まち・建築・ビジネス、田中仁の建築ヒストリー04:JINS前橋本社の建設――青木淳氏設計の洗練された空間に監査法人などの担当はびっくり、上場審査では「派手な会社」のイメージも

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JINSの経営が軌道に乗り、前橋市の郊外に新本社を建設することになった。2006年に完成したモダンな空間は青木淳氏による設計だ。田中仁氏は「クリエイティブな会社なら当然」と考えていたものの、上場審査におけるヒアリングでは「派手な会社では」といった印象も…。(ここまでBUNGA NET編集部)

2006年に竣工したJINSの前橋本社(写真:DAICI ANO)

 JINSの事業は紆余曲折を経ながらも軌道に乗り、成長を始めていた。スタッフの増加に伴い、当時、前橋市の実家近くに建てた事務所だけでは手狭になってきたため、2004年には付き合いのあった信用金庫の支店統廃合で空いた建物を借り、2カ所に分かれて業務を行っていた。営業部門は元の事務所、管理部門は信用金庫跡を使用していたが、どうにも使い勝手が悪く、新たなオフィスの構想が始まった。

建築雑誌の中から自然と目に留まったのは妹島和世氏と青木淳氏

 新オフィスの場所は、前橋のロードサイド店舗からほど近く、利根川を渡る上毛大橋のたもと。周囲に高い建物もなく、雄大な赤城山を望む絶好のロケーションだった。そこを長期契約で借りることができた。課題は、建築設計を誰に依頼するかだった。当時読んでいた建築雑誌の中から、自然と二人の建築家が目に留まっていた。妹島和世さんと青木淳さんである。仕事を引き受けていただけるかも分からない中での、いささか贅沢な人選だった。

 今となっては、世界的建築家に向かってそんな話をするのも恐縮だが、当時の妹島さんについては、前衛的な設計ゆえに「その発想を受け入れる覚悟が必要」などと誰かが言っていたことにひるんでしまった。建築が好きだとはいえ、当時はまだ経験も少なかった私には、その価値を正しく理解できなかったのだと思う。

 最終的に青木淳さんにお願いしようと決め、人づてに紹介していただき、なぜ依頼したいのかを手紙にしたためた。ほどなくして青木さんから「一度会いましょう」と返事をいただき、東京・外苑前にあった当時のオフィス「原宿ニューロイヤルビル701号室」を訪ねた。2004年9月17日のことだった。

 そのビルはマンションタイプでかなり古く、エレベーターを下りて事務所に向かう途中の通路が傾いていて、少し怖かったのを覚えている。のちに数多くの建築家と会うことになるが、それら建築家の事務所は古い建物の中にあることが多く、決してきれいとは言えない場所も多かった。模型を多数置くため広さを優先するのか、立地は駅から遠く、建物も古いビルが多いという印象を受けた。

 話を戻すと、青木さんは数人いた青木淳建築計画事務所(当時、現AS)の所員を集め、今回のプロジェクトの構想を話し始めた。どうやら事務所内でコンペ形式にするらしい。しばらくして、改めて事務所に呼ばれ、いくつかの模型を見せていただいた中で、丸田絢子さん(現・丸田絢子建築設計事務所)の案が選ばれた。

 丸田さんの案について、青木さんが丁寧に説明してくださった。記憶はあいまいだが、印象に残っているのは、「郊外店はハリボテのような店舗が多い。そうした特性も逆手に取るようなデザインにしたい」という趣旨の話だったと思う。青木さんと丸田さんは条件整理を丁寧に進め、いくつかの地元企業に見積もりを依頼した。最終的に、高崎市に本社を置く冬木工業さんに施工をお願いすることになった。

玄関ホールにアーティストの作品が飾られた地方企業とは思えないモダンな空間

 青木淳さんの公式サイトには、完成したプロジェクトについて以下のような記述がある。

 「前橋郊外に建つ事務所建築である。1階は作業室や倉庫などのワークショップ空間、2階は執務空間、3階は会議室や社員食堂のための空間になっている3階建ての建築である。1階は防犯上、3階はプライバシー確保のため、建物の周囲に砂防有孔折板のスクリーンを巻いている。その結果、2つの同じ細長い直方体のボリュームが、若干の隙間をあけて縦に積まれているように見える建築になっている。室内には木毛セメント板が多用されており、砂防有孔折板も木毛セメント板も、そのテクスチャーだけを残すように白く塗られている。駐車場のアスファルトも白く塗装され、駐車スペースは一つ飛ばしに黒く残すことで位置を示している。建築全体として、実体と表層の関係を扱っている。協力:安東陽子(テキスタイル)・岡安泉(照明)」

