ある雑誌には、ただ「最長老」とだけ記されていた。どのような人物なのか、詳細は不明である。しかし、三菱地所設計の社内ではいつかどこかで誰もが見聞きしたことのある謎多き伝説の先達の名前、杉山雅則。そんな気になる存在について、同社では社を挙げて調査を行うことになった。本座談会は、そもそもこの連載はなぜ始まり、三菱地所設計ではなぜ今、杉山に注目することになったのかを、同社で杉山を追う4名を交えて語り尽くす。さらに、近年、同社が取り組んだ、杉山が在籍期間中に設計し押印した建築図面の悉皆調査の概要を報告し、杉山の手がけた作品の全貌にも迫る。見えてくるのは、巨大な設計組織の内部で静かに建築を動かしていた一人の建築家の姿であった。(種田元晴=文化学園大学准教授)
[協力:三菱地所設計]
日時:2026年4月14日(火)10:30-12:00
場所:三菱地所設計本店
参加者:江島知義・須部恭浩・陳笛・鰐淵卓(以上、三菱地所設計)・種田元晴(モデレーター/記録・構成・注釈)
同席:平井祐一(三菱地所設計広報室)・宮沢洋(BUNGA NET)

杉山雅則はいかにして“再発見”されたのか
種田 連載を開始して1年が経ちました。少しずつ、杉山雅則(1904-1999)(注1)という建築家の姿が明らかになってきたと思います。この連載は、そもそもは本日お集まりの三菱地所設計のみなさんからの発案によるものでした。
そこで改めて、みなさんから、この連載が始まった経緯、なぜ今、三菱地所設計で杉山が注目されているのか、さらに、最近三菱地所設計で進められている杉山雅則が関わった建築の悉皆調査の概要などをうかがって、連載を一層楽しめる記事としたいと思います。その前に、杉山との接点がどこにあったかを含めて自己紹介をお願いします。まず、江島さんからお願いします。

江島:「名前は知っていた」その先にある空白
フェローの江島です。3年ほど前から継承設計室(注2)の室長を務め、歴史的建造物の保存活用などに取り組んでいます。
当社には、ジョサイア・コンドル(1852-1920)が設計した「三菱一号館(第一号館)」(1892年)から現在に至るまでの多くの図面が残されています。「三菱一号館」の復元(2009年)を契機に、それらの図面を研究する「古図面研究会」(注3)を発足し、これまでにいろいろな図面や資料をあたってきました。始動から7年くらいで「丸ビル」(1925年)あたりまで見終わり、そろそろ戦後の建築にも手を伸ばそうか、というタイミングで、ちょうど「OPEN CITY MARUNOUCHI(オープンシティ丸の内)」(注4)で街歩きイベントをしようという話が出て、有楽町方面の建物を調べ始めました。
その際、「有楽町の設計者は誰だったのか」、そして昭和期における本地域最大の都市再編である「丸ノ内総合改造計画」(詳細は連載第7回を参照)とは何だったのかが気になり始めた。そこが今回の接点ですね。
杉山雅則という名前自体は、以前から何となく知っていたと思います。たとえば「『新東京ビル』(1965)の設計者は誰だっけ」と調べると杉山に行き当たる。ただ、その先があまり広がらず、アントニン・レーモンド(1888-1976)の事務所にいたが戦後は三菱地所に移った、程度の情報で、「OPEN CITY~」で話してみると、せいぜい10分ほどで話が終わってしまっていたんです。
一方、大学で研究していたこともあって、街の成り立ちや構想、つくられ方をきちんと調べ、それを実務に生かしたいと思っていました。そういう視点で杉山を調べていくと、丸の内の実績だけでも「意外にこの人、かなりやっているな」ということが見えてきた。実は、丸の内だけの話ではなく、日本のモダニズムを語る上で欠かせない存在ではないかと思います。
種田 丸の内の歴史を語るうえで杉山は無視できない存在だったのですね。では、次に須部さん、お願いします。

