1965年、丸の内エリアに、「大手町ビルヂング」に次ぐ延床面積を誇る大型ビジネス拠点として、「新東京ビルヂング」が完成した。これにて、杉山がデザインを主導した「丸ノ内総合改造計画」はひとつの節目を迎え、近代ビジネスセンターとしての丸の内の基盤が強固なものとなった。その工業性と工芸性の共存する格調高い佇まいは、半世紀を経た今もなおビジネスマンたちに愛され、既存ビルへの敬意に満ちた改修によって次世代へと引き継がれつつある。「東京建築祭」などでも注目を浴びる、杉山による丸の内の現存ビルの代表作「新東京ビルヂング」について、吉田誠氏の写真とともに、これを巡る様々なドラマをつづってゆく。(種田元晴=文化学園大学准教授)
[協力:三菱地所設計]
※「東京建築祭2026」のイベントとして5/23(土)・5/24(日)の2日間、「新東京ビルヂング」での特別展示を行います。詳細はこちらを。


「丸ノ内総合改造計画」第一期の集大成
1963年6月、杉山雅則の丸の内における代表作「新東京ビルヂング」が第1期竣工を迎えた。総坪数は20,978坪(69,347㎡)。第1期の時点ですでに、「大手町ビルヂング」(33,660坪)、「新大手町ビルヂング」(26,198坪)に次いで、丸の内で3番目に巨大なビルが出現したことになる。
前稿(第7回)で取り上げた「丸ノ内総合改造計画」により新たに立ったビルは、総延坪62,000坪を数えるまでになった。明治期以来の赤レンガ建築から新鋭の百尺ビルへの改造は、全計画の5分の3が完了するに至った。これにて、馬場先通りの南側の立面はすべて赤レンガの様式建築から鉄骨鉄筋コンクリートのモダニズム建築へと姿を変えた(北側にはまだ第1,4,5号館が残っていた)。


「新東京ビルヂング」第1期竣工のお披露目(1963年6月24日)の際に発行されたパンフレット[1]で、時の社長・渡辺武次郎(1894-1997)は、この「新東京ビルヂング」第1期の完成をもって「丸ノ内総合改造計画」第1期が完了したことを告げている。つまり、「新東京ビルヂング」は、大改造計画前半の集大成といえる記念すべき建築なのであった。

北の「大手町ビル」と南の「新東京ビル」
そして、1965年4月、「新東京ビルヂング」は隣接した「第21号館」の敷地と一体化するかたちで増築され、L字型から真四角の整形な平面となり、総坪数32,066坪(106,004㎡)の巨大なオフィスビルが完成した。

渡辺武次郎は、新生された社有地一帯をしばしば「丸ノ内ビジネスセンター」と呼んだ。その北の要であった「大手町ビルヂング」に続き、南の要としての「新東京ビルヂング」が完成したことで、一大ビジネスセンターとしての丸の内はひとつの到達をみることとなったのであった。

杉山による戦後丸の内のビジネス三大拠点
ちなみに、同年(1965年)11月には、線路の向こう側の常盤橋街区に「日本ビルヂング」が延床面積約5万坪で竣工している(注1)。こちらの設計を担ったのも杉山であった。「大手町ビルヂング」、「新東京ビルヂング」を凌いで「日本ビルヂング」が丸の内最大となった。こうして、「丸ノ内ビジネスセンター」の三大拠点が完成をみる(注2)。
このビジネス大拠点3部作のいずれもが、杉山のデザインにより実現されたのであった。この事実にこそ、杉山が戦後丸の内の発展に果たした貢献の大きさを見て取ることができる。これらが完成した1965年、杉山はすでに還暦を過ぎていた。


当時の三菱地所は55歳定年だった(注3)。杉山は1904年生まれ。つまり、「丸ノ内総合改造計画」の最初の建築「千代田ビル」が着工した1959年末には、実はすでに杉山は定年を迎えていた。それでも嘱託の身分ながら、杉山は「丸ノ内総合改造計画」のデザインを先導する役割を託されたのだった。「丸ノ内総合改造計画」の推進に杉山はなくてはならない存在であったことが、このことからもうかがい知れる(注4)。

