建築家の乾久美子氏と事務所スタッフが輪番で執筆する本連載。第2回はスタッフの川又修平氏が、よく見かける「みどりのデザイン」を観察する。乾画伯のイラストにナビゲートされつつ、一緒に観察してください。(ここまでBUNGA NET編集部)
ありふれた身近なみどり
乾事務所ではウェブサイトのリニューアルをきっかけに、小さな風景のリサーチを再開した。現在では、2週間に1回程度のペースで、日々の生活のなかで見つけた小さな風景をアップしている。基本的にどんなものでも良いのだが、あまりにばらばらだと日々ウェブサイトに載せていくには取り留めのないものになってしまうため、いくつかのテーマを設けている。テーマは、内容を縛りすぎてしまわないように読み方によって意味が変わるような、余白のある言葉選びになっている。
今回はテーマの中から「みどりのデザイン」を取り上げる。このテーマでは、路上の植木鉢や公園の木々など身近なみどりにまつわる小さな風景を集めているのだが、実際に集められた小さな風景は多種多様な面白さを持っていて、その全てをひとつの切り口で語ることは難しく思えた。そこで一冊の本を手がかりに、ふたつの事例を取り上げ、細かく読み解いていくことにした。その結果「エコシステムにはデザインがある。」と言えそうなことが分かってきた。
小さな水槽のエコシステム
はじめに取り上げるのは、尾道の千光寺新道で撮影したもので、坂道がクランクする踊り場のような場所に小さな水槽が置かれている。よくみると水槽を中心にいろいろなものが定着している。
まず、水槽には睡蓮が花を咲かせ、中には金魚が住んでいる。これだけでも、ちょっと一休み、と足を止めてみたくなる魅力ある場所だ。隣接する家屋からは「どうせなら水槽に…」といった具合に雨樋や室外機のドレン管が伸びていることから、水槽の主な水源は雨水とドレン水と考えられそうだ。
いっぱいになって溢れた水は、道の端に切られた側溝に回収されて尾道の坂を下っていく。擁壁の上段の庭に茂った草木は、水槽に葉を落としているだろう。その立地から水やりや打ち水に、いざという時には防火水槽として使うようなこともあり得そうだ。少し調べてみると、千光寺新道は尾道の商人であった天野春吉が整備した道で、水槽もその際つくられたものだということが分かった。
水槽という人工的につくられた小さな水辺の周りに、人や生き物をはじめ、樋や室外機などのものたちが参加して、関係の結び目のようなローカルなエコシステムがうまれている。ここで重要だと思うことは、そのうちのいくつかは物理的に定着され、その関係を可視化していることだ。そうして初めて人はその存在に気が付き、その気になればそこに参加できる。そうした、どんどんと人、もの、ことを巻き込んでいく開かれた系としてのエコシステムがここにはある。
路地園芸ネットワーク
もうひとつの事例をみてみよう。この写真のように街の中では植木鉢を並べたり、玄関先に花壇を設えたり、まとまった地面などなくともタフでいきいきとした路地園芸をよくみかける。そのどれもが個性をもっていて、結果的に前を通りがかった人々に楽しみを提供している。
こうした路地園芸は、単体でも見ごたえのあるものだが、俯瞰してその広がりに着目すると街にオーバーレイされたみどりのネットワークとして捉えることができる。このみどりのネットワークの密度が街の雰囲気を左右するなんてこともありそうだ。さらに、生態学分野における「生態的回廊」や「緑の回廊」という手法とも親和性があると考えられる。本来は、生き物の生息地間を結ぶ連続的な森林や緑地を計画することで個体群の移動を可能にし、遺伝的多様性、生物多様性を保全するものであるが、最近は都市のなかの緑地をネットワークとして評価する動きもあるようだ。
ばらばらな路地園芸がいつのまにか生み出す路地園芸ネットワークの維持には、人の存在が必要不可欠であり、そこには人と植物がつくるエコシステムが成立している。ただ、このエコシステムについて冷静に考えてみると、植物にとってとても好待遇なアンバランスなエコシステムが出来上がっているというのも、面白いところだ。人はあくせくと、もの言わぬ植物に対して日当たり良好なロケーションを譲り、暑ければ日陰をつくってあげ、寒くなれば鉢を動かして部屋に入れてあげる。土が乾けば水をやり、かといって根腐れしないように気を配る。それだけみどりの魅力というのは偉大なもので、人々を魅了し、ただそこにあるだけで街の雰囲気を変える力を持っている。
「自然」という幻想
