最強の道後建築案内04:秘めた迷宮空間にサラブレッド・木子七郎の反骨精神を見た_BUNGA NET

Pocket

 今回、この空間を見て、木子七郎(きごしちろう、1884~1955年)の見方が180度変わった。

SFのような迷宮的階段室。どこの建物か分かりますか?(写真:宮沢洋)

 建築の世界には、何世代にもわたって建築を生業(なりわい)としている家系があって、木子七郎はその1つ、木子ファミリーのサラブレッドだ。木子家は代々、宮中の修理職棟梁の家柄。父の木子清敬(きよよし、1845~1907年)は、明治維新後に宮内庁に入り、明治宮殿をはじめ、明治期に皇室関係の造営を担当した。清敬は辰野金吾に請われて、帝国大学工科大学造家学科(現・東京大学工学部建築学科)で初めて日本建築の授業を担当した。洋風建築が勢いを増すなかで、「日本建築」の立脚点をつくった人である。

 その息子、木子幸三郎と木子七郎は父の背中を見て、建築家となった。

 兄の幸三郎(1874~1941年)は、東京帝国大学工科大学建築学科を出た後、いったんは大阪の住友本店臨時建築部(現・日建設計)に入るも、1911年に宮内省に入り、父と同様、皇室関係の建築を多く手がけた。

 幸三郎より10歳年下の木子七郎も、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。しかし役所には行かず、大林組設計部技師として来阪。2年ほどで大林組を退職した後、木子七郎建築事務所を大阪で開設。大阪を拠点に公共建築などを多数手がけた。

 木子七郎は松山市内でも複数の建築を設計した。妻の父である新田長次郎が実業家(現・ニッタの創業者)で、地元の名士だったからだ。

 長い前振りとなったが、松山市に現存する木子七郎の建築を3つ巡った。

一見、対称形だと思わせるほど安定した非対称

 竣工年順に見て行こう。まずは、松山城本丸の南側にある「萬翠荘(ばんすいそう)」。萬翠荘は、1922年(大正11年)に旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵が、別邸として建設した。1922年竣工で来年100周年となる。国の重要文化財だ。

◆萬翠荘
松山市一番町3-3-7
設計:木子七郎
竣工:1922年(大正11年)
参考サイト:http://www.bansuisou.org/

 以下、公式サイトからの引用。「久松定謨伯爵は、フランス生活が長かったことからフランスへの熱い思いを抱き続けました。(中略)建築にあたっては当時の新進気鋭で優れた建物を数多く手がけている木子七郎に白羽の矢を立てました。伯爵の思いを十分に受け止めた木子七郎は西欧の建築をつぶさに学ぼうと数ヶ月間ヨーロッパを遍歴し、そのエッセンスを吸収しました。そこで、木子七郎は西欧建築でありながら最高のものを造ろうと決意し、デザイン、構造、調度、装飾など全てを第一級品で設えました。そのため、萬翠荘はヨーロッパの人も驚くほどのフランス風の美しい建造物となりました」。

 いわば、“お殿様”からの指名で設計した邸宅。木子はこの建物の完成時38歳。公式サイトには「新進気鋭」とあるが、30代半ばで「大阪国技館」(1919年、現存せず)を実現させており、実績はあった。その木子が、この建物の設計のために、数ヶ月間ヨーロッパを巡ったというから、すごい気合の入れようだ。

 完成後に招かれた西洋人もびっくりだったであろう、繊細で端正なデザイン。外部にも内部にも宮中修理職のDNAがいかんなく発揮されている。

 それでも、西洋建築の丸パクリでないところに木子の意地が現れている。それは左右非対称であること。「西洋建築は左右対称につくるところを、木子は、法隆寺に代表される左右非対称の伝統を取り入れて設計した」と、館内の展示では説明していた。

 その指摘にほぼ同意しつつも、若干私見を付け加えると、このデザインは「明らかな非対称」ではなく、「一見、対称だと思わせるほど安定した非対称」であることが優れた点だと思う。法隆寺は誰もが見た瞬間に「非対称だ」と思うが、これはそうは感じない。

 そして、萬翠荘を訪れたら、入場門の脇にあるこの建物もじっくり見てほしい。

 本館と同時に木子七郎の設計で建てられた「管理人舎」だ。これも「一見、対称だと思わせるほど安定した非対称」だ。小さいけれど、こちらも重要文化財。私は、こっちの方がヒューマンで好きかも。