建設の背景
戦後東京の過密化によりオフィス需要が増したことに伴ってはじまった「丸ノ内総合改造計画」。「新東京ビルヂング」は、その一環としてのプロジェクトであったが、その建設の直接の契機は、一企業からの強い要望によるものであった([5]p.110参照)。その企業とは日興証券である。
日興証券は、もとは証券会社のメッカである兜町に本社があった。しかし、飛躍を企図して、1952年に「新丸ノ内ビルヂング」が新築されると、ここへと本社を移転していた。その後、景気の好調に後押しされて、新丸ビルを拠点に急激な発展を遂げたが、社員の数も増え続け、ついに新丸ビルでは収まりきらなくなって、分室が周囲に散らばっていた。スピード重視の業界にもかかわらず、このままでは意思伝達の効率が悪い。そのような事情から、同社は三菱地所に対し、社員が一堂に会せる、十分な事務スペースのある本社空間を求めたのであった。
そればかりでなく、日興証券としては「丸の内から兜町をリードする」という終始変わらぬ態度があったことも大きかったという。さらに、日興証券の創業者で第1期竣工時の会長であった遠山元一(1890-1972)は、その若き日、関東大震災で東京中が焼け野原となった際に、新丸ビルの立つあたりを証券界一同で買い取って、ニューヨークに倣って取引所と業務店舗を一手に集約する巨大ビルを建設する構想を練っていたこともあったのだという(以上[7]参照)。
三菱社も、兜町と丸の内を巡っては、その創業当初に渋沢栄一らと厳しい競争を繰り広げた因縁がある。渋沢らが主導した明治初期の兜町ビジネス街に対して、三菱はその後、丸の内を一大ビジネス街へと成長させた(注5)。兜町派ではなく丸の内派、という意味では、三菱地所と日興証券はいわば、同志と呼べる関係にある。そんな企業からの申し出に、三菱地所は誠意をもって応えるかたちで「新東京ビルヂング」の建設に踏み切ったのであった。なお、一企業から本社スペースを要望されてつくられたものであったが、もとより一社独占ビルということではなく、日興証券のほかにも多数の企業が同居した([1][2]参照)。

更新の手順
さて、二期にわたる「新東京ビルヂング」の建設プロセスはやや複雑であるので、ここで少し整理しておきたい。
もともとここには、4つの赤レンガ建築が立ち並んでいた。初代技師長・ 曾禰達蔵による「第3号館」(1896年竣工)、二代目技師長・保岡勝也のもと本野精吾・内田祥三も設計に参加した「第12号館」(1910年竣工)、同じく保岡による「第14号館・第16号館」(1912年竣工)、そして保岡の基本設計を藤村朗と山下寿郎が引き継いで実施設計した「第21号館」(1914年竣工)の4つである([4][5][8]参照)(注6)。
ちなみに、これら4つの建築は一見すべてレンガ造にみえるが、実はちがう。「第3号館」と「第12号館」はレンガ造であるが、「第14号館・第16号館」は鉄筋コンクリート造、「第21号館」は鉄骨鉄筋コンクリート造である。いずれも、日本の構造史上先駆的な試みに数えられるものであった。



このうち、テナント移転の都合により2期工事となった「第21号館」以外の3つを、1961年8月より順次解体。同年11月に地鎮祭が行われ、1963年6月にL字型の第1期が竣工する。同年9月から残されていた「第21号館」を取り壊し、敷地を統合し(中央の細い通りは、第1期分との接続も行われたうえで、丸ごと1つの街区として1965年4月に完成した([5]p.110-111参照)。この3段階のプロセスを図に整理するとこのようになる(図05)。

