再発見、杉山雅則が残した建築の美学04:吉村順三の手紙と2つの住宅にみる、渡米後のレーモンドとの関係

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戦前のアントニン・レーモンドを支えた杉山雅則は、レーモンドの右腕として主要な作品に関わり、「旧赤星鉄馬邸」や「東京女子大学講堂・礼拝堂」など文化財級の作品をまとめ上げた。少しずつ、杉山による建築の特徴が見えてきたが、作家然とした杉山の姿はそこにない。追えば追うほどに、いかに実直な人柄であったかが浮き彫りになる。本稿では、吉村順三がアメリカから杉山に送った手紙に再び着目し、レーモンド渡米後に杉山が手掛けた戦時下の作品にも触れながら、その忠義の人としての姿をみる。(種田元晴=文化学園大学准教授)

[協力:三菱地所設計]

事務所で仕事中の杉山雅則(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料)

アメリカの吉村順三から日本の杉山へ、1940年5月31日付の手紙

 アントニン・レーモンドが日本で事務所をはじめた直後の1923年から、レーモンドが戦争のために日本を去って3年後の1940年に至るまで、忠実かつ有能な古参の番頭として長く彼を支えた杉山雅則。そんな忠義の人としての姿は、レーモンドが日本を去った後の手紙からも垣間見える。

 杉山を兄と慕った吉村順三は、渡米したレーモンドに呼ばれて1940年5月にアメリカへと渡った。1年2か月の滞在期間中、吉村は、日本で事務所を守る杉山と頻繁に文通していた。第1回の記事では、そのうちの最初期の手紙である1940年5月31日の杉山宛の手紙について触れた。

 そこには、レーモンドが杉山も当地に呼び寄せたがっていることのほか、ワシントンでの仕事が順調に進みそうなこと、レーモンドが暮らすニューホープは、杉山と共に過ごした軽井沢の匂いがしながらもずっと広大であること、アメリカはまるで自動車の国で、日本と比べてとてつもなく規模が大きいニューヨークの街では、まるでガリバーの物語の中に入ったような気分になっていることなど、現地の様子がびっしりと書かれていたのだった。「ワシントンでの仕事」とは、実現すれば日米親善の象徴となるはずだった「斎藤博駐米大使記念図書室計画案」を指す(結局、実現しなかった)。

写真1_食事を共にする杉山雅則と吉村順三(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料)

手紙の裏側

 この手紙を裏返してみると、そこには「事務所のことについて」と見出しのついた文面が、追伸のように記されている。それは、レーモンドが、自らが不在となった後の日本の事務所や、それを支え続ける杉山の将来を案じていたことを、吉村が代弁するかたちで示した、きわめて貴重な証言であった。

写真2_ 1940年5月31日 吉村順三から杉山への手紙(裏面)(吉村隆子所蔵、画像提供:松隈洋)

 その冒頭には、以下のように記されていた(以下、読みやすくするため、固有名詞と外来語を除き手紙のなかのカタカナはひらがなに変えて表記する。また、現代仮名遣いで記し、促音・拗音は小書き文字とする)。
 
「株式会社(筆者注:日本のレーモンド事務所のこと)の結末については オヤヂ(筆者注:レーモンドのこと)が近い中に手紙を書くそうです オヤヂの考えは杉山様自身の事務所をやることが一番よいことではないかと云います 手紙もそのために書くそうです」
 
 レーモンドは、杉山をアメリカに呼び寄せたがっている一方で、どうやら、それは叶わなさそうだとも悟っていたようである。遠くアメリカにいながら、情勢の分からない日本の仕事をこなすことは難しい。それに、関係の悪化してゆく国へと帰っていった外国人が営む設計事務所に、仕事が舞い込んでくるはずもない。そして、自分もいつになったら日本に戻れるのかわからない。そんな状況では、いつまでも杉山を自分の手元に縛っておくのは忍びない。それであれば、いっそ主が離れたレーモンド事務所は閉めて、杉山には独立してもらうのが一番いい。忠誠を尽くした杉山に対してレーモンドが気遣っている様子が、吉村の手紙からは伝わってくる。
 
