再発見、杉山雅則が残した建築の美学07:赤レンガ街を近代的オフィス街に刷新した「丸ノ内総合改造計画」、その先導者としての功績

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1959年、高度経済成長の波に乗り、丸の内の都市景観は大きな転換期を迎えていた。赤レンガの街並みが静かにその役目を終え、スカイラインの整った近代的な百尺ビル群へと姿を変えてゆく。1973年まで約15年にわたり進められたこの事業は、「丸ノ内総合改造計画」と呼ばれる。丸の内における第二次開発の幕開けであった。一連の改造によって形づくられる新たな街並みの意匠は、近代建築への深い見識を備えた杉山雅則に託される。本稿では、計画の全体像を振り返りながら、「丸ノ内総合改造計画」において杉山が果たした役割を読み解く。併せて、この時代に杉山雅則が担当した「日本ビルヂング」(第1期竣工:1962年)に大きな影響を受けたという東京科学大学教授・塚本由晴氏の話も紹介する。(種田元晴=文化学園大学准教授)
[協力:三菱地所設計]

写真01_改造がはじまった1960年頃の丸の内一帯。写真中央左側に富士製鐵ビル(後の富士ビル)工事現場。仲通りを挟んでその右側に後の新東京ビル計画地。その奥に馬場先通りを挟んで右から三菱1、4、5号館が残る。写真中央上端に辰野金吾設計の東京駅(1914)、写真中央右端には丹下健三設計の旧都庁舎(1957)が見える。(出典:[1] p.6)

赤レンガの記憶を更新する季節

 杉山雅則(1904-1999)がデザインを手掛けた戦後最初期の大型ビル「大手町ビルヂング」(1958年竣工、詳細は第6回参照)および「新大手町ビルヂング」(1958年竣工)の成功により、丸の内の界隈は再び近代的なビジネス拠点としての活気を取り戻すこととなった。1959年には東京オリンピックの招致が決まり、翌1960年に政府が所得倍増計画を掲げると、高度経済成長の波に乗って、人々は大都市をめざして続々と流入し、東京は過密化の一途をたどってゆく。働き手の数も急増し、それに伴って、オフィスビルの需要はますます高まるばかりであった。

 丸の内の近隣でも、「三井本館」の増築(1958年)、「銀座日航ホテル」(設計:日建設計工務/1959年竣工)、「日比谷三井ビル」(設計:横河工務所+松田平田坂本設計事務所/1960年竣工)など、他社による新築ビルが続々と登場しはじめていた。有楽町には、端正なファサードをもつ「旧東京都庁舎」(設計:丹下健三/1957年竣工)も出現していた。

 それらに比べ、丸の内の赤レンガ建築群は、明治期の古き良き名残をみせるものの、老朽化も目立ちはじめ、やや時代遅れの感が否めなくなってきていた。さらには、ロンドンやニューヨークからの企業招致のうえでも、彼らにとっては赤レンガの街並みはスラムに見えることを知り、時の社長・渡辺武次郎は愕然としたという([1]pp.100-102, [2]p.147参照)。

 そのような背景から、1959年、三菱地所は、社長・渡辺の強力なリーダーシップのもと「丸ノ内総合改造計画」を策定する。1890年に「丸ノ内建築所」として創業以来、顧問であったジョサイア・コンドルによる「第1号館」(1894)をはじめとして、曾禰達蔵、保岡勝也らの技師長らのもと建て継がれてきた赤レンガの街並みを、惜しみつつも時代の移り変わりに応じて更新する時がついにきたのである(写真02、03)。これは、相当な腕利きの設計者でなければ果たせない大仕事。そうして、若き日にレーモンドの元で近代建築の真髄を修練したベテランの杉山雅則が、その主要なデザインを担うことになるのであった。

写真02_馬場先通りから見た仲通り(大正初期)左より第5号館、第4号館(出典:[5]巻頭口絵)

写真03_赤レンガ建築からの更新(1960年の富士製鐵ビルヂング工事中景)(出典:[1]p.6)