レーモンドが入居した「第21号館」
ところで、「第21号館」は、丸の内における最初の鉄骨鉄筋コンクリート造の貸事務所建築であった。また、そもそも、それまでの一社独占の棟割形式でない、出入口や廊下、階段、エレベーター、設備を共有する中庭を配した共同の貸ビルという形式の、丸の内における最初の建築でもあった([4]pp.188-195, [9]pp.229-231参照)。ちなみに、それまでのレンガ造による棟割形式の建築がレンタブル比で50%程度(例えば「第12号館」は47.5%、「第13号館」は51%)しかなかったのに対して、「第21号館」は73%にまで向上している。共同ビルの形式は、入居者にとって活気を促すだけでなく、経営者にとっても画期的なものであった([4]p.244参照)。
この形式は、アメリカで発展したオフィスビルのあり方を先駆的に取り入れたものであった。そのアメリカ式の先進性を気に入ってか、外国企業もいくつか入っていたようである。1922年時点でのテナント一覧には、テキサス会社、バーデンス商会、米国貿易会社、米国建築合資会社などのほか、それらしいカタカナ表記の社名がいくつかみえる([4]p.194参照)。
このうち、5階に入居した「米国建築合資会社」こそが、杉山の師アントニン・レーモンドがF.L.ライトのもとから独立して、建築家L.W.スラックとともに立ち上げた最初の事務所(1921年設立)であった。スラックとの協働は1年ほどで解消されるが、それから1927年までの6年間「第21号館」にレーモンド事務所は入居していたようである(注7)。
レーモンドが事務所を立ち上げた直後、ここに杉山雅則が入所する。つまり、杉山がレーモンドの元で仕事を始めたその最初の場所こそが「第21号館」なのだった(連載第5回参照)。それから40年後、そんな初心を想い起こさせる場所を、修行を積んだ杉山が、自らの手で「新東京ビルヂング」として更新することになるのであった。

外観の直截美
前置きが長くなったが、そろそろ肝心の「新東京ビルヂング」の空間的魅力に迫りたい。とくに、このビルは、「大手町ビルヂング」と同様に、既存ビルを生かした大規模リニューアルにより、建て替えられることなく次世代へとその意匠が継承されることとなっているので、現存する部分を取り上げながら、その特徴を見ていきたい(注8)。
なんといってもその最大の特徴は外観の横長連窓にある。柱を内側に引っ込めて、ガラス面とその上下のスパンドレルが四周をぐるりと8層分(9階建てだが1,2階の立面は一体化している)ミルフィーユ状に重なる端正な姿は、単純ながらも印象強い存在感を放っている。

とくに、角が曲面となっていることに注目したい。コーナー部を曲面とするのは、レーモンド事務所以来の杉山の得意とする意匠であった。ここでもこの曲面コーナーにより、機能的には役物のような装飾性を避けつつ耐久性にも貢献しそうであるが、審美性としても、各立面がひとつひとつ別物のように描かれてつくられる古典建築の二次元的な姿とは全く異なり、横方向の連続性が途切れることなく無限に続いていくかのような三次元的な立体感を醸し出しているのである。レンガ建築では決してできない、水平性という近代建築の代名詞により、新しい時代の幕開けが鮮やかに表現されている。


杉山の師レーモンドは常々、「最も簡素なもの、最も自然なもの、本当に機能的なもの、最も直截で、最も経済的なもの」といった五原則こそが「本当に神々しい美しさをつくる根源だ」と唱えていた([12]p.23)。杉山は一連の改造計画を「レーモンド時代のデザインともまた別のもの」([9]p.253)としていながらも、「新東京ビルヂング」はまさに、レーモンド譲りの、虚飾を排し、無駄がなく、経済性を意識した、直截的な美しさを放っている。
そういえば、前稿でも示した通り、「丸ノ内総合改造計画」の指針にも、周辺との調和、品位ある風格、奇をてらわないこと、経済性、管理・保守上の利便性といった以下の五原則が示されていた。
(1) 周辺との調和を図る
(2) 品位ある風格を出すよう考慮する
(3) いたずらに奇をてらわない
(4) ビルヂングの経済性を考慮する
(5) 管理、保守に便利のよいものとする
改めてレーモンドによる上記の五原則と見比べると、その親和性の高さに驚く。
この改造計画の五原則の策定には、デザインの先導者であった杉山も当然関与していたにちがいない。しかし、レーモンドとは「別のもの」として取り組んでいたと言うので、そのままレーモンドの五原則を取り入れたというわけでもなさそうである。それでも、杉山の身体に叩き込まれたレーモンドの美学が、無意識のうちににじみ出ていたということであろう。