須部:見えない「人の歴史」を求めて
フェローの須部です。1995年に三菱地所に入社以来、分社を跨ぎ、約30年にわたり各種建築物の設計を行ってきました。
私は、特に大阪や、海外では上海、台北などでの設計活動が建築人生の半分くらいを占めており、いわゆる「三菱の丸の内の仕事」にはあまり直接関わってこなかったんです。歴史ある社名を背負って、各地で仕事をしていく以上、自分と会社のDNAと言える「地所設計らしさ」、さらにその源流にある「地所らしさ」を研究したいという気持ちはずっとありました。
入社してすぐ配属された第一建築部では、後に「丸ビル」(2002年)を設計する岩井光男さん(元副社長)が上司でした。その後も東條隆郎さん(元副社長)、大草徹也さん(現副社長)など、丸の内に関わった方々が上司であることが多かった。そういう方々と一緒に仕事をしていると、三菱地所設計に仕事を頼んでもらうためには、やはり「地所とは何か」「丸の内とは何か」という起源を探る必要があると感じるようになりました。
不思議なことに、コンドルから始まっているはずなのに、その後を支えた建築家たちの歴史は、どこにも十分に発信されていない。会社としての歴史はあるけれど、人としての歴史がなかなか見えない。例えば、日建設計なら林昌二(1928-2011)さんや薬袋公明(1926-2007)さん、日本設計なら池田武邦(1924-2022)さんなど、他の組織では会社の顔となる代表的な建築家の名前が建築界に轟いていますよね。しかし当社の場合、組織として語られることが多く、個人像が希薄になりがちです。しかし、三菱地所にもそういう建築家はいたのではないか、とずっと思っていました。
大阪に赴任していた約20年前、山口廣(1925-2017)先生や鈴木博之(1945-2014)先生などの建築史家の先生方とも話す機会があり、「地所には、全国で活躍された杉山雅則さんという方がいたんだよ」「建築界では有名な方だったんだよ」という話を耳にしたんです。そこから杉山さんに興味を持ちましたが、当時はインターネットなどもありませんでしたので、今ほど検索性が高くなく、詳細がわからないままずっと悶々としていました。
より深く知る転機になったのは、2022年、レーモンドの設計による競輪選手養成所(注5)のコンペを取った時でした。この建築をきっかけにレーモンドが身近な存在になり、その時に初めて「杉山さんがレーモンドのところにいた」ということを知り、強く意識するようになりました。
そこで、江島らの図面研究の一環として杉山さんについてもしっかり探ってみよう、まずはレーモンド設計事務所に伺ってみよう、という話になったんです。レーモンド設計事務所現会長の三浦敏伸さんが親身に話をしてくださって、さらにA.レーモンド関係の本をむさぼるように読むと、杉山さんの名前がたくさん出てくる。会社も「当社のモダニズムの時代をけん引した存在として、きちんと探ってみましょう」と後押ししてくれて、今に至っています。
たまたま宮沢洋さんにお会いした時に、「レーモンド事務所の写真に写っているあの髭のおじさん、私も気になっていたんだ!」と反応してくださって。そこから一緒に、当社で活躍したであろう、いや、今では確信を持って「活躍した方だ」と思える建築家のアーカイブを残していかねばならない、と思ったのがこの活動のスタートとなりました。
種田 杉山さんは、まさに戦後の三菱地所を代表する建築家であった可能性がありますね。「丸の外」から発見されたという経緯も興味深いです。では次に陳さん、お願いします。

陳:「最長老」としか書かれていなかった人物
私は2011年に地所設計に入り、今年で15年目になります。今はGlobal Design Officeという、海外の仕事を中心に手掛けている部署に所属しています。
杉山さんを初めて知ったのは、入社時の新人研修の時です。研修の講師だった野村和宣さん(元・三菱地所設計エグゼクティブフェロー/現・神奈川大学教授)から、『丸の内をつくった建築家たち』(注6)という、『新建築』誌別冊の三菱地所特集に掲載されていた藤森照信先生の論考を紹介してもらいました。そこに藤森先生による杉山さんへの聞き取り記録が掲載されていた。それで初めて杉山さんを知りました。
ただ、その時は、そこまで「すごい人物だ」とは思わず、そのまま10年ほど経ってしまったんです。ところが2年前、須部とともに競輪選手養成所のコンペに携わり、研究としてレーモンドの本をたくさん読むことになって、その中に杉山さんに関する記述がかなり出てくることに気づきました。「この人はすごいかもしれない」と思い始めました。
ちょうど同時期に(2023年12月~2024年3月)、ギャラリーA4(エークワッド)で「建築家・吉村順三の眼 ―アメリカと日本―」展(注7)があり、そこで例の、吉村順三さん(1908-1997)が杉山さんに宛てた手紙(詳細は連載第1回を参照)が展示されていた。あれを見た時に、吉村さんが杉山さんとかなり親しくコミュニケーションを取っていた事実に驚きました。会社が動いたきっかけの一つは、やはり展覧会で広く杉山のエピソードや資料が世に知られたことだったと思います。
先の『新建築』には、論考中でのインタビュー、顔写真とともに、杉山さんの最晩年の作品まで収録されているのに、その人物像については『地所OBの建築家としては最長老』としか書かれておらず、何をした人なのかがまったく書かれていない。なぜこの人が載っているのか、当時はまったく分からなかった。でも今から思えば、会社の中では、三菱地所の特集号をつくるなら、まだ存命だった杉山さんを入れようという動きがあったのかもしれません。つまり、当時はまだ会社として、杉山さんが「すごい方だ」とわかっていた可能性があるなと思いました。
種田 入社の時点ですでに杉山を知る機会があったというのは驚きです。では最後に鰐淵さん、お願いします。

鰐淵:図面の中にいた「設計者」
私は2017年に入社し、現在10年目になります。都市環境計画部という部署で、主に都市基盤やランドスケープの設計監理に携わっています。一方で、先ほど江島が触れていた社内有志による図面研究活動にも継続的に関わってきました。その活動の中で、明治から戦後にかけての図面を読み解いていくうちに、私も藤森先生の『丸の内をつくった建築家たち』を通じて、丸ノ内総合改造計画時代の設計者の一人として杉山さんの存在を知りました。
私は入社時からずっとTOKYO TORCH(常盤橋地区の再開発)に関わってきたのですが、今回の図面調査により、この再開発に先立つ特定街区時代の全体計画と、その敷地に建っていた「日本ビルヂング」(1965年竣工。詳細は連載第7回、第8回を参照)の設計に杉山さんが関与していたことがわかりました。意識しないうちに、先輩である杉山さんの仕事と密接に関わっていたのだと気づきました。
もう一つ、身近なところでは、私の実家近くと現在住んでいる街の近所にあった三菱UFJ銀行の2つの支店が、いずれも杉山さんの設計だったことも今回初めて知りました。幼い頃から、生活の中にごく自然に杉山さんの建築が存在していたのだと、今回の調査を通じて実感しています。