敷地の統合とスカイラインの斉一

 「丸ノ内総合改造計画」の敷地は、主に、丸ビル以南の日比谷通りと大名小路に挟まれた、仲通りに面する現在の丸の内2丁目、3丁目、有楽町1丁目あたりを対象としている(図02の赤点線枠部分)。このエリアを小割にしてひしめき合っていたレトロな小規模建築群(図01)を一新し、それらの敷地を統合して大街区化して、軒先の揃った大規模な百尺ビル群(図02)へと生まれ変わらせようというものである。

図01_(改造前)1959年3月三菱地所発行「丸ノ内略図」(出典:[1]p.113)
図02_(改造後)1974年9月三菱地所発行「丸ノ内略図」(出典:[1]p.224に赤枠を筆者加筆)

 この大胆な計画には、困難が多々つきまとった。対象エリアの南北方向には、中央に仲通り、その東と西に細い私道が1本ずつ、計3本の道が走っていた。東西方向にも細い私道が多数走っていた。しかし、そもそも建物の高さは、前面道路の幅によって規制されるため、幅の狭い通りと、幅の広い道路に面する部分では、最高高さが変わってしまう。これでは、高さ制限の限度である31mでフラットなスカイラインを整然と均一に揃えることができず、美観が損なわれてしまう。

 そこで、この計画を実現するべく、以下の3つの目標が掲げられた([1]p.103より引用)。

①仲通り東裏と西裏の私道を廃止し、その代わりに仲通りを拡幅する
②馬場先通り以外の東西に走る狭い私道を廃止する
③これによって馬場先通りと仲通りを中心に全体を8ブロックに分け、それぞれのブロック上の建物が同一敷地内にあるように一団地扱いの認定を受ける

 ただし、この計画案の通りに実現するには、三菱地所以外の企業が所有するビル関係者からも了解を取らねばならない。この調整には多大な労力と時間を要したという。苦労の末、1959年7月、東京都からの許可が下り、仲通りを両側4mずつ拡幅して13mから21mの道路として、水平で斉一なスカイラインを実現する算段がついた。これにて、「丸ノ内総合改造計画」は無事にスタートを切ることとなった([1]p.103参照)。

新たに登場した13棟のビル

 「丸ノ内総合改造計画」として建設された主要なビルは、以下の表01に挙げる13棟である(※[2]p.147に示された「13棟の近代的ビル」との記述を参考に、ここでは丸の内仲通りに面して建てられた有楽町の2つのビルを含む計13棟のビルを同計画の範疇と考えることとする)。

表01_「丸ノ内総合改造計画」により建設された主要なビルの一覧

 これらの13棟のうち、「千代田ビルヂング」、「富士ビルヂング」、「三菱電機ビルヂング」、「新東京ビルヂング」、「新国際ビルヂング」、「有楽町ビルヂング」、「新有楽町ビルヂング」の7つに、杉山の名がみえる。

写真04_千代田ビルヂング(出典:[1]p.106)
写真05_富士ビルヂング(出典:[1]p.108)
写真06_三菱電機ビルヂング(出典:[1]p.109)
写真07_新東京ビルヂング(出典:[1]p.112)
写真08_新国際ビルヂング(出典:[1]p.127)
写真09_有楽町ビルヂング(出典:[1]p.156)
写真10_新有楽町ビルヂング(出典:[1]p.158)

赤レンガ建築の刷新に道筋をつける役目

 これらだけをみていると、杉山は13棟のうちの7棟と、赤レンガ建築の刷新に半数ほどしか関わっていないかにみえる。しかし、杉山は、「丸ノ内総合改造計画」が策定される前に先行して計画された「仲27号館」、「交通公社ビルヂング」、「東銀ビルヂング」、「東京商工会議所」の4棟にも、設計者として関わっていた。これらはいずれも、1960年に丸の内に竣工した大規模ビルであった。

写真11_仲27号館(出典:[1]p.66)
写真12_交通公社ビルヂング(出典:[1]p.68)
写真13_東銀ビルヂング(出典:[1]p.66)
写真14_東京商工会議所(出典:[1]p.174)

 手元にある、最初の赤レンガ建築「第1号館」(1890)から「丸ノ内総合改造計画」の完了とされる「三菱ビルヂング」(1973)までの丸の内における主要建築が網羅された『丸の内建築図集』[2]をめくってみると、戦後に計画された大規模ビルの嚆矢であった「大手町ビルヂング」(1958年竣工)から、「丸ノ内総合改造計画」の第一段階最後の建物となる「新東京ビルヂング」(第二期1965年竣工)までの全作品に杉山が関わっていることがわかる。