ただし、この外観の水平性は、杉山だけのアイデアではなかった。杉山は、藤森からの聞き取り[9]のなかで、ビルによって表現に違いがあるが何か方針があったのかと問われると「全体の統一感を出そうということはもちろんあったのですが、ビルごとの事情もあった。たとえば、新東京ビルは隣りの商工会議所に合せて垂直線を強調しようとしましたが、渡辺社長の意向で水平線を強調した」(p.253)と答えていた。水平線の強調は、渡辺の意向に応えたものだったのである。
垂直線の強調は、レンガ造特有の縦長窓を想起させもする。外国からのウケの悪い前時代的なレンガ造建築からの脱却を目指していた渡辺にとっては、これは避けたいデザインであったのかもしれない。当初の案とは真逆の方向に進んだが、しかし、社長からの意向を大らかに受け入れ、調和しつつも存在感のある意匠を実現させた杉山の手腕は見事なものであった。

内装の工芸美
外観の工業的な簡素美に比して、内部には工芸的な壮麗さが見出せる。平面図(図02)からは一見、均等なスパン割、円滑な通路計画、混雑を避けた分散縦動線、採光限度を考慮した室形状、邪魔にならないシャフト配置など、合理的で手堅い空間構成が読みとれる。しかしよく見ると、壁芯のずれや曲線の階段など、堅さを崩した自由さが垣間見える。
さらに、実際に訪れると、玄関ホールの柱には隅切がなされ、そこに砕いたタイルに金箔を貼ったような格調高い化粧を付加していたり(写真17)、エレベーター周りの石壁に矢橋六郎作のモザイク画「彩雲流れ」をはめ込んだ立面を現したり(写真18)、床を様々な模様と色味のタイルや人研ぎで仕上げていたり(写真19)、中央ホール上部に幾何学的な天窓兼用照明を仕込んでいたり(写真20)、2階ギャラリー部分にアール・ヌーヴォ調の手すりを設えたりと(写真22)、図面からは決して読み取れない手仕事性に溢れる素材感豊かな工芸美が味わえる(これらは全て、オリジナルが残されている)。











階段へのこだわり
これまでみた杉山の作品では、とくに階段の意匠に特徴があった。「新東京ビルヂング」もまた、階段が魅力的な建築である。
平面(図02)をみると、「新東京ビルヂング」には、16つの階段が分散配置されていることがわかる。そのうち、利用者用の大きな折り返し階段の踊り場部分はすべて曲面となっている。ここまでは他の作品と共通している。
「新東京ビルヂング」がさらに興味深いのは、この折り返し階段の手すりが、下から上まで一本ものとしてつながっていることである。外側と内側から壁厚中央に向かって下がった扁平のMの字型断面形状のステンレスの手すりが、継ぎ目なく滑らかに連続しているのである。

下から上へと昇ってゆく手摺の角は踊り場で丸く水平に折り返されているので、三次元的に大変複雑なことになっている。しかも、どちらかというとこの階段室は、この建築にとっては裏側の空間なはずなのである。それにもかかわらず、階段を上り下りする人々がずっと手をかけていたくなるような空間とすべくか、徹底的に溶接の跡のない、一本の帯としているのである。ここにはある種の狂気を感じるほどのこだわりが見出せる。

裏手の階段に狂気的なこだわりを見せたものとしては、杉山がレーモンドのもとで手掛けた「東京女子大学講堂」(第3回)の裏手の階段が思い出される。そういえば、あちらも、鉄の手すりこういう、誰も気にも留めないかもしれない細部の意匠にこそ魂を込めているところに杉山らしさを感じてしまう。

もうひとつ、玄関ホール脇の階段にも注目したい。踏面と蹴上げを素材感豊かな手仕事で仕上げ、下に向かって溶け出すかのように末広がりとなっている重厚な鉄筋コンクリートの段板に、細く軽やかに曲線を描く金属の手すりをあしらった、上質な階段である。

