建築の愛し方21:「ブラタモリ」でやり残した“人知”の面白さを「すこぶるアガるビル」では前面に──NHKエデュケーショナル・相部任宏氏

 2024年は“建築文化の民主化元年”だ、という話をあちこちでしている。2月に第1回「みんなの建築大賞」が発表となり、5月に第1回「東京建築祭」が開催された。筆者(宮沢)はどちらにも関わっているが、それぞれは別のところで話が持ち上がり、たまたま同じ年にスタートを切った。いわば“時代の共振”。そして、気になっていたもう1つの共振が、NHKの番組「すこぶるアガるビル」だ。コロナ禍の2021年11月に初回が放送。その後、5話が不定期に放送され、今年4月から5月にかけて一挙6話が毎週水曜日に放送された。

番組タイトル(NHKの公式サイトより)
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愛の名住宅図鑑10:これぞ正統派“バウハウス”、「三岸アトリエ」(1934年)。夭折した画家の思いを妻・子・孫がつなぐ

 本連載でこれまでちらちらと触れてきた「バウハウス」。今回取り上げる「三岸(みぎし)アトリエ」は、「これぞバウハウス!」と言いたくなるデザインの建物だ。ともに画家である三岸好太郎・節子夫妻のアトリエとして、1934年(昭和9年)に建てられた。今年、築90年となる。

(イラスト:宮沢洋)


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倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」18:「散田の共同住宅」のアイロニー、「祖師谷の家」のキッチュ、坂本一成における表層期の刻印

連載17から続く。

 本連載の読者は、キッチュやアイロニーといった近年はあまり耳にしない言葉についても、表層と深く関わる概念として、すでに親しんでいるに違いない。これらは現在、坂本一成に似つかわしくない言葉と思われているだろう。実際のところ、どうなのだろうか。

 今まで見てきた1978年の3作品の2年後に「散田の共同住宅」(1980年)が完成した。雑誌発表時の解説文には、それまでの坂本一成とは異なるトーンが見られる。これは木造2階建て、延床面積が約200㎡の中に、10戸の居室と大家の1室を収めた共同住宅だが、タイトルには「散田のバラッツォ」とある。「パラッツォ」がイタリアの壮麗な邸宅を意味する事実を裏切って、本文は「これはいわゆる木賃アパートである」と始まり、その後は主に「木賃並みの、いやそれ以下のローコスト」といった実際的な要求に応えたことが説明されている(注6)。そしてタイトルをよく見ると「パラッツォ」ではなく「バラッツォ」であった。バラックにして、豪邸?

坂本一成「散田の共同住宅」1980年(撮影:新建築社写真部)

 作品も解説文も、これではまるで渡辺豊和が同時期に手がけた「テラスロマネスク穂積台」(1978・79年)みたいではないか。もちろん坂本一成は、この分譲住宅の作者のように「設計中にすでに完売していた」などと誇るようなことはしない。

虚構性を通じた真実の希求に踏み出す

 それでも意外なことに、坂本一成と渡辺豊和が並べて語れるのである。今度は前後関係が逆になるが、先ほどの坂本一成の「南湖の家」(1978年)と、やはり本連載の第16回で扱った渡辺豊和の分譲住宅「辻野ハウジング」(1980年)を比較しよう。

 どちらも建物の前面に、自立したファサードが整えられている。前の世代の建築家から見れば、変わったやり方である。歴史的なモチーフを直接に使っているわけではなく、形はあくまでも幾何学の組み合わせだが、かつての邸宅のような様式的な連想を否定してはいない。民間の需要に応え、通りの側から見られる要素を境界に設けることによって、その面の内と外がどちらも表であるような良好な状態をつくり出そうという試みだ。このように見ていくと、連載の第13回で論じた原広司の「境界論」(1981年)や同時期の「町田市中央通りモール化計画」も対照可能であることが分かる。