 さらに吉村は次のように続ける。

「オヤヂは事ム所にあるすべてのものを杉山さんに自由に処分して事務所の費用にすること、もし杉山さんが事ム所をやめて外につとめても その方が杉山さんのためによいならば 好きな様にしてくれとのことです」

 杉山の独立を後押しするだけでなく、事務所のものを自由に処分して資金にしていいとまでレーモンドは言っていたようである。後述する手紙と突き合わせると、アメリカからの送金に時間がかかり、その間、杉山に賃金が払えない状況が続くことをレーモンドは気にしていたようだ。そんなこともあってか、他の事務所に勤めることも妨げないともレーモンドは言う。

 続いて、吉村はこのようにも加えている。

「ただ もし戦争がうまく収まって フォード其他の大きな仕事が動いたなら 何か東京にコネクションがあった方がよいと考えている様です もし杉山さんが自分でやっていかれる気持があれば もちろん杉山さんの名前がよいのだが レイモンド事務所の名前も効果があるのならば並記して置いて使ってくれとのことです」

 戦争が終結した暁には、レーモンドは再び杉山とともに仕事をしたいと思っていたのであった。そして、それまでの間、建築家・杉山雅則として個人の名前だけで活動するもよし、レーモンド事務所の杉山として看板を掲げて仕事するもよしと、深い思いやりと寛容さを杉山に示している。いかに杉山がレーモンドから厚い信頼を得ていたかがよくわかる。

葉山のレーモンド別邸を杉山に、1940年6月25日付の手紙

 また、吉村が杉山に宛てた別の手紙(1940年6月25日)には、レーモンドと前の晩に話し合った杉山への処遇に関することが、9つの箇条書きで記されている。まだこの頃には順調に進行していたワシントンでの斎藤博駐米大使記念図書室計画案の仕事に、杉山にもどうにか加わってもらう方法を検討したものであった。日本で事務所を守る杉山にどのようにして仕事をしてもらい、どうやって賃金を払うか、あるいは、そのほかに大した仕事の見込みはまだないけれど、見学のつもりでニューホープまで来てもらえないだろうかといったことなどが綴られている。

写真3_ 1940年6月25日吉村順三から杉山への手紙(1枚目)(吉村隆子所蔵、画像提供:松隈洋)
写真4_ 1940年6月25日吉村順三から杉山への手紙(2枚目)(吉村隆子所蔵、画像提供:松隈洋)

 その箇条書きの3つ目に、「葉山の家を杉山さんに提供する」というものがあった(写真3)。
 
 葉山の家とは、レーモンドがもともとRC造の自邸(1923年)の前に霊南坂に建てていた木造住宅を1926年に移築した、レーモンドのもう一つの別邸のこと。これを丸ごと杉山に自分の家として住んでもよいし、改造して貸してもよい、ただし、レーモンド夫妻がもしも日本へ行くことがあれば寄らせてほしいということであった。ここにも、レーモンドが杉山をまるで息子であるかの如く大切に扱っていることが表れている。
 
 次の4つ目には、5月の手紙に続いて再び「若(も)し杉山さんが自分自身の事務所を始められるならば出来るだけ援助をし度(た)い」と念押ししている。さらには、「但しR氏(筆者注:レーモンドのこと)としてはレーモンド事ム所をずっと続けて行く意志はない」と日本の事務所を閉める意向も伝えていた。

 この手紙に対して、杉山がどのように返事をしたのかは明らかでない。また、吉村の手紙とは別に、レーモンドがどのような手紙を杉山に送ったのかも確認できていない。しかし、この提示を受けてか、主の帰りを待って忠実に事務所を守り続けた杉山は、レーモンドの意志と好意を尊重するかのように、翌年(1941年)の2月、ついに独立することとなった[1]。

 ただし、「レイモンド事務所の名前も効果があるのならば並記して」と5月の手紙に書かれていたレーモンドの気持ちにも配慮してか、レーモンド事務所のあった教文館ビルのその場所で自身の事務所をはじめたのであった。ここにも、最後まで忠心を貫こうとする杉山の真摯な姿勢がみてとれる。

