倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」01:私たちの後ろにまとわりついた「『近代後』的な現象」を読み解く

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建築史家である倉方俊輔・大阪公立大学教授の連載をスタートする。編集部からのリクエストは、「学生も読める、欲を言えば一般の人でも読める歴史解説」。それに対して倉方教授が提案してくれたテーマは、バブル前後世代もどっぷりはまれる「ポストモダニズム」! どうぞどっぷりおはまりください。(ここまでBUNGA NET編集部)

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)

 この連載では、日本の建築における「ポストモダニズム」を、きっちり解説していきたい。それは今の私たちの後ろにまとわりついているのに、これまで誰もまともに論じてこなかったからである。

 そんなものは建築ではない、ナシだ、いや一周まわってアリだ、と十把一絡げには扱いたくない。建築を個別に取り上げて、その魅力をあれこれ言うのは大事だが、それにしたって共通する基盤が説明されていなければ、伝わる内容も少なくなるだろう。

 それは一枚岩でなければ、個別の作品を辿っていくうちに雲散霧消する概念でもない。つまるところ、モダニズムを始めとする他のすべてのスタイルがそうであるように「点」ではないのだ。一つの点のような理念として捉えられるわけでもなければ、ただただ作品という点が散乱するわけでもなく、さまざまな言説や作品が関わり合った固有の歴史が存在している。

 だからこそ、今回から計24回の連載を通じて、日本の建築のポストモダニズムを歴史的に把握していきたい。年代の順に述べることを基本として。

 初めに課題になるのは、何を対象とし、どんな期間を扱うかということだ。

「ポストモダニズム」という言葉を分解してみる

 まずは「ポストモダニズム」という言葉を、改めて見てみたい。この単語は「post-」(〜後)と「modern」(近代)と「-ism」とが組み合わさってできている。

 一つ気を付けたいのは、最後の「-ism」が、必ずしも「〜主義」という強い意味を持つわけではない点である。例えば、19世後半に欧米で流行した「ジャポニズム」を「日本主義」と解釈する人はいないはずだ。

 実際、「-ism」は「〜的な現象」といった程度の接尾辞としても使われる。critic(批評家)に「-ism」を付加させると、批評家的な現象、すなわちcriticism(批評)となるように。

 英語の「-ism」には意味の幅がある。それが日本の建築の世界に入り、少々混乱をもたらしている様子を知るために、次の例文をお読みいただきたい。

(a) 丹下健三のモダニズム建築は保存されるべきである。
(b) 当地は百花繚乱の様式が花開いた阪神間モダニズムの住宅地だ。

 2つの文章で「モダニズム」の意味が異なることが分かるだろう。(a)は規範性という言葉が当てはまるのに対し、(b)は、規範性から逸脱した「新しさ」に重点を置く。それはどういうことか。

 (a)の「モダニズム」は、歴史的な意匠に依存せず、在来の計画を疑う意識的な思考だ。これに基づいた建築は日本では1930年頃に勃興し、第二次世界大戦後に建築界の主流となった。

 それとは違って、(b)の「モダニズム」は、市民社会の成立と工業技術の革新を背景に、不変不動の基準が薄れ、「新しさ」を求める個人の趣味と時代の流行が社会を左右していく近代の現象を指している。とりわけ、その始まりの時期が、文学や美術の世界で語られることが多い。日本では1910年代に起こり、1930年頃にひとまずのピークを迎えた。

 2つの意味に重複もあるのだが、(a)は意識的で主体的であるのに対して、(b)は必ずしもそうではないといった違いも指摘できる。

 よって、(a)を主導する者の意識の上では、軽薄な(b)の「モダニズム」は乗り越えられるべきもので、いわゆる「帝冠様式」を含めて昭和戦前期にピークに達したそれは、敗戦によって精算され、正しい(a)が世界的な勝利を得たという発展史観になるのだが、現実にはそうは問屋が卸さないことは、戦前から一貫して(b)の「モダニズム」に根ざした村野藤吾が敗戦後にも活躍し、その人気は没後ますます高まっている事実からもうかがえる。

 つまり、二つの「モダニズム」のどちらかが誤っているわけではない。modernismの意味の中には、意識的・主体的な「近代主義」だけでなく、必ずしもそうではない「近代的な現象」も含まれていることの反映である。そして、原語は同じであるから、意味する内容は完全な二者択一にはならず、双方の色彩を帯びることになる。