 つまり、杉山は、赤レンガ建築の刷新の先導者として、改造の初期段階にその作法を示し、計画に道筋をつける役割を担ったと思われる。逆に、担当者に名前が見られなくなってゆく1970年代の「丸ノ内総合改造計画」後期作では、すでに還暦を過ぎた杉山は一線を退き、後進にその承継を託したのではないか。この点は今後明らかとしていきたい。

改造の作法を示す資質

 ところで、「丸ノ内総合改造計画」の一番手となった「千代田ビルヂング」の建設にあたっては、以下の5つの原則が考慮されていた([1]p.105より引用)。

(1) 周辺との調和を図る
(2) 品位ある風格を出すよう考慮する
(3) いたずらに奇をてらわない
(4) ビルヂングの経済性を考慮する
(5) 管理、保守に便利のよいものとする

 この5つの原則は、以降の「丸ノ内総合改造計画」および、それ以降の丸の内のビル建設において一貫して踏襲される理念となってゆく。

 これらは、まさに合理性と機能性を追求するモダニズムの思想に通ずるものである。第4回記事の住宅の「ファイヤプレース」に関する記述でも触れたように、採暖よりも装飾のために設けられる暖炉が多い中にあって、杉山は、管理、保守を含めた機能面への配慮の結果が造形となって現れる面に目を向けていた。いたずらに奇をてらわず、品位ある風格を醸す建築の数々を、レーモンドの元で忠実に実現させたのであった。

 そして、第5回記事で触れたように、杉山のその忠実な仕事ぶりは、三菱地所の社風である堅実さに符合する、「奇抜で華やかなデザインをする建築家ではなく、ディテールなどの技術面をしっかり押さえられるバランス感覚に優れたタイプの建築家」(藤岡洋保の評、[6]p.53)としてのものだった。杉山こそが、「丸ノ内総合改造計画」の作法を示し、道筋をつけるに相応しい資質を備えた人物なのであった。

杉山の担当作に共通する特徴

 先に挙げた、杉山が関わった丸の内仲通りに面する新築ビル11棟(写真04-14)には、共通する特徴がいくつか見出せる。それは、〈格調高い曲面廻り階段室〉〈連続縦線の表情を湛えて中央に配される端麗な塔屋〉〈機能的で洗練された窓サッシの上下小単位分割〉の3つに大別される。

 以下に、それぞれどの建築にどのようにみられるかを示しておきたい。

〈格調高い曲面廻り階段室〉
 これまでに指摘してきたように、杉山のデザインの最大の特徴は、角の丸い流麗な曲面をもつ廻り階段の意匠にある。第6回でも指摘したようにこの曲面廻り階段室は、少なくとも『丸の内建築図集』[2]に載る平面図を見る限り、杉山の名が初めて出てくる担当作「大手町ビルヂング」(1958)よりも前の建築ではひとつもみられない。

 逆に、上記の11作品のうち、「新国際ビルヂング」と「新有楽町ビルヂング」を除くすべての建築で「大手町ビルヂング」に通ずる曲面階段がデザインされている。そして、杉山の手を離れた1970年代の「丸ノ内総合改造計画」のビルには、曲面階段はみられなくなっていた。

図03_東銀ビルヂングの階段詳細図(出典:[2]p.110)
図04_三菱電機ビルヂングの階段詳細図(出典:[2]p.123)

〈連続縦線の表情を湛えて中央に配される端麗な塔屋〉
  「大手町ビルヂング」の隠れた特徴のひとつに、縦ルーバーの連続する塔屋の意匠の見事さがあった。「千代田ビルヂング」「富士ビルヂング」「三菱電機ビルヂング」「新国際ビルヂング」、そして後述する「日本ビルヂング」など、杉山が手掛けたその後の丸の内のビルでも、やはり縦線の強調された端麗で長大な塔屋が屋根の中央部に配された対称性の強い姿を多々みることができる。

