「シンポジウム追悼 磯崎新 思考の建築」と題したトークイベントが3月19日(日)に、磯崎新氏の代表作であるつくばセンタービルのノバホールで開催された。年が明けてからすっかり磯崎熱が高まっている筆者(宮沢)は、登壇メンバーの豪華さもあって、つくば市まで見に行ってきた。以下の写真、誰だか分かるだろうか。
左から渡辺真理氏(法政大学名誉教授)、北山恒氏(横浜国立大学名誉教授)、鵜沢隆氏(筑波大学名誉教授)、曽我部昌史氏(神奈川大学教授)、石上純也氏(石上純也建築設計事務所主宰)。いずれも建築家。当日の進行は鵜沢氏が務めた。
なぜ筆者の磯崎熱が高まっているかというと、古巣の『日経アーキテクチュア』2月23日号で磯崎新特集に参加したからだ。筆者は特集のなかで、くまもとアートポリスの検証記事を担当。細川護熙・元熊本県知事(元首相)や、磯崎氏の右腕だった八束はじめ氏らにインタビューして記事をまとめた。目次などを見たい方はこちらへ。
お題がくまもとアートポリス(磯崎氏が初代コミッショナーを務めた)だったので、この取材では「磯崎新の建築デザイン」についてほとんど話を聞かなかった(磯崎氏はくまもとアートポリスで自身では1つも設計していない)。なので、今回のシンポジウムのメンバーを見て、「おお、がっつりデザインの話だな」と期待して見に行った。
「未来を楽観視していなかった」と渡辺真理氏
話の内容は大変面白かったのだが、デザインの話のウエートは少なかった。やっぱり、テーマが「磯崎新」だと、みんな「言説」や「事件」の話をしたくなるんだなあ…。それはよく分かる。
デザインに関連することで筆者がなるほどと思ったのは、渡辺真理氏と石上純也氏のこんな話。録音禁止だったので、筆者のメモに基づく。まず、渡辺氏。同氏は磯崎新アトリエのOBで、在籍時にはつくばセンタービルの設計にも参加した。
「磯崎さんに、『メタボリズムグループと距離を置いていたように見えるが、それはなぜか』と尋ねたことがある。磯崎さんは、『彼らが考えるほど未来は明るくない』と答えた。磯崎さんは前提として未来を楽観視していなかった」(渡辺真理氏)
続いて、石上純也氏。
「磯崎さんは、コンペの審査員として、後に活躍する多くの建築家を選んだ。ラヴィレット公園のコンペで次点だったレム・コールハースのように、磯崎さんと近い考え方の人が多い。よくよく考えると、コンペで建築家にチャンスを与えることで、磯崎さんの建築が別の形で実現していたのではないか」(石上純也氏)
この2人の話は、磯崎特集を取材したり、休日に磯崎建築を見て回ったりするなかでぼんやり考えていたことに、ピタリとはまった。「そうそう、それ!」と。
人の気配がなくても絵になる空間
筆者は誰に依頼されたわけでもなく、今年に入ってからこれら↓の磯崎建築を見た(竣工年順)。
で、シンポジウムでの2人のコメントがどう筆者に刺さったのか。まず、渡辺真理氏の「未来を楽観視していなかった」という発言。
写真を見ても感じられると思うが、目玉となる空間に人の気配がない。人の気配がなくても実に絵になる。多くの建築家は、空間が人々のにぎわいで満たされた姿をイメージして設計するのだと思うが、磯崎氏はそんなハッピーな状況はまずないという前提で設計していたのではないか。「廃墟」というのはさすがに創作上のポーズだと思うが、確かに「にぎわいが信じられない人」が設計したように見えるのである。
他者に対しては意外に未来志向だった?
そして、石上氏の「建築家にチャンスを与えることで、磯崎さんの建築が別の形で実現していた」というコメント。
これを聞いて筆者は思った。実は、磯崎氏自身も悲観的すぎる自分が嫌だったのではないか。別の人が自分に近い考えで建築をつくるとどうなるのかを見たかったのではないか。むしろ、そっちの方が社会の役に立つと思っていたのかもしれない。アートポリスの関係者を取材していても、磯崎氏は他者に対しては意外に未来志向で楽観的だったように思えるのである。
そういえば、日経アーキテクチュアの特集のタイトルは、「闘争と矛盾の磯崎新」だった。まさに自分の中の闘争と、消えない矛盾。
シンポジウムの当日、つくばセンター広場では子どもたちのダンス大会が行われていた。ここには何度も来たことがあるが、広場にこれほどたくさん人がいるのを初めて見た。進行役の鵜沢氏も「今日の広場は非日常です」と笑っていた。
追悼シンポジウムの日に“非日常のにぎわい”で満たされた広場を、磯崎氏は雲の上からどんな表情で見ているのだろうか。筆者は、きっといつものすました顔で、目じりだけが笑っていると想像する。(宮沢洋)