2つの住宅:図司邸と山田邸

 さて、これらの吉村からの手紙に前後して、杉山は2つの住宅作品を『国際建築』誌に発表している。ひとつは1940年5月に発表された大宮盆栽村の「図司邸」、もうひとつは同年9月に発表された湘南の「山田邸」である。いずれも、「杉山雅則設計」とのみ記されており、レーモンド事務所の名義の記載はない。

 また、レーモンドによる主要作品が網羅された『私と日本建築』(アントニン・レーモンド, 1969)、および『アントニン・レーモンドの建築』(三沢浩, 2007)の巻末リストには、いずれもこの2作は入ってない。ひょっとして、これら2つは杉山個人の作品なのか。
 
 この点について、レーモンド設計事務所に問い合わせたところ、「山田邸」は社内のリストに記載があり、原図も保管されているという。一方の「図司邸」は社内のリストに見当たらず、また原図もないという。少なくとも、「山田邸」の方はレーモンドのもとでの仕事であったようである。「図司邸」の方は、もしかしたら個人として手掛けられたものだったのかもしれない。ただし、レーモンドが不在の頃の事務所の仕事であったために、関与できなかったレーモンドに代わって設計を担当した杉山の名で発表されたのだったという可能性もある。

 いずれにしても、杉山の名で発表された作品であるので、杉山の作風が色濃く出た作品であったはずである。以下、2作についてその特徴を少し紹介しておきたい。
 
 「図司邸」は、大宮公園につづく緑地帯のなかの広大で自然豊かな敷地に建てられた。木造2階建てで、扁平な大きな切妻屋根が特徴。象牙色のモルタルによるスタッコ仕上げと下見板の混在した外壁、三州瓦の屋根、半円アーチの玄関ポーチ、柔らかな煙突など、多様な意匠が混在した和風とも洋風ともつかない外観が印象深い。内部も1階は椅子座、2階は畳敷きと和洋の設えが併存している。

写真5_図司邸西側外観(外壁はラスモルタル下地象牙色スタッコ仕上げおよび下見板杉四寸押角二ツ割パテ飼い、木部すべてオイルステイン。ポーチおよびテラスは大谷石。屋根は三州赤褐色瓦葺)(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料)仕上げは[2]を参照して記述

 「山田邸」は、北に雑木林を背負い、東西南に傾斜してひらけた眺望を確保できる丘上の敷地に建てられた。くの字型の平面に日本瓦の載る切妻屋根がかかった木造の平屋に煙突がとりついている。外観は和風の趣をたたえるが、内部は純洋風の生活が営める設えとなっている。当初は2階建てで設計されたが、予算の問題か、平屋に変更されている。

写真6_山田邸南側外観(壁と軒裏は杉板割淡緑色ペンキ仕上げ。屋根は日本瓦片面磨。煙突はセメント塗り。玄関タタキは鉄平石、居間外側の濡縁は松厚板の鉋仕上げ)(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料)仕上げは[3]を参照して記述

写真7_山田邸居間内観(床板はブナ材ワックス仕上げ、天井はテックス杉目地入り、壁一部壁紙張り、暖炉の上の部分は松板張り。戸棚は松材ワックス拭き)(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料)仕上げは[3]を参照して記述

湾曲階段とテラスとファイヤプレース

 同時期に手掛けられた「図司邸」と「山田邸」はともに、和風とも洋風ともつかない、和洋混在の住宅であった。両者の外観の印象は大きく異なっているが、その内部に着目すると、いくつかの共通点が見出せる。

 1つ目は、これまでにもみてきた、もはや杉山の代名詞ともいえそうな湾曲階段。「図司邸」の玄関と今の間の廊下につく階段、そして「山田邸」の初期案に示されたくの字平面の入隅につく階段ともに、「旧赤星鉄馬邸」の奥の階段と同じく、最初の数段だけがわずかに曲がったものとなっている。