種田:身近にいた「忘れられた建築家」
では、私も自己紹介します。文化学園大学で建築・インテリアに関する設計教育と歴史意匠研究に携わっています。2019年に着任したのですが、ご挨拶代わりに何か学内紀要に論文を投稿しようと思って本学の歴史を調べていたら、キャンパス内にかつてモダンな円筒型の校舎(文化服装学院円型校舎)が建っていたことを知りました。ところが、それをちゃんと研究している人がいなかった。学内には資料がそれなりに残っていたので調べてみたら、設計者が杉山雅則さんだったんですね。それが最初の出会いです。
その後さらに調べていくと、学内のほかの建物にも杉山さんがかなり関わっていることが見えてきました。論文(注8)を書いたのは2020年ですが、その3年後、さきほど陳さんが触れられたA4(エークワッド)での吉村順三展が開催されたので見に行きましたら、ここに杉山さんの手紙が出ていて、「あれ、杉山雅則って、こんなところでも注目されているのか」と驚きました。
私は、忘れられてしまった建築家を掘り起こすことを使命と感じて研究を続けています。杉山についても、今やほとんど知られていないけれど、かつてはとても大事な存在だったはずだと思って関心を持っていました。そんな折、ほぼ同時期に別のところで注目していた人々がいたことはうれしかったですね。
その後、東京建築アクセスポイントという建築ガイドツアー団体で磯達雄さんと一緒に活動する中で、磯さんが私の杉山研究をご存じだったことから宮沢さんにつないでいただき、今回のBUNGA NETでの連載を担当させていただくことになりました。
しかも後から気づいたのですが、私も学生時代は三鷹駅前の三菱銀行のビル(三鷹三菱ビル/1971年竣工)に入っている学習塾で10年くらい講師のアルバイトしていたのですが、そこが杉山の設計だったと最近知って、杉山の建築の中でずっと過ごしていたんだなと不思議な縁を感じています。さらに、阿佐ヶ谷と吉祥寺が私の地元なのですが、どちらも杉山さんが住んでいた場所でした。実は身近なところにいたんだ、というつながりをいろいろ感じています。
連載が始まった経緯
種田 各位の自己紹介の中でも少し触れていただきましたが、この連載が始まった経緯について、さらに補足などあればお願いします。
須部 それぞれの個人的な関心から会社としての研究に発展したきっかけは、やはりA4(エークワッド)の展覧会です。あのとき展示されていた吉村から杉山に宛てた手紙の威力は大きかったですね。

種田 この連載企画を最初に提案したのは、どなたなんですか。
須部 最初に言い出したのは私だったと思いますが、このメンバーが決まった経緯には、担当している競輪選手養成所のプロジェクトの存在が大きかった。新しい建築を設計するにあたり、コンペでは「レーモンド建築とどう共存していくか」が大きなテーマとなったので、江島と相談していたんです。こうした経緯から、一緒にこのプロジェクトを立ち上げることになりました。
社内では以前から「レーモンドとうちは近い」というような考え方が何となく伝わってきていたように思います。実際、当社は東京女子大学(連載第2回で詳述)の新棟設計やオープンスペース整備、安川電機本社事務所講堂の改修(現、安川電機歴史館)など、レーモンド建築に関わる案件も多かった。従来から「レーモンド建築と向き合おう」という気持ちがどこかにあったと思うのです。丸の内でも、それ以外の場所でも、「モダニズム建築をどう残すか」という議論があったんですね。

種田 その流れの中で、お二人が話をして、須部さんと一緒に仕事をされている陳さん、江島さんと一緒に研究活動をされていた鰐淵さんがメンバーになっていった、ということですね。
須部 そうです。あと今日同席している平井も広報としての立場から、「杉山は、きちんと会社に名を残さなければいけない人ではないか」と共感してくれたんです。
でも一番大きかったのは、やはり宮沢さんがメディアの立場から興味を持ってくださって、「世の中に残さなくてはいけない人に違いない」と言ってくださったことかもしれません。あれが会社として動くきっかけになったと思います。
社員の活動を後押しする社風
種田 三菱地所設計は、会社として、こういう歴史的な調査や研究には積極的なんですか。
須部 やはり、丸の内エリアに関するものを中心に、もちろんそういう調査・研究の動きがありますが、今回のように「人」にフォーカスを当てた調査・研究は珍しいかもしれませんね。
江島 ただ、基本的に社員が自主的に手を挙げたものを否定するようなことはしない会社なのかな、という気はしますね。「とりあえずやってみろ」という。ただ、通常は学会活動などにとどまるものが多い中で、今回のように宮沢さんや種田さんをはじめ、外部の方にも入っていただいたことで、こちら側にも火がついた感じはあります。
種田 歴史をきちんと調査するとか、直接設計や開発を進めるのとは少し違う活動を、会社がちゃんと認めているのはユニークですよね。やはり丸の内という、歴史ある場所を継承してきたことが、会社の大事な仕事だという認識があるんでしょうか。

