戦後復興期、三菱地所の丸の内における再開発の機運が高まってゆく。その勢いを加速させた大型テナントビルが「大手町ビルヂング」であった。そのデザインには杉山雅則が深く関わり、今日に至るまで改修・継承される名建築としての礎を築いた。本稿では、現存する「大手町ビルヂング」の見どころと、そこに継承された杉山の想いを、吉田誠氏の写真とともにつづってゆく。(種田元晴=文化学園大学准教授)
[協力:三菱地所設計]

ビジネス拠点の再興
第二次世界大戦の終結から10年、日本はかつてないほどの急速な経済成長に沸いていた。それを下支えしたのは、勤勉で緻密な仕事を好み、集団で協調する精神をもった国民性であったなどと言われる。しかし、ここではあえて、そんな人々を会させる職場空間の充実もまた、好景気を後押ししたことに想いを馳せたい。「もはや戦後でない」との流行語を伴った更なる好景気への期待感から、働く意欲が都心に溢れ、事務所ビルの需要も拡大していったのであった。
そのようななか、三菱地所でも大型ビルを建設する機運が熟す。ときの社長・渡辺武次郎(1894-1997)は、産業の復興とともに東京各地に大企業が続々と事務所ビルを計画し始めたことを受けて、「これら大会社を丸ノ内に吸収しないでそのままに安閑として居たのでは、丸ノ内ビジネスセンターは永久にその機能を失う」との危機感を強めていた。大企業を分散させず集中させることで、活発な経済拠点としての丸の内の再興を目論んだのである。そうして、「東京ビル」(1951)や「新丸ビル」(1952)といった共同ビルが丸の内にまず出現することとなった([1]参照)。
それから数年後、好景気を励みに、かつてない規模の大型共同ビルとして「大手町ビルヂング」が建てられることになった。この一大事業を成功させる鍵は、なんといっても日本の将来を拓く近代的なビジネス拠点にふさわしい機能性と格調高さにある。
機能性については、後述するように最新鋭の設備や工夫に満ちあふれるものとして計画された。一方の格調高さは、アントニン・レーモンドのもとで近代建築の神髄をものにした杉山雅則に託された。その堅実で端正な近代的佇まいは、1958年の竣工から60余年を経た2018年より継続的に改修された現存建築にも引き継がれている。
東洋一のマンモスビル
「大手町ビルヂング」は東京駅を出て北西側へ10分ほど歩いたところに立っている。その周辺の一帯は、古くは、「道三堀」とよばれた江戸最初期の人工水路であった。丸の内仲通りの北端を受け止めるかのような、東西に長く大きな敷地である。
その一部はもともと「新丸ビル」の駐車場であった。そこに隣接した林野庁の土地と、西側の大洋自動車(シボレーなどの外車販売で知られた)の土地を取得して、長大な敷地を確保した([2]p.52参照)。大成建設の施工により、鉄骨鉄筋コンクリート造地上9階・地下3階、間口202m・奥行56m、延べ床面積は11万㎡を超える巨大なビルが、そこに建てられた。
建物の所有権の一部は、元の敷地の一部を所有していた大洋自動車がもつこととなった。大洋自動車は、丸の内地区でますます増えゆく自動車交通の混雑を解消するというミッションを掲げ、地下1階に巨大な駐車場をつくり、その経営を担った([2]p.53参照)。
景気の波に乗り遅れぬよう、とにかくはやく竣工させる必要があった。ここでは、長大なビルを3分割し、3工区を一斉に競争させて同時に施工するという画期的なやり方で、巨大工事にもかかわらず2年足らずの工期という驚異的なスピードで完成をみた([2]p.54参照)。設計者や事業者、現場監督や作業員など、その建設に関わった人数は、総勢延べ約140万人にものぼるという([1]参照)。

