿させる。
「北海道ビルヂング」はいわば、「丸ノ内総合改造計画」で標榜された(1)周辺との調和、(2)品位ある風格、(3)いたずらに奇をてらわない、(4)経済性を考慮、(5)管理・保守に便利といった5原則(詳細は第7回参照)がすべて満たされた建築なのだった。杉山の関与の深さがうかがい知れるところである。

「大名古屋ビルヂング」は、「北海道ビルヂング」に先行して計画が始まった、三菱地所における地方進出第一号のビルである。駅前の一等地であるにもかかわらず、建設以前の敷地一帯は小さな銀行支店などが雑然と密集した状態だった。1959年9月、そこへ伊勢湾台風の猛威が襲う。名古屋でも多数の被害が出た。これを見舞った三菱地所社長・渡辺武次郎は、災害防止の観点から耐震不燃大型ビルの必要性を痛感したという。建設予定地には多数の地権者がいたが、災害への危機感からか、全地権者が駅前の整備と発展に賛同し、早々に工事着手が実現した([3],pp.163-165参照)。
その規模は中部圏第一のものであり、しかも高さは丸の内での計画を超える41mに達する。これは三菱地所にとっても名古屋市にとっても初の試みとなった。「大名古屋ビルヂング」は「丸ノ内総合改造計画」に則った計画であったばかりでなく、後の同計画への新たな知見を投げかけたプロジェクトであったのである([3],pp.166-167参照)。
ところで、既存の敷地にひしめいていた小さなビルのひとつは「三菱銀行名古屋駅前支店ビル」(1955年竣工/2階建て/延床面積約580㎡)だった。これも実は、杉山の手になる建築だった。つまり、「大名古屋ビルヂング」は、杉山にとって、自ら手掛けた小さな建物を巨大ビルへと更新することになった運命的な建築なのであった。かつて杉山が勤務していたレーモンドの事務所が入っていた三菱「第21号館」の跡地に「新東京ビルヂング」を手掛けたこと(第8回参照)、先の「興農会館」跡地に「日本ビルヂング」を手掛けたことなどとも合わせて、杉山が同じ敷地で建築を設計する機会を何度か経験しているのも興味深い。

とにかく、これまで見てきたように、杉山によるオフィスビルは、その外観が簡素かつ上品である。このほか、杉山の関与が認められる他社所有の1万平米級の中規模地方ビルの代表格には、「松本ビル」(1965年竣工/長野県松本市)や「北海道電力本社ビル」(1966年増築竣工/北海道札幌市)などがある(いずれも現存)。「北海道ビルヂング」や「大名古屋ビルヂング」のような大規模ビルとは異なり、やや小ぶりなこれらはいずれも大胆な横連窓とはせず、矩形の箱に均等にポツ窓があく控えめな姿とするところに品がある。

晩年に手掛けた銀行支店ビル群
「丸の外」の杉山建築でもっとも多かったのは銀行建築だった。押印図面リストから、「丸の外」で杉山が設計に関与した銀行は、三菱銀行の27支店、八十二銀行の9支店、北海道拓殖銀行の3支店、新潟相互銀行の2支店、そして農林中金と東京銀行が1支店ずつであることが確認できた。とくに三菱銀行が圧倒的に多い。
「大手町ビルヂング」、「新大手町ビルヂング」(1959年竣工)に続き、杉山による一連の「丸ノ内総合改造計画」によるオフィスビルの設計は、「有楽町ビルヂング」(1966年竣工/現存せず)、「新有楽町ビルヂング」(1967年竣工/現存せず)の実現によってひと段落する。その頃から杉山の担当作は、三菱銀行の支店ビルが中心となってゆく。
そのなかでも特筆すべきなのは、8~10階建ての大規模な三菱銀行ビルである。確認できる限りでは、「仙台支店(仙台三菱ビル)」(1965年竣工/現存)、「新宿支店(新宿丸江ビル)」(1966年竣工/現存)、「大阪支店(大阪三菱ビル)」(1969年竣工/現存せず)、「立川支店(立川三菱ビル)」(1969年竣工/現存)、「渋谷支店ビル(渋谷三菱ビル)」(1969年竣工/現存)、「大阪西支店ビル」(1970年竣工/現存せず)、「三鷹支店(三鷹三菱ビル)」(現存)などの「丸の外」の支店ビルに加えて、丸の内の「京橋支店(京橋三菱ビル)」(1971年竣工/現存)(写真06)に杉山が関与している。
これらの多くが現存するが、仙台・新宿・渋谷はカーテンウォールの建築だったためか、外装が刷新されている。タイル張りの壁面にポツ窓があく外観の三鷹・立川は、ほぼ竣工当時の姿を保っている。「三鷹三菱ビル」などは一見すると何の変哲もないビルに思えるが、よく見ると、出隅がわずかにカーブしている。これは杉山によるビルの特徴のひとつであった。また、先に挙げた地方の中規模事務所ビルと同様に、小ぶりなビルではポツ窓を採用する方針が踏襲されている。奇をてらわず街に溶け込む品の良さが、ほのかに醸し出されている。