この階段を見ていると、杉山が担当したレーモンド初期の大型建築「東京ゴルフクラブ」(1932年竣工)の玄関ホールの主階段が想い起されてくる。
「東京ゴルフクラブ」は、作品集[13]のなかでも18頁もの分量を割いて紹介するほどのレーモンドの自信作であったという([14]p.55参照)。こちらの階段にも、湾曲しながら末広がった形態、モザイクタイルで鮮やかに仕上げられた段板、細く軽やかに曲線を描く鉄の手すりが見られる。
「東京ゴルフクラブ」の外観は、白の時代のル・コルビュジエを思わせる横長連窓の建築であった。シンプルで無駄のない洗練された箱の玄関ホールに、優美で上質な階段を設えた、工業性と工芸性の共存する「新東京ビルヂング」の空間の原型を、「東京ゴルフクラブ」に見出すことができる。

塔屋にまで徹底された水平性
「丸ノ内総合改造計画」によるビルは、品格ある屋上の長大な塔屋もまた隠れた魅力のひとつであった(詳細は前稿(第7回)参照)。これまでに載せたアイレベルからの外観写真には写っていないが、「新東京ビルヂング」にも、屋上に迫力ある塔屋が載っている。
前稿で指摘したように、杉山が手掛けた「大手町ビルヂング」「千代田ビルヂング」「富士ビルヂング」「三菱電機ビルヂング」「新国際ビルヂング」「日本ビルヂング」などには、縦線の強調された長大な塔屋が屋根の中央部に配されていた。前稿ではこれを日本建築の瓦屋根立面に見立てて、西洋古典由来のオーダーに範をとったファサードと相まって、和洋の混在併存ではないかと指摘した。

しかし、「新東京ビルヂング」の塔屋は、縦線ではなく横線の強調されたプロポーションとなっている。そもそも、前述のように、「新東京ビルヂング」の外観には、柱が引っ込められているために立面に縦線は一切現れていない。ここが、その他の丸の内の建築とは一線を画しているポイントであった(「日本ビルヂング」にも縦線がないが、あちらは丸の内ではなく常盤橋なので周囲との関係が異なっている)。立面に縦線を現さないという徹底ぶりは、塔屋の意匠にまで適用されていたのであった。

設計前夜、ニューホープにレーモンドを訪ねる
1959年からはじまった「丸ノ内総合改造計画」。この丸の内ビジネスセンターの大改造は、時の社長・渡辺武次郎の強力なリーダーシップのもと推進されたものであった。
もともと、渡辺は1952年の社長就任以来、いずれは赤レンガ街を高層ビル街に建て替える構想を抱き続けていた。1954年には、その実現に向けて、杉山の上司にあたる岩間旭を伴い、3か月にわたって欧米主要都市35か所を視察して回った。そうして渡辺は、丸の内を、海外の都市のようにスカイラインが整然と揃ったビル街でありながら、皇居の静けさとも調和する街並みへと改造することを夢みたのであった([4]p.102参照)。

ところで、改造計画が始まった翌年の1960年の9月、杉山はアメリカ・ニューホープのレーモンド農場に、一時滞在中だったレーモンドを訪ねている。ここは、戦中、レーモンドが杉山に事務所を託して帰国した際に拓いた自邸であった。
ニューホープにレーモンドを訪問したこのエピソードは、雑誌『建築』1961年10月号に「私の思い出」[15]として掲載されている。「新東京ビルヂング」の着工は1961年11月である([6]p.171参照)。まさに、いま杉山の集大成の工事が始まらんとするそのときに掲載されたものであった。
ニューホープを訪問したのは、杉山がレーモンドのもとを離れて20年近くが経とうとしていた時期のことである。なぜこの時、アメリカに行っていたレーモンドをわざわざ訪ねることになったのだろうか。そもそも、三菱地所に移ってからも、レーモンドとの交流は続いていたのだろうか。
そういえば、三菱地所での杉山の戦後初期の代表作「大手町ビルヂング」(1958年竣工)の際に、杉山はレーモンドを案内していた(詳細は第6回参照)。少なくとも、二人の交流はその後も続いていたようである。むしろ、そのときのレーモンドの、杉山の仕事に対する祝福の笑みがとても印象深かったことから、レーモンドは杉山が自身のもとを離れた後も、杉山のことをずっと気にかけていたにちがいない。