江島 当社は、新卒入社もキャリア入社も、設計やコーポレートなどの職能を問わず、丸の内に関する講義を三回、必ず受けてもらっています。私が講義をしていますが、入ってきた時に一度、中堅になった時にもう一度、管理職になる前にさらに一度。刷り込みですよね(笑)。
なぜそんなことをしているかというと、たぶん会社が最初に丸の内のまちをつくる時に持っていた「模範街区をつくる」という意識をずっと持ち続けていて、次世代に受け継いでいかなければと潜在的に思っているからだと思います。
芸能プロダクション的な組織事務所
須部 久米設計は久米権九郎(1895-1965)、石本建築事務所は石本喜久治(1894-1963)、山下設計は山下寿郎(1888-1983)、日建設計は竹腰健造(1888-1981)と、現代の組織設計事務所の多くは、その創設時は個人建築家の事務所でした。しかし当社は、三菱社に設けられた「丸ノ内建築所(まるのうちけんちくどころ)」に始まり、顧問としてコンドルが就任した。個人名を冠した設計事務所だった時代がありません。
当社で社内の建築家の個人名が表に出にくいのはそういう出自もあるかもしれません。しかし、建築家は確かにいたはず。先輩たちがどういう建築家だったのかを記録化していく必要がある。そういう思いも、今回会社が動いた理由なのではないかと思います。
当社は「会社の言うがまま」に仕事をする組織ではなく、それぞれの建築家がそれぞれの裁量のもとで業務にあたっています。誤解を恐れずに「組織設計事務所とは何か」という点について私見を述べるなら、これは、さまざまな能力を持つ芸能人が所属する芸能プロダクションや、高度な専門性を備え、それぞれに信頼関係の強いクライアントを持つ弁護士が机を連ねる弁護士事務所に近いものであり、そうあってほしいと感じているんです。
種田 なるほど。その意味では、たしかに杉山さんもある意味で「完全に帰属した社員」というより、プロダクションに所属する独立した個人のような印象がありますよね。半日はレーモンド、半日は三菱、みたいな働き方も許されていたようですし(連載第8回注9参照)。
須部 丸の内という街自体にもそういうおおらかさがあると思うんです。三菱地所だけで固められているように見えて、実はさまざまな建築家や芸術家がコラボレーションしている。歴史的に見ると前川國男(1905-1986)さんや谷口吉郎(1904-1979)さんの仕事もあります(注9)。自分たちの場所で、外部の建築家と一緒にひとつの街をつくってきた。そういう DNA が当社にはあるような気がします。
想像の域を脱しませんが、前川さんが丸の内で「東京海上ビル」の設計をすることになった経緯には、彼のレーモンド事務所時代の先輩だった杉山さんの存在があったのでは、とも思うんです。

種田 文化学園の資料でも、円型校舎について、ときの理事長・遠藤政次郎(1894-1960)が「三菱地所に設計に頼んだ」というだけではなく、わざわざ「杉山氏にお願いした」とまで書いているんです。三菱地所に依頼したら担当者が杉山だったのではなく、むしろ杉山に声をかけたら三菱地所として設計することになったとすら読める気がしています。遠藤はアメリカ発祥のシンガーミシンの営業マンでした。杉山はレーモンドのもとでゴルフクラブやテニスクラブなどアメリカン・コミュニティの人脈を培っていた可能性があります。そういう幅広く国際的な杉山の人脈がさまざまなところで三菱地所に恩恵をもたらしていた可能性はありますよね。

須部 また、経済的な問題として、やはり第二次大戦中はオフィスビル需要が停滞していたので、当時の三菱地所は工場やその社宅といったものを設計していました。創業以来の丸の内に留まらず、仕事の幅を広げていく。そこに杉山もいたのではないか。コンペや海外で新しい仕事を取ってくる今の私自身の仕事の仕方とも重なる気がして、その意味でも杉山さんには共感を覚えますね。
●なぜ今、杉山雅則なのか
種田 では、あらためて「なぜ今、杉山に注目するのか」という点をうかがいたいです。三菱地所には、杉山以前の技師長の面々など、まだあまり掘り下げられていない人物もいたはずと思いますが。ほかにも候補があったかもしれない中で、なぜ杉山さんだったのか。
江島 個人的には、やはり「新東京ビルヂング」の存在が大きい気がします。あの高度経済成長の時代、世の中が非常にざわついている中で、なぜあれだけ腰を据えて設計できているのか。この界隈の建築は、有楽町側に行くほどに仕上げや手数が整理されていくような印象がある。戦後の東京駅近辺や丸の内、ひいては日本の建築のあり方を想い描き、その原型となったのが「新東京ビル」だったのではないかと思うんです。
その一方、高度経済成長のすさまじい勢いの中で、一人の建築家が組織の中でどう動いたのか、ということにも興味があります。技師長が設計をけん引した時代から、今日のような組織設計へと会社の体制が移っていく中、杉山さんのようなキャラクターは埋もれているのか、埋もれていないのか。その境目にいて、ある意味、意志を持ってものがつくられている。そこにどこから来るのか分からない魅力がある。レーモンド事務所時代の教えや経験から来ているのかもしれないし、三菱地所の過去を振り返りながら自分の立ち位置をつくっていったのかもしれない。戦前戦後をつなぐポイントとして、杉山はとても重要な人物なんじゃないかと思っています。