 この類似は表面的なものではない。アイロニーという深層に由来している。アイロニーの定義としては、これまで何度も使ってきた批評家の多木浩二による1978年の言葉「アイロニーとは完全には正当化できないものから有効な側面をひろいあげる意識である」を再び用いたい。原広司は先の論の中で「フィクショナル・ファサード」という手法を提唱した。それは「住居にこうしてもちこまれる虚構性は、住居をさしあたり、『本気にできない』住居にする」が「そのフィクショナルに思われる行為が、実はリアルなのだ」と解説されている。これはアイロニーである。坂本一成も同様に、虚構性を通じた真実の希求に踏み出したのではなかろうか。

 「散田の共同住宅」では、1978年の3つの住宅作品で用いた手法を共同住宅に適用して、新たな意味を与えている。外壁は薄い表皮で覆われたようにつくられ、窓ガラスの向こうには木の構造柱が見える。4つの切妻屋根を中庭を囲んで組み合わせた構成で、どの方向からも家形が確認される。ひとつながりの被膜であること、そしてイメージのような家形であることは、本作で融合し、住居を「お家」に思わせるのである。共同住宅であるという事実を裏切って。

「住むこと」には「シニカル」なものも含有される

 女子学生を対象としたこのアパートにおいて、お家の概念がいつも目に入ることは、精神的な安心につながるに違いない。中央に設けられた中庭は、ここでも「外室」と命名され、銀色にペイントされた面で囲まれている。覆われた家形の中に秘められたこの空間は、意識という以上に無意識を通して、自分の部屋であり、皆の部屋だと認識させるだろう。一人の振る舞いも、相互の行動も相当に変わってくるのではないか。

坂本一成「散田の共同住宅」1980年(撮影:新建築社写真部)

 設計者がここで、単に集合した住宅ではなく、真の「共同」住宅を目指したことは明らかだ。それには身体に働きかける空間だけでは不十分だと考えたのだろう。精神に無意識的にも作用する形の意味を、その危うさを承知しながら、有効な側面を活かそうとしたのである。

 関連した記述が、1978年12月に発表された論考「〈住むこと〉、〈建てること〉、そして〈建築すること〉」に見られる。坂本一成は「〈住むこと〉は文化の世界に属することであり、〈人の住まう場〉は思考の精神が住む場であるということにもなる」とした上で、「それゆえそれを〈建てる〉ということは、身体を成立させる場をつくるということだけではなく、人間が人間でありえる精神の場を成立させることにもなる(もちろんそのなかにはシニカルな内容も含まれよう)。」と書いている(注7)。

 これは、住宅は住みやすく、小難しくなく、心地よければ良いのだ、といった以上の内容である。身体だけでなく、精神に呼応しなければ、人間的な建築ではない。この「精神」の中には、意識的な「思考」も含まれ、意識と無意識の双方にまたがる「文化」にも関連する。だから「シニカル」なものも自然と含有されることを知っておかなければいけないと言うのだから。決して、すかっと爽やか、といったものではない。

両義性により存在のあらゆるカテゴリーを逃れる

 確かに「散田の共同住宅」は徹底的なアイロニーであって、「木賃アパート」でなければ「パラッツォ」でもない。すなわち、覆われた形態を通して「分離された場所」を語源とするアパート(メント)を批判しているが、それは簡素で薄っぺらにつくられ、返す刀では、パラッツォを装う「豪華高額商品住宅」を冷笑している。括弧内に引用したのは、作品解説文に現れる単語だから、これは過度な深読みだとは思われない。とはいえ、その穏やかな佇まいは批判や冷笑を第一目的にしているとは考えられず、普通に住みやすそうである。建築家の表現には見えないが、ローコストで機能的に解答しただけとも思えない。

 この住宅は、何かになろうとしていないのである。表層が形成する両義性によって、存在のあらゆるカテゴリーを逃れようとしている。これはアイロニーだ。全面的には肯定できない存在から目をそらすことなく、それを皮肉たっぷりに認知する、シニカルな態度を経由して初めて得られる戦略に他ならない。

 こうして「散田の共同住宅」が、表層期(1977〜81年)ならではの作品であることが分かる。今、建築が人間的であるためにはシニカルを経て、アイロニーを獲得する必要があるといった、当時の先端的な空気を映している。自分が肯定的に捉えられない存在をなかったものとし、批判や冷笑の労すらとらない爽やかな現在とは、なんと隔たっていることか。