 縦線の強調された塔屋は、見方によっては、瓦屋根を立面で見た時の姿を翻案したものとも言えそうだ。また、対称性の強いプロポーションは、下層の大きな窓、上層の小割の窓、そして塔屋という三層構成とも相まって、西欧古典建築由来のファサードデザインを意識しているようにも筆者には見受けられる。つまり、杉山の立面構成には、洋風と和風の混在併存が垣間見えると言っていい(このような異質なものの「混在併存」は、杉山と一時期三菱地所で同時に籍を置いた大江宏が得意としたものであったが、二人が互いにどれほどの影響を及ぼしあったのかは定かでない)。

 一方の杉山の手によらない「丸ノ内総合改造計画」のビルでは、塔屋が2基あったり、偏心していたりと、立面の対称性を欠くものが多く見受けられる。先の5つの原則のうちの「品位ある風格」を、杉山は塔屋を含む立面の対称性に潜ませていたのかもしれない。

図05_富士ビルヂングの立面図(出典:[2]p.116)
図06_三菱電機ビルヂングの立面図(出典:[2]p.122)

〈機能的で洗練された窓サッシの上下小単位分割〉
 杉山による「大手町ビルヂング」および「新大手町ビルヂング」の立面の特徴として、もう一点、横長連窓を柱で小分けにし、さらに上下2分割したうえで、上と下のサッシをそれぞれさらに左右に分割する工夫が指摘できる。

 明治期のレンガ造建築では、組積の特性上、開口部は縦長のポツ窓として穿たれ、これが立面の古典性を秩序立てていた。一方の改造後の杉山による丸の内のビルでは、鉄とガラスとコンクリートによって獲得された水平連窓を基調としながらも、窓を小割とすることで障子の如き繊細な表情を重ね、西洋由来のモダニズムに日本の伝統を織り交ぜたような外観をつくりあげていたかのように思えてならない。

 図05、図06に示した「富士ビルヂング」や「三菱電機ビルヂング」の立面からは、窓の上下でサッシの割り方を変え、単調でなく、しかし装飾過多でない秩序立った美学が放たれている。

 なお、「丸ノ内総合改造計画」に関して、藤森照信から「何かデザイン上参考にされたビルはありましたか」と問われたとき、晩年の杉山は「そういう手本になるものはなかったです。レーモンド時代のデザインともまた別のものとしてやりました。」と答えていた([7]p.253)。

 これら3つの特徴は、三菱地所の杉山として、先の5つの原則を踏まえたうえで、あるべき丸の内の姿を求めた結果編み出された意匠上の工夫であったと考えられる。

丸の内の改造と並行して進められた「日本ビルヂング」

 ところで、「丸ノ内総合改造計画」と並行して、三菱地所では、赤レンガ建築の建て替えでない大規模都市再開発が、線路の向こう側の常盤橋地区でも進行していた。それが1962年に1期が竣工した「日本ビルヂング」(竣工時名称「第三大手町ビル」)である。ここにはもともと、東京都の下水ポンプ所があった。悪臭がひどいうえに、老朽化した家屋が立ち並び、とても東京の玄関口にふさわしくない状況であったことから、美観の向上とインフラ再整備を兼ねて、土地の有効活用が模索され、大規模ビルとして再開発されるに至る。そのビルのデザインもまた、杉山の手になるものであった。

 「日本ビルヂング」の意匠上の一番の特徴は、丸みを帯びた角を持つボリュームにスパンドレルと水平連窓の積層するファサードをもつ外観のデザインにある。これは、後に同じく杉山のデザインになる「新東京ビルヂング」(1963)や「大名古屋ビルヂング」(1965)などへと引き継がれた。なお、現在、この地には日本一の高さとなる予定の「Torch Tower」の建設が進行中である。

写真15_日本ビルヂング(第1期竣工時/1962年)(出典:[1]p.143)

参照される杉山のデザインマインド

 昨年春、本稿の編集発行人・宮沢洋氏より、東京科学大学教授・塚本由晴氏がかねてより三菱地所時代の杉山雅則作品の大ファンであるという情報を聞きつけ、早速、訪ねる機会を得た(2025年4月11日)。塚本氏は、「旧赤星鉄馬邸」の保存活用計画策定委員会の活動を通じて、杉山を知ったのだという。

 塚本氏と東京科学大学で待ち合わせると、デザインアーキテクトを務められた「東京工業大学地球生命研究所棟(ELSI-1)」(2015年竣工)へと案内くださった。

写真16_ELSI-1を案内くださる塚本由晴氏(写真手前、撮影:陳笛/三菱地所設計)