種田 技師長が設計を統括していた古き良き体制から、民主的なプロダクション的体制へと移行する過渡期に、現場で実際に設計を担った建築家の代表格が杉山だったというわけですか。
鰐淵 現在、会社やプロジェクトの規模が年々拡大していく中で、どうすれば一人ひとりの社員が活躍することができるのか。その具体的な答えの一つが杉山さんの仕事や姿勢の中に見出せるのではないかと感じています。
杉山さんが置かれていた当時の状況を見ると、驚くほど今の当社と似ていませんか? 戦前から戦後、高度経済成長期にかけて会社の規模が拡大し、「丸ノ内総合改造計画」のように手がけるプロジェクトもどんどん巨大化していったように、今の三菱地所設計も、新卒・中途を問わず多くの社員を採用し、大人数のチームの一員として設計に関わることが当たり前になっています。だからこそ、「自分はこの中で何ができるのか」「組織の中に埋没していないか」と悩む人も多いのではないかと思います。
杉山さんを見ていると、A.レーモンドのもとで培った経験やデザイン思想をそのまま持ち込むのではなく、きちんと三菱地所で機能するようにアレンジしながら、自分の力を発揮していたように見えます。スターとして前に出るわけでもなく、単なる歯車になるわけでもない。その立ち位置は、巨大組織の中で働く今の時代のプロフェッショナルにとって、一つのロールモデルというか、何か考えるヒントになり得るんじゃないかと感じています。
須部 それはうれしいですね。まさに欲しかった視点です。
陳 海外の仕事を担当している立場から言うと、国際コンペでは SOMやKPFなどの欧米の著名な組織事務所や、ノーマン・フォスター、レンゾ・ピアノといったスター建築家と競うことが頻繁にあります。いつも考えているのは、三菱地所設計が他社に対して「何を武器にできるか」ということです。
もちろん、日本で最も歴史の長い組織設計事務所の一つであり、丸の内という130年つくり続けた「作品」があるとは言えますが、それをもう少し具体的な「デザインの価値」として示せるようになりたい。この杉山研究を通して、当社が長い時間をかけて共有してきた設計の価値を見つけたい。今後、海外と戦う時の武器にもなると思っています。

種田 つまり、これまでは「アーキテクト」が分かりやすく見えてこなかった会社の中で、杉山さんとそのデザインを取り上げることによって、三菱地所設計の看板の一つが見えてくる、ということですね。
須部 そうですね。戦前までの研究は比較的進んでいますが、戦後から現在に至る「近代」のところは、まだまだ明らかになっていません。これまで「組織だから、みんなでつくっていた」という言い方で済ませてきたところがある。でも建築はそんなに単純ではない。誰かがリードしてつくっていたはずだ、という問いがずっとあったんです。
そこで杉山さんが出てきた。今回の調査を進めていくと、ほとんど丸の内の重要なところは杉山さんがリードしていたのではないか、ということが見えてきた。組織であり、個人でもある。その両方が重要だと実感しています。
杉山印のある図面の悉皆調査
種田 では、そろそろハンコ調査の話に移りたいと思います。今回の連載を機に、三菱地所設計では杉山雅則の印鑑が押されている図面を網羅的に調査いただきました。これはすごいことだと思います。まずは、具体的に何をして何がわかったのか、その全体像を伺えますか。
鰐淵 今回の調査では、当社が所蔵・管理している図面資料を対象にしました。杉山が在籍していたのは1942年から1982年末までですが、体系的な図面管理は1916年から始まっていること、また杉山の退社後に竣工した案件が含まれている可能性も考慮し、調査対象期間は1916年から、退社5年後にあたる1987年頃までとしました。この期間に該当する図面を全て確認し、その総数は3938件に及びました。
この中から、杉山の押印、あるいは「杉山」と記された記名が確認できる図面を抽出していきました。図面の束を一つひとつ確認し、杉山の押印あるいは記名が確認できたものを仕分けていく、という手法です。
その結果、3938件のうち、杉山の押印または記名が確認できたものは222件でした。内訳は、押印ありが218件、記名のみが4件です。
まず押印について整理したところ、全部で10種類のハンコが登場することがわかりました。そのうち、図01に示したA型とB型が、杉山雅則本人のものだろうと判断しています。