「コラージュの操作」、「重層したレトリック」

 翌年に完成した「祖師谷の家」(1981年)は、キッチュの語のほうが似合う。もちろん、洗練されたキッチュである。道路側からの立面では、右半分にヴォールトの屋根がかかっている。左半分は急勾配の三角形で、切妻屋根を半分に割ったような形になっている。過去のどの作品よりも、全体が統合された感が薄い。明快な家形も見られなくなった。

坂本一成「祖師谷の家」1981年(撮影:新建築社写真部)

 設計中の1980年に書かれた「覆いに描かれた〈記憶の家〉と〈今日を刻む家〉」の中で、本作は「家型の重ね合わせというコラージュの操作」という段階を経て「より重層したレトリック」を求めたものと説明されている(注8)。作品発表の際には、近年宅地化されていった周辺環境における「今日の都市住宅の現実」に言及している(注9)。実際、その外観は、日常的な建売住宅や商品住宅が有する、ある種の賑やかさに背を向けてはいないだろう。アイロニーを放棄していないが、対象との距離はさらに近づいて、キッチュという言葉がふさわしく思える。

 さて、ここで現れた「コラージュ」や「レトリック」という単語からは、本連載の第3回で扱った1977年の論考「文脈を求めて」が思い出されはしないか。伊東豊雄は、こうした言葉が現代の都市の認識を特徴づけているとして、「表層」の概念と共に詳述していたのだった。そんな都市観は、坂本一成の先の1980年の文章にも共通している。典型的な部分を次に引用したい。

 「近代以降の都市ほど、活気に満ち、さまざまな場の集積であったこともない。その都市は混乱も秩序も同格に重複され、コラージュ的世界として私たちの眼前に現象してきた。そして今日でも、私たちは一歩でも戸外に出れば、その表層のコラージュ的環境に空間として身体を沿わせているし、またそれを身体で日常的に受け入れている。〈中略〉都市はわれわれの欲望や夢や活性化をも満たしうる近代以降の空間であり、今日までの世界(宇宙)だと言えないだろうか。」

シニカルを経てアイロニーを獲得し、キッチュに接近

 当時において、都市は物量的な大きさではなく、欲望を喚起する薄いイメージがただよう表層的な感性の有無によって、判断されるようになったようだ。坂本一成もそんな文脈を認める。認めた上で、それに流されるだけはないものを求めている。さらに後段を引用しよう。

 「今日のさまざまな文脈、たとえば感性が、こうした都市現象との関係で成立してきたならば、元型がアイデンティティあるいは永遠性の問題であるとしても、そのような文脈、感性の内でしか、その元型を浮上させることはできないと言えよう。」

 建築家としての姿勢は、1981年に発表された論考「所有対象の住宅を超えて―〈イメージの家〉から〈家のイメージ〉へ」の中に一層明確だ。「キッチュ」という言葉も登場する。

 「消費社会を否定し、そこで成立する〈イメージの家〉をキッチュとして否定することもできよう。しかし、これはまた大衆社会自体を拒否することになり、結局は社会に対して硬直した、そして季節外れのいわゆる芸術にしかならず、それはそれで自閉するしかなさそうだ。このように考えると、この現実を構成している消費社会を全面に肯定しなくとも、少なくとも否定することはできないことになる。」(注10)

 これが掲載されたのは「祖師谷の家」を発表する2か月前の『新建築』だから、作品の説明とも捉えて構わないだろう。最後の一文は、批評家の多木浩二が語ったアイロニー戦略そのものだ。坂本一成は、シニカルを経てアイロニーを獲得し、キッチュに接近した。

伊東豊雄「笠間の家」(1981年)との同期

 「祖師谷の家」の内部は、伊東豊雄がキッチュに最も迫った「中央林間の家」(1979年)に似ている。坂本一成は作品発表時に「この住宅の性格をもっとも強く位置づけ規定しているのは、床部の黒と天井部の白のコントラストであろう」と説明しているが、確かに内部空間をこれほどまでに表層のコラージュにした作品はかつてなかった。階段の踏み面は、床に属して黒く塗られ、側板は天井と同じく白くされている。横に伸びるテーブルは黒い面となり、階段が立面に白いギザギザを形づくる。

