最強の道後建築案内01:私が今、道後温泉にいる理由と、初めての松山城_BUNGA NET

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【最強の道後建築案内/掲載リスト】
01:私が今、道後温泉にいる理由と、初めての松山城
02:温泉街の顔、復元駅舎から黒川紀章の現代和風まで徒歩散策
03:道後温泉本館の“魅せる保存修理”を可能にした「3つの奇跡」
04:秘めた迷宮空間にサラブレッド・木子七郎の反骨精神を見た
05:伝説の地方建築家、松村正恒の少し意外なクール系建築
06:長谷部鋭吉から「myu terrace」まで“日建大阪”を松山で知る
07:安藤忠雄氏の知る人ぞ知る傑作「瀬戸内リトリート青凪」を見た!
08:いよいよ総まとめ、長谷川逸子から伊東豊雄まで「松山27選」

 12月19日から愛媛県松山市の道後温泉に“ワーケーション”に来ている。この言葉、自分に使うのは初めてだ。念のため説明しておくと、ワーケーションとは「ワーク(仕事)+バケーション(休暇)」で、「喧噪や無機質な都市を離れ、豊かな自然環境や落ち着いた雰囲気の中で働くことで創造性や生産性が高まる」という、新時代の働き方を指す。1日に三度温泉に浸かって、合間に原稿やイラストを描く──。そんな明治の文豪のような生活をしてみたかったのである。

松山城天守から見下ろした松山市内(写真:宮沢洋、以下も)

 なぜ宮沢(私)にそんなお金が、と不思議に思われると思う。ご明察である。「自費」ではない。「みんなの道後温泉 活性化プロジェクト クリエイティブステイ公募クリエイター」(未来へつなぐ道後まちづくり実行委員会主催)というものに当選したのである。

競争率15倍を勝ち残るも、ゆったりとはいかず…

 9月下旬に、たまたま聴いていたFMラジオで募集情報を知り、「道後温泉本館の耐震改修工事を取材したい」と申し込んだら、当選した。くじ引きではなく、審査である。応募人数753人に対し、選ばれたのは50人(興味がある人はこちら)。倍率15倍だ。後で知ったのだが、審査員の1人が建築史家の五十嵐太郎さんだった(募集要項には書かれていなかった)。なんてラッキー。

 人によって滞在時期は違うのだが、私の場合は道後温泉に12月19日から22日まで4泊5日滞在する。往復の旅費と宿泊費が実行委員会負担。「道後温泉地区に1週間程度滞在し、地域の歴史、文化、人、風景などに触れながら、創作や交流活動を行います。プログラムを通して、道後温泉で文化芸術活動を行う人材を発掘し、多様な視点や感性を通して道後温泉をPRします」というのが募集要項に示された条件で、「何をいつまでにしなければならない」という義務はない。私の場合は、道後温泉本館を取材したいと応募したので、それをいつか発信すれば役目は果たされる。取材日以外は、ゆっくりお湯に浸かって、1年の疲れを癒そう──。そう考えていたのだが、そんはふうにはいかなかった。

 1つ目の見込み違いは、抱えている仕事が全く終わらなったこと。応募した時点では全く想像していなかった量の仕事を抱えたまま道後入りすることになった(涙)。本当に仕事の生産性が上がるのかを試される真のワーケーションである。

 2つ目の見込み違いは、松山市内の建築を調べ始めたら面白くて、しらみつぶしに見たくなってしまったこと。そして、根っからのメディア体質なので、見たものは書かないと気が済まない。誰に約束したわけでもないのに、「道後建築案内」の連載をリアルタイムで始めることにした。しかも、やるからには「どの観光ガイドにも負けないものを目指そう」と、「最強の」という惹句(じゃっく)を付けてしまう悲しい性(さが)……。というわけで、これから1週間ほど、道後・松山ルポにお付き合いいただきたい。

