重要文化財内定!「太陽の塔」の建築的すごさとは? 吉報でさらに高まる「旧香川県立体育館」の価値とは?

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 文化審議会(島谷弘幸会長)は5月16日に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、新たに8件の建造物を重要文化財に指定することを文部科学大臣に答申した。戦後建築では「スカイハウス(旧菊竹清訓自邸)」(1958年)とともに、「太陽の塔」(1970年)が重要文化財に内定した。慣例では、これから半年くらいの間に官報で告示され、正式に重要文化財となる。

(写真:宮沢洋、以下も)

 文化庁の発表資料はこちら

 スカイハウスについては最近、こちらの記事(愛の名住宅図鑑17「スカイハウス」)で書いたので、今回は太陽の塔について書きたい。

 太陽の塔について、文化庁の発表資料にはこう書かれている(太字部)。

岡本太郎の造形を先端技術で具現化した大阪万博の記念碑的レガシー
太陽の塔  1基
所在地:大阪府吹田市
所有者:大阪府

昭和45年に開催された大阪万博のパビリオン。 会場の中心、お祭り広場の大屋根などと一体的に 「人類の進歩と調和」を表現するテーマ展示施設と しての役割を担った。近年構造補強を行い、恒久的な建築物となった。テーマ展示プロデューサーを務めた芸術家岡本太郎によるデザインを忠実に具現化するため、一流の学者や設計者、施工者が当時最先端の技術を結集。数学的解析により複雑な三次元曲面を数式化する先進的な手法を用い、鉄筋コンクリート造、鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄骨造を混用した構造に、 しっしき建築では初期の事例となる湿式ショットクリートをシェル状の外殻に採用して、巨大かつ 特異な形状の構造物を実現した。高度経済成長期の日本を象徴する大阪万博の記念碑とな るレガシーとして貴重である

大屋根は太陽の塔とセットで「建築」

 この説明文を読んで、えーっ、それだけ?と思ったのである。筆者の思うすごさにはほぼ触れられていない。BUNGA NETを愛読されている方には、本当のすごさを知ってほしい。

 まず、筆者が先ほど太陽の塔を「戦後建築」と書いたことについて、「えっ建築?、岡本太郎のアートでしょ?」と思った方に、「建築」であることの説明から。

 建築と書いたのには2つの意味があって、1つには現状の太陽の塔は、現行ルールの建築確認を受けた建築物であること。

 太陽の塔は建築基準法上、地下1階・地上2階の「仮設建築物」として1970年3月に完成した。建設段階では大阪万博終了後に撤去する予定だったが、保存運動が起こり、人が常時立ち入らないことを前提に「工作物」として残された。

 万博終了後は内部を常時公開しないまま40年以上がたち、老朽化が進んだ。大阪府は耐震補強とともに、地下に展示空間を増築し、塔内を一般公開できるようにすることを決めた。改修設計を昭和設計、改修施工を大林組が担当し、2018年3月から一般公開されている。

 ちなみに、太陽の塔の建築確認上の階数は現在も建設時と同じ「地下1階・地上2階」だ。これは地上3階建て以上とみなした場合、特殊建築物となって、耐火種別が耐火建築物となってしまうからだ。諸々の法対応によって内外観が変わってしまうため、地下1階・地上2階建ての準耐火建築物とみなし、避難安全検証法(ルートC)の性能評価を受けて大臣認定を取得した。今になってみると、この判断は重要文化財につながる重要な決断だったといえる。

 「建築」であると書いたもう1つの理由は、建築としての明確な機能があるということだ。単に見上げるだけの巨大彫刻ではないのである。

 太陽の塔がつくられたそもそもの目的は、大屋根の中にある展示空間に、観客たちをスムーズに移動させるための「連絡シャフト」だ。大屋根は単なる広場の覆いではなく、屋根架構の中に「空中展示」があった。観客は地下空間から太陽の塔に入り、塔内の展示「生命の樹」を見ながらエスカレーターで上り、腕の内部をつたって大屋根の展示空間に出るという動線だった。