坂本一成「祖師谷の家」1981年(撮影:新建築社写真部)

 手法はそれまでと同じなのだが、ここには意識的につくられたインテリア「の・ようなもの」が出現している。それは作者が言うように「多くのイメージを形成」し「そのひとつは、〈家〉に関わること」になるだろう。多くのイメージの内には、伊東豊雄がそうであったようにチャールズ・レニー・マッキントッシュなども入るかもしれない。

 本作には優美さが漂う。「笠間の家」(1981年)で使われていたのと同じ、軽快な様式性を備えた大橋晃朗の家具が本作でも採用されて、表層からの連想を広げている。坂本一成と伊東豊雄で対照させるべきは、やはり同じ1981年の作品のようだ。

そして「HOUSE F」(1987年)へ

 「祖師谷の家」は、伊東豊雄の「笠間の家」がそうだったように、表層期の帰結として位置づけられる。伊東豊雄が言うところの「最もバランスのとれた作品」であると同時に、設計者はその水面の白鳥の歌ではないかと疑ったのだろう。

 伊東豊雄は1982年に設計を始めた「シルバーハット」(1984年)で作風を転換させ、坂本一成は表層期に生まれた疑問を「建築での図像性とその機能」(1982年)という学位論文にまとめ上げた後、数年の沈黙を経て完成した次作「HOUSE F」(1987年)によって転生を果たす。どちらも表層を突き詰めたことで、水面から飛び立ち、長い飛翔の基盤となったのである。

 坂本一成は時代に流されず、独自の問題意識を誠実に扱ってきた建築家だ。だからこそ、1977年から81年の表層期という時代動向が、正確に刻印されているに違いない。彼もまた表層と作風の確立とが深く関わり合った建築家となっていると思われるのだが。

注6:坂本一成「散田のバラッツォ」(『新建築』1980年6月号、新建築社)221頁
注7:坂本一成「〈住むこと〉、〈建てること〉、そして〈建築すること〉」(坂本一成『建築に内在する言葉』TOTO出版、2011)48〜49頁、初出『新建築』1978年12月号
注8:坂本一成「覆いに描かれた〈記憶の家〉と〈今日を刻む家〉―建築でのアイデンティティと活性化・建築の外形を例として」(坂本一成『建築に内在する言葉』TOTO出版、2011)90〜91頁、初出『新建築』1980年6月号
注9:坂本一成「祖師谷の家」(『新建築』1981年6月号、新建築社)186頁
注10:坂本一成「所有対象の住宅を超えて―〈イメージの家〉から〈家のイメージ〉へ」(坂本一成『住宅―日常の詩学』TOTO出版、2001)106頁、初出『新建築』1981年4月

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、建築公開イベント「東京建築祭」実行委員長、「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」実行委員、一般社団法人リビングヘリテージデザインメンバー、一般社団法人東京建築アクセスポイント理事などを務める。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)


倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」17:坂本一成の1978年、「家形」から「漂うイメージとしての表層」へ

 1977〜81年という時代に、建築家の眼が表層にこそ向いていた事実は、坂本一成の作品の変化からも明らかになる。

 坂本一成は1978年に3軒の住宅を完成させた。それらは『新建築』1979年2月号に収められている。そのうちの一つ「坂田山附の家」(1978年)を見てみよう。そこにあるのは家形の家である。長方形の平面に切妻の屋根が載って、妻側の壁の真ん中に玄関が設けられている。2階部分の中央には、同じくらい大きな開口部。流れ屋根が左右対称に下りて、窓があって出入口がある。まるでイメージの中にある「お家」のようだ。ここで坂本一成は、それまでになかったくらいに明快な作品を完成させたのだろうか?

