連載「よくみる、小さな風景」06:「コモンズ」の視点から「小さな風景」を捉え直す──乾久美子+Inui Architects

Pocket

建築家の乾久美子氏と事務所スタッフが輪番で執筆する本連載。連載折り返し地点となる第6回のテーマは「コモンズ(共有財)」。スタッフの米山剛平氏と福嶋海仁氏による「対談形式」の新趣向で進めます。結論を先に書くと、「コモンズの視点から『小さな風景』を捉え直すと、多様な主体が関わっているという背景が「小さな風景」をより豊かにすることがわかってきたような気がする」──。おお、この連載、やってよかった!(ここまでBUNGA NET編集部)

 第6回はスタッフの米山剛平(以下、米)と福嶋海仁(以下、福)による対談形式で、「コモンズ」をキーワードに「小さな風景」について議論していきたいと思います。

米:「小さな風景」には少なからずコモンズ(共有財)的な要素が含まれており、「小さな風景」の調査は同時にコモンズの可能性を探ることにもなっていると考えられます。そこで今回は、改めてコモンズの視点から「小さな風景」を見直してみたいと思いました。まずはハーディンによる「コモンズの悲劇」(*)や、オストロムの「SOCC理論」(*)などこれまで様々な議論がなされているコモンズについて、書籍や言説でそれぞれが気になることから話を始めましょう。

*コモンズの悲劇(tragedy of the commons):多数者が利用できる共有資源が乱獲によって資源の枯渇を招いてしまうという法則。アメリカの生物学者、ギャレット・ハーディンが1968年に『サイエンス』に論文「The Tragedy of the Commons」を発表。例えば、共有の牧草地に複数の農民が牛を放牧すると、資源である牧草地は荒れ、結果としてすべての農民が被害を受ける、という仮説。

(イラスト:乾久美子)
オストロム著『コモンズのガバナンス』(2022年、晃洋書房)

*SOCC理論(self-organaized collective choice理論):コモンズの悲劇に対して、経済学の視点から地域コミュニティによる自治的なガバナンスの優位性を述べつつ、その成功条件として合理的個人の非協調行動を制約する制度の存在の重要性を説き、制度成立の条件を具体的なケース分析から明らかにしようとする理論。アメリカの経済学者でノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムが提唱。

福:間宮陽介・廣川祐司編『コモンズと公共空間』(2013年)によれば、日本におけるコモンズの典型例は入会であるとされ、「公・共・私」という三区分の内の共的領域こそがコモンズであり、入会を支えているとされてきました。しかし、共同で所有・管理されるものである「共」が、維持管理の難しさなどが要因となり、「公」と「私」に振り分けられ、コモンズが解体されていってしまったという背景があります。

間宮陽介・廣川祐司編『コモンズと公共空間』(2013年、昭和堂)

 結果としてコモンズの存在は、統治や管理の失敗だと見なされてしまい、「土地や空間は、適切に”所有”されなければならない」というハーディンの「コモンズの悲劇」にも繋がっていると思います。一方で、オストロムが「コモンズは可能だ」ということを示したように現在では”所有”の問題ではなく、コモンズをとりまく関係性の方が重要視されているように思います。

「都市」におけるコモンズのリアリティとは?

米:僕はこれまでのコモンズ論に対する率直な感想として、農山漁村におけるコモンズは参照すべき事例としてすばらしい価値を持っているものの、地域に共有可能な自然資源があることをベースにしているので、都市でしか暮らしたことがない自分にとってはリアリティを感じにくいと思っていました。なので、どちらかというと地縁や、資源の乏しい都市や郊外においてコモンズをどうつくっていくかということの方に興味を持っています。

高村学人著『コモンズからの都市再生』(2012年、ミネルヴァ書房)