 2つ目は、いずれも居間の窓に面してテラスが設けられていること。この2つの住宅が発表される前年、杉山は、「日本住宅の良さの一つは縁側で自分達は設計する際此の縁側のアイデアをテラスに置き代え、多くの場合、居間、食堂等よりあまり下らずに引戸で直ぐ出られる様に造った」と雑誌の記事に記していた[4]。「図司邸」、「山田邸」ともに、まさにこの記事で書かれていたとおり、引戸の窓を介して居間から連続するテラスにすぐに出られるようにつくられていた。

 3つ目は、いずれも居間に「ファイヤプレース」(壁付暖炉)をもつことである。戦後になって杉山は「ファイヤプレースについて」という記事を書き、その種類や構造、役割をまとめた[5]。その記事には、「図司邸」の暖炉の写真も載っている。記事のなかで杉山は、煙突の断面が不足すると具合が悪くなるので注意が必要だともいう。両住宅ともに、煙突が外観のイメージを印象深いものにしていたが、これは断面不足を起こさないためという、機能面への配慮の結果なのだった。採暖よりも装飾のために設けられる暖炉が多い中にあって、末尾に杉山は、「充分暖められた焚口の壁の輻射熱に温もりながら太い丸太をチョロチョロ燃して人の世の楽しみを深くする事はファイヤプレースが単に装飾用だけのものでないと云えると思う」と暖炉の存在への想いを語っていた。

 なお、ファイアプレース(壁付暖炉)は、戦後の吉村順三が重視した住宅の要素のひとつでもあった。これはレーモンドのもとで担当した戦前の住宅の設計から学んだものであったが、同時に、そばで兄事した杉山が真摯に慈しみ深く取り組んでいたものでもあったのである。

山田邸の“立替”問題

 ところで、「山田邸」については、実は先の吉村の1940年6月25日の手紙の中でも触れられていた(写真3)。それは「兄の5月のアカウントに山田氏の設計料がなくー(マイナス)になってゐるのが問題ですがマイナスの分は兄が立替られたものと考へますがその点をMR.R(筆者注:レーモンドのこと)も一番心配されて居ますが如何しませうか」というものであった。

 事情はわからないが、「山田邸」の設計料が未払いのままであったらしい。それでも杉山は真摯に作品と向き合い、2階建てを平屋に修正はしたものの、見事なものに仕上げた。「兄が立替られたものと考えますが」との吉村の記述から、不利益を被りながらも、その不平を杉山は述べたりしなかったのかもしれない。むしろ不利益を引き受けてしまうその無私な姿勢は、レーモンドに心配されてしまうほどである。こんなところにも、杉山の他者を慈しむ人間性が滲み出ているように思う。

戦中・戦後の進路

 ところで、吉村の1940年6月25日の手紙の2枚目には、次のような記述があった(写真4)。

「赤星鉄馬の息が一月程前日本に帰った(帝大の農科の教師)彼はオヤヂと違って非常によい人で杉山さんのことについておやぢがよく頼んであるからいろいろ援助を得られると思う」

 これにつづいて、「若し杉山さんが他に好状件の勤務口があるならそれもよい」とも再び書いている。

 レーモンドは、鉄馬の息子の援助を得られるよう頼み、そして転職を容認するというのだった。これに従うかのように、第1回にも記したように、杉山は1942年、赤星鉄馬を頼って三菱地所へと籍を移す。

 次回以降は、三菱地所へと移籍した戦中・戦後の杉山の仕事についてつまびらかにしてゆく。

参考文献
[1] 堀勇良『日本近代建築人名総覧増補版』中央公論新社、pp.698-699
[2] 杉山雅則設計「図司邸・大宮盆栽村」, 国際建築1940年5月, pp.119-123
[3] 杉山雅則設計「山田邸・湘南」, 国際建築1940年9月, pp.207-212
[4] 杉山雅則「住宅考あれやこれや」, 住宅1939年10月, 住宅改良会, pp.150-152
[5] 杉山雅則「ファイヤプレースについて」, 建築界1954年12月, 理工図書, pp.38-41

種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。1982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。2017年日本建築学会奨励賞受賞。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。編著に『有名建築事典』(学芸出版社、2025)。主な本稿関連論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。

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(写真は松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料より)

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