竣工直後、「大手町ビルヂング」は、東洋で一番大きく、世界でも6番目の事務所面積を持つマンモスビルとして話題となった。日本建築学会の会誌『建築雑誌』誌上でも、年末の「話題になった建築」のひとつとして座談で取り上げられている。座談の登壇者の一人であった都市計画家・本城和彦(1913-2002)は、「ぼくは、あれは大したものだと思うのですよ」といって、ビルのサービスやプランニングの巧みさを評価しつつ、「こうしたビルがあたりまえのような感じで出来るようになって来たと云う点で、ぼくは日本の建築もいよいよ成熟期に入ったとおもうのです」と、時代を画する建築であるとの認識を示した([3]参照)。
画期的な工夫の数々
「大手町ビルヂング」には、それ以前の三菱地所による建築にはなかった画期的な工夫がいくつかある。
第一の工夫は、「新丸ビル」を凌ぐ巨大変電施設を地下に設置し、多大な消費電力を賄ったこと。
つづいて、平面形状の工夫である。それまでのビルは正方形に近い平面形状だったので、中庭を設けて執務スペースへと光を採り入れていた。しかし、「大手町ビルヂング」は細長く、中庭は設けられない。そこで、エレベーターや階段、便所、倉庫などの窓のいらない部屋を中心部に並べるコアシステムを採用し、外周部からのみ採光を確保することとした。

さらに、このビルで三菱地所は初めて、全館一元制御による単一ダクト方式の冷房設備を導入している。
そして、すでにさらりと触れたことだが、最大の特徴は、9階建としたことであった。
1919年の市街地建築物法制定以降、当時は最高高さ100尺(法改正によりメートル法採用となった1931年以降は31m)の制限下でビルが建てられていたことは周知のとおりである。通常、階高は3.5~4m程度が標準的であるので、余裕を見込めば8階建となる。三菱地所でもこれ以前の100尺規制下の建築はすべて8階建以下で統一されていた。
しかし、「大手町ビルヂング」の使命は、より多くの企業を集中させることにある。ただでさえ、全館冷房にしたことで、空調のダクト配管スペースで天井ふところが大きくなり、階高がかさんでしまうところであるが、苦心の末、9階建を丸の内ではじめて達成することとなった([2]p.54-55参照)。

ちなみに、当初、「大手町ビルヂング」は、「丸ビル」、「新丸ビル」に次ぐ「第三丸ノ内ビル」と名付けられることが決まっていた。しかし、大手町地区の代表格として印象付けるために、最終的には「大手町ビルヂング」との名称に落ち着いた([2]p.58参照)。
なお、「大手町ビルヂング」は予想を上回って入居申込が殺到したという。そこで、急遽、「第二大手町ビルヂング(最終名称:新大手町ビルヂング)」が計画され、ほぼ同時進行で建設されることとなった([2]p.61)参照)。この「第二大手町ビルヂング」もまた、杉山のデザインになるものであった(前稿(第5回)の写真05に杉山の押印あり)。

現存する内装
「大手町ビルヂング」のインテリアには、既存の部位が数多く残されている。1階中央部のエントランスホールには、南北方向の吹抜け空間に林立する大理石の円柱が現存する。その中央部に渡されたブリッジの円形開口部も健在。南北方向の床仕上げは変更されているが、東西方向の長い廊下は竣工当時のテラゾー仕上げと真鍮目地が残されている。トラバーチンの壁面も既存のまま。





外装が醸す遠近の風景
改修された「大手町ビルヂング」の既存からの変化は、その外観にもっともわかりやすく表れている。既存の建築は、同じスパンを連続させて四周をすべて緑色タイルで統一された、均質と平滑の美学による近代建築であった。改修では、多様性の時代にふさわしく、長大なボリュームを3つに分割し、それぞれ異質な粗面の素材を併存させたファサードに仕上げられている。


