再発見、杉山雅則が残した建築の美学03:レーモンド離日後に杉山が完成させた「東京女子大学講堂・礼拝堂」(1938年)

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アントニン・レーモンドがキャンパス計画を手掛けた東京女子大学の正門近くに立つ「東京女子大学講堂・礼拝堂」は、戦前期のレーモンド事務所における最後期の作品である。その工事中に、レーモンド夫妻はアメリカへと旅立ってゆく。残された現場を完成へと導いたのは、古参の所員としてその設計を担当した杉山雅則であった。キャンパス計画の概要にも触れながら、写真家・吉田誠氏によるカットとともに、講堂・礼拝堂の見どころをつづってゆく。

[協力:三菱地所設計]

東京女子大学の礼拝堂内部。西日がきよらかに差し込んで窓に十字架を浮かび上がらせる(写真:吉田誠)

東京女子大学のキャンパス計画

 吉祥寺と西荻窪のあいだの穏やかな住宅街に、緑豊かで格調高いそのキャンパスが広がっている。1918年に新宿で開学した東京女子大学は、1924年、現在の校地に移転した。その3年前、大学設立の代表者であったアメリカ人宣教師カール・ライシャワー(1879-1971)は、アントニン・レーモンド(1888-1976)に、土地探しも含めて、キャンパス計画と建物のデザインを依頼した[1]。

 キャンパス計画が開始された翌年(1922)の初夏、いまだ西荻窪駅すら開設されておらず、塀もなく畑と赤松の木立に囲まれただけのその現場に、すでに所員であった杉山雅則(1904-1999)は訪れていた。6連で計画されていたうちの2つの寮(1923/現存せず)、西校舎(1924/現7号館)、旧体育館(1924/現存せず)、外国人教師館(1924/現16号館)など、鉄筋コンクリート造による初期の建物の工事が始まったばかりだった。いずれも、翌年の関東大震災を耐え抜いて完成を見た [2]。

 次いで学長宅(1925/現安井記念館)、正門、東校舎(1927/現6号館)、ライシャワー宅(1927/現ライシャワー館)が続々と建つ。そして、1931年、門の正面に広場を挟んで建つライト風の図書館(現本館)が完成し、残すは講堂・礼拝堂と、結局実現しなかった6連の寮のあと4つのみとなった(図1)。

図01_レーモンド事務所による東京女子大学計画の配置図(1921年開始)([3]をもとに筆者作図)

ペレ・スタイルのデザイン

 講堂・礼拝堂の工事は1936年5月頃からはじまった。当初は門を入ってすぐ両翼に別々に建てられる予定であったが、構造上の制約や建築費など様々な条件から、結局は両者を一体に建てることになった。杉山がその設計をはじめたのは、1934年頃のことであった。他の仕事の合間を見つけてはスケッチに勤しんだこの計画を、杉山は「理由なしに好きなものの一つだ」ったと回想する[2]。

 全体のデザインはどのように決まったのか。すでに立っていた建物との調和を考えれば、ライト風で揃えるのがよさそうである。しかし、この頃のレーモンドは、師であるライトのもとで沁みついてしまったその作風の影響からの脱却を図りたいと考えていた。そこで採り入れられたのが、鉄筋コンクリート建築の先駆者オーギュスト・ペレ(1874-1954)によるデザインであった。

講堂・礼拝堂の外観。中央の塔の下部にエントランスホールがあり、そこから奥の講堂と手前の礼拝堂にそれぞれアプローチする(写真:吉田誠)

 そのきっかけは、レーモンドのもとにペレの高弟であったチェコの建築家ベドジフ・フォイエルシュタイン(1892-1936)がやってきたことによる。フォイエルシュタインは1926年に来日し、1931年までレーモンドに設計協力した。その間、聖路加国際病院のデザインなどを通じて、ペレ・スタイルをレーモンド事務所にもたらしたのであった[4]。
 
 しかし、やがてそりが合わずにレーモンドとの協働は解消され、チェコへと帰国し、1936年にフォイエルシュタインは自死してしまう。聖路加の図面を一緒に描いた杉山は訃報に接し、「武蔵野の逃水の如く、ふと見えてやがては消えて行く人の命に比べて、其れより遙かに永く存在するであろう建築を意匠する事は決して軽々にさるべくものではない」[2]とその死を悼みつつ、建築をつくる態度を自戒した。そのような杉山の覚悟のためか、講堂・礼拝堂は竣工後90年近く経った今も瑞々しく現役で使われている。

図02_講堂・礼拝堂の1階平面図([6]をもとに筆者作図)