「三津の渡し」 を運航する石崎汽船の旧本社

 木子七郎巡りの2つ目は、萬翠荘の2年後に完成した「石崎汽船旧本社」。三津浜の港湾地区にある。石崎汽船は、文久2年(1862年)、新浜村(現・松山市高浜)の庄兵衛が廻船業を興したのが始まりという歴史ある海運会社。そのかつての本社ビルだ。

◆石崎汽船旧本社
松山市三津1-4-9
設計:木子七郎
竣工:1925年(大正14年)
参考サイト:https://matsuyama-sightseeing.com/spot/3-8/

 この建物は登録文化財であるが、現在は使われておらず、中を見学することもできない。建物の説明パネルが、扉の足もとに無造作に置かれていて、今後が少し心配になった。

 中に入れないので正面外観の印象でしか語れないが、立面はほぼ左右対称。木子らしい繊細かつ端正なデザイン。でも、萬翠荘で見せた反骨精神はどこで行った?と言いたくなる。

 話はそれるが、石崎汽船旧本社まで行ったなら、そのすぐ近くにある「三津の渡し」を見るべし。三津浜港内で運航されている渡し舟で、約500年の歴史を誇る。航路は松山市の市道になっており、全長約9メートル、定員10人ほどの小型船が約80mの距離を往復する。松山市の運営で乗船はなんと無料! 観光客1人でも乗れる。市から委託されて実際の運航を担当しているのは、先ほどの「石崎汽船」だ。

時間がなくて私は乗らなかったけれど、楽しそう

愛媛県庁にこんな内部空間が!

 最後は「愛媛県庁本館」だ。石垣汽船の4年後の1929年(昭和4年)、木子七郎45歳のときに完成した。

◆愛媛県庁本館
松山市一番町4-4-2
設計:木子七郎
竣工:1929年(昭和4年)
参考サイト:https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/rekishibunka/bunkazai/kunitouroku/ehimekencho_honkan.html

 この建物は松山市の中心部にあって、出張に来る度に外観は見ていた。

 見ての通りの完全な左右対称。繊細かつ端正なデザインだ。外観を見てすごいなとは思っていたが、建築家としての意思というかクセのようなものが感じられず、私にとってはそれほど気になる建築ではなかった。

 しかし今回、初めて中に入ってびっくり。なんだ、この階段室は!? 

 そう、この記事の冒頭の写真は、愛媛県庁の正面玄関を入ったところにある階段室である。

 踊り場で左右二手に分かれる階段はヨーロッパの邸宅などでもおなじみ。だが、丸柱だけでこんなにスパンを飛ばした階段は、西洋の伝統ではなくモダニズム。

 そして、吹き抜けの上部に浮かぶ白い円筒。この片持ち構造も、鉄筋コンクリートの力強さを強調するモダニズム的表現だ。

 半円形の中はこんな↑らせん階段だった。別に筒状にして浮かせる必然性はなく、どうしてもマス(量塊)が浮かんだように見せたかったから、としか思えない。

 木子七郎は、外は品行方正にまとめながら、中でこんな反骨精神を爆発させていたのだ。 萬翠荘は重要文化財だが、愛媛県庁は登録文化財。でも、現代建築好きにはこちらの方がぐっと来ると思う。

 ちなみに、東京九段にある「旧山口萬吉邸」(kudan house、1928年)は、内藤多仲、今井兼次、木子七郎の共同設計である。意匠の中心になったのは木子七郎といわれる。

 内藤多仲(構造家、1886~1970年)と木子七郎は帝大同窓で、木子の方が2歳上。そうか、木子は後輩の内藤多仲の影響もあって、構造的なチャレンジにも興味があったんだなあ。決して、上品さを求めるだけのサラブレッドではなかったのだ……などと、1つの気付きによってどんどん想像が膨らんでいくところが建築の面白さなのである。

 今回の3件を黄緑のピンでマップに加えた。松山辺りを拡大してみてほしい。

 次回は、松山市を拠点として全国区となった建築家、松村正恒の建築群ををリポートする。(宮沢洋)

次回の記事:松村正恒巡り(2021年10月26日公開予定)