結成から100年「分離派建築会」を再検証する展覧会がまず東京で

Pocket

 「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」が東京のパナソニック汐留美術館で開催中だ。「分離派建築会」は1920年(大正9)年、東京帝国大学建築学科の卒業を目前に控えた学生6人が結成したグループであり、日本で最初の近代建築運動とされる。

会場の入り口風景(写真:特記以外は長井美暁)

 本展には、2012年から分離派建築会の調査研究を行ってきた「分離派100年研究会」(代表:田路貴浩・京都大学教授)が学術協力している。

「過去建築圏」からの分離を目指した若者たち

 分離派建築会の結成メンバーは、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守の6人。彼らは東京帝国大学(現・東京大学)の卒業を間近に控えた1920年2月に学内で卒業設計の自主展示を行い、続いて7月に白木屋(のちの東急百貨店日本橋店)で第1回作品展を開いた。『分離派建築会 宣言と作品』と題する書籍も出版。そこに掲げた宣言文は「我々は起(た)つ。」で始まり、「過去建築圏より分離」と高らかに謳う。

 彼らが分離を宣言したのは、当時の建築界の主流となっていた西洋の様式建築に対してだ。7章構成の展覧会は、1章《迷える日本の「建築様式」》でその時代背景を紹介する。

1章《迷える日本の「建築様式」》の展示コーナー

 欧化政策により様式建築の学習は明治末年にほぼ達成され、その後は帝国議会議事堂建設の気運の高まりに伴い、日本独自の新しい様式の創造が活発に議論された。しかし、第一次世界大戦後の戦争バブルに沸くなかで開催された議事堂建設の設計競技で、建築界は新様式を生み出すことができなかった。

 このような時代背景を頭に入れたうえで、分離派建築会が登場する2章以降を見ていこう。

前列左から、矢田茂、山田守、石本喜久治、後列左から、森田慶一、堀口捨己、瀧澤眞弓

 まずは大学の卒業制作の紹介だ。会場には白木屋での第1回作品展で発表したものが展示されている。卒業設計は学生がテーマを自由に決めることができたため、自らの主張を表現する舞台ともなった。また、分離派建築会は「派」を名乗りつつも「一人一様式」を建前としており、卒業制作にもそれぞれの個性がうかがわれる。図録に収められた田路教授の序文によると、「建築界で『創作』という言葉を意識的に使ったのは分離派建築会に始まる」という。

2章《大正9年「我々は起つ」》の展示コーナー

 6人の革新的な卒業制作は教員から高い評価を得ることはなかったが、白木屋での展示を見た同世代の建築家や学生たちからは共感を集めたという。分離派メンバーたちの志が表れた作品群は、当時の人々だけではなく見る者を圧倒する。本展会場入り口前で流れる映像でも、建築家の内藤廣氏が実物を見ながら「20代半ばでこれを描いたなんて、すごい」と感嘆の言葉をもらしている。

 ところで、これまで分離派建築会と東京帝国大学の関係性が語られるときは、「意匠と構造の対立」という図式が用いられることが多かった。筆者もそういう目で見ていたが、分離派100年研究会のメンバーで建築史家の加藤耕一・東京大学教授は、分離派世代が受けた当時の東京大学の建築教育を改革の時代だったと位置づけ、「分離派の誕生は、むしろ佐野(利器)・内田(祥三)を含む建築学科の教員たちが1915年から1920年にかけて推し進めた教育改革の、ポジティブな成果だったとみることができるのではないか」と指摘していて興味深い。この論考は図録に収録されている。図録は全276ページの充実した内容で、資料性も高い1冊だ。

分離派が実社会にデビューする機会となった「平和記念東京博覧会」の絵葉書。これらの所有者は建築史家で京都国立近代美術館特定研究員の本橋仁氏。本橋氏も分離派100年研究会のメンバーで、分離派建築会を美術館で扱う意義について図録に寄稿している
壁面では分離派建築会の歴史を通覧。会場構成は木村松本建築設計事務所が手がけた

 分離派建築会はメンバーに大内秀一郎や蔵田周忠、山口文象を加え、1928(昭和3)年の第7回まで作品展を重ね、出版活動を展開する。

 一方で結成メンバーの6人は大学卒業後、堀口が大学院に進んだ以外は、石本は竹中工務店、山田は逓信省営繕課、瀧澤は葛西萬司建築事務所、森田は内務省、矢田は清水組(現・清水建設)に就職。彼らは住宅や公共的建築、商業建築などの実作を通して、建築の芸術性を世に問うていく。

