堀部安嗣連載「My Favorite Things」第1回:“すでにあるものを活かす”ことから生まれたドラムセット

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 2024年11月に自宅が竣工し、生ドラムを思い切り叩ける環境をようやく手に入れました。それまでは事務所の中につくった防音仕様の小部屋が練習場所で、生ドラムも置いていましたが、振動音が階下に伝わらないかが気になり、いつも電子ドラムを叩いていました。電子ドラムでも振動音が全くないわけではないので、早朝や夜など階下に人がいない時間帯を選んでいました。今はそのように気を遣うこともなく、頭を空っぽにして生ドラムと向き合える。至福のひとときです。

自宅のドラム部屋(特記以外の写真:堀部安嗣)

 愛器はアメリカの「ラディック」のもので、私の生まれ年と同じ1967年製。もうすぐ60歳ですが、モノ的に全く問題ないどころか年々良い音になっています。ドラムがいかに原始的な楽器であるか、また反対に、今の身の回りにあるものがいかに短命であるかということを知るうえでも大切にしています。ラディックはビートルズのリンゴ・スターやレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムが使っていたからというミーハーな理由で使い始めたけれども、当時のラディックでしか出せない、オープンで太鼓同士が共鳴し合うサウンドに感銘を受けています。

 ジョン・ボーナムとスティーヴ・ガッドは私にとって永遠のドラム・ヒーローです。この二人は私のみならず、多くのドラマーの憧れですね。特にツェッペリンはよく聴いてきたので、ジョン・ボーナムのテンポ感が身体に染み付いています。彼のドラムは「重たい」と言われるけれど、音量が大きいからそう聴こえるだけで、実はそんなにレイドバック(ジャストなリズムに対してやや遅れた感じの演奏)しているわけではなく、非常に独特です。音量が大きいのは太鼓の口径が大きいからで、大きな太鼓を鳴らせる技術があるということです。

 ドラムをやってきたことは、私の設計に少なからず影響を与えています。住宅の平面図を描くときに、その土地の状況や周辺環境、建て主の生活や人間性などから、4拍子でいくのか3拍子か、8分の6拍子か、はたまた変拍子か、相応しいリズムが最初に浮かぶのです。そして4拍子なら四角い田の字のようなプラン、3拍子なら円を描くようなプラン、変拍子やポリリズムなら五角形と矩形を組み合わせたプラン、という具合になってゆきます。

ジェフ・ポカーロの一打に打ちのめされた

 中学生の頃からドラムへの憧れがあり、ドラムセットを叩きたくて高校では吹奏楽部に入りました。父が歌謡曲などを聴きながら指先でトントン、トトン、とよく拍子を取っていて、今思えばそれが耳に残っていたのかもしれません。誰かからもらったトランペットが家にあったので中学時代に趣味で吹いてみたものの性に合わず、『ザ・ベストテン』などの音楽番組を見ているときもドラムばかり目と耳で追っていました。

 高校時代はドラムの練習に明け暮れる日々。ドラムセットは上級生が優先的に使うので、下級生の間はセットに座れる時間が限られ、普段はトレーニングパッドで練習していました。トレーニングパッドには音階がなく、練習していると音階が欲しくなってきます。でも音階がないからこそ、自分のスティッキングや手首の動きが上手くいっているかどうかがよく分かる。音階でごまかされることなく、自分の至らないところが見えてくる。

 筑波大学での学生時代はバンドを組んでいました。ドラムはベースとともに、バンドサウンドの「屋台骨を支える」とか「縁の下の力持ち」と言われます。これはすなわち「環境をつくる」ということで、大学で環境デザインを選んだことに通じるところがあります。バンドではボーカルやギターが花形で、ステージの前方に出て派手にパフォーマンスしますが、そんな才能は自分にはないと思っていました。同じように絵画や彫刻のような純粋芸術をやっていく才能も覚悟もないから、それなら自分は環境をつくる側に回ろうと思って環境デザインに進んだのです。

 浜松の高校から進学して学生用マンションに一人暮らしだったので、念願のドラムセットを家に置いていました。苦情がこないから、意外と音が漏れないものなんだなと思って練習を続けていたところ、ある日、帰宅したら、玄関扉に赤い字で「死ね」と。この一件以降はさすがに家の中で生ドラムを叩くことは止めました。

 TOTO(トト。アメリカのロックバンド)のドラマー、ジェフ・ポカーロとの衝撃的な出会いも学生時代のことです。音楽の世界ではプロのミュージシャンが歌唱方法や楽器の演奏方法をレクチャーするクリニック(イベント的なレッスン)がよく行われていて、海外の有名なミュージシャンが招かれることもあります。そのときは来日中のジェフ・ポカーロがドラムクリニックを行うというので友人に誘われたのですが、当時の私はTOTOの音楽をウェストコーストのチャラいロックというイメージで見ていたので気が進まず、渋々という感じで都内のスタジオに赴きました。ところが、ジェフ・ポカーロがニコニコしながらドラムセットに座り、バーンと最初の音を鳴らした瞬間、打ちのめされました。たった一打で、自分はドラムで食っていくことはできないと分かった。実は、それまではドラムで生きていこうと少しだけ思っていたのです。でも何もかも違った。あまりに衝撃が大きく、しばらくドラムを叩くことができなかったほどです。