 高村学人著『コモンズからの都市再生』(2012年)で著者は、これまで農山漁村で展開してきたコモンズ論の流れを踏まえた上で都市に人々が集まった結果として現れる共同生活の場にコモンズを応用しようと考えます。都市における土地の所有権は先ほど話にあったようにすでに「公」か「私」に分かれてしまっているので、所有の問題ではなく利用の問題として都市のコモンズを考えるというスタンスをとり、公園やマンションといった都市のコモンズの調査を行っています。本書は法社会学の本ということもあり制度づくりを研究する対象として、公園やマンションがメインとして取り上げられていますが、都市のコモンズを利用の問題として考えると他にもカフェや路地などいろいろなタイプのコモンズがありえると思うので、建築やまちづくりの立場からすると都市ならではのコモンズを調べてみると面白そうだなと思ったりします。

新宿駅西口の休憩スペース(写真:乾久美子建築設計事務所、以下も)

 例えば、新宿駅西口の使われなくなったバスターミナルが転用された休憩スペースなどは都市ならではのコモンズの面白い事例だと思います。もともと明確な資源が乏しい都市においては、このように何を資源とみなしどのように利用していくかという、いわゆる資源化(*)のようなアイデアが重要になってくるのではないでしょうか。(*文化人類学者の内掘基光のいう「あるものが資源でないものから資源となること」)

福:そうですね、既存のコモンズをいかに守るかという議論ではなく、社会的にもいかに新しくコモンズを生み出すかということに関心が移ってきているように思います。コモンズをつくる側として考えるときに重要なキーワードとして「コモニング」という言葉も最近よく出てくるようになりました。「コモニング(commoning)」という概念は、地理学者であるハーヴェイなども使っていますが、端的に言うとコモンを生産すること=コモン化することです。また、森一貴が『コモニング Commoning とはなにか?』(https://note.com/dutoit6/n/naa142adcf213)という文章の中で、「コモニングとはコモンズを生み出し続けようとする人々の実践、それに内在する関係性のことを指すコンセプトだ」と言っています。

 そう考えると、使いながらつくられ続けていくという点や、様々な要素の関係性によってできているという意味において、「小さな風景」というものは、コモニングの場と捉えることができるな、、、と思ったりもします。米山くんはコモニングの議論の中で興味のある話題は何かありますか?

出入りのあるコモンズ

米:同じ森一貴の『コモニング Commoning とはなにか?』の中で「差異コモニング」という概念が紹介されています。ひとつのコモニングに対して異なる関心や能力を持つ人々が関わることを意味しているのですが、コモニングはいろいろな人が関わることのできる場になっていることが重要なのではないかと思います。他にも森林政策学者の井上真は「開かれた地元主義」という考え方を提唱しています。コモンズがもともと地元コミュニティによる自治を重要視し、閉じている方がうまくいくと考えられていたのに対して、「開かれた地元主義」とは現代においてはもはやどんなコミュニティも外部との関係を持たないことの方が難しいので、むしろ外部との関係を受け入れて技術や知見をうまく取り入れていきましょうというような考え方です。これらの考え方はハーヴェイのいう「固定化された特殊な物や資産というよりはむしろ不安定で可変的な1つの社会関係として解釈されるべき」というコモンのあり方に通底するもので、興味深い話題だと感じています。

 このような流れの中でデザインにできることとして、森一貴は同じテキストの中でフィンランドのコ・デザインの研究者であるベテロトとハイサロが考案したデザイン戦略の一部を紹介しており、中でも個人的には玄関のドアベルなどアクセスする部分をまずは良くするという「アクセスデザイン」に物理的なもののデザインという意味でも可能性を感じました。

気軽に入れるアーツ千代田

 例えば気軽に入れるアート施設として知られるアーツ千代田は公園→大階段→ロビー→カフェ→ショップと段階的に入っていくようになっていて、色々な目的の人が来やすいようになっているという点でコモニングを推進しうる優れたアクセスデザインの事例だと思います。アート関係者以外の人々が関わることでより多くの人にとって居心地のよい場所を作り出しています。単純といえば単純なのですが、前述したようないろいろな人が出入りするコモニングを想定すると、アクセスデザインは他にもいろいろ考えられそうで、効果がありそうな戦略のひとつだなと思いました。福嶋君はコモニングのどういった点に関心がありますか?