坂本一成「坂田山附の家」1978年(撮影:新建築社写真部)

 ただし、ここには心をざわつかせる要素もある。先に述べた以外の開口部は、壁面に不規則に開けられている。単にそれだけであれば、内部の生活機能にしたがって窓を設けた建築家なしの建売住宅のようだから、お家らしさを強めていると言えなくもない。けれど、奇妙なことに、窓ガラスの向こうの室内には木の柱がのぞいている。不釣り合いな「ずれ」である。こんなことは建築に統合された感じを与えようとしても、日常的な機能に従属させようとしても起こりそうにない。

 そんな状態を作り出したのは、もちろん作者だ。発表時の文章には「この建物では、家形を形成する均質なスケルトン(小屋組や軸組)に必ずしも左右されることなく、開口がとられている」とある。それに続いて「このことはフレームと表皮を無意識のうちに分節し、その両者の関係をある程度分離して認識していた結果」で、「このようなずれは次の〈今宿の家〉でより表面化することになる」と説明されている(注1)。

同時代の伊東豊雄、長谷川逸子の変化と同期

 最後の文章に後押しされて、続く「今宿の家」を見たくなるのだが、少しお待ちを。その前に、ここで「表皮」と称して注目が促されている表層性が、同時代の伊東豊雄、長谷川逸子の変化と同期している事実を認識しておきたいのだ。

坂本一成「坂田山附の家」1978年(撮影:坂本一成研究室)

 まずは、薄い皮のような表面について。表皮と構造体のずれは、本連載の第8回で扱った伊東豊雄の「小金井の家」(1979年)を思わせる。これは鉄骨の構造柱とサッシ割を一致させていない住宅で、発表時に作者は「きわめて表層的な外皮に覆われている点」を特徴の一つに挙げていた。坂本一成の住宅では、ボード張りの外壁を銀色に塗ることで表面性を高めているが、これは連載第2回で取り上げた「焼津の住宅2」(1977年)で長谷川逸子が「立面がすべるような面になるように全体をシルバーペイントで仕上げた」行為を想起させる。

 明快な家形も、ほぼ同時に使われ始めている。坂本一成が家形を初めて用いたのは前作の「代田の町家」(1976年)だが、この1978年の作品以降、家形は明瞭になる。家の形をここまでドライに使った住宅は、従来ほとんどなかった。強いて言えば、長谷川逸子のデビュー作である「焼津の住宅1」(1972年)が思い浮かぶ。しかし、長谷川逸子にしても、明らかに家形を操作対象とするのは、連載第5回で論じた「焼津の文房具店」(1978年)に至ってからである。翌年、伊東豊雄は「中央林間の家」(1979年)を完成させた。その家形の外観は、連載第8回で「ドライで平滑、グラフィカルでありながら連想を誘う」と形容した通りだ。

 このように、薄い表面、それにイメージの世界に近接した家形といった特質が、おのおの独自の探究を続けてきた建築家に共通して確認された。建築は長い時間がかかる。依頼され、設計し、施工を終えてから取材され、雑誌で発表されるまでに数年を要する。したがって、この種の現象が、互いに作品を参照することで生まれるわけはない。1978年前後に、薄いイメージの世界とでも呼ぶべき二重の表層性が、異なる建築家の作品に出現している。この事実は、当時の世界が建築に反映していることを示唆する。

「はみ出しつつあった両義的思考」

 この連載では、表層が1977〜81年という時代の概念であり、それに「両義性」という単語が深く関わることをたびたび述べてきた。坂本一成がこの単語を使うのは「今宿の家」(1978年)の作品解説文においてである。先の「坂田山附の家」の解説文を受けて、「前の住宅での単一的合理の座標からはみ出しつつあった両義的思考が、この住宅ではより積極的になっていると思われるのだが」と文章を閉じている(注2)。

坂本一成「今宿の家」1978年(撮影:新建築社写真部)

 「今宿の家」を作者は「〈坂田山附の家〉で無意識のうちにスケルトンと表皮を分節させていたことを述べたが、この住宅ではそのことがより積極的になり、さらに家形からファサードが独立し、分節して、しかし分離することなく、家形の南面に1枚の面として重ね合わされている」と描写している。