「生命の樹」の下部
模型
大屋根は架構内が展示空間だった

 大屋根と太陽の塔は、セットで「建築」として成立していたのである。

「生命の樹」とエスカレーターを見上げる

 生命の樹をめぐるエスカレーターの架かり方も立体的でかっこいい。今風に言えば、「おにクル」的。でも、最注目はやはり「腕」だろう。

 円錐状の巨大な腕は、片方だけで約25mの長さ。万博開催時は、左腕(向かって右の腕、上の写真)に避難階段が、右腕(向かって左の腕、下の写真)にエスカレータが設置され、観客はエスカレーターを下りると大屋根の中に出られるようになっていた。現在は出入り口はふさがれているが、その内部構造を見ることはできる。

エスアレーターは軽量化のため撤去された

 腕の根本から先端まで16本の鋼管が並び、斜材が連なる。胴体の展示「生命の樹」は夢に出てきそうな原初的おどろおどろしさだが、腕の中は工学的な未来感。「未来:進歩の世界」をテーマとする大屋根の空中展示に導くのにふさわしいデザインだ。

 これは筆者の推測だが、おそらくこの腕の中のデザインは岡本太郎が主導したものではない。では、誰なのかというと、それがこの記事でお伝えしたいもう1つの重要情報である。

集団制作建築事務所を率いた吉川健の存在

 太陽の塔は当然、岡本太郎1人では設計できない。岡本のイメージを「建築」として実現したのは、丹下の推薦で実施設計を担当した集団制作建築事務所である。同事務所の吉川健が中心になった。

 吉川健については、現在の建築界ではそれほど知られていない。以下は、筆者が前職時代、太陽の塔が一般公開されるタイミングで関係者に聞いて調べた吉川のプロフィルだ。

 吉川の生年は1927年ごろ。北海道大学建築学科を卒業後、東京大学大学院に進み、1953年から60年まで東大丹下研究室に在籍した。在籍中、丹下の代表作である墨会館(1957年竣工)、香川県庁舎(1958年竣工)などを担当した。丹下が大学の研究室と別に都市・建築設計研究所(URTEC、初代代表は神谷宏治氏)を立ち上げたのと同じ1961年に、吉川は船木幹也ら北大の同級生3人で集団制作建築事務所を設立した。丹下の下を独立する形となったが、丹下からの信頼が厚く、「太陽の塔」という難題の共同設計者に推薦された。

 その後、集団制作建築事務所の仕事は北海道のプロジェクトが増え、1976年に東京事務所を閉鎖し、北海道に拠点を移した。吉川氏は1977年から室蘭工業大学の教授を務めた。そして、1986年に50代で早逝した。

 「大屋根を突き破る岡本太郎の塔の案を見て、丹下健三を中心とする大屋根設計チームはカンカンに」──というエピソードがよく知られている。しかし、実際の内部空間を見れば、最終的には岡本と丹下ががっちりタッグを組んでいたことは間違いない。2人が対立したまま、あれほど見事に、腕の中のエスカレーターを屋根裏に接続できるはずがない。その要になったのが吉川健だったのだ。

2人の“重要文化財建築家”によるコラボ建築

 そして、「集団制作建築事務所」「吉川健」と聞けば、丹下健三好きはピンと来るだろう。

 旧香川県立体育館(1964年)の設計を、丹下率いるURTECと共同で担当したのも集団制作建築事務所なのだ。

 吉川が同事務所を設立したのが1961年。体育館での共同を通して丹下は吉川に全幅の信頼を置き、決して失敗するわけにいかない太陽の塔を吉川に任せたのだ。

 吉川は、太陽の塔が重要文化財となることで、まだ10人しかいない“重要文化財を設計した戦後建築家”となった。ということは、旧香川県立体育館は、2人の“重要文化財建築家”のコラボレーションで生まれたことになる。関係者の方々には、これを機にその重みを改めて考えていただきたい。(宮沢洋)

「太陽の塔」も保存を求める声がなければ壊されていた
塔の背後に大屋根も一部保存されいている