2つの学校
杉山の押印が確認できた学校建築はわずか7件であった。そのうちの1件は「慶應義塾日吉記念館(体育館)」(1958年竣工/現存せず)、残りの6件はすべて文化学園(文化服装学院/文化女子大学)の建築であった。
「文化服装学院円型校舎」(1955年竣工/現存せず)が杉山の設計によるものであることは、すでに前稿までに触れたてきたことである(第1回、第5回、第9回)。三菱地所にとっては、これが最初の高等教育機関の校舎建築であった(注2)。以降、これに続き、短大および大学の校舎の設計にも杉山が引き続き関わっていたのだった。なぜ文化学園が三菱地所に設計を依頼することになったのかなど、謎は多い。この点は次回(第11回)で明らかにしていきたい。

多種多様なその他の「丸の外」杉山建築
その他としてひとくくりにしたものは、実に多種多様である。終戦直後のものでは、「日本スポーツ屋内体育場」(1949年/現存せず)が杉山の手によるもの。これは、東京・港区芝に建てられた屋内体育館であった。開業前に日活に買収され、開業翌月に「日活スポーツセンター」と名称を変えた。資材に乏しい時期であったので、大空間は、飛行機格納庫用の鋼材を使って施工された。音楽会にも利用されたという([3],p.555参照)。一説には、当初はボクシングをはじめ、様々な競技やイベントに使われたが稼働率が悪く、経営改善のために当時人気のあったアイススケートリンクを常設したという。1955年、わずか6年で閉業し、跡地には最初期の高層賃貸住宅「日活アパート」が建った(注3)。

1955年11月~12月に日比谷公園で行われた読売新聞社による「原子力平和利用大博覧会」の会場仮設一式も杉山が手掛けた。これは、アメリカ主導のもとに日本の工業・農業・医学などにおける原子力利用の導入を目指して開催された博覧会である。高さ・幅とも28フィートもある「動く実物大原子炉」、放射性物質を遠隔操作する「マジック・ハンド」のほか、原子力発電所等の模型や放射能測定器具、作業服など多くの大型展示物を擁した大規模なものであった([9]参照)。この博覧会はアメリカ大使館との共催でもあったので、杉山のレーモンドの元で仕事をしていた経験が買われての抜擢であったのかもしれない。いずれにしても、その仮設建築そのものについては詳らかでない。
1958年には、「キリン会館」と「講道館」の2つの会館建築が竣工する。
大阪の中心繁華街にあった「キリン会館」は、キリンビールによる食堂を、ビアホールや映画館などの複合娯楽施設へと建て替えたものであった。壁面レリーフが印象深い面的な外観のビルであったが1986年に取り壊され、跡地には映画『ブラック・レイン』のロケ地としても名高い、高松伸氏によるポストモダン文化芸術拠点「キリンプラザ大阪」が建った(が、これも2007年に取り壊された)。

柔道のメッカとして名高い「講道館」は、道場棟と事務棟の2つの建物からなっている。敷地は東京・文京区春日。低層の道場棟と中層の事務棟でブリーズソレイユ調の窓面の意匠を変えているが、地上部分では連続性を持たせた外観となっている。手前の道場棟は、1984年に創立100年を記念して建て替えられたが、奥の事務棟は現存している。

大観覧車や遊戯施設、ホテル、宴会場、プールなどで構成された遊園地「伊豆富士見ランド」(1966年竣工/現存せず)、県内随一の規模を誇る「岡山国際ホテル」(1973年竣工/現存)などのリゾート建築も手掛けている。


