池袋建築巡礼15:建築家・岡秀世による「熊谷守一美術館」が開館40周年、静かな住宅街で静かな存在感

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 「豊島区立 熊谷守一美術館」は、有楽町線・副都心線の要町駅から徒歩9分、西武池袋線・椎名町駅から徒歩13分の住宅街にある。

豊島区立 熊谷守一美術館の南側外観(写真:宮沢洋、以下も)

 「池袋モンパルナス」という言葉をご存じだろうか。かつて池袋周辺には芸術家村が点在していた。大正の終わり頃から終戦にかけて、今の西池袋、椎名町、千早町、長崎、南長崎、要町といったエリアに貸し住居付きのアトリエ群が多くつくられ、そこを拠点とする芸術文化全体が「池袋モンパルナス」と呼ばれるようになった。

 画家の熊谷守一(くまがいもりかず、1880~1977年)は52歳となる1932年、ここに土地を借りて、自宅兼アトリエを建てる。東京大空襲で池袋駅まで見渡せるほど街は焼けるが、この家は残った。

 若い頃はアカデミックな作風だった守一だが、庭のあるこの家の影響もあって次第に画風を変化させ、70歳を過ぎた頃には、単純化した彩色とはっきりした輪郭線を用いた「モリカズ様式」を確立した。小さな庭で生き物を観察することを好み、30年間ほとんど家から出ることがなかったとか、文化勲章が内定したのに「これ以上人が来てくれては困る」と受賞を辞退したといったエピソードは、映画『モリのいる場所』(2018年、山﨑努、樹木希林)を通してよく知られるようになった。

壁に彫り込まれた蟻の絵は、熊谷守一が91歳で描いた「赤蟻」を15倍に拡大したもの。蟻や餌(?)の部分は完成当初はもっと赤かった

 その熊谷守一の自邸跡地に建てられた美術館が開館40周年を迎えるということで、30年ぶりくらいに行ってきた。40年前の今日、1985年5月28日が開館日である。

美術館の入り口は、建物が「く」の字に折れた部分にある

私設美術館から公立へ、「JIA25年賞」にも選定

 守一が亡くなった8年後、次女で画家の熊谷榧(かや)氏が旧居の跡地に私設の熊谷守一美術館とギャラリーKAYAを開設した。設計は榧氏の逗子の自宅も設計したI.C.D建築設計事務所の岡秀世氏が担当した。2007年、榧氏は父・守一の作品153点を豊島区に寄贈し、豊島区立 熊谷守一美術館となる。区の直営ではなく、榧氏とその従業員が設立した株式会社榧が、指定管理者として運営する形態だ。2012年度には、日本建築家協会が表彰する「JIA25年賞」に選ばれている。

 まずは、その講評を引用して全体像をつかんでいただこう(太字部)。

熊谷守一美術館(現・豊島区立 熊谷守一美術館)
設計者:岡 秀世 旧・ICD建築設計事務所
建築主:熊谷 榧
施工者:バウ建設
竣工年:1985年5月
所在地:東京都豊島区

講評:通りに面して2層、奥に半地下+2層。住宅街に控えめ。画家、熊谷さんの蟻の絵が壁に彫り込まれ、緑の木々とともに美術館としてのメッセージ。内側ブロック積み型枠として外側に断熱、コンクリート打設。半地下のコーヒーショップに座ると庭が近い。窓枠が消されて鮮やかな開口。外に合成ゴムを回し、強化ガラスを手前に引くディテール。内部扉はコンクリートの壁に引き込み。圧巻は1階、右奥のギャラリー、床が緩やかな曲線を描いて下っていく。強烈に「ここに建つ建築」を意識化している。設計者のこだわりが見事に形になっている。(審査委員:中原洋)

 30年前、筆者が何の予備知識もなく行ったときには、「蟻の絵」の壁が心にすごく刺さった。「コンクリートの壁に直接絵を刻む」というストレートな手段が、当時、難解な建築ばかり見させられていた自分の心を解きほぐす感じがしたのである。

 30年ぶりに見て、それ以外の中原洋氏のコメントにもいちいち「その通り!」と思った。さすが名編集者の中原氏(中原編集室)。もう一度、コメントをばらして引用させていただく。

通りに面して2層、奥に半地下+2層。住宅街に控えめ。

前面道路から見ると、2階建ての小住宅にしか見えない
北側は3層だが、1階が半地下で最上階がボールト屋根なので、2階建てくらいに見える

・内側ブロック積み型枠として外側に断熱、コンクリート打設。

1階の展示室。展示室がコンクリートブロック積みって相当珍しい。当初はここだけが守一の作品を展示するスペースだった
2階の展示室。2階は展示の他に絵画教室にも使われ、窓やトップライトから光が入った。現在は遮光している
3階は設計者である岡秀世の事務所があった。現在は主に企画展示に使用。今も窓から光を入れることはできる
階段室の窓。当時の記事によると、室内側のコンクリートブロックは構造材ではなく、「内装材兼コンクリート打ちのための仮枠」とのこと。「内壁として100㎜厚のコンクリートブロックを先積みし、そのうえでにオムニア板と称する仮枠兼構造材のプレキャスト板を先付けし、それ等を仮枠にして壁構造のコンクリートを打設したのである。コンクリートブロックとコンクリートの間には30㎜厚のスタイロフォームを打ち込み、必要な断熱性能を得ている」