それは、レーモンドが戦後日本へ再来日して事務所を再建した2年後の1950年3月、株式会社レーモンド建築設計事務所の設立にあたり、その最初の取締役社長に、三菱地所にすでに移っていた杉山雅則を起用したことからも伺える(注9)。さらには、その前から、すでに三菱に移って数年経っている杉山に、レーモンドは何度も事務所の再建を急がせる連絡をしていたようだ(注10)。どうしても杉山に戻ってきてほしいという、レーモンドの強い想いが感じられる。しかし、杉山は一時的に立ち上げには関わったものの、結局、レーモンド事務所には戻らなかった。忠義の人であるからこそ、再び主君を変えるようなことは、杉山はしなかった。
レーモンド事務所再建を手伝ってから10年の間、戻ってこなかった杉山が三菱地所でどのような仕事をしていたのか、レーモンドが気にならないはずはない。久しぶりに二人きりでじっくりと話をする時間を過ごしたニューホープで、レーモンドはきっと、杉山の最近の仕事についても気にかけて話題にしたことだろう。一連の「丸ノ内総合改造計画」のオフィスビルは、まさにその話題に出たかもしれない、進行中のプロジェクトであった。そして、その前半の集大成であった「新東京ビルヂング」がまさにその翌年、着工を迎えたのであった。
「私の思い出」のなかで杉山は「New Hopeに滞在中のレーモンド夫妻の訪問も、目的のひとつだった私のアメリカ旅行」という言い方をしている。杉山はただレーモンドに会いに行くためだけにアメリカに渡ったのではなく、なにか他に主な目的があったのらしい。
また、記事の中では、「ニューヨークの飛行場で、日頃健康だった夫人(筆者注:ノエミ・レーモンド)が、突然手術の為、入院されたと出迎の人から聞いて、New Hopeの家にかけつけたのだった」([15]p.47)とも書いている。この部分は、ニューヨークについてすぐにレーモンドを訪問するのではなく、なにか別の用事を済ませてからニューホープにも立ち寄ろうというのが当初の計画であったが、急遽予定を変更してまずはノエミを見舞いにニューホープへと向かうこととなった、というようにも読める。
その後、付近の町に入院したノエミの経過が良好だったために、レーモンドと二人で付近を散歩したり、夜食を二人でつくって軽井沢の夏の家での思い出話に花を咲かせたり、レーモンドと二人だけの濃密な時間を過ごしたようである。
では、杉山はアメリカ・ニューヨークへ、本当は何をしに行ったのか。これはおそらく、丸の内の大改造の参考のためにニューヨークのオフィスビルの視察に赴いたことが主な目的だったのではないかと筆者は推察する。あるいは、レンガ街ではスラムと化していたニューヨークのハーレムを連想させるとの懸念をアメリカ企業から渡辺武次郎が示されたことを念頭に、本場の姿を確かめておこうというものだったかもしれない。ニューヨークからそれほど遠くないレーモンド農場を訪れたのは、そのついでのことだったとも推察される。
渡辺と岩間の視察に遅れること6年、いよいよ「丸ノ内総合改造計画」前半の集大成に取り組むとなって、レーモンドのニューヨーク滞在に合わせ、杉山もまた海外都市へと視察に出掛けていたのであった。
次回は、ここまでの振り返りを兼ねて、かねてより三菱地所設計により調査が同時進行中であった、杉山が三菱地所で設計に携わった建築とその図面に関して、調査メンバー各位と座談形式で語り合う。
関連情報
「東京建築祭2026」で「新東京ビルヂング」での特別展示を行います。2階丸の内フォトギャラリーにて杉山雅則の資料を展示します。
5/23(土)10:00-17:00
5/24(日)10:00-17:00
詳細はこちらを。
注
(注1) 正確には、同じく杉山の設計による1962年竣工の「第三大手町ビルヂング」が大幅増築され名称変更されたのが「日本ビルヂング」である。
(注2) この丸の内の三大プロジェクトのうち「日本ビルヂング」はその役割を終え、1998年以降の第三次再開発により解体。跡地では現在、TOKYO TORCHプロジェクトが進行中である。一方の「大手町ビルヂング」と「新東京ビルヂング」は、丸の内の戦後オフィスビルにおける大規模リノベーションの先駆例として現存する。
(注3) 参考文献[6]の年表p.416「当社関連事項」昭和41年の項目内に「8.1 従業員就業規則改正(定年55歳→56歳)」とある。年表内のこれ以前に定年に関する記載はない。つまり、1966年7月以前の三菱地所の定年は55歳だったことがわかる。