 規模としては「坂田山附の家」と同じく、木造二階建て、延床面積が約100㎡である。やはり無作為に開けられたかのような窓があり、その奥に室内の木の柱がのぞく。本作は玄関が平側にあるが、そのドアの前にも柱が立っている。1階の平面が2階の平面よりわずかに大きく、左右に迫り出した外壁には旧作の「代田の町家」の形態が引用されている。その面だけがさらに左右に伸びて、先の解説でいうところの「ファサード」を構成しているわけである。「薄いファサードについて」という題は、伊東豊雄が同じ年に完成させた「PMTビル」(1978年)の作品解説文に付けたものだった。

 「今宿の家」は住まいの前面に意味を帯びた看板が付いた「デコレイテッド・シェッド(装飾された小屋)」なのだろうか。しかし、面の左右は単なる装飾でもなく、敷地の裏手に入らせない塀として機能しているし、それは小屋を小屋たらしめているのに必須である外壁と分離できない。本連載の第4回で分析した「PMTビル」のファサードが表層的でありながら、形式的でも記号的でも付加的でもなかったのと同様に、どっちつかずなのである。

面という存在が内部でも両義的に振る舞う

 「今宿の家」における操作は、複雑で、意図的で、マニエリスティックと言える域に達している。以前の坂本一成の作風を知る者には驚きかもしれない。内部の面に関しても同じだ。それまでの作品と違って、家形の傾斜面は被覆され、天井が張られている。主室である2階の頭上に水平の面が続く。高さを変えていくのは床面のほうで、1階の天井高の違いを架け渡す形で、3段のレベル差が設けられている。2階まで上ってきた階段がさらに折り返して連続しているようでもあり、床のようでもある。

坂本一成「今宿の家」1978年(撮影:新建築社写真部)

 ただし、ここで指摘したいのは、部位をどのように呼ぶかという両義性ではない。それ以上にこうした操作が、意図的な表現なのか、日常的な機能の解決であるのかが曖昧なことである。それは脇に備えられた家具状の形態と一緒になって1階と2階の空間を連続させ、2階の窓を印象的にする意識的な空間表現のようだ。あるいは、人の立ち方と共に高さを変化させる面に物を置いたり、時には腰掛けたりもする機能に即して配された実用物のようでもある。

 面という存在が、先ほど見た外部だけでなく、内部でも両義的に振る舞っている。それは冷徹な物そのもののように存在しながら、住宅らしく人と関わることによって、意味を転じる。表面は呼び名を変え、カテゴリーを混乱させるのだ。「表面とはなにか。それは存在のあらゆるカテゴリーをのがれるなにものかではないだろうか」。本連載で幾度となく引用してきた美術評論家・宮川淳の言葉が、再び響いてくる。

家具を建築化することで閉じた空間を開放する

 一見シンプルな「南湖の家」(1978年)にも、前作で話していた「両義的思考」は反映されているようだ。これも木造二階建てだが、1階からの主室の吹き抜けが2階部分の半分以上を占め、単純な家形の形状は内部にそのまま現われて、延床面積も空間の複雑さも、他の2作より少ない。

坂本一成「南湖の家」1978年(撮影:新建築社写真部)

 内部空間を特徴づけているのは、吹き抜けまわりの壁一面に作りつけられた棚だ。こう聞くと、一層てらいのない小屋を設計者はつくったのだと思われるが、実際に目に映るのは、統合された垂直と水平の線である。精緻に整えられた姿形は、建築の古典的な美しさを連想させる。

 この棚について作者は「家具を積極的に建築化することによって逆に建築的構成材である壁を消去し、そのことで建築的に閉じた空間をその場から一時的に開放することを意味している」と書いている(注3)。

坂本一成「南湖の家」1978年(撮影:新建築社写真部)

 なぜ、家具を整えることが、空間の開放につながるのか。本作の完成と同じ時期に書かれた「部屋の意味の基盤―異化と同化の間に」の中で、坂本一成は「日本の建築でもヨーロッパの建築でも〈中略〉一枚の天井や壁を細かく分節するということ」や「そこに絵画などを埋め込むということ」があるが、これは「建築的にどういうことだろうか」と問い、それは「分節して一枚の面であることを放棄させることで、天井や壁という概念を取り去り、室の限定を解くものだと考えられる。まして、そこに絵画が嵌め込まれることによって、この天井や壁の消去はさらに明確とな」ると記している(注4)。この回答は「南湖の家」にも該当するに違いない。