レンガの街の面影を宿した東京駅のある東側(大名小路側)は、レンガ調のGRC(ガラス繊維補強コンクリート)パネルで、皇居の石垣が堀に映える西側(日比谷通り側)は、石垣調のGRCパネルでそれぞれ仕上げ、周辺環境と呼応した風景を創出している。丸の内から大手町へと通る仲通りが貫通する建物中央部は透明なガラス素材で仕上げ、内部の通路と仲通りとの連続性を演出している。
一見すると、既存の姿はすっかり刷新されているかのようである。しかし、よくみれば、1階には、花崗岩仕上げの壁面と装飾、柱間のガラスブロック壁、かつての看板など、竣工当時の部位がよく残されていることに気づく。遠目には新奇性を感じさせ、近づくと歴史性を味わえるという、新旧の調停が見事に果たされた佇まいが味わい深い。
なお、この分割された3つの素材の競演による改修後のファサードは、先の述べた、かつて既存建築が新築される際に、棟を3つに分けて競い合いながら施工されたエピソードをも暗示しているようで興味深い。


杉山好みの階段の意匠
さて、ここまで「大手町ビルヂング」の特徴をみてきたが、肝心の杉山の手の跡はどこに見出せるだろうか。内外装ともに、三菱地所らしい「堅実」なデザイン(詳細は第5回を参照)でまとめられた改修前の「大手町ビルヂング」には、奇抜な個性は見出せない。そして、忠実な建築家・杉山の仕事にもまた、強い個性は読み取りにくい。
しかし、これまで指摘してきたように、杉山の手掛けた建築には、その空間の名脇役とでもいうべき曲面を伴う階段の意匠に特徴があった。「大手町ビルヂング」にとっても階段は、目立たないところに配されていて、空間の主役たりえてはいない。改修後の姿が掲載された雑誌([4][5][6])等でも階段室は取り上げられていない。しかし、ここでも階段がアツいはずである。そう思って、現存する階段室へと向かった。ここにもやはり、名脇役としての階段があった。滑らかな曲線で折り返されたトラバーチン仕上げの階段が、鈍く密やかに輝いていた。

ちょうど曲面角の天井との際に、2つの縦長の穴が開いている。ここに仕込まれた照明が、量塊としての階段室に線的なアクセントを注いでいる。
この細い双子の開口を見て、筆者はすぐさま「赤星鉄馬邸」(第2回)の階段を想起した。赤星邸の階段にも、まさに連続する縦長の開口部が曲面に穿たれ、そこから注ぐ光が曲面壁と階段の裏側に彩りを添えていた。
ここにこそ、杉山の変わらぬオリジナリティを見出せるのではないか。階段にアクセントを添えて、負担となる縦移動を、心地よい時間に変える工夫がそこにある。使いたくなる階段を設えれば、エレベーターの混雑緩和にもつながる。「大手町ビルヂング」の階段室には、「赤星鉄馬邸」由来の、登る人に寄り添ったデザインが施されていたのであった。
なお、三菱地所創立130年を記念して発刊された『丸の内建築図集1890-1973』[7]をめくったところ、これに掲載された「大手町ビルヂング」以前の建築(杉山が関わっていない建築)の平面図には、曲面階段は一切見られなかった。逆に、「大手町ビルヂング」以降の杉山が関わったビルのほぼすべて(「新国際ビルヂング」(1965)と「新有楽町ビルヂング」(1967)以外の11作品)で、角の丸い曲面階段が採用されている。丸の内のビルの階段に曲面をもたらしたのは、杉山の功績によるものであったにちがいない。


レーモンドの来訪
1958年4月10日、「大手町ビルヂング」の竣工式が、ときの首相・岸信介や東京都知事・安井誠一郎などの要人を招いて盛大に行われた([2]p.58参照)。そしてここに、アントニン・レーモンドとその妻・ノエミ・レーモンドの姿もあった。
レーモンドは1948年以降、再び日本に戻ってきて、「リーダーズダイジェスト東京支社」他、旺盛に設計活動を再開していた。前稿(第5回)でも述べた通り、杉山は1951年までの一時期、三菱地所とレーモンド事務所との掛け持ちで働いていた。
それから7年後に建った「大手町ビルヂング」の落成式の場で、杉山はレーモンド夫妻と談笑していた(写真17)。レーモンド夫妻の笑顔には、新たな門出を心から祝福するかのような親しみが感じられる。そして、杉山の横顔には、その気持ちをありがたく受け止めるかのような穏やかな笑みがこぼれている。
これ以前にもいくつかのビルに杉山は関わっていたが、「大手町ビルヂング」こそが、三菱地所移籍後の杉山の、最初の本格的な担当作であったにちがいない。