新陳代謝するコモンズ

福:米山君の話はコモンズにおける外部との関係とそのアクセスについての話だと思いますが、ぼくはそれを当事者が継続的に利用していけるしくみ作りに関心があります。例えば、地方のバス停の風景なのですが、屋根があるだけの場所に、地域の人がつくったお手製のイスが置かれていたり、荒れていた隣の土地を花壇にしたり、掲示板を設置し、◯◯だよりといった情報を共有できる場にしていたりと地域の人の参加が見受けられ、休憩場所としての利用や花壇の水やり、情報の更新といった維持管理などの継続的な活動によってコモンズが形成されていました。

地方のバス停の風景

 こうした継続的な参加を促すためには、当事者以外、例えばわれわれのような設計者が「どうコモニングに介入していけるか」という問題もまた重要であると思います。先のバス停の事例は当事者側からすると良い場所に見えますが、当事者外からは私的な場所のようにも感じられます。バス停というフレームがつくられ、そこに地域の人が参加することでコモンズが形成されているのですが、このフレームが脆弱だと限られた人のための資源になってしまい、結果として私的な場所になってしまう恐れがあります。

 先ほどの「開かれた地元主義」の話に近いかもしれませんが、閉じられたコモンズというよりは、新陳代謝のあるコモンズとでも言うのでしょうか、外部との関係を受け入れることで継続的な活動がより維持しやすくなるのものと考えます。そこで、このフレームを設計者がどうデザインするのかが課題になってくるのではないかと思っています。

 当事者の参加を促すにはフレームにある程度の“緩さ”が必要だと思いますが、継続的な活動を維持してもらい多様な参加のされ方にも耐えうる”強さ”を併せ持つおおらかなフレームづくりみたいなものを考える必要があるのではないでしょうか。まずつくる側としてできることは、「多様な参加を促せそうか」「多様な活動を許容できそうか」「継続して参加しようと思える強度があるか」などをシミュレーションしながらフレームを考えることかと思いました。まだまだ議論の余地があるコモンズ論ですが、最後に今後の課題について思うことがあれば教えてください。

多様な主体がつくりだすコモンズ

米:これまでの話を振り返ると閉じたコモンズではない、開かれたネットワーク的なコモンズの在り方が見えてきたように思います。建築界隈でコモンズというと単に「コミュニティの集まる場所」というイメージが強く、人が集まるような特定のプログラムでないと生み出せないものと考えられてしまうと思いますが、主体を限定しないネットワーク的なコモンズにおいては必ずしも集まることがコモンズの定義にはならず、たとえ1人でしか座れない小さなベンチだとしても、時間や役割を変えてさまざまな人が使い、手入れをしているのであれば、それはコモンズだと言えると思います。そのように考えると、「小さな風景」に関わる様々な主体に想像力をはたらかせることでその背景に広がるコモンズを捉えることができるのではないでしょうか。

福:「小さな風景」をコモンズの視点から捉え直すと、多様な主体が関わっているという背景が「小さな風景」をより豊かにしていることがわかってきたような気がします。われわれデザイナーとしてはそのような関係性が生まれる受け皿をつくっていくことが重要であり、その関係性を丁寧にひも解いていった先にこそデザインのヒントがあるのではないでしょうか。

米山剛平(よねやまこうへい、写真左):1993年7月6日埼玉県生まれ。2016年首都大学東京都市環境学科建築都市コース卒業。2018年横浜国立大学大学院Y-GSA修了。現・乾久美子建築設計事務所勤務

福嶋海仁(ふくしまかいと、写真右):1993年7月7日福岡県生まれ。2016年熊本大学工学部建築学科卒業。2019年熊本大学大学院自然科学研究科建築学専攻修了。現・乾久美子建築設計事務所勤務

乾久美子(いぬいくみこ):1969年大阪府生まれ。1992年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1996イエール大学大学院建築学部修了。1996~2000年青木淳建築計画事務所勤務。2000乾久美子建築設計事務所設立。現・横浜国立大学都市イノベーション学府・研究室 建築都市デザインコース(Y-GSA)教授。乾建築設計事務所のウェブサイトでは「小さな風景からの学び2」や漫画も掲載中。https://www.inuiuni.com/


※本連載は月に1度、掲載の予定です。連載のまとめページはこちら↓。