 ここまで「modernism」について述べてきたことは、それに「post-」(〜後)が加わった「ポストモダニズム」にも当てはまるだろう。「ポストモダニズム」は「『近代後』主義」といったような強い主張を表す場合もある。しかし、それだけでなく、あれやこれやの「『近代後』的な現象」も指し示す。この場合には、何かに対立するような概念ではないので、「ポストモダニズム」が近代的なものを含んで構わないことになる。

 以上を整理して、この連載が対象とする「ポストモダニズム」が何かを述べたい。まず、「ポストモダン」の意味は、あくまでも「近代後」であり、それは「反近代」や「脱近代」と同じではなかった。そして、「-ism」は「〜主義」だけでなく、「〜的な現象」でも使われていた。したがって、「ポストモダニズム」は、反近代や脱近代を掲げた意識的・主体的な主義主張ではなく、むしろ「『近代後』的な現象」を広く指すのにふさわしい単語ということになる。実際、この用語が生き生きと用いられていた当時は、そのような使い方が少なくなかった。

 「ポストモダン建築」という言葉もあるが、「ポストモダン」は「近代後の」という形容詞であり、時代区分の性格をまとう。建築史家である私が行いたいのは、「ポストモダン(近代後)」という観念を自己定義して出来事を説明することではなく、出来事から観念を抽出する作業なのだ。よって、この連載では、現象を指すのにふさわしい「ポストモダニズム」という単語を用いることにしたい。

連載の起点は1977年とする、その理由は…

 続いては、どんな期間を扱うかということである。論じる対象が現象だとしたら、時代の設定は任意となる。「ポストモダニズム」という言葉が使われていた時期に限定する必要はないわけだ。その上で、この連載の起点を1977年に置きたい。

 1つ目の理由は、1976年の翌年であることだ。「1976」とは何か? それは安藤忠雄の「住吉の長屋」、伊東豊雄の「中野本町の家」、坂本一成の「代田の町家」が竣工した年である。前年には石山修武の「幻庵」、長谷川逸子の「緑ヶ丘の家」、石井和紘と難波和彦による「54の窓」が完成していた。同世代感の高いこれらの建築家が、1970年前後からの格闘を経て、その後に続く作風を勢揃いさせたのが1976年なのである。

石井和紘+難波和彦 「54の窓」1975年(写真:倉方俊輔)

 前年の1年間を通じて、磯崎新が圧倒的なパフォーマンスを見せたことも特筆すべきだろう。1975年1月には『新建築』と『建築文化』の両誌に「群馬県立近代美術館」を載せ、同年の4月に「富士見カントリークラブハウス」、7月に「北九州市立美術館」と大規模な実作を誌面で発表した。この年の4月に『建築の解体』(美術出版社)を刊行し、12月の「新建築住宅設計競技1975入選発表」では上位入賞にすべて外国人を選んで、審査評を「日本の建築教育の惨状を想う」と題した。新たな覇権の出現が、当時はまだ地位を確立したとは言えない世代を鼓舞したことは、想像に難くない。

磯崎新「北九州市立美術館」1974年(写真:倉方俊輔)

 すでに次世代に広い影響を与えていた建築家たちが当時、決定打を放ったのである。原広司が「均質空間論」を『思想』8〜9月号に発表したのが、1975年だった。1976年には篠原一男が「上原通りの住宅」を完成させ、1970年前後に始めた鉄筋コンクリートによる住宅の展開をさらに前衛化した。

 1976年とは今、私たちが語っている「現代建築史」のお膳立てが整った年なのだ。ではなぜ、その翌年から連載を開始するのか? 端的に言えば、1976年は始まりではなく、終わりの年だからだ。何の終わりか? それは1960年半ばからの格闘のひとまずの帰結である。

安藤忠雄「住吉の長屋」1976年(写真:倉方俊輔)

 「1976」という出来事を理解するには、1960年代後半からの日本の建築史を追う必要がある。追っていくうちに、その後の約半世紀で凝り固まり、何となく常識化されてしまった「現代建築史」も書き換えが迫られるだろう。そのためには1冊分の紙幅が必要となり、それはやがて世に出る予定だが、ひとまずは上述したような、終結点であり出発点のイメージを1976年に対して持っていただければ、この連載を読み進める上で問題はない。