改修によって増幅された大手町ビルヂングの魅力
さて、最後に、大手町ビルヂングが生き残ることとなった経緯についても触れておきたい。竣工から60年後の2018年、三菱地所は「大手町ビルヂング」の全面改修に着手した。同社では、2002年の「丸ビル」建替えを皮切りとして、大丸有エリア(大手町・丸の内・有楽町)一帯で大規模な建替えによる再開発が続々と取り組まれている。しかし、ここでは、建替えではなく、改修が選択されることとなった([8]参照)。その理由は以下のとおりである。
もともと「大手町ビルヂング」は、柱が多く、室形状が細長い。当初は大企業を誘致する目的で建てられたものであったが、これは、大空間として用いるだけでなく、小さな空間に切り分けて多数多様なオフィスとして活用することにも適している。
近年、革新を起こす可能性を秘めた小さなスタートアップ企業への期待感が高まっている。2022年には政府が「スタートアップ育成5か年計画」も策定した。これに伴い、スタートアップ向けの小割のオフィス空間の需要も高まった。
しかし、大丸有エリアには大企業向けの大空間は数多くあるものの、小割にしての賃貸オフィス運用は難しかった([4]p.62参照)。そんな矢先に更新のタイミングが来た「大手町ビルヂング」は、まさに小割して貸し付けるのにうってつけの平面構成をもっていたのである。さらに、今どきは歴史を重ねた戦後建築を保存活用する機運もだいぶ高まってきた。
こうして、建替えを免れ、リノベーションによって2020年に生まれ変わることとなった[5]。2022年には、かつて展望台として観光客でにぎわった屋上が交流空間「SKYLAB」として再整備され、全面オープンと相成った[6]。改修後も、長大な縦ルーバーの並ぶ圧巻の既存塔屋が現存している。またその下部には、既存屋上に1967年から安置されていた大手町観音([2]p.194参照)を祀るお堂がある。「SKYLAB」へはビルの就業者でなくても訪れることができる。是非、その増幅された開放空間としての魅力を味わっていただきたい。


(撮影:吉田誠)
次回は、「大手町ビルヂング」の直後、1959年以降に推し進められた「丸ノ内総合改造計画」について、杉山がいかにこれに関わり、街の風景の更新に貢献したかを紐解いてゆく。

※丸の内の町名表記は、1970年に「丸ノ内」から「丸の内」に変更された。本連載では、地名としての丸の内を説明する場合には、「現代でいうところの」との意を含んで「丸の内」と記す。固有名詞、あるいは文脈上、変更前の町名をとくに言い表す必要がある場合のみ「丸ノ内」と記す。
参考文献
[1]大手町ビルヂング落成記念パンフレット, 三菱地所, 1958.4
[2]三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 下巻』三菱地所, 1993
[3]「話題になった建築 東京タワー 大手町ビルディング 高速度道路 帝国ホテル 草月会館 (1958年 建築界の動き)」, 『建築雑誌』, 1958.12
[4]宮永博行「大手町ビルリノベーション」,『日経アーキテクチュア』2021年5月27日号, pp.54-63,日経BP社
[5]「大手町ビル・リノベーション」,『新建築』2021年3月号, pp. 新建築社
[6]「大手町ビルSKYLAB」,『新建築』2022年7月号, pp.160-163, 新建築社
[7]三菱地所設計古図面研究会+新建築社編『丸の内建築図集1890-1973』新建築社, 2020
[8]三菱地所プレスリリース「100 年ビルへの挑戦、「大手町ビル」大規模リノベーションを完了」2022.05.24
種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。1982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。2017年日本建築学会奨励賞受賞。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。編著に『有名建築事典』(学芸出版社、2025)。主な本稿関連論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。
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