(注4) なお、「丸ノ内総合改造計画」以前の戦後丸の内に建設された大型オフィスビルには、「永楽ビルヂング」(第1期/1952年竣工)、「東京ビルヂング」(1955年竣工)、「三菱商事ビルヂング」(後の別館/1958年竣工)、「大手町ビルヂング」(1958年竣工)、「新大手町ビルヂング」(1959年竣工)などが挙げられる。これらのうち、「永楽ビルヂング」を除くすべてに杉山が設計に関わっていた。ちなみに、これらに先んじて「丸ノ内ビルヂング」が1952年に竣工しているが、これは、戦前に着工し中断されていたものであり、杉山は関わっていない。なお、「永楽ビルヂング」の着工は1950年8月([6]p.169参照)なので、杉山はレーモンド事務所の社長となっていた時期であったために関与していなかったと思われる。戦後の丸の内の大規模オフィスビルに果たした杉山の貢献は大きい。
(注5)兜町と丸の内を巡る競争についての詳細は藤森照信による参考文献[9]p.199-201に詳しい。わかりやすさのため、ここでその記述内容の要点を補足しつつ整理しておきたい。明治前半には、丸の内よりも早く、兜町がビジネスの中心街であった。そのまちづくりの中心人物は渋沢栄一で、彼は三井と組んで兜町に民間企業を集結させ、資本主義の中心地に仕立て上げていた。当然、両者がいい場所を占有したが、一方の三菱ははずれに追いやられたという。なぜこのようなことが起こったのか。これはそもそも、三菱の祖業であった海運業で急成長したことに対抗した渋沢・三井ら反三菱連合が共同運輸会社を設立して対抗し、海運業をめぐる激しい覇権争いをしたことに端を発している。競争は結局、両者痛み分けで合併となり、日本郵船が誕生することで決着したが、これがもとでか、直後に三菱初代社長・岩崎彌太郎が病死する。兜町はそもそも、西に新たにできる中央停車場(東京駅)と東の隅田川河口に計画されていた国際港という2つの交通拠点を結ぶ間に位置することに価値があったが、国際港ができなくなり地の利を失うこととなった。そこへ東京駅以西の丸の内が払い下げられることとなり、ここでも再び三菱と渋沢・三井らの反三菱連合の駆け引きが行われた。結果、2代目社長・岩崎彌之助の「海から陸へ」との執念により、三菱が一括で払い下げることとなり、現在に至っている。
(注6) 1917年に、地番と建物番号の不一致による混乱を解消するべく館名の変更が行われた。まず、大名小路を東通り、堀端電車通り(現・日比谷通り西通り、その中央を仲通りと呼び直す。そのうえで、南から北に向かって通りの東に偶数番号、西に奇数番号を割り振った。その結果、「第3号館」は「東7号館」、「第12号館」は「仲8号館」、「第14号館・第16号館」は「仲6号館」と呼称が変わった。ただし、「第21号館」だけは、大口テナントのアメリカ企業の反対により館名改称が行われなかった([4] p.213-215参照)。
(注7) レーモンドは自伝の中で「私がライトと別れ、スラックがヴォーリズから退いた直後に始めたその事務所は、三菱仲21号館の日米貿易会社と同じ建物にあった」と述べている([10]p.73)。「仲21号館」は存在しないので、これは「第21号館」の誤訳であると思われる。また、参考文献[4]p.194のテナント一覧には「日米貿易会社」はない。ただし、4階に米国貿易会社があるので、これのことかもしれない。なお、レーモンド設計事務所のウェブサイトによれば、「1927年 事務所を東京海上ビルに移す」とあるので、それまでは「第21号館」に事務所があったと考えられる。
(注8) 三菱地所グループのプレスリリース[11]によれば、竣工60年を機に、“人を惹きつける新東京ビル”をコンセプトとして、単純な外装・内装の改修にとどまらない大規模なリニューアルを2022年8月より実施し、2025年度中の完了を目指すとしている。