半地下のコーヒーショップに座ると庭が近い。窓枠が消されて鮮やかな開口。

カフェから見える庭

圧巻は1階、右奥のギャラリー、床が緩やかな曲線を描いて下っていく。

1階は床が奥(南側)に向かって下っていく。奥へと自然に導くためだろう。これは村野藤吾の「小山敬三美術館」(1975年)の影響だろうか
床の低い南側から見返す。東側の壁は曲面を描く

 それ以外にもさまざまなこだわりが見てとれる。特に印象的なのが階段の手すり。

 中原氏の結びの文章は、まさにその通り。

強烈に「ここに建つ建築」を意識化している。設計者のこだわりが見事に形になっている。

 静かな住宅街にあって、ことさら目立つことなく、それでも「ここにあるぞ」ということを静かに強烈に発信している建築だ。

なぜこれほどの建築が…

 見出しに書いておきながら何だが、これを設計した「岡秀世」という建築家を筆者は全く知らなかった。調べてもほとんど情報がない。この美術館(といっても掲載名は「東京・熊谷邸」)を掲載した『住宅建築・別冊22 組積造の住宅』に、下記のプロフィルが掲載されていた。

岡秀世
1936年 神奈川県生まれ
1961年 横浜国立大学工学部建築学科卒業
1975年 I.C.D建築設計事務所設立

 うーん、大学を出てから事務所を立ち上げるまでの経歴を知りたい…。I.C.D建築設計事務所は老人ホームの実績が多かったこともわかったが、これほどの建築を設計できる人が、あれこれ調べても他の有名作品に行きあたらないのは不思議だ。

 そして、もう1つ不思議に思うのは、娘の熊谷榧氏が旧宅を壊して建てるという選択をしたことだ。美術館の公式サイトにはこう書かれている。

1977年に守一が逝去した後、次女・榧を中心として、“モリ”(家族は守一のことをこう呼んでいました)の美術館を建設しようとする機運が高まります。守一が住んでいた自宅兼アトリエや、庭を残したいという声も上がりましたが、「モリの作品を見てほしい」という榧の願いによって、展示室とカフェ、そしてギャラリーを併設した空間として美術館の建設が進みます。

 館のカフェに飾られていた榧氏のインタビュー記事(開館した年の『FOCUS』)には、もっとストレートにこう書かれていた。

モリ(父親の守一)の死後もここに住んでいた母も昨春亡くなりました。そこで無人となった家をこわし、モリのプライベート美術館を建てました。(中略)私がモリの住んでた家をこわして美術館を建てようと思ったキッカケは、豊島区がモリの美術館は別に建て、家はそのままの形で残そうとしたからです。故人の家をそのまま残し、中に個人に似せたドロ人形でも飾ろうとするその発想には耐えられなかったのです。

 旧宅をそのまま残すという“建築界的には王道”の発想を「ドロ人形を飾る」と酷評する榧氏。そんな彼女が設計者の岡氏に何を求めてこの建築が生まれたのかはぜひ聞いてみたかった。その榧氏も2022年に亡くなってしまった。

守一が特に好んだという池はここにあった。普通なら池だけでも残しそうなものだが…

 榧氏亡き後も美術館は存続している。この記事を書くために2回行ったが、住宅街に、しかも平日に、来館者が次々とやってくる。とはいえ、「いつかは」と言わず、40周年の節目に、熊谷守一の人生をたどりやすい記念展(下記)をぜひご覧いただきたい。(宮沢洋)

■特別企画展 「めぐる いのち 熊谷守一美術館 40 周年展」
主催・会場:豊島区立 熊谷守一美術館(東京都豊島区千早2丁目27−6)
開催期間:2025年4月15日(火)〜6月29日(日)
休館日:月曜日(祝日問わず)
開館時間:午前10時30分から午後5時30分(最終入館/閉館の30分前まで)
観覧料:一般700円、高・大学生300円、小・中学生100円、小学生未満無料、区民割引(豊島区在住・在勤)600円、団体/一般630円、障害者手帳をご提示の方100円(介助の方1名無料)

公式サイト:https://kumagai-morikazu.jp/

■令和7年度 館長のごあいさつ -春-
 2025(令和7)年度、当館は、私設の美術館がオープンしてから40周年を迎えることになりました。一つの施設が長きにわたって活動を続けるということは、決してたやすいことではありません。これは、基本的には、熊谷守一という画家を愛する多くの方々の支援のたまものであることは間違いありませんが、それと同時に、創業者である守一の次女、熊谷榧の努力と、多くのスタッフの支えがあっての結果でもあると言えるでしょう。

 さて、毎年続けております周年展も、40周年にふさわしい内容とすべく、守一が描く家族をテーマとし、「めぐるいのち」と題した企画展といたしました。そして、亡き幼児を描いた「陽の死んだ日」と、長女の葬儀からの帰りを描いた「ヤキバノカエリ」は、守一の画業を代表する作品であり、この二点がこの美術館の会場にともに展示できますことは、大変意義深いことと自負しております。

「ヤキバノカエリ」(熊谷守一、1956年、岐阜県美術館蔵)

 さらに、この記念すべき年に、当館のコレクションをまとめた作品集を製作いたしました。これにより、展示していない作品も含め、当館の活動をご理解いただけるとともに、ご覧いただいた作品の思い出をお持ち帰りいただくことも可能になりました。

 3年前の2月に榧初代館長が亡くなり、私をはじめとした新しいスタッフがこの美術館を引き継ぎましたが、この美術館の歴史を途切れさせることなく、さらにより多くの守一愛好者と利用者に愛される施設となるべく、一層の努力を重ねてまいります。

豊島区立 熊谷守一美術館 館長 小泉淳一