立山アルペン建築(後編):村田政真の「ホテル立山・室堂ターミナル」を見た! 木製扉は単なる雨戸にあらず

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 「うらやましい!」は、建築好きにとって最高の褒め言葉である。行ったことのある人が少ないであろう「立山黒部アルペンルート」の建築ルポ後編は、村田政真(1906~1987年)が設計した「ホテル立山・室堂(むろどう)ターミナル」だ。

標高2450mの室堂は、7月下旬でも雪が残っている.。前編で取り上げた弥陀ヶ原の「県立立山荘」とは標高差にして500mほどの違いだが、気候が全然違う。寒い! 長袖を着て来るべきだった(写真:宮沢洋)

 前回の吉阪隆正・「県立立山荘」は資料がほとんど見つからなかったが、今回は『新建築』に載っているので、書きやすい。

 ホテル立山は6階建て。「日本最高所にあるホテル」をうたう。フロントは3階にあり、立山黒部アルペンルートの室堂バスターミナルビルの2階(路線バスの到着階)と直結している。

左がホテル、右がターミナル
観光バスが到着する1階レベルからターミナルを見る。路線バスは2階に着く
ターミナル2階のコンコース
山側からホテルを見る

 建築主は佐伯宗義(1894~1981年)。富山地方鉄道の創業者であり、立山黒部貫光の創業者。衆議院議員でもあった。立山黒部アルペンルート開発の立役者である。「ホテル立山・室堂ターミナル」が完成したのは、立山荘(1964年竣工)の8年後の1972年。アルペンルートが立山荘のある弥陀ヶ原(標高約2000m)から室堂(標高2450m)まで伸びて全線開通したのが1971年6月。その約1年後の1972年9月に開業した。室堂からは、電気バスなどを乗り継いで長野方面に抜けられる。

ホテル立山・室堂ターミナルが遠くに見え始めると残雪が増え始める
観光ガイドでよく目にする「雪の大谷」は、室堂到着の直前にある。毎年春にアルペンルートが開通するころには、10mを超える雪の壁となっている

 ホテル立山・室堂ターミナルの着工は1969年5月。完成に5年以上を要した。実業家であれば、当然、アルペンルートの開通と同時開業を狙ったであろうから、1年のズレは、その工事の困難さを物語っている。建設費は当時の標準単価の3倍に及んだという。

「 大自然の尊厳に応えて、如何に人工を盛り入れるか 」

 設計者の村田政真は、「東京国際貿易センター」(1959年、現存せず)や「駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場」(1964年)を設計したモダニズム建築の大家。

 完成時、村田は66歳。竣工時の『新建築』(1973年3月号)に記した想いがグッとくる(太字部)。

 大自然の尊厳に応えて、如何に人工を盛り入れるか、また幾千人を超える上山の大衆を如何に安全に収容するかが、山の厳しい気象条件に対処する以上に、大きな課題であった。私は、すべてを任された建築家としての喜びとはうらはらに、その責任の重さを肝にめいじた。

 幾度も広い高原を歩き回り、山頂に登って見下ろした。その間、季節も移り変わるほどに、時のたつのも忘れて、創造への熱情と、美しい自然を護り抜く、使命感を持って闘い続けた。幸いなことに、建築主、佐伯宗義社長の執念とも思えるほどの、立山に対する情熱と深遠なヒロソヒーに鞭うたれ、終始はげまされた。

 最近の『新建築』ではあまり見ないピュアな情熱アピールである。そうして固めたデザインの方向性についてはこう記している。

 自然環境と人工との調和について、私は大きく分けてふたつのあり方があると思う。そのひとつは大自然に溶け込む行き方、いわゆる同調である。他のひとつは、はっきり対比させる調和である。私はこの場合、後者の対比の姿勢こそ、雄大なこの景観に、人工が生きて硬く結ばれるゆえんであると確信を得たのである。

 「人工が生きて硬く結ばれる」って、すごくいい表現だ。竣工から50年がたった今、まさにそんな様相に見える。ふわっと山になじむような建築だったら、既に建て替えられていただろう。

今も続く漏水との闘い

 しかし、自然環境の過酷さは、説明を受けずとも分かる。竣工時の写真を見ると、当初は外壁がコンクリート打ち放しだが、今はページュ色に塗装されている。漏水に悩まされ、80年代に塗装されたようだ。漏水との闘いは今も続いているようで、訪れた日は、一部に防水工事の足場が掛かっていた。

 当初、ホテルの正面玄関だった1階の扉↓。傷みの様子を見ると今はほとんど使われていないようだ。現在はホテル利用者も、バスを下りたあと、バスターミナルのコンコースを通って3階のホテルエントランスに上がる動線となっている。

 ホテル内は宿泊者以外立ち入り禁止だが、フロントでお願いして5階の談話室を見せてもらった。竣工時の写真と見比べても、ほとんど変わっていないようだ。

5階の談話室

雨戸が木製なのはそういう理由か!

 談話室の窓から、山裾方向を見る。雲がなければ富山湾まで見えるという。

 木製の雨戸が珍しい。なぜ木製なのかを聞くと、真冬には5階まで雪に埋もれるからだという。おそらく通常の雨戸では雪の重みに耐えられず、かといって厚い鉄板でつくると重すぎる。それで木製なのだろう。当時の写真キャプションにも「窓は折りたたみ板戸による雨戸」とあるので、これは当初からの仕様であるようだ。

 この外壁が上まで雪で埋もれるというのは、アンビリーバブル。

 ホテル3階の喫茶で、アイスコーヒーを飲んだ。立山の湧水を使った水出しコーヒーが絶品。

 この建物から地獄谷の脇を通るルートで1時間弱、山道を登ると、吉阪隆正によるもう1つの立山建築「ニュー・フサジ」(現・雷鳥沢ヒュッテ)がある。この建物、立山荘と兄弟みたいな形をしている(公式サイトはこちら)。40代だったらそれも見に行ったのだが、五十路を過ぎた今は自信がなく、そちらは断念。「私は見たぞ」という人の話を「うらやましい!」と目を輝かせて聞きたい。(宮沢洋)