(注9) レーモンド設計事務所会長・三浦敏伸氏からの聞き取りによれば、1950年3月25日に株式会社レーモンド建築設計事務所が設立され、その発起人および取締役社長として杉山が名を連ねていたという。なお、同年12月28日には、専務取締役であった中川軌太郎が代表取締役となり、杉山の名前は役員からはなくなっていたというので、杉山は期限付きの立ち上げメンバーであったと考えられる。また、杉山が三菱地所での自身の仕事をまとめたものと考えられるリスト(松隈洋氏所蔵杉山雅則旧蔵資料)が残っているのだが、それをみると、1950年~1954年の間だけがごっそり抜けている。戦後復興期故に大規模な建築を扱う三菱地所では主たる設計の仕事がなかったためとも考えられるが、この時期は「半日は地所、半日はレーモンドという奇妙な勤務が認められて、1年ほどそんな状態でした」([9]p.253)との杉山の証言があるので、レーモンド事務所での仕事が忙しかったことによるのかもしれない。ちなみに、レーモンド事務所では当時、戦後初の代表作である「リーダーズ・ダイジェスト東京支社」(1951年竣工)が進行しており、事務所もその敷地内に設置されていた([14]p.120,237参照)。杉山はもしかしたらリーダイの設計にも関わっていたのかもしれない。
(注10)杉山は「日本に来る前から矢の催促で、早く事務所を再建しろと言ってきました」([9]p.252)と語っている。すでに三菱に移って数年経っている杉山に、レーモンドが何度も連絡をしていた様子がうかがえる。
参考文献
[1] 新東京ビルヂング竣工記念パンフレット(第1期), 三菱地所, 1963.6.24
[2] 新東京ビルヂング全館竣工記念パンフレット, 三菱地所, 1965.4.28
[3] 日本ビルヂング竣工記念パンフレット, 三菱地所, 1965.11.26
[4] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 上巻』三菱地所, 1993
[5] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 下巻』三菱地所, 1993
[6] 三菱地所株式会社社史編纂室編『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 史料・年表・索引』三菱地所, 1993
[7]「特集 日興本店・新東京ビルへ」,『マネービル時代』14巻6号, 日興証券, pp.14-17, 1963.6
[8] 三菱地所設計古図面研究会+新建築社編『丸の内建築図集1890-1973』新建築社, 2020
[9] 藤森照信「丸の内をつくった建築家たち―むかし・いま」, 『別冊新建築日本現代建築家シリーズ⑮三菱地所』新建築社, pp.194-254 , 1992.4
[10] アントニン・レーモンド『自伝アントニン・レーモンド』鹿島研究所出版会, 1970
[11] 三菱地所・三菱地所プロパティマネジメントプレスリリース「~2025 年度完了、ストック型のまちづくりを推進~:「新東京ビル」大規模リニューアル」,2024.7.23
[12] アントニン・レーモンド, 丹下健三「日本建築の美しさ(放送日 昭和三五年四月二七日、二八日、二九日」,『復刻 建築夜話』日刊建設通信新聞社, 2010, pp.18-34
[13]『アントニン・レイモンド作品集 1920-1935』城南書院、1936.2
[14] 三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』鹿島出版会, 2007
[15] 杉山雅則「私の思い出」, 『建築』1961年10月号「アントニン・レーモンド作品集」, pp.47-48, 青銅社, 1961.10
種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。1982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築学科卒業。2012年同大学院博士後期課程修了。2019年~現職。2022年~メドウアーキテクツパートナー。専門は日本近現代建築史、建築作家論、建築設計。博士(工学)。一級建築士。一般社団法人東京建築アクセスポイント理事。単著に『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)。編著に『有名建築事典』(学芸出版社、2025)。主な本稿関連論文に「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」(2020)。
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