 ELSI-1は、国内外の多様な分野の研究者が学際的に「地球と生命の起源」を探るための研究・交流・発信拠点。敷地の制約により奥行14m、幅87mの細長い3階建てとなったが、それを逆手に、9mスパンのフレームの両外側に2.5m片持ち梁で張り出させ、外周壁を柱から独立させることで、長大なファサードを実現させている。研究の世界の動向の激しさを念頭に、デザインにあたっては、「図」として際立つ不変の記念性よりも、「地」として他の校舎になじむ可変な柔軟性が意識された([8]参照)。

写真17_ELSI-1の長手側正面外観(撮影:種田元晴)

 長大な立面と「地」としての周囲との調和ときいて、すぐに杉山による、丸の内のビル群の奇をてらわないデザインが想起されてくる。そして、塚本氏に直接お話を伺うと、このELSI-1のファサードデザインを考えるにあたり、まさに杉山が設計した「日本ビルヂング」が参考にされたというのである。

 具体的に参考にされたのは、先に挙げた〈機能的で洗練された窓サッシの上下小単位分割〉の手法であった。

 写真15を見ると、「日本ビルヂング」は、北側の窓部分は上下に分割され、上半分は2分割の嵌め殺し窓となっており、下半分は3分割で中央が嵌め殺し窓、その両脇が片引き窓となっている。塚本氏はこの窓割の妙に着想を得て、ELSI-1では、上半分を4分割、下半分を3分割としてファサードを整えたという。

 さらに、塚本氏は「日本ビルヂング」の水平連窓下端に一本の線が引かれて強調された収まりにも着目していた。この部分を「涙袋」と表現されていたのが印象的であった。

 人間の目の直下にある涙袋は、意匠的には、目を大きく見せ、顔の印象を若々しくし、透明感を高める側面があるといわれる。高さに限度のある水平連想の場合、涙袋によってその高さをより大きく見せ、透明感をぐっと上げる効果がありそうである。ELSI-1にも「涙袋」が引かれている。

 もう一点、ELSI-1のこのサッシの内側には、アルミの障子が収められている。杉山が、その立面に洋と和、近代と伝統の混在を施していたと思しきデザインを用いたのと同様に、塚本氏もまた、近代と伝統の「衝突」[8]をその立面に試みていた。

 ELSI-1には、杉山によるビルと同様に、周辺との調和を図った、いたずらに奇をてらわない、品位ある風格をもつ「地」として秩序だったファサードデザインが施されていたのであった。

写真18_ELSI-1の特徴的なサッシ割と「涙袋」を指さす塚本氏(撮影:宮沢洋)

 次回は、杉山が手掛けた「丸ノ内総合改造計画」の代表的な建築であり、美しく現存している「新東京ビルヂング」について、その見どころに迫ってゆく。

参考文献
[1]三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 下巻』三菱地所, 1993
[2]三菱地所設計古図面研究会+新建築社編『丸の内建築図集1890-1973』新建築社, 2020
[3]三嶋真弘・鯵坂徹・増留麻紀子・野村和宣・江島知義・住谷覚「丸ノ内総合改造計画に関する研究 戦後の三菱地所の設計体制とオフィス建築の特徴」, 日本建築学会九州支部研究報告 第57号, pp.701-704, 2018.3

[4]藤瀨雄登・鯵坂徹・増留麻紀子・野村和宣・江島知義・住谷覚「丸ノ内総合改造計画に関する研究 三菱地所の設計グループのデザインの特徴について」, 日本建築学会九州支部研究報告 第58号,pp.593-596, 2019.3
[5]三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 史料・年表・索引』三菱地所, 1993
[6] 藤岡洋保「真の「堅実」にこだわる」、『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』、新建築社、1992.4、pp.47-54

[7]藤森照信「丸の内をつくった建築家たち―むかし・いま」,『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』、1992.4、pp.252-253
[8]塚本由晴「大学キャンパスにおける校舎のあり方―街区型建築の再検討」, 『新建築』2016年6月号, p.180

種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。1982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。一般社団法人東京建築アクセスポイント理事。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。編著に『有名建築事典』(学芸出版社、2025)。主な本稿関連論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。

(写真は松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料より)

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