リバウンドを利用する“パッシブ”なドラミングはサステナブル

 音というのは空気の振動です。空気の振動が音になる。電子ドラムはパッドにセンサーが付いていて、叩いた振動を信号に変え、その信号を音に変えるという仕組みですが、音楽は本来、空気の振動をコントロールするもの。だから、その振動を止める電子ドラムは叩いていてもどこか物足りない。ライブハウスも歌唱や各楽器の演奏による空気の振動が響いてくるくらいの大きさのハコが一番気持ちいいと思います。

 打楽器は楽器の中で最も起源が古いと言われ、実際にドラムを叩くという行為には原始的な感覚を呼び覚ますところがあります。叩いていると次第にスティックが自分の手の一部に、バスドラムのフットペダルも自分の足の一部になってきて、そのようにドラムと自分の身体に一体感があるときは音色が良く、空気の振動も思い通りにコントロールできている。こういう音色が欲しいとか、倍音が欲しいといった自分のイメージと実態が一致してくると演奏がひときわ楽しくなります。

 スティックは軽く握ります。ほとんど力は入っていません。イメージで言うと、生卵を握っている感じ。フットペダルも、生卵にビーター(バスドラムの打面を直接叩く部分)を当てるように扱う。

手前の大きい太鼓がバスドラム
フットペダルはラディックのスピードキング。90年近く変わっていないペダルの完成形。この反応とサウンドを一度体験すると、その後はこれ一択となる人が多い

 ドラムは一見、演奏するのに体力が必要な楽器に思えるかもしれませんが、手に力を入れるのはほんの一瞬だけ。ほとんどぶらぶらで、そのほうが良い音色になる。そして、上手な人ほど疲れていない。それはスティックのリバウンド(はね返り)を利用しているからです。これは楽器の中でもドラム特有の奏法で、パッシブ、受動的であると言い換えることもできるでしょう。派手に腕を振り下ろしたりするのはパフォーマンスの部分が多いのではないでしょうか。パフォーマンスによって気持ちを高揚させる効果はあると思います。でも長く音楽をやっていきたいというドラマーは、最小限のエネルギーで最大の効果を発揮させることをいつも考えていて、疲れないフォームや叩き方を知っています。疲れなければ、スピードを保つことができるばかりか上がっていき、自分のエネルギーも持続する。サステナブルなんです。

 私の好きなアメリカの映画監督、デイミアン・チャゼルのデビュー作『セッション(原題:Whiplash)』は、ジャズドラマーを主人公とした実に面白い映画でした。でもドラマーの手が叩き過ぎて血まみれになったり、極度の緊張感の中で叩いていたり、これはさすがに映画上の演出が強過ぎると思いました。手の皮が剥けたり、血豆ができたりするのは、余計な力が入っている証拠で、ドラマーは何よりリラックスしていなければ良い音は出せず、良い演奏につながらないからです。

ドラムセットで一番の発明はハイハット

 ドラムセットは大小の太鼓やシンバルなどを一人で演奏できるように組み合わせたものです。19世紀末にアメリカ南部ニューオーリンズのドラマーが足で大太鼓(バスドラム)を演奏できるように木製のペダルのようなものを考案したことが始まりだと言われています。ペダルの発明により、それまでは別々の奏者がプレイしていたスネアとバスドラムを一人が同時にプレイすることができるようになりました。

 ニューオーリンズと言えばジャズ発祥の地で、19世紀末は南北戦争の後。奴隷制から解放された黒人たちは、敗れた南軍が放出した軍楽隊の楽器を格安で手に入れ、酒場やダンスホールでそれらを演奏して生活費を稼ぎ、やがてジャズが誕生しました。

愛用のハイハットスタンドはヤマハのHHS3。入門機で廉価ながら素直かつ軽量で扱いやすい

 ジャズが発展してゆく中で1920年代初頭には、足で2枚のシンバルを叩き合わせるペダル付きの楽器を改良してハイハットが開発され、ドラムセットが劇的に変化しました。私は特にこのハイハットのメカニズムが大好きです。

 このようにドラムセットは「すでにあるものを活かす」という発想から生まれています。私が東京・奥多摩の「Satologue(さとローグ)」など地域創生のプロジェクトに関わるようになって「すでにあるものを活かす」ことの尊さに改めて気づき、近年はこれを建築のテーマの一つとしていることは偶然ではないような気がします。

「Satologue」は地域活性化プロジェクト「沿線まるごとホテル」の中核施設。古い民家と倉庫を改修したレストランとサウナが宿泊棟に先立ち2024年5月にオープンした。奥多摩の豊かな自然環境の中にある(写真:齋藤さだむ)
「Satologue」のレストラン内部。宿泊棟は2025年5月25日に開業予定(写真:齋藤さだむ)

堀部安嗣(ほりべ・やすし):建築家。1967年神奈川県横浜市生まれ。1990年筑波大学芸術専門学群環境デザインコース卒業後、益子アトリエにて益子義弘氏に師事。1994年堀部安嗣建築設計事務所を設立。2007年〜24年京都芸術大学大学院教授。2022年〜放送大学教授。著書に『堀部安嗣作品集 1994–2014 全建築と設計図集』『堀部安嗣作品集Ⅱ 2012–2019 全建築と設計図集』『堀部安嗣作品集Ⅲ 2019–2024 全建築と設計図集』(いずれも平凡社)、『建築を気持ちで考える』(TOTO出版)、『住まいの基本を考える』(新潮社)など。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。