 1977年は、そんな「完成」からの新たなスタートだ。1976年にあった可能性が開かれ、展開していく。それぞれの建築家における「反近代」や「脱近代」への格闘は、すでに建築における足がかりを得たから、「近代後」こそが問題になり始める。そんな年を論述の起点にしたい。

 理由の2つ目は、これに反して、外在的に聞こえるかもしれない。それは、1977年がチャールズ・ジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』が出版された年だというものである。日本でも翌年に竹山実の翻訳によって『a+u』1978年10月臨時増刊として刊行された。そこから建築における「ポストモダニズム」という日本語が現れ、使用される頻度は1981年頃に一気に高まる。

 この連載で扱いたいのは、やはり現象なのである。具体的な作品が「近代後」であるかそうでないかを分別するのではなく。となると、「ポストモダニズム」なるものがある(かもしれない)と意識されていた時代というのは、一つの基準になるだろう。

 チャールズ・ジェンクスが本を書いたから、突如、日本で「ポストモダニズム」が巻き起こったのではない。それは当初、支配的な概念でもなく、欧米でそうであったように「フォルマリズム」や「コンテクスチュアリズム」などと併置されていた。そして、いずれの観念も、日本における建築の力学を変えることはなく、1976年以前からの建築への探求が続けられたのである。

 ただ、「ポストモダニズム」が議論されていた期間が存在することは確かだ。それは各人の探求に影響を与え、今から思えば共通に意見交換する基盤を提供し、社会と建築界とのコミュニケーション手段にもなっていた。「ポストモダニズム」という言葉が使われていたという事実が、ひとつの時代のまとまりを作り出していると考えられないだろうか。

 すると、終期については「1995」という象徴的な数字が浮かんでくる。阪神淡路大震災が発生し、オウムサリン事件が起こった年である。この年にタレントから東京都知事に当選した青島幸男が、基幹施設に伊東豊雄・石井和紘・山本理顕・栗生明が関わっていた世界都市博覧会を開催10か月前に中止した出来事も、以後の国内状況の予告としてこれに加えても良いかもしれない。

 この連載の起点を1977年に置き、今さっき追加したように1995年を終点とする理由の3つ目としては、この時期が最も語られていないという現状がある。1995年の出来事が建築の何かをただちに変えたわけではないが、この頃を目安として、別のモードが支配的になったことは事実だ。

 1991年頃からのもやもやとした空気に着火した1995年の社会的な出来事は、それ以前のモードを「ポストモダニズム」と総称して、押し流すのに十分なインパクトを持っていた。その意味で「1976」と「1995」は、建築界における覇権の転換を象徴する数字ではある。ただし、モダニズムが何かで始まり、何かで終わったわけではないように、ポストモダニズムも『ポストモダニズムの建築言語』で突如として開始され、1995年の社会的な出来事によって終焉したわけではない。

 1977〜1995年に日本の建築における現象の一つのまとまりがある。それはそれ以前とも、それ以後とも関わる、おおむね内発的な変容である。この時期を、1976年以前によっても、1995年以降によっても塗り固めないこと、ましてやモダニズムという唯一の正統からの逸脱として排除しないことは、今の私たちを閉塞感から救うと信じている。

〈自立した意味を持つ表面〉の出現

 では、1977年に何が起こったのか? 「表層」の出現である。それは「表皮」や「被覆」と呼び替えても良いかもしれない。いずれにしても善悪の判断はなく、〈自立した意味を持つ表面〉といった意味で用いている。

 ここでは「表層」という語を、伊東豊雄の「PMTビル」が『SD』1978年6月号に掲載された際の多木浩二による批評文「表層化としての建築」と作者の解説文から採った。二つの論考に見られるように、この時期には「表層」という語の必ずしも否定的ではない使用例が現れる。「表層」を知的流行語とした文芸・映画評論家の蓮實重彦による『表層批評宣言』の刊行はそれより後の1979年11月で、その姿勢が通じ合っている。どちらがどちらの真似をしたわけでもないのに。

 1977年に始まる「表層期」の意味を、連載の次回から考えていきたい。

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、住宅遺産トラスト関西、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。連載のまとめページはこちら