倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」08:長谷川逸子と伊東豊雄の距離<4>「第1期の総集編」と伊東自身が位置づけた「笠間の家」

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 1977〜81年の建築を特徴づけているのは「表層」である。それ以前には等閑視されてきたこの対象に、多くの建築家が目を向けた。

 「表層」とは、どのようなものなのだろう? 1972年に美術批評家の宮川淳は、それが「ほとんど定義によって、存在論の対象になりえない」と指摘した。「厚みを持たず、どんな背後にも送りとどけず(なぜならその背後もまた表面だから)、あらゆる深さをはぐらかす」のだと。言われてみれば、納得だ。存在としては定位できないが、確かに、ある。

伊東豊雄「笠間の家」1981年(写真:倉方俊輔)

 一種の現象のようなものだろうか。裏かと思えば表である、そんな捉えどころのなさが、それまで信じられていた二項対立からなる秩序を疑わせる論理は、1978年の論考「表層化としての建築」に詳しかった。執筆者の批評家・多木浩二は、篠原一男のような従来の最先端とまた違った種類の建築が今、出現しているとした。タイトルに掲げた「表層化としての建築」である。そこにいくつもの両義性を見た。連載の前回で述べた、意味と無意味の両義性、俗と非俗の両義性、そして建築家自身が抱える両義性(自我と非自我、意識と無意識、西欧と日本)である。

 先に宮川淳が指摘した一般的な「表層」のどっちつかずさを、多木浩二は建築におけるキッチュやアイロニーと明確に結び付けたのだ。表層は、キッチュであらざるを得ない。つまり、俗っぽく、したがってその手法を完全に正当化することはできない。しかし、そのことによって従来の建築家の枠組みを超えて、より実社会に迫ることができる可能性が見出された。

 改めて確認したいのは、この当時から、日本の建築で「表層」がテーマとして出現したこと、そして、それがインテリの世界に閉じた記号の操作のようなものではなかったということである。それは建築を開く試みだった。危険を顧みず、建築家がそんな新たな挑戦を始めたという時代性を、多木浩二は見逃さなかった。

慣れ親しんだ「窓」のある「お家(うち)」のイメージ

 ここまでに述べてきた表層の危険性と可能性に、伊東豊雄が最も迫った作品が「中央林間の家」(1979年)である。今の目からすると、これが同じ「PMTビル」(1978年)の翌年に完成した「小金井の家」(1979年)と双子のように扱われていたのが不思議に違いない。

 というのも、一方の「中央林間の家」は、まるで「お家」に見えるからである。切妻屋根が家形を形成しているのが一因だ。さらに大きな要因は、窓にあるだろう。この木造2階建ての住宅の外面には、いくつもの窓が付いている。ほとんどが雨戸を備えていて、その戸袋が目立つ。独立した窓が開いている感じが強い。モダニズム的な「開口部」ではなく、慣れ親しんだ「窓」のあるお家。そんなイメージをまとっているのだ。

 これを「通俗化」と呼べるだろう。設計者がそれに意識的であることは、込められた設計密度からも明らかだ。

 例えば、雨戸はフレキシブルボード製であり、他にアルミパンチングメタルでもつくられた。雨戸の支持材が格子と斜めに走るパターンは、閉じた時、室内からも目に入るようになっている。それはかつて、窓がインテリアの一部としての機能も果たしていた歴史を思い起こさせる。なお、こうしたパンチングメタルの用法は前々回に解説した長谷川逸子の「桑原の住宅」(1980年)と共通しているが、住宅の全体像は異なるため、両者が独立して同時代の精神に達した証拠のようで、それも興味深い。

 戸袋のつくりも、手が込んでいる。あるものは突き出て立面を左右対称形にまとめ上げ、またあるものは外壁と面一になるように収めている。パンチングメタルの面は、まるでダークグレーのフレキシブルボードだけだと外観が単調になるので塗り分けたかのようだ。アルミの樋は家形の輪郭を強調し、アルミの目地は洋館のトラスのような線を頂部の三角形に描いている。これはハウスメーカーの住宅だろうか・・。ただし、鈍く光る他の目地と同じく、偶然にそうなったと言わんばかりの表層的で都会的な態度は崩していないわけだが。