最晩年のものは「荒川豊蔵資料館」(1983年竣工/現存)。これは、参考文献[5]のなかでわざわざ「なお、これは三菱地所に在籍していた杉山雅則氏の最後の作品である」と説明されていた(p.112)。よほど関わりの深いものであったようだ。次々回の紙面でじっくり追究してみたい。
このほか、売店、蚕糸試験場、ガスプラント、営林局、警察施設、宗教施設、個人邸などもある。
これだけ多様な建築を手がけた杉山であったが、三菱地所が手掛ける用途のうち、逆にひとつだけ見当たらない用途がある。それは病院である(注5)。杉山のキャリアのスタートは聖路加病院のトイスラー院長のもとから始まった。だが、実際にレーモンド事務所への設計依頼に伴って移籍したものの、聖路加病院の担当とはならなかった。しかも、その聖路加はレーモンドでない別の建築家の案に上書きされて実現した(1933年竣工)。そのことと直接関係するとは思えないが、しかし以来、杉山は病院建築だけはやらなかった。
杉山自作のリストを発掘
ところで、松隈洋氏からお借りした杉山雅則旧蔵資料の中に、妙なリストがある。依頼先、工事名、構造階数、延床面積、竣工年度、場所が羅列されたリストである。よく見ると、切り貼りしてつくられている。悉皆調査の結果と照らし合わせてみると、そこに羅列された作品は、どれも杉山の押印があったものばかりなのである。


つまり、どうやらこれは、杉山が自身で切り貼りして作成した自作リストであるらしい。その切り貼り元の資料はなんだろうかと探ったところ、これは光元社発行の『三菱地所株式会社作品集‘72』[6]という冊子の巻末に収録された作品リストからの切り貼りであることもわかった。この時期はちょうど、杉山の押印作品が最後晩年の「荒川豊蔵資料館」(1983年竣工)を除いて、一切見られなく頃である。引退がそろそろ視野に入った杉山が、これまでの自作を振り返って整理するべく作成したものだったようにも思えてくる。いずれにせよ、この自作リストは大変興味深いものである。
数えたところ、杉山の自作リストには、88件の作品が切り貼りされていた。元の『三菱地所株式会社作品集‘72』の作品リストは、1914年~1971年までの1000を超える同社の設計作品が用途ごとにリストアップされている。杉山の切り貼りは、そのなかから88作を選び取り、竣工年度順に並べ直したものだったのである。
上述の通り、先の悉皆調査の結果では、計192件のプロジェクトに杉山の押印があった。それらは、確かに杉山が関与していたにちがいない。ただし、その関わりの深さについては、押印からだけではわかりかねる。しかし、杉山が自ら丁寧に切り貼りして大切にとっておいたリストに並ぶ88作品は、きっと深く関わり思い入れの強いものだったのではないかと思えてならない。悉皆調査結果のリストと杉山の自作リストの両方に載っているものこそが、杉山が深く関与したものにちがいない。
ただし、杉山自作リストを押印図面リストと照らし合わせてみると、実は、押印図面のリストにはなく、自作リストのみに挙げられている作品がいくつかみられる。これは、図面がまだ見つかってないか、あるいは失われたかということだと思われる。いずれにしても、自作リストのみの作品は無視できないので、最後にそれらを確認しておきたい(注6)。
自作リストにのみ示された「丸の外」作品
まず戦後すぐのものでは、1948年に北海道に竣工した3件の「農林省営林局」(北見・帯広・函館)が挙げられる。終戦直後、経済復興に不可欠な石炭の生産のため、各地の炭鉱に労働者用の住宅がつくられた。北海道ではかなり多くの炭住建設が進められた。これと並行して、三菱地所は札幌に北海道建設事務所を開設。その最初の仕事がこの3つの木造営林局だった。これらを手掛けた経験を活かし、その後、宇都宮、前橋、沼津、宮崎などの営林局の設計も三菱地所が受注する。先の「その他」にあった杉山の押印のあった営林局はこのうちの沼津と宇都宮であった([2],pp.546-548参照)。
北海道の3つの営林局を手掛けた1948年は、「農林中央金庫本所(興農会館)」、「北海道拓殖銀行日本橋支店」など、東京でも木造建築を多数手掛けた年であった。杉山は鉄筋コンクリート造だけでなく、木造にも長けた技術者だったことがうかがえる。