松山城、登って分かったすごい美意識


 ここからようやく本題の建築案内である。

城山公園から見る松山城

 初日にまず訪れたのは、松山の都市づくりの原点ともいえる松山城。よくあるコンクリート復元の城ではなく、本物の木造の城だ。松山には何度か訪れたことがあったが、実は松山城は始めて。城山公園などから本丸がよく見えるものの、歩いて登るのはしんどそうな高さにあり(本丸の標高は132m)、出張のついでではなかなか登る時間がなかった。今回はここからスタートしようと決意して調べてみると、なんのことはない、東側にロープウェイがあった。約3分で山頂駅「長者ヶ平(ちょうじゃがなる)」に着く。そこからさらに10分ほど歩くと本丸だ。

本丸手前の広場から見る

 松山城は松山市の中心部、勝山に築かれた山城。関ヶ原の戦いで活躍した加藤嘉明が初代藩主となり、慶長7年(1602)から四半世紀をかけて築城した。現在の形は、1635年に城主となった松平定行が増改築して完成させた。層塔型天守が小天守および隅櫓と結ばれた連立式の構造で、防備に優れた建造物群は日本の代表的な城郭建築とされる。しかし当初の天守は1784年の落雷で焼失。その後、江戸末期の1854年に再建された。それでも、全国で12カ所しか残っていない江戸時代以前から現存する12天守の1つだ。天守内も公開されており、最上階からは360度のパノラマが望める。

ここから見える景色は冒頭の写真

 そんなことはどのガイドブックにも書いてあるって? はい、ここからです。建築編集者としての独自視点で言うと、登ってみて感動したのはこのアングルだ。

 地上から見ていたときには全く想像していなかった“見開き映え”構図。これは、本丸の最終ゾーン「本檀」に入る際の光景だ。防備に優れた戦闘型の城と評される松山城だが、ここは明らかに見た目の美しさを意識している。

 左の小天守(登録文化財)と右の一の門南櫓(重要文化財)を筋鉄門東塀 (重要文化財) で結び、それらでトリミングして中央の天守を強調する。左右の建物(小天守と櫓)は全く大きさが違い、位置も違うのに、巧妙に線対称っぽく見えるようバランスさせている。すばらしいプロポーション感覚。これを見ただけで上った甲斐があった。

上の写真は赤矢印の位置から見ている

松山城は国宝?それとも?

 もう1つ気になったのは、建物ではなく、この説明書き。

説明文の後段に注目してほしい

 「昭和10年(1935年)国宝に指定されたが、同25年(1950年)、法の改正により重要文化財となった」。

 この恨みがましい文面が、何度も説明書きに現れるのである。あれ、松山城って国宝じゃなかったの?。

 調べてみると、こういうことらしい。

・12の現存天守のうち、姫路城・彦根城・松本城・犬山城は国宝に指定されており、「国宝四城」と呼ばれていた。2015年に松江城が国宝に加わる。
・松山城は、かつて存在していた国宝保存法に基づいて1935年に国宝に指定されていた。
・1950年に国宝保存法は廃止され、文化財保護法が制定された際、国宝とされていたものは重要文化財に変更され、その中で価値の高いものを選別し、改めて国宝に認定していった。
・松山城は、新たに国宝を認定する段階で指定されず、タイミングを逸したまま、現在に至る。。

 ネットを調べていたら、2015年に「松山城が国宝に再指定されることが決まった」という報道もあったが、松山城の公式サイトにも文化庁のサイトにもそのような記述は見つからなかった。勇み足か…。

素晴らしいので、このアングルをもう一度

 私は意外と城好きなので、国宝四城には行ったことがある。姫路城と松本城は別格として、彦根城と犬山城にこの松山城が劣るとは思えない。文化庁が認めようが認めまいが、みんなの心の中の「国宝級」でいいのではないか。実物を見てそう思った。(宮沢洋)

改めて地上から見ると、下から見えていた白い建物は天守ではなく、小天守だったんだなあ。それも今回の気付きでした

次回の記事:温泉街の顔、復元駅舎から黒川紀章の現代和風ホテルまで徒歩散策https://bunganet.tokyo/dogo02/