圧巻!パリ五輪「ケイリン」代表も育ったレーモンドの「日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)」を探訪

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 日本代表の競技結果に一喜一憂する4年に一度の夏。8月7日からは“日本生まれの五輪種目”である「ケイリン」が始まる。五輪種目となったのは2000年シドニーオリンピックから。以来四半世紀、「日本発祥の自転車競技を世界一にする」という夢の実現は持ち越されてきた(最高は2008年北京五輪の銅メダル)。正直、これまであまり気にしていなかった競技だが、今年は目を凝らして見たいと思う。BUNGA NETでなぜケイリンの話なのか──。そろそろ心配になってきたかもしれないので、いったん写真を出しておく。

(写真:特記以外は宮沢洋)

 知る人ぞ知る「日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)」。レーモンド建築設計事務所の設計で1968年、静岡県伊豆市に完成した。これで安心して読んでいただけることだろう。

パリ五輪「ケイリン」代表は全員が卒業生、ここは“競輪の聖地”

 こんな話をしながら何だが、筆者には自転車トラック種目の違いがよくわからない。調べてみると、種目としては持久系3種目(オムニアム、チームパシュート、マディソン)、スプリント系3種目(ケイリン、スプリント、チームスプリント)があり、それぞれ男女別で行うため計12種目。このうち日本発祥の「ケイリン」は、下記のような競技だ(https://keirin.jp/より)。

 「ケイリン」は、2000年シドニーオリンピックから柔道に次ぐ日本生まれの五輪種目となりました。ケイリンは、電動アシスト付き自転車をペースメーカーとして使用し、このペースメーカーが退避するまでの間に、ベストポジションをキープするための駆け引きが激しく行われ、最後の1周回で一気に勝負が決まります。日本の競輪と決定的に違うのは「ライン」が無いということ。完全に個人対個人の戦いとなります。

 なるほど、そういうことか。そして、今回のパリ大会のケイリンで金メダル取るのではないかと期待されているのが下記の4人の代表選手だ。

【男子ケイリン】
▽太田海也選手
▽中野慎詞選手
【女子ケイリン】
▽太田りゆ選手
▽佐藤水菜選手

 全員が日本の「競輪」の選手だ。「競輪の選手」ということは、全員、この「日本競輪選手養成所(旧称:日本競輪学校)」の卒業生なのである。

 日本で「競輪」がスタートしたのは1948年。その20年後の1968年、日本競輪学校が開校した。2019年に日本競輪学校から競輪選手養成所へ名称変更した。競輪場は全国に43カ所あるが、いまだ日本で唯一の競輪選手の養成学校。まさに“競輪の聖地”だ。

 競輪選手は全員がここの卒業生で、その数、1万人以上。よく知られる名前を挙げると、中野浩一(第35期生)、瀧澤正光(第43期生)、神山雄一郎(第61期生)、十文字貴信(第75期生)、脇本雄太(第94期生)、小林優香(第106期生)…と、この競技に疎い自分でもすごさがわかる。

 卒業生もすごいが、施設の“変わらなさ”もすごい。アントニン・レーモンド(1888~1976)の下で設計された建築群が、「候補生宿舎」が解体された以外は、ほぼそのまま残っている。そして、残っている施設のエッジの立ち方がすごい。ここからはBUNGA NETらしく、写真中心でいく。

案内してくれた公益財団法人JKAの皆さん。右から伊豆事業部の萩原賢次長、同・菊池司部長、同・庶務課の加藤慎也氏

構造の教科書のような施設群

 まず、全体の配置図から。事情は後述するが、この図は三菱地所設計が原設計図をもとに作成したものだ。

全体の鳥瞰(写真提供:三菱地所設計、©Masao Nishikawa)

 それでは、敷地内で一番目立つ富士山屋根の体育館から。以下の太字部は三菱地所設計によるコメントだ。

【体育館】
構造:変化は見当たらない。
外観:修理や屋上防水の追加が原因とされる外部仕上げ変更が多くみられた。建具は概ね竣工当時のもの。
内観:主要空間体育館の天井や壁は概ね竣工当時の状態。

 体育館から、凝りに凝った「渡り廊下」を通って「333ピスト」のスタンドへと向かう。

【333ピスト・スタンド】
構造:変化は見当たらない。
外観:概ね竣工当時のもの。劣化の補修痕跡がある。

【実習場】
構造:変化は見当たらない。
外観:修理に伴う仕上げの変化あり。一部の外部建具が変更された。
内観:主要空間である自習場空間は概ね竣工当時の状態(修理に伴う仕上げの変化あり)。使い方も変更なし。

【ローラー場】
構造:変化は見当たらない。
外観:外壁、屋根、一部の建具やり替え。
内観:主要空間であるローラ場空間は概ね竣工当時の状態(修理に伴う仕上げの変化あり)。使い方も変更なし。

【第二格納庫】
構造:変化は見当たらない。
外観:測定室諸等室の間仕切りの変更、修理に伴う仕上げの変化、建具位置の変更が多くみられた。
内観:主要空間である自転車格納庫は概ね竣工当時の状態(修理に伴う仕上げの変化あり)
使い方も変更なし。

【校舎・講堂】
構造:耐震補強のための耐震壁新設されており構造の変化は見受けられる。
外観:耐震壁の新設により、キャンチレバーを強調する外観の意匠は弱化されている。
内観:エントランスホールや講堂、教室等主要空間は概ね竣工当時のもの。

主要な作品集には出てこない「知る人ぞ知る」建築

 冒頭に、「知る人ぞ知る日本競輪学校」と書いた。建築関係者に向けて言うならば、「知る人ぞ知るアントニン・レーモンドの建築、日本競輪学校」だ。かなりのレーモンド通以外は、この記事で初めて存在を知ったと思う。主要な作品集には出てこないからだ。

 レーモンドは戦前から日本で活躍するも、1937年に日本を離れ、終戦から3年後の1948年に再来日。1973年、アメリカに帰国し1976年に亡くなった。日本競輪学校は、レーモンドがアメリカに帰国する5年前、80歳のときに完成した。レーモンド建築設計事務所の設計であることは、『建築文化』1968年11月号に載っているので間違いない。

この斜面にあった「候補生宿舎」だけが取り壊されている。地下3階・地上2階建ての弓形平面の建物だった

 『建築文化』の解説文は、レーモンドのパートナーであった田邊博司が書いている。田辺が主導したから、レーモンド作品として有名ではないのだろうか。だが、構造へのこだわりや、素材感の見せ方など、まさにレーモンド。有名なレーモンドの五原則(「単純性」「自然性」「経済性」「直截性」「誠実性」)にもぴったりはまる。筆者(宮沢)は建築史教育を受けた人間ではないが、これまで見てきた昭和のモダニズム建築と照らし合わせれば「これは文化財級だ」と断言できる。

 と、偉そうなことを書いているが、筆者も数カ月前までは知らなかった。友人である三菱地所設計の須部恭浩フェローがここに新しい施設を設計していて、「知っていますか?」と教えてくれたのだ。

 新施設は9月半ばに着工予定とのこと。それまでは詳細はおあずけとのことなので、発表をお楽しみに。「既存のレーモンド建築群を生かす」というコンセプトであることは付記しておく。(宮沢洋)

西側から見た全景。ふらっと行っても入れないので注意。「事前に連絡をもらえれば見学はOKですよ」とのことなので、正攻法で連絡を→https://keirin-jik.jp/
隣接地には「自転車の国サイクルスポーツセンター」(1971年、設計:日建設計、上の写真)もある