もうひとつ、岐阜に現存する「ホテルパークみなと館」(1964年竣工)も自作リストにのみ登場する作品である。こちらは詳細が明らかでないが、竣工当時のホテルの案内パンフレットには「長良川の清流と緑したたる金華山を背景にした、当ホテルのロケーションとスケールは岐阜第一のホテル式旅館として他の追従を許さぬものであり、岐阜市で初めての政府登録旅館で長良川畔唯一の施設でございます」と謳われている。全館冷暖房完備も売りにしている。オフィスビルではないものの、ここにもまさに、調和、品格、堅実、経済性、保守性といった、杉山の先導した「丸ノ内総合改造計画」の五原則が活きている。用途は違えど、人々のための良質な空間を生み出す作法には通底するものがあると見受けられる。

次回、次々回は、杉山による「丸の外」における代表的な2つの作品、文化学園の建築群と「荒川豊蔵資料館」にクローズアップして、それらの見どころを紹介してゆく。
注
注1) 件数はプロジェクト数であり、建築物の数ではない。増築、新築などタイミングの異なる営繕は別のプロジェクトとしてカウントされている。
注2) 参考文献[4]掲載の主要設計監理作品一覧からは、それ以前の学校建築としては、1948年竣工の「岡山市立小学校」「総社町新制中学校」「成蹊学園付属小学校」が記録されるのみである。
注3) 以下を参照して記述。三井住友トラスト不動産:写真でひもとく街のなりたち|芝,
https://smtrc.jp/town-archives/city/shiba/p08.html
注4) 以下を参照して記述。三井住友トラスト不動産:写真でひもとく街のなりたち|文京,
https://smtrc.jp/town-archives/city/bunkyo/p09.html
注5) 美術館、博物館、庁舎などの公共的な建築も杉山は手掛けていないが、これらはそもそも三菱地所では扱われることの極めて少ない用途である。なお、三菱地所の作品集1986年版(建築画報社編集・発行)巻末の年表では、事務所、銀行、工場、研究所・倉庫、厚生施設、学校・病院、店舗・レジャー施設・マンション、土木、公共物・その他と用途分けされているが、このうち公共物として初めて博物館や庁舎が登場するのは、杉山が定年をとうに過ぎた1971年のことである(岡山県立博物館、札幌市庁舎)。逆に病院は1936年以降断続的に登場する。
注6) その逆に、押印図面はあるが自作リストにはない作品もある。これは、そもそも『三菱地所株式会社作品集‘72』に主要作品として挙げられていなかったことが主な要因であると考えられるので、ここでは問題にしない。なお、押印図面がなく、自作リストにのみある作品は以下のものである。「北見営林局」「帯広営林局」「函館営林局」「三菱商事ビルヂング」「大手町ビルヂング」「並木学園山谷寮」「東京銀行丸ノ内支店ビル(東銀ビル)」「富士製鉄ビルヂング」「第三大手町ビルヂング」「ホテルパークみなと館」「第三東京ビルヂング(新国際ビルヂング)」「日本ビルヂング」「有楽町ビルヂング」「三菱銀行多摩支店」「三菱銀行長原支店」。
参考文献
[1] 江島知義・鰐淵卓・種田元晴・須部恭浩・陳笛「三菱地所設計所蔵図面史料に基づく杉山雅則の設計関与作品に関する悉皆調査報告」,日本建築学会大会学術講演梗概集, 建築歴史・意匠, pp.473-474, 2026.9
[2] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 上巻』三菱地所, 1993
[3] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 下巻』三菱地所, 1993
[4] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 史料・年表・索引』三菱地所, 1993
[5]『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』新建築社, 1992.4
[6]『三菱地所株式会社作品集’72』光元社, 1972
[7]『三菱地所株式会社作品集’68』光元社, 1968
[8]『アントニン・レイモンド作品集 1920-1935』城南書院、1936.2
[9]「原子力平和利用大博覧会 今秋11月日比谷公園で開催」読売新聞1955年5月7日(土)朝刊, p.1
種田元晴(たねだ・もとはる)
1982年生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。一般社団法人東京建築アクセスポイント理事。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。編著に『有名建築事典』(学芸出版社、2025)。主な本稿関連論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。「建築家・杉山雅則の設計作品における湾曲階段の意匠に関する研究」(2026)。