左(A型):1942~1955年に使用されていた印、右(B型):1955~1982年に使用されていた印
A型は入社した1942年から1955年頃まで、B型は1955年頃から1982年頃まで連続して確認できます。さらに社員名簿を調べると、同時期に建築部門に在籍していた「杉山」姓の人物は、基本的に雅則(本名:正則)1名のみであることが分かりましたので、このA型とB型はほぼ間違いなく杉山本人のものだろうと判断しました。
最終的に、杉山雅則本人のものとほぼ断定できるA型・B型の押印が確認できた図面は192件でした。これが、今回「杉山が関与した作品」として特定できた件数です。
それから、ここはぜひ触れていただきたいのですが、この図面調査は個人作業ではなく、社内の人事部の方々9名をはじめ、多くの方々に協力していただき、ほぼ総動員体制で行ったという点です。本店だけでなく各支店からも図面を取り寄せ、一枚一枚めくっていく。こうした調査に組織として本気で取り組める会社は、なかなかないのではないかと思います。
種田 まさに大迫力の悉皆調査です。しかもみなさん、それを本来業務の合間にやってくださった。見事な組織力に驚きました。

ハンコ調査で見えてきた杉山の多様な設計活動歴
種田 では、この調査を通じて、どんなことが見えてきたんでしょうか。
鰐淵 図面のタイトルから用途を、図枠から年月日を読み取り、それらを整理して表とグラフにまとめました(図02)。用途別に見ると、事務所が57件で全体の約3割を占めています。次いで銀行が28件、厚生施設や住宅が14件、その後に工場、学校などが続きます。つまり、事務所や銀行だけでなく、非常に多様な用途の建築に関与していたことがわかりました。
次に設計時期との関係を見てみると、1942~45年頃、つまり戦時中は工場建築が中心です。戦後になると事務所、銀行、厚生施設が増えはじめ、1950年代に入ると担当件数が順調に伸びていきます。そして定年退職を迎える1959年には、年間19件と件数のピークに達します。
その後、杉山は定年を迎えて嘱託勤務となりますが、担当件数は大きく減ることなく、しばらくの間は事務所・銀行・厚生施設の設計を中心に関与し続けています。ところが1960年代後半以降になると、押印が確認できるのはほぼ銀行案件に限られるようになります。つまり、晩年は三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)系の仕事にかなり集中していた可能性があります。
さらに注目すべきなのは、1972年から退職するまでの約10年間です。最後の作品である「荒川豊蔵資料館」(1983年竣工)を除くと、この期間にはほとんどハンコが見られません。ここが非常に気になります。長い空白期間を経て、最後に荒川豊蔵資料館で再び姿を現し退社する。この生き様が浮かび上がってきたことは、今回の図面調査の大きな成果でした(注10)。

種田 この1972年以降のゼロはたしかにとても気になりますね。
須部 再びレーモンド事務所の仕事をしていた、という可能性はないでしょうか。レーモンド事務所の方にサインが残っていたりしないですかね。
江島 このグラフ(図02)は本当に面白いですよね。一人の生涯が、建築活動としてグラフになる。しかもその活動歴が、戦争や戦後復興、高度経済成長といった社会の状況と見事に呼応しています。
鰐淵 そうなんです。しかもレーモンドの代表作が集中している時期と、こちらでハンコが少ない時期が重なる可能性もある。もし向こうで杉山のサインが見つかれば、とても面白いことになります。
「リーダイ」にも関わった可能性、定年後の働き方のロールモデル
須部 その点で言うと、今、レーモンド設計事務所の方でも杉山の印影やサインを探し始めてくださっています。いずれ、まとまったかたちで見せていただけることになりそうです。
種田 レーモンドの戦後初の代表作である1951年竣工の「リーダーズ・ダイジェスト東京支社」(以下、「リーダイ」)の設計時期は、杉山が一時、戦後設立されたレーモンドの事務所の初代社長に就任していた1950年の頃と一致しそうです。その頃の事務所は「リーダイ」の建設予定地内にありました。その点でも、杉山が何かしらの形で関与していた可能性は高いように思います(連載第8回注9参照)。図面をはじめ、各種資料の調査からその事実が明らかにできれば、まさに日本の近代建築史上重大な新発見になりますね。
須部 もう一つ面白いのは、杉山さんは1959年に定年を迎えたはずなのに、その後28年間も会社に関わり続けていることです。昭和の会社としてはかなり異例なことだと思います。その理由はまだ調査中ですが、会社に必要な建築家だった、ということだけは分かります。役員として留任したわけではなく、あくまで現場で設計を行う立場だったんですね。
鰐淵 杉山さんの上司であった岩間旭(1905-1997)の評伝『或る建築家の生涯』(注11)に、杉山さんの退職時の挨拶文が載っています。これを読むと、定年後も会社に残って仕事を続けていた経緯がよく伝わってきます(注12)。体調不良を理由に自ら退く決断をした一方、会社からはなお引き留められていた様子もうかがえます。なかでも印象的なのが、文末にある『書斎にあるレーモンド遺愛の製図用デスクが使えるように』という一文です。杉山さんの生涯を思うと、まるで人生のエピローグのように感じられます。

