戦前にはアントニン・レーモンドを支え、戦後は三菱地所で丸の内の発展に貢献した建築家、杉山雅則(1904-1999)。これまで“知る人ぞ知る”だったその存在が、近年、にわかに注目を集め始めている。彼の生き方は、自らが恒星として輝きを放つスターアーキテクトとは異なり、確かな力と大らかさを湛えながら静かに動く、惑星の如きものであった。杉山雅則とは誰だったのか。若手建築史家の種田元晴氏(文化学園大学准教授)が、その建築家像に迫る。本連載は、三菱地所設計の全面協力を得て、約2年をかけて杉山雅則の功績を検証するものである。
なお、杉山が籍を置いた三菱地所の設計監理部門は、1890年、当時の三菱社に設立された「丸ノ内建築所」を出発点として、現在は三菱地所設計となっている。(ここまでBUNGA NET編集部)

レーモンドに讃えられた建築家
軍靴の足音が徐々にけたたましくなってきた1937年12月、戦前期日本のモダニズムを牽引した建築家アントニン・レーモンド(1888-1976)は、僧院の仕事のために、インドのポンディシェリーへと船で向かった。現地に滞在し、計画をひと通り終えたレーモンドは、あとのことを弟子のジョージ・ナカシマ(1905-1990)に託して、1938年の暮れ、日本へ再び戻ることを夢見る。しかし、もはやそれが叶わぬほどのきな臭さに覆われていることを思い知り、フランス、故郷のチェコ、スイス、イギリスなどを経由して、アメリカへと帰国を余儀なくされたのだった。
そうして戦時中、日本のレーモンド事務所は、建築家不在となった。その間、レーモンドが再び日本に戻ってくるのを待ちながら、事務所の資料等を大切に守った人物がいた。それが杉山雅則(1904-1999)である。

戦前のレーモンド事務所のスタッフといえば、後に住宅の名手として活躍する吉村順三(1908-1997)、そして質実剛健な公共的建築に手腕を振るった前川國男(1905-1986)などが名高い。しかし、彼らより前にも、レーモンド事務所には、レーモンドからの信頼の厚かった日本人スタッフが幾人かいた。彼らの多くは、若くして亡くなったり、その後現役を退いたりしている。
そのようななか、杉山は、レーモンド事務所復興の希望を胸に秘めつつも、戦時下以降、三菱地所へと活躍の舞台を移し、齢80に至っても設計に勤しみ続け、生涯現役の建築家としてその人生を全うした。その姿は、晩年のレーモンドをして、「彼は非常に優れた建築家となり、三菱地所で計画した多くの大ビルや、新宿の洋裁学校の丸い建物などでよく知られている」 [2]と讃えられた。
吉村順三からの手紙
2023年12月末~2024年3月にかけて、竹中工務店本社のギャラリーA4で「建築家・吉村順三の眼―アメリカと日本」展が開催された。日本文化会館の茶室と斎藤博駐米大使記念図書室の計画のため、1940年5月、吉村はアメリカに拠点を移したレーモンドのもとへと渡った。同展では、その折に、アメリカの吉村が日本の杉山に宛てた電報や直筆の手紙が展示された。


「杉山兄 ニューホープ 5月31日」
こう書き始められた吉村の手紙には、フィラデルフィア郊外ニューホープの農場を買い取ったレーモンドの自宅兼事務所滞在中の暮らしについて、かつて杉山と製図版を並べて過ごしたレーモンドの別荘兼事務所「軽井沢 夏の家」(1933)のことを思い起こしつつ、そことは似て非なる落ち着かなさがあることが綴られている。
同じ手紙には、「オヤヂ(筆者注:レーモンドのこと)ハ杉山モドウシテモshould comeト云ツテイマス」[3]とも書いてある。レーモンドは、吉村だけでなく杉山もまた特別な仲間として重用し、ニューホープに呼び寄せて共に仕事を続けたいと願っていたのだった (この辺りのことは同展監修者の松隈洋氏による[4]に詳しい)。
「杉山兄」の「兄」は、単に身近な目上の人へ宛てる際の敬称と読み過ごすこともできる。しかし、レーモンド設計事務所の三浦敏伸会長に伺ったところによれば、どうやら吉村にとって杉山は、単に事務所の先輩であったことを超えて、本当に兄として慕った存在であったらしい。


さらに、建築史家の松隈洋氏が杉山雅則の没後に遺族から預かった資料群の中には、杉山と吉村が仲良く竣工直後の東京女子大学礼拝堂(杉山が主担当)の屋上に並ぶツーショット写真もある[5]。杉山は、住宅の巨匠・吉村順三が兄事するほどの建築家だったのである。

杉山雅則の手掛けた建築
杉山雅則は、1904年、静岡県に生まれた。旧名は正則。いつ改名したのかは不明である。1921年、工手学校建築学科を卒業(ここまで[6]参照)。英語ができたため(理由は不明)、トイスラー師がひらいた聖路加病院建築部に雇われた([7]参照)。その直後、設計を請け負うことになったレーモンドの事務所に移籍するかたちで、最初期の所員となった。以降、レーモンド渡米後の1939年までの間、最も長く在籍した番頭格として事務所を支えたのであった。在職中の1937年には、日本大学芸術学部の前身にあたる専門部芸術科も卒業しているらしい([8]参照)。
レーモンドの霊南坂の自邸(1923)、スタンダード石油横浜支店及び社宅(1927)、藤沢カントリー倶楽部(1932)、東京ゴルフ倶楽部(1932)、聖母女学院高等女学校校舎(1932)、教文館・聖書館ビル(1933)、赤星鉄馬邸(1934)、東京女子大学礼拝堂・講堂(1938)など、戦前のレーモンド事務所における主要な鉄筋コンクリート造建築の多くは、杉山の担当作だった。