 「代田の町家」以前の坂本一成は「閉じた箱」をテーマとし、それを「現代社会の矛盾と混沌とした文化世界に対する砦」(注5)と位置づけていた。壁を棚にするのは、その開放であるのだ。壁がもはや囲い込む存在に思えないのは、それが小さく分節されているからかもしれないし、家具状の形を人は建築の一部でないと誤認するからかもしれない。

意図的な表現なのか、日常的な機能の解決なのか

 まず前者について考えてみると、そんなイリュージョンは、壁が細かく分けられてさえいれば発生するものではないことが分かる。その分節に自律的な統合感があるから、壁に囲まれた閉塞感がなくなるわけである。美に気を取られることによって、人は構造や機能の必然性に由来する形に縛られているといった感情を抜け出す。自由へと近づく。

 もう一方の可能性である家具のようにすることで建築のカテゴリーを逃れるというのも、思えば、クリアしなければいけない条件がある。こちらで必要なのは、実際に物入れとして使える機能性である。日常性と言ってもよい。それは竣工後、暮らしが始まり、時を経たときにはどうなるのだろう。作りつけの格子には書籍や日用品などが並び、あるいは手の届かない所はそのままにされて、不均質な状態となり、壁面の存在はさらに意識から遠のくに違いない。ただし、そこでも垂直と水平の線は、一層あふれる品々の中に統合されたものとして浮かび上がり、物質性を離れた表面として知覚されるだろう。

 こうして私たちは「坂田山附の家」の内外に見られた両義性に、また出会うことになる。結局、このような表面が意図的な表現なのか、日常的な機能の解決なのかは決定しがたいのである。

漂うイメージとしての表層の利用

 「南湖の家」の外部に移ろう。家の外でも表面が大きな効果を上げている。建物から自立したファサードが大きな役割を演じるという、それまでにない現象が起きているのだ。

 塀が、前面道路から隣地との境界にかけて立ち上がっている。平面としてはコの字型をした塀が、建物との間に囲われた場をつくり出す。その一部は地面よりも高くされ、仕上げが施されて、外部の床面と呼べるものとなっている。

 実際、そこを作者は「外室」と名づけている。隣接した主室との境には、大きな開口部が設けられている。屋外の空間が、屋内の日常生活と積極的に関わるものとして建築化されているのだ。室と呼ぶ空間の隣接関係を操作するという「代田の町家」から連続した手法である。

 けれど、この塀を空間操作の手段としてのみで説明するのは難しい。人が通り抜ける穴が中央に空いた塀は、スレート張りの寸法も整えられ、ペンキで塗装されている。背後の住宅のように丁寧に設えられ、同様にまとまりあるキャラクターを備えている。塀という即物的な呼称が躊躇されるほど、建築的なのだ。

 背後の建物がイメージの中のお家だとしたら、これは「門」であろう。二つは別々でありながら、その合間に有形と無形の効果を発揮している。作者も「長屋門とも、あるいは海風に対しての風防とも〈中略〉小屋自身を表徴するファサードとも解釈できる」と作品解説文に書いて、積極的に意味の連想を喚起している。

 坂本一成が当時、物理的に薄い表面としての表層を活用し始めただけでなく、漂うイメージとしての表層の利用に踏み切ったことが、こうして「南湖の家」の外部から明確になる。表層らしく、それは幾重にも両義的である。まず、先ほどの事柄で言うと、有形の前者と無形の後者はからみあっている。薄さが設計されていることで、イメージは固定化・象徴化を免れ、素材の物理的特性に物言わせているからこそ、テーマが形態に拡散することなく表層に留まっている。表層と機能との関係も、2つが完全に分離しているわけでもなければ、因果律に縛られているわけでもない。「坂田山附の家」や「今宿の家」がそうであったように、どっちつかずなのである。