 夭折したフォイエルシュタインは、東京女子大学の礼拝堂にはかかわっていない。しかし、彼を通じてペレ・スタイルを身に付けたレーモンドと杉山は、ペレの名作「ル・ランシーのノートルダム教会」(1923)を大いに参考にしながら、周囲の建物にあうようにスケールを調整して礼拝堂を手掛けることとした。ただし、杉山は「彼のものを其ままCopyする考へはない」[2]と主張する。

 とはいえ、杉山の案内で竣工直後に見学した美術評論家・板垣鷹穂(1894-1966)は、「窓面から支柱まで同様」[5]であると指摘する。規模は違えど、やはりよく似ていたのだ。ただ、板垣は「かう云ふ模倣は決して排除すべきではなからう」[5]といって擁護もする。日本は古来より、外国からの様々な技術・意匠を移入させながら発展してきた。和歌にも「本歌取り」という優れた先例を借用する創作手法がある。優れた先例の模倣なくして優れた独創は成し得ないことを示唆したのだろう。

礼拝堂の内部側面の姿。ヴォールト天井まで到達するフルーティング(縦溝)のある細長い打ち放し丸柱、ガラスの入った有孔ブロックによる壁面、吊るされた照明の形状まで「ル・ランシーのノートルダム教会」とよく似ている。ただし、ブロックの形状や色、腰壁部分の仕上げなど、よく見ると異なる点も多々ある(写真:吉田誠)

アプスと塔

 さて、しかし、ペレの教会とレーモンドの本作とは、全くちがうところもある。それは何といっても、講堂と礼拝堂が一体化している点にある。ペレの教会は、塔の部分が正面に出てきてファサードを構成し、コンクリートブロックによる曲面(アプス)の部分が最奥の裏手にある。しかし、レーモンドのこちらの礼拝堂は、通常は最奥であるはずのアプスがまず正面に見えて、その脇に入口があり、中世のゴシック教会のように屋根の中央に塔が立つ。裏表が逆なのだ。

正門側から見た礼拝堂の正面。上部の曲面部分(アプス)は内部では祭壇の背面となる。中央の扉は入口ではなく、内部にはこの両脇の奥にあるホールの玄関から入る。外観は当初コンクリート打ち放しであったが、第二次世界大戦の最中に空襲を逃れるべく塗ったコールタールが落ちず、戦後になって白く塗られた(写真:吉田誠)
講堂と礼拝堂の中心に立つ塔。塔の部分は鉄骨が入っている(写真:吉田誠)

内部のディテール

 塔の下部はエントランスを兼ねたホワイエとなっていて、ここが礼拝堂と講堂を一体的につないでいる。ホワイエの天井は段々になっているが、この上は講堂後方の階段状の合唱席部分にあたる。その奥、天井の一番高いところの上にはオルガンが載っている。このオルガン室は、礼拝堂にも講堂にも面していて、どちらからでも使えるように可動間仕切りで仕切られている。これは、礼拝堂と講堂は同時に使うことはないという施主側からの前提条件を踏まえてこそ実現した構成であった。

ホワイエと出入口。左手の扉は講堂の入口。中央部右手に礼拝堂の扉がある(写真:吉田誠)

 ホワイエから礼拝堂に入る鉄フレームのガラス扉には、七色に輝く色ガラスの軽量コンクリートブロックと同じ○×+□で構成された幾何学模様が穿(うが)ってある。祭壇や説教壇、2階のオルガン室に至る階段にも軽量コンクリートブロックが使われていて、その落ち着いた色合いが色ガラスの光を一層引き立てている。下部の壁面には大谷石と瓦と人造石をブロック貼りし、素材感豊かな表情をみせている。

礼拝堂の扉(写真:吉田誠)
礼拝堂の扉を開けると、力強い4連の列柱越しにガラスブロックに神々しく照らされた祭壇が望める(写真:吉田誠)
軽量コンクリート製の祭壇と色ガラスブロック、石貼りの壁面。ガラスブロックの色は全部で42色あるという。曲面中央部は無色としてラテン十字形を表現し、外へ向かって黄色は濃くなっている。祭壇の模様は右から葦(人間の弱さ)、百合(キリストの復活)、樫(強さ)を表現([6][8]参照)(写真:吉田誠)
礼拝堂入口上部のオルガン室。この背後では講堂と可動間仕切りで繋がっている(写真:吉田誠)
竣工当時の講堂客席後方のオルガン室(可動間仕切りを開いた状態)。礼拝堂とこの部分で繋がっていて両方からパイプオルガンの音色が聞こえるように設計されていた(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料より)

講堂と礼拝堂の合理的な対比

 講堂は1000人収容できる大空間として設えられた。舞台の視認性を考えて扇形平面とし、音響を考慮して天井を段々に構成するとともに吸音性能のよいセロテックス仕上げを施した。天井にはトップライトが、側面にはハイサイドライトがそれぞれ格子状のすりガラスで空いていて明るい。