なんといっても図面を描くのが上手かったらしい。杉山本人に聞き取りをしたことがある藤森照信氏に話を伺ったところ、「打ち放しの廻り階段の図面が描けるのは、所内には杉山しかいない」といわれるほどの腕前だったそうだ。廻り階段は複雑な三次元形状をしている上に、打ち放しなので仕上げでごまかすこともできない、難易度の極めて高い部位だからだ。工手学校で鍛えられた杉山の手技が、戦前期のレーモンドの名作を支えていたのである。

レーモンドの帰国後も、事務所のあった銀座の教文館・聖書館ビルで、その中継ぎとしての自営をしばらく続けた。しかし、戦時色はますます濃くなり、仕事は減っていく。やむを得ず、かつてのクライアントであった赤星鉄馬を頼り、三菱地所の会長を務めた赤星陸治に紹介状を書いてもらって、1942年に杉山は三菱地所へと移籍する([9]参照)。
以降、三菱地所で大手町ビルヂング(1958)、新大手町ビルヂング(1958)、新東京ビルヂング(1963)、三菱電機ビルヂング(現・丸の内仲通りビル/1963)、有楽町ビルヂング(1966)、新有楽町ビルヂング(1967)など数多くのビルの設計を担い、戦後成長期に推進された「丸の内総合改造計画」の中核として活躍した([10]参照)。そのほか、文化服装学院円型校舎(1955)を皮切りに、日本銀行長崎支店(1978)、荒川豊蔵記念館(1983)など、定年後も引き続き奉職し、三菱の「丸の外」の建築の実現にも貢献した。
なお、筆者が最初に杉山の存在を知ったのは、文化服装学院円型校舎(先に引いたレーモンドの言う「新宿の洋裁学校の丸い建物」とはこれのこと)の設計者としてであった。米国シンガーミシン社出身の理事長・遠藤政次郎からの全幅の信頼を得て指名され、円満と発展を示すかたちとしての円筒形を杉山が提出し、これが大いに気に入られたというエピソードが学園史に語り継がれている[11]。

寡黙で飾らない建築家の魅力
これほどの立役者にもかかわらず、杉山は三菱地所時代、重要な役職には就かなかった。それは、工手学校出身という学歴のせいだったのかもしれないし、自ら製図版に向かい続けることを選んだのかもしれない。
いずれにしても、高い立場から見下ろすことなく、現場の一設計者でいることを実直に貫いた。杉山から聞き取りをした藤森氏も、「杉山さんは寡黙な人で、決してこれは自分の仕事だと言って自慢するようなことはなかった」と話す。
加えて、建築史家の故鈴木博之は「かつて杉山と話をした折りにわたくしが感じたのは、戦前のよき建築家の余香を漂わす紳士の姿であった」とその印象に敬意を込めて記している[13]。
杉山は、単独の作家としてではなく、あくまでも事務所、組織の一員として建築を手掛けた。自らのみが煌めくことよりも、レーモンドを輝かせ、三菱地所の足もとを照らす道を、杉山は歩んだのである。
その寡黙さのためか、戦後は自作を雑誌に披露したり、言説を書籍にまとめるなどといった作家的な発信活動はほとんどみられず、それゆえに謎が多い。だからといって、軽視していい人物でないことは、上記の仕事から明らかであろう。かろうじて、戦中の雑誌をぱらぱらめくると、個人として設計競技に入賞していたり、論考を寄稿するなど、作家としての活動を試みた片鱗が垣間見える。このあたりをヒントに、以降、少しずつ掘り下げながら、その謎多き建築家像の魅力を紐解いていきたい。(種田元晴)
次回は、レーモンド事務所で手掛けた「赤星鉄馬邸」(1934)について、現状の写真とともに詳述する。
参考文献
[1]『アントニン・レイモンド作品集 1920-1935』城南書院、1936.2 口絵
[2] アントニン・レーモンド、三沢浩訳『自伝アントニン・レーモンド』,鹿島研究所出版会、1970.10、p.134
[3] 吉村順三から杉山雅則への手紙1940年5月31日、吉村隆子所蔵
[4] 松隈洋「記憶の建築|吉村順三との最後の再会 ニューホープの家 一九三九年」,『建築人』688号、大阪府建築士会、2021.10、p.14
[5] 松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料
[6] 堀勇良『日本近代建築人名総覧増補版』中央公論新社、pp.698-699
[7] 西澤泰彦「レーモンド事務所の思い出 杉山雅則氏に聞く」,『SD』286号、1988.7、p.41
[8] 国際建築協会編『現代住宅1933-40第4輯』国際建築協会、1941.3
[9] 藤森照信「丸の内をつくった建築家たち―むかし・いま」,『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』、1992.4、pp.252-253
[10] 『三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890-1973』新建築社、2020.9
[11] 大沼淳『文化学園八十年史代々木の杜から世界へ 忘れえぬこと、忘れえぬ人―文化学園四十年聞き語り』文化学園、2003.6、pp.189-190
[12] 出典:文化学園八十年史編纂室(田原秀子+瀬戸口玲子)『文化学園八十年史代々木の杜から世界へ 写真で見る文化学園八十年の軌跡』文化学園, 2003, p.194
[13] 鈴木博之「レーモンドのもたらしたもの」、『建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド』、Ecelle-1、2007.9、p.6

種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。1982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。2017年日本建築学会奨励賞受賞。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。一般社団法人東京建築アクセスポイント理事として建築ガイド実施中。日本建築学会「建築討論」委員としてインタビューシリーズ「建築と戦後」更新中。
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