 坂本一成はこの時期に家形を、薄い表面で覆われた実体として、また既存のカテゴリーを異化させるイメージとして用いた。もちろん、家形はデビュー作である「散田の町家」(1969年)の問題意識から、「代田の町家」(1976年)での出現、「House F」(1988年)における分散化へ、と既存の論のように扱うほうが精緻ではある。ただし、そのさらなる展開として語られる「House SA」(1999年)における種々の手法、例えば、外壁の被覆的な扱い、部材配列のずれ、床レベル差の活用、外部および家具の建築化なども同時に説明できるのが、この連載が導入した「表層」概念の利点となる。

連載18に続く。

注1:坂本一成「坂田山附の家」(『新建築』1979年2月号、新建築社)214頁
注2:坂本一成「今宿の家」(『新建築』1979年2月号、新建築社)221頁
注3:坂本一成「南湖の家」(『新建築』1979年2月号、新建築社)201頁
注4:坂本一成「部屋の意味の基盤—異化と同化のあいだに」(坂本一成『建築に内在する言葉』TOTO出版、2011)195頁、初出『インテリア』1978年11月号
注5:坂本一成「〈閉じた箱〉〈記号的表現〉そして〈即物性〉」(『現代日本建築家全集24 現代作家集Ⅱ』三一書房、1973年8月)208頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、建築公開イベント「東京建築祭」実行委員長、「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」実行委員、一般社団法人リビングヘリテージデザインメンバー、一般社団法人東京建築アクセスポイント理事などを務める。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)

内藤廣連載「赤鬼・青鬼の建築真相究明」第3回:「マジで建築論パート2」

今回の亡霊は、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、吉阪隆正、黒川紀章……と、超豪華メンバー。さてどんな話?(ここまでBUNGA NET編集部)

延長戦、お願いします

[青] 前回は無駄話しが多すぎたんで、長くなりすぎた。収まらなかったんで今回はパート2にした。まだ、言いたいことが山のようにあるからね。

[赤] 気まぐれで場当たり的な会話だけど、少しは分かりやすさってのも必要だからなー。どうしよう。赤とか青とか、それを建築に結び付けたらどうだろう。

[青] まあもともと無理を承知の上での対話だからな。ヤケクソでいいんじゃないの。

[赤] 思いついたんだけど、「赤い鬼社会」と「青い鬼社会」ってのもあるかもしれないね。

[青] また、変なこと考え始めたな。それって国旗の色か。あぶないあぶない。やめとけやめとけ。政治的な匂いがしてきた。話をひろげすぎだよ。

超高層ビルで埋まっていく都心の風景 ※編集部注:本文の内容と直接関係はありません…(写真:宮沢洋)
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日曜コラム洋々亭62:まさに建築文化の民主化元年!「東京建築祭」大盛況に思う“建築好き1割化”ビジョン

 東京建築祭が5月26日に閉幕して1週間たったのに、まだ放心状態から抜けられない。

日証館の特別公開に並ぶ人の列。見学の入り口は100mくらい先(写真:宮沢洋)
東京駅ステーションホテルの特別公開で、展示パネルを1枚ずつじっくりと読む人たち。写真右側に1階→2階へと並ぶ人の姿が見える

 倉方俊輔委員長ほどではないとはいえ、「もし失敗したら…」という重圧がかなりあった。人が集まらなくて空振りだと次につながらないし、人が来過ぎて大混乱になっても次はない。筆者は実行委員の中で唯一のメディア人なので、「なんて無茶なことを煽るのか」と叩かれることも覚悟していた。

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第2回「みんなの建築大賞」実施のお知らせ

 みんなの建築大賞推薦委員会(建築系の編集者や建築史家など有志約30名で構成)は、本年に続き、2025年の年初に「みんなの建築大賞2025」を実施することとなりましたので、ご報告いたします。(みんなの建築大賞事務局:宮沢洋/BUNGA NET編集長、加藤純/TECTURE MAG編集長)

「みんなの建築大賞2025」の実施案

<主旨>
既存の建築賞は、建築界の権威付けにはなっても、一般の人に全く伝わっていない。世界に誇る魅力的な建築の数々を一般の人に知ってもらう機会を逸し続けている(建築文化への理解が高まらない一因である)。そこで、メディアを介して確実に一般に発信され、またSNSによって選考過程自体が自然拡散される賞として、「みんなの建築大賞2025」を実施する。

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