JINS前橋本社のファサード(写真:以下4点はDAICI ANO)
1階にはワークショップ空間を配置
3階のスペース
駐車場はアスファルトも白く塗装し、1つ置きに黒く残すことで駐車位置を示す

 2006年1月に竣工したこの本社では、建築に加えてアートも取り入れることになり、「TARO NASU Gallery」(当時、現TARO NASU)の那須太郎さんの推薦で、アーティスト・大竹竜太さんの作品を設置した。玄関ホールには立体作品と絵画が飾られ、群馬の会社とは思えないほどモダンで魅力的な空間が生まれた。

 当然、地域ではその建築が大きな注目を集めた。その頃、会社は上場準備を進めていた。証券会社や監査法人の担当者たちは、新築された新しい本社の洗練された空間に驚いていた。「ブランドとしてクリエイティブな発想が必要な会社なら当然」と私は思っていたが、そう思わない人もいるということを知った。

 上場審査の過程では東京証券取引所の担当官によるヒアリングもあり、その際に「この会社は派手なのでは?」という印象を持たれてしまったらしい。ライブドア事件も影響していた時期で、2006年3月に東証マザーズ上場を目指していたが管理体制の不備などを指摘され、管理体制を強化して同年8月に大阪証券取引所・ヘラクレス市場へ上場を果たした。

 本社が竣工した後に新社屋完成記念パーティーも開催した。当時、兄の家を設計してくれた藤本壮介さんにも参加していただいたが、青木さんとの議論が白熱し、周囲がヒヤヒヤするほどだったと後で聞いた。

ヴェネチア・ビエンナーレの後援会としてU-40の若手建築家を無料招待

 このような縁は今も続いている。2025年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展では、青木淳さんが日本館のキュレーターを務められた。国際交流基金が主催するものの、予算が限られていたため、民間による青木淳後援会(第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本代表・青木淳後援会)が立ち上がった。

 建築家に仕事を依頼している数や年齢のバランスから、私が後援会長を務めることになり、2025年5月11日にはヴェネチアのレストランでオープニングパーティーを開催した。現地には藤本壮介さん、平田晃久さん、中村竜治さんなど、付き合いのある建築家が集まり、とても和やかで楽しい日だった。

 青木淳さん率いる日本館のテーマは「In-Between」。解釈の余地を残したテーマ設定で、建築展でありながら「問いを提示する」展示は、各国の中でもひときわ目を引いていた。今でこそアートと建築の境界が曖昧になりつつあるが、昔からその先端を走っていたのが青木さんだったと思う。

 また、今回のヴェネチア・ビエンナーレでは、後援会の取り組みとして40歳以下の若手建築家を無料招待し、世界に触れてもらう機会を提供した。選考を通過した11人が参加してくれた。この中から世界に羽ばたく建築家が生まれたらと思うとワクワクした。国際的な競争力が低下しているといわれる今の日本において、私はこれからも、世界に誇れる建築の担い手を応援していきたいと思っている。(田中仁)

「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展2025」における日本館の展示の様子。青木淳氏がキュレーターを務めた今回の日本館は、「中立点(In-Between) 生成AIとの未来」がテーマ。キュラトリアルアドバイザーとして家村珠代(インディペンデントキュレーター、多摩美術大学教授)、出展作家として藤倉麻子+大村高広(アーティストと建築家によるユニット)、SUNAKI(木内俊克と砂山太一による建築ユニット)の各氏が参加している(写真:宮沢洋)
日本館の展示の前にて。青木淳氏(左から2人目)とキュラトリアルアドバイザーの家村珠代氏を挟んで、左手は青木淳後援会副会長でイシカワホールディングス社長の石川康晴氏、右手は筆者(写真:筆者提供)

※次回は9月半ばに掲載予定

田中仁(たなか・ひとし):株式会社ジンズホールディングス代表取締役CEO、一般財団法人田中仁財団代表理事。1963年群馬県生まれ。1988年有限会社ジェイアイエヌ(現:株式会社ジンズホールディングス)を設立し、2001年アイウエア事業「JINS」を開始。2014年群馬県の地域活性化支援のため「田中仁財団」を設立し、起業家支援プロジェクト「群馬イノベーションアワード」「群馬イノベーションスクール」を開始。同時に衰退していた地方都市・前橋のまちづくりに取り組み、2020年白井屋ホテルを開業し、現在も奮闘している(イラスト:宮沢洋)