 コンクリート打ち放しのヴォールト天井で仕上げられた礼拝堂の方は、牧師の説教がやや残響をともなって響き、色ガラスからの光が陰翳にぼやっと差して幻想的な祈りの空間を演出している。一方の講堂は、講演者の声がはっきりと隅々まで聞こえ、姿や表情がくっきり見える工夫がなされているのであった。その特徴的な壁面の意匠にばかり目が行きがちであるが、講堂と礼拝堂で機能に応じた合理的で対比的な設えがなされていることも見逃せない。

講堂(写真:吉田誠)

講堂の裏階段

 最後に、普段は学生も入ることがない講堂の裏側の空間に入れていただいた。何もないだろうと思って入ったものの、そこに見事ならせん階段をみつけ狂喜した。人に見せる空間では決してないところに、実に巧みな造形美が施されていたのである。

 そこには、前稿で扱った「旧赤星鉄馬邸」の主役であった廻り階段の美しさに通ずるものが見出された。廻り階段の名手としての杉山の手腕がいかんなく発揮された部分であるといってよいだろう。
 
 この建築は、レーモンドの作品である。しかし、レーモンドはこの現場が進んでいる間に国外へと旅立った。つまり、建物を完成させたのは杉山であった。その杉山が、レーモンドのデザインを忠実に実現しながらも、しかし自身の建築家としての矜持をこっそりと込めた部分こそが、この裏階段だったのではないか。そのような想像がかき立てられる発見であった。

杉山渾身の作と思われる講堂裏のらせん階段(写真:吉田誠)

 ちなみに、杉山の旧蔵資料の中には、本作の写真がファイリングされたノートがある。その中には、礼拝堂部分の写真に混ざって、竣工時のものと思われる講堂裏階段の写真が、一点だけ収まっていた。控えめに、ひそやかに、しかし大切にこの階段を杉山が愛でていたことが想像されてくる。

礼拝堂の特徴的な意匠の写真に混ざって、右上に1点だけ講堂の裏階段の写真がある(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料より)

いとおしい建築

 1938年3月25日、完成して間もない講堂で卒業式が行われた。暖房の効き具合や音響の具合を確かめてみたかった杉山は、式に参列した。日中戦争が勃発した1937年7月以降、日本では資材統制が行われるようになる。国家総動員法が公布される1938年4月以降は一層厳しくなってゆく。鉄筋コンクリートに用いられる鉄はとくに厳しい。民間の建築に鉄は使えなくなってゆく。1938年3月に竣工した東京女子大学講堂・礼拝堂は、まさにギリギリ統制を免れたものだった。
 
 同僚や大工らが戦争へと出征するなど、現場には悲壮な空気が漂ったりもした。レーモンドの旅立ちもあり、様々な苦労を経て完成した建築だった。それだけに、杉山の思い入れもひとしおであったにちがいない。工事が終わった後もしばらく、「出来不出来は兎も角懐しいのだ。何かいとほしい気持ちで一ぱいなのだ」[2]という想いに包まれつつ、中央線の車窓から礼拝堂の塔を眺めたという。竣工後に撮られた屋上での写真には、そんな杉山のいとおしい気持ちがにじみ出ていた。

写真12_竣工当時、屋上の塔の横でほほ笑む杉山(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料より)

次回は、杉山雅則とはどんな人だったのか、三菱地所に移籍する以前に手掛けた個人としての作品にも触れながら、その謎多き人物像に深く迫ってみたい

参考文献
[1]アントニン・レーモンド, 三沢浩訳『自伝アントニン・レーモンド』鹿島研究所出版会, 1970
[2]杉山雅則「東京女子大学の校舎」,『国際建築』1938年5月号, pp.173-176
[3]『アントニン・レイモンド作品集 1920-1935』城南書院, 1936
[4] 三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』鹿島出版会, 2007
[5]板垣鷹穂「東京女子大学の新堂」,『国際建築』1938年5月号, pp.169-171

[6]レーモンド建築事務所 杉山雅則設計「東京女子大学講堂及礼拝堂・杉並区井荻」,『国際建築』193年5月号, pp.157-171
[7]磯達雄・宮沢洋「東京女子大学礼拝堂・講堂(1938年) 日本化するモダニズム」,『日経アーキテクチュア』2016年3月24日号, pp.82-85
[8]東京女子大学 キャンパス見学ガイド

撮影中の写真家・吉田誠氏(写真:宮沢洋)
レーモンド設計の本館(1931)。キャンパス内にはこのほかにも様々な建築家による名建築が点在している(写真:種田元晴)

種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。1982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。2017年日本建築学会奨励賞受賞。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。編著に『有名建築事典』(学芸出版社、2025)。主な本稿関連論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。

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(写真は松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料より)

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