見えてきたことと今後の課題
種田 杉山雅則の追究により、今後さらに何が見えてきそうか、どんな可能性が広がりそうかなど、みなさんの期待感を最後にうかがえればと思います。
江島 この1972年以降の空白をどう考えるかは大きいですね。この時期には「丸ノ内総合改造計画」の主要部分がある程度終わって、後半は後輩たちに引き継がれていく。そのタイミングで杉山さんは銀行に軸足を移していたのかもしれない。完成期に入ったから道筋を見せて退いたのかもしれない。そのあたりのバトンタッチがどうなっていたのか、もっと掘り下げたいです。
種田 現存する建物がどれくらいあるのかも、今後の課題ですよね。ハンコ調査で件数は見えてきたけれど、一連の銀行建築など、現状を実地に赴いて確認すべきものがまだまだありそうです。
須部 そうですね。その中でさらに「特に熱量が感じられるもの」「本人が代表作と位置付けていたもの」「なぜかリストに入っている/いないもの」が見えてくる。そこから妄想がさらに膨らむ。
種田 それと、吉祥寺にあったという自邸の資料もどこかに残っていないか気になります。阿佐ヶ谷から吉祥寺に住まいを移したらしいことは分かっているけれど、その他の杉山による住宅作品との関係も含めて、杉山個人で手掛けた作品についてはまだまだ不明な点が数多くあります。これは私の宿題だと思っています。
須部 先ほども話題になりましたが、杉山さんと戦後のレーモンド設計事務所との関係も気になります。A.レーモンドが離日したあと、杉山さんは自身の事務所を「教文館ビル」(1933)に構えましたが、これは従前のレーモンドの事務所の看板を変えただけで、そっくり引き継いだものだった可能性もある。とすると、戦前のレーモンドの事務所から、現在のレーモンド設計事務所への橋渡しを杉山が担っていたことになります。この点はまだはっきりしていませんが、レーモンド設計事務所とも協力して明らかにできればと思います。
種田 今日は興味深いお話をありがとうございました。杉山雅則への三菱地所設計のみなさんの深い愛を感じました。連載は今のところ、レーモンド事務所時代、三菱地所での丸の内の建築まで明らかになってきています。次回以降は、座談でも少し触れられていた、杉山による丸の内以外(丸の外)の建築について堀り下げていきたいと思います。