 その過程では「創作」の根拠を様々な方面に求めた。本展ではそれが3章《彫刻へ向かう「手」》、4章《田園へ向かう「足」》、5章《構造と意匠のはざまで》で紹介されている。

3章《彫刻へ向かう「手」》の展示コーナー。左の彫刻レリーフは、分離派メンバーの先輩にあたる岩元祿が設計した「旧京都中央電話局西陣分局舎」の外壁(複製)。右の模型は瀧澤の「山の家」
4章《田園へ向かう「足」》の展示コーナー。手前の模型は堀口の「紫烟荘」、1つおいて瀧澤の「日本農民美術研究所」。奥の青焼図は藤田の「聖シオン会堂」

 1923年の関東大震災後、復興を目指す東京で分離派メンバーも実作の機会に恵まれた。復興の過程で耐震性に優れた鉄筋コンクリート造が普及し、構造の合理性と建築の美しさは一致するのか、という新たな葛藤が生まれた。

5章《構造と意匠のはざまで》の展示コーナー。模型は山田の「東京中央電信局」で、この建物には山田が標榜した「リズム式」の造形が見られる
石本が竹中工務店時代に設計した「東京朝日新聞社社屋」の模型。分離派メンバーで最初に渡欧した石本は、バウハウスに赴き、ヴァルター・グロピウスから影響を受けるなどして帰国。その成果をこの建物の設計に込めた

今にも生き続ける問い

 続く6章《都市から家具、社会を貫く「構成」》では昭和に入り、西欧から流入したモダニズム建築の思想を吸収し、実生活への関心も深めた彼らの実作を紹介する。

竹中工務店から独立後に石本が設計した「白木屋百貨店」の各種図面。構成主義のデザインを基調にしている

 昭和初期はちょうど新中間層が都心の貸家から郊外の持ち家へと住み替わっていった時代で、分離派メンバーは同世代の建て主の理解のもと、斬新な住宅デザインを実現することができた。線や面を強調する「構成」のデザインは家具にも通底していたことが見て取れる。

左端に写るのは蔵田の「勝野邸」の玄関扉。右の肘掛け椅子は堀口の「小出邸」、奥の本棚は蔵田の「旧米川邸」のもの

 展覧会は7章《散開、それぞれのモダニズム建築》で締めくくられる。分離派建築会が最後の作品展を開催したのは1928(昭和3)年。結成から8年を経て、次のステップへと移っていった彼らの1930年代の作品が会場に並ぶ。散会後はそれぞれ設計事務所の社長や大学教授として、日本の建築界で重要な役割を担ったわけだが、「分離派建築会が切り開いた問題群は、いまにも生き続けている」と田路教授は図録に記す。どう生き続けているのか。その目で確かめてほしい。会場を見て回ると、新たな建築の可能性を示そうと奮闘した彼らの姿が随所に浮かび上がってくる。

展覧会では写真パネルで紹介されている、1939年竣工の「旧横須賀海仁会病院(現・社会福祉法人聖テレジア会聖ヨゼフ病院)」。現存する数少ない石本作品だが、解体が予定されている(写真:磯達雄)
(写真:磯達雄)

 会期は12月15日(火)まで。来年1月6日からは京都国立近代美術館に巡回する。東京会場よりも出展数が多いというから、関西以西にお住まいの方はお楽しみに。

「京都タワー」は京都にある分離派メンバーの作品の1つ。山田の設計により1964年に竣工

 また、この京都巡回展のプレ企画として、「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪(通称・イケフェス大阪)2020」との連携で、「大阪の石本喜久治」をテーマとするトークセッションが行われる。今年は10月24日(土)〜25日(日)にバーチャル開催となるイケフェス大阪。詳細は発表され次第、BUNGA NETでお伝えする。(長井美暁)

〈展覧会情報〉
『分離派建築会100年展 建築は芸術か?』
会場:パナソニック汐留美術館
会期:2020年10月10日(土)〜12月15日(火) 休館日:水曜日
入館料:一般800円/65歳以上700円/大学生600円/高校・中学生400円/小学生以下無料
Webサイト:https://panasonic.co.jp/ls/museum/exhibition/20/201010/