自然や生き物と人との関係を考える上で手引きとなりそうなのが『「自然」という幻想―多自然ガーデニングによる自然保護』(2021年発刊)という本だ。著者のエマ・マリスは、アメリカ出身でネイチャー誌をはじめとする専門誌に新しい議論を紹介し続ける環境ライターだ。マリスは「手つかずの自然」は幻想であり、とうの昔からすべての自然には人の手が加えられている、と主張する。
当たり前のように思えるが、しかし多くの人たちは、人が介入していないジャングルやサバンナ、鬱蒼とした森のような「手つかずの自然」が本来の姿であると考えており、加えて「手つかずの自然」は人によって破壊されている、という構図とセットで世界的な共通認識を形成している。この認識は産業革命以降、人類が目に見えて多くの自然を破壊してきたこと、そしてその対策として人を締め出し「手つかずの自然」を囲い込むことで保全を図る自然保護区や国立公園の設置が進められてきたことが関係しているそうだ。
こうした来歴はいつのまにか、人の存在を自然から切り離してしまった。先に触れた主張は、人は自然から切り離された存在である、という考え方に疑問を投げかけるものでもある。その上でマリスは、これまでも自然が人の営みを飲み込んだ上で存在してきたことを、具体的な事例を挙げて示していく。
マリスの主張をかりれば密林のジャングル、イエローストーン国立公園だけでなく、里山のような人工林をはじめ、週末に立ち寄る公園、リビングの観葉植物、道端の雑草まで、すべてが自然である。それはつまり、人為的なものと対比するかたちで捉えてしまいがちな自然の定義を押し広げていくものになる。
こうした主張は、身近にあるどんなに小さなみどりであっても、それを自然として見つめる視点を提供し、さらにはどのような次元の自然においても、人、もの、ことを巻き込むエコシステムが存在することを裏付けてくれるものだろう。
新しい生態系(novel ecosystem)
ところで、ふたつ目の事例で取り上げた路地園芸のような都市の中のみどりの多くは園芸店で買ってきた植物でつくられることから外来種の割合も多いと思われる。そのため、路地園芸に関して外来種の問題は避けて通れない。
この問題についてもマリスの著書は、面白い視点を与えてくれる。端的にいうと、人の攪乱が原因で外来種が侵入した生態系が必ずしも生物多様性を失う訳ではないということだ。さらには、外来種が生態系の中で有用な位置を占める事例が新しい生態系(novel ecosystem)として紹介されている。つまり一方的に外来種=悪と断罪することはできないようだ。
このあたりのアカデミックな良し悪しについては、素人が容易に手を出せない領域であることは明らかであるが、現実に街の中のみどりはそのほとんどが人の手によってつくり出されたものであるので、外来種を含む撹乱された生態系に光があたるのであれば、それは街にとってポジティブなものになるだろう。
エコシステムのデザイン
最後に「みどりのデザイン」というテーマについて、今回の学びから私なりの解釈を示したい。
「みどり」という言葉は広く自然に関係するものごとを指して用いているため、ここでは自然があるところに必ず存在する「エコシステム」に言い換えてみる。では、「エコシステムのデザイン」とはなにか。
事例をよくみる中でエコシステムの存在に気が付くきっかけは、関係性の物理的な定着にあった。それは丁寧に観察すると読解可能なものであり、そこから意味や構造を引き出すことができる。これは、人とデザインされたものとの間に起こるやり取りにとても似ているのではないだろうか。そこで少々、無理があるのは承知の上で、以下のように言い切ってみるのが良さそうだ。
エコシステムにはデザインがある。
そうすることで、凝り固まった自然、そしてデザインへの姿勢を解きほぐすきっかけになるだろう。(川又修平)
川又修平(かわまたしゅうへい、右の写真):1991年東京都生まれ。2014年明治大学理工学部建築学科卒業。2016年明治大学大学院理工学研究科建築学専攻修了。2016~2018年再生建築研究所勤務。現・乾久美子建築設計事務所勤務
乾久美子(いぬいくみこ):1969年大阪府生まれ。1992年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1996イエール大学大学院建築学部修了。1996?2000年青木淳建築計画事務所勤務。2000乾久美子建築設計事務所設立。現・横浜国立大学都市イノベーション学府・研究室 建築都市デザインコース(Y-GSA)教授。乾建築設計事務所のウェブサイトでは「小さな風景からの学び2」や漫画も掲載中。https://www.inuiuni.com/
※本連載は月に1度、掲載の予定です。連載のまとめページはこちら↓。