注
注1)杉山雅則(正則)は1904年6月静岡県生まれ。1921年2月工手学校建築学科を卒業後、英語が話せたことから聖路加病院の創立者ルドルフ・トイスラーのもとで新病院計画の図面作成のため雇われる。同年春、その当初の設計者であったアントニン・レーモンドのもとへと移籍。在職中の1937年、日本大学専門部文科文学芸術専攻美術部門(現・日本大学芸術学部)卒業。1937年末にレーモンドが日本を離れてからもしばらく杉山が事務所を維持したが、1941年、レーモンドからの提案を踏まえて事務所を閉鎖、同じ場所(教文館ビル)に自身の事務所を開設。約20年間の在籍期間中にレーモンドの霊南坂自邸(1923)、東京ゴルフクラブ(1932)、聖母女学院(1932)、教文館・聖書館ビル(1933)、赤星鉄馬邸(1934)、東京女子大学講堂・礼拝堂(1938)など主要な鉄筋コンクリート造建築を数多く担当。1942年、赤星鉄馬の紹介状を携えて三菱地所に移籍。1948~51年にはレーモンド事務所再開に伴い、両社を掛けもちで半日ずつ勤務。1950年3月、株式会社レーモンド設計事務所設立に伴い取締役社長に就任(同年12月まで)。1951年以降は、三菱地所のみに勤務。設計の現場で勤め上げ1959年に定年。引き続き1982年まで嘱託として所属し、設計業務に従事。1999年没。三菱地所での主な仕事は、大手町ビルヂング(1958)、新大手町ビルヂング(1958)、新東京ビルヂング(1965)、日本ビルヂング(1965)、大名古屋ビルヂング(1965)、有楽町ビルヂング(1966)、新国際ビルヂング(1967)、新有楽町ビルヂング(1969)などオフィスビル、一連の三菱銀行支店ビルのほか、文化服装学院円型校舎(1955)および文化学園の一連の建築、伊豆富士見ランド(1966)、荒川豊蔵資料館(1982)など多岐にわたる。(参照:速水清孝「戦前のレーモンド事務所の設計スタッフと組織について」日本建築学会東北支部研究報告集, 2016.6/西澤泰彦「レーモンド事務所の思い出 杉山雅則氏に聞く」SD, 1988.7/藤森照信「丸の内をつくった建築家たち―むかし・いま」別冊新建築日本現代建築家⑮, 1992.4/國際建築協會編,『現代住宅1933-1940 第4輯,』1941.3/堀勇良『日本近代建築人名総覧増補版』中央公論新社, 2022/『アントニン・レイモンド作品集 1920-1935』城南書院, 1936)
注2)2024年に三菱地所設計の長年にわたる「歴史的建造物の保存活用」「リノベーション」「開発と継承」の実績をもとに専門組織、継承設計室が設置された。同社は「三菱一号館」(1894年竣工)から130年以上におよぶ自社の設計建築物の膨大な図面・写真資料を保管しており、継承設計室ではこれらの資料を継続的に分析し、その成果を同社ならではの歴史的知見として、各種建築物の適正な価値検討に活用するほか、大学や学識者と連携した研究や各種コラボレーションにも取り組んでいる(本稿にもその知見が生かされている)。なお「継承設計」は三菱地所設計の登録商標である。(参照:三菱地所設計ウェブサイト|継承設計|https://www.mjd.co.jp/solutions/heritage-design/)
注3)「OPEN CITY MARUNOUCHI」は日本有数のオフィス街である大手町・丸の内・有楽町地区の普段は立ち入れない施設や空間等をめぐり、知られざる魅力を体感するツアーイベント。(参照:OPEN CITY MARUNOUCHIウェブサイト|https://opencitymarunouchi.jp/)
注4)静岡県伊豆市にある「日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)」はレーモンド建築設計事務所の設計で1968年に竣工。複数の棟で構成されるが、ローラー練習場、実習室、自転車格納庫、体育館、校舎、講堂、333ピストスタンドなどが現存している。とくに、同時期に手掛けられた群馬音楽センターを彷彿させる講堂の壁画は圧巻。2024年9月より、三菱地所設計の設計監理により、これら既存の各施設群の機能をつなぎ合わせて「JKA 次世代型総合トレーニングセンター」として再生する増築工事が進行中。詳細は以下の記事を参照されたい。
・圧巻!パリ五輪「ケイリン」代表も育ったレーモンドの「日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)」を探訪|BUNGA NET|
・レーモンドの建築群をつなぐ伊豆・JKAトレーニングセンター、三菱地所設計の設計で着工|BUNGA NET|
注5)藤森照信「丸の内をつくった建築家たち―むかし・いま」, 『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』新建築社, pp.194-254 , 1992.4
注6)「建築家・吉村順三の眼 ―アメリカと日本―」展は2023年12月22日?2024年3月28日までGALLERY A4(ギャラリー エー クワッド)で開催された。本展に、戦中にアメリカ・ニューホープのレーモンドの疎開地であった農場に仕事のために滞在した吉村順三が杉山に宛てた複数の手紙が展示されていた。本連載第1回・第4回でもその手紙に触れている。
注7) 古図面研究会の成果の一部は三菱地所設計古図面研究会+新建築社編『丸の内建築図集1890-1973』新建築社, 2020にまとまっている。
注8)種田元晴:文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究, 文化学園大学・文化学園大学短期大学部紀要第51集, pp.31-40, 2020.1
注9)前川國男が設計を主導した例には「東京海上ビル」(1974年竣工)、谷口吉郎が主導した例には「国際ビルヂング・帝国劇場」(1966年竣工)がある。
注10) 一連の調査については、江島知義・鰐淵卓・種田元晴・須部恭浩・陳笛「三菱地所設計所蔵図面史料に基づく杉山雅則の設計関与作品に関する悉皆調査報告」として、2026年度日本建築学会大会学術講演会にて発表の予定である。
注11) 岩間浩『或る建築家の生涯-大正・昭和・平成期を生き抜いた人生とその背景』岩間教育科学文化研究所, 2022.7
注12) 上記注11に記録された杉山の退職挨拶文をここに引用しておく。
「― ・・・このたび私は、三菱地所株式会社建築部での勤務を辞することになりました。昨夏以来の体の不調や年齢を顧りみまして、仕事の関係上誠に身勝手なお願いとは思いましたが、無理に会社に御許しをいただき、去る一二月三一日を以て退社致しました。戦中戦後を経て現在に至りますまで、社中の皆様や、関係業界並びにその他の方々に失礼な事ご迷惑な事など多々ありました事と思いますが、皆様方のご寛容、御厚情によりまして今日まで無事に勤めさせていただき感謝の気持ちで退社することが出来ました事を哀願心より厚く御礼申し上げます。
私は、聖路加病院の委員長(ママ/筆者注:「院長」の誤記と思われる)であった故トピスラー(ママ/筆者注:「トイスラー」の誤記と思われる)博士に病院の建設の仕事と共に、アントニン・レーモンド氏の所に連れてこられたのが三菱二一号館で、そこで製図版との付合が始まり、昭和一七年の一月、三菱地所株式会社に入社し建築部の製図版から今まで離れませんでした。そして、製図版の上で仕事と格闘しつつ今日に至り、気が付いた時は山登りに例えれば、あたりを見ずひたすら登り続け、頂上近くに自分がいる事に気がつき、愕然としてあわてふためいているのが今の心境です。
しかし五〇余年も通い続けた丸の内の情景の懐かしさは生涯私の脳裏から消え去る事はないでしよう。今後体力が回復して書斎にあるレーモンド遺愛の製図用デスクが使えるようにと願っていますが、それまでは庭の片隅の畑で野菜作りでもやるつもりでいます。住居は井の頭駅と前進座との間ですので、御散策の折にでもお立ち寄り願えれば幸甚至極です。
末筆ですが御一同様の御健勝をお祈り申しあげます。 昭和五八年一月 杉山雅則(正則)」
種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科 准教授。
1982年生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。一般社団法人東京建築アクセスポイント理事。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。編著に『有名建築事典』(学芸出版社、2025)。主な本稿関連論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。「建築家・杉山雅則の設計作品における湾曲階段の意匠に関する研究」(2026)。