歴史主義的なポストモダニズムへの接近

 ここまで「中央林間の家」の外観を主に見てきた。素材にしても形にしても、ドライで平滑、グラフィカルでありながら連想を誘う。「表層化」の進展が見てとれる。

 通俗化と表層化は、内部にも顕著だ。玄関に入って、居間から階段の吹き抜けを眼にした時、おそらく今の多くの人は驚いてしまうのではないか。ここまで歴史主義的なポストモダニズムに、伊東豊雄が接近したことがあったのかと。

 ここに置かれている大橋晃朗の家具が、そんな印象を高めているということはある。「クロスボード・ベース・テーブル」と名付けられたそれは、足元部分に曲線を含んだ凹凸を備えていて、かつて洋館にあったテーブルを連想させる。ただ、作り方としては安価な合板をカットし、かみ合わせただけで、むき出しの接合部は、これが量産品の技術を利用していることを隠そうとしていない。

 家具は「中央林間の家」のためにオーダーしたもので、伊東豊雄は、こうした手法を「あらゆる史的な形態を『シルエット』として映し出そうとする作業は、その操作の単純さ故にポレミックな性格を帯び始めはしないだろうか」と当時、評している(注1)。

 キッチュに接しながら、平面化という手法によって、そこから詩的な、何物にもとらわれない性格を取り出す。そんな形容は「中央林間の家」の内部にもあてはまるだろう。クロスボード・ベース・テーブルに接しては大きな背もたれが特徴的な造り付けの家具があり、大柄の段々になった側板は階段らしさを強調し、各部屋では茶色の腰板が白い壁面とコントラストを成して目立っている。これらの要素は、もとをたどれば日本にとって輸入品である洋館に至るわけだが、いずれも抽象化され、平面化されている。

家の原像に向かうのではなく、浅さをつくる

 つまり、この住宅は「お家」らしいと言っても、家の原像に向かう、といったようなものではないのである。深さではなく、浅さをつくろうとしている。表層性とキッチュは意図されたものであり、アイロニーは次の自由に向かうための戦略のようだ。

 完全に抽象的である光のシルエットも、それに加わる。1階のアトリエには「中野本町の家」(1976年)以来の「モルフェーム」が適用されている。白い天井が段々の形や円弧の形になって、光がまわりこむ。そうした印象的な光景は、何か具体的な対象を指示しているわけではない。

 どっちつかずで、両義的なのである。厚みを感じさせない表層によってそれを生み出すことに向けて、大橋晃朗も伊東豊雄も努力し、キッチュやアイロニーをまとっている。

社会に対しポジティブであろうとした「小金井の家」

 それに対して「小金井の家」は見たところ、キッチュやアイロニーという言葉を必要としなさそうだ。「中央林間の家」と並行して設計が進められ、同じ1979年に完成した。原型を尊重した改修設計が大西麻貴+百田有希によってなされ、2021年に就労支援施設に生まれ変わった。百田有希は現在の位置づけを以下のように的確にまとめている(注2)。

 「鉄骨ラーメン構造2階建てで、後につくられる氏のドミノ・シリーズの原型となった。〈中略〉『中野本町の家』と『シルバーハット』の間につくられ、『中野本町の家』の後、大きく作風が変わるきっかけとなったプロジェクトでもある。著作でも述べられているように、社会に対して批判的ではなく、ポジティブな、開かれた態度で建築をつくることはできないか、という試みの中で生まれた実験的な住宅だ。」

 そして「社会に対してポジティブな姿勢であろうとした『小金井の家』と、東日本大震災後、誰にでも開かれた言葉で、開かれた場をつくろうとしたみんなの家の試みは、繋がるべくして繋がったとも感じられる」と言う。こうした言葉は「小金井の家」を継承された方が、伊東豊雄を中心とした東日本大震災の復興支援プロジェクトである「みんなの家」に共感し、自然環境と関わりながら地域に開かれた場をつくりたいと思い、多くの候補の中から決定した物件が、その後に伊東豊雄の設計だと分かったというめぐり合わせを背景にしている。建築の意味の再発見と継承のあり方の理想像であり、大いに共感する。

 実際、箱型の外形に水平連続窓といった竣工時からの姿は今、率直なものとして目に映る。構造の鉄骨は内部にむき出しで、工業的な量産品を組み合わせた室内には明るい光が注ぐ。ものの成り立ちも、内外の関係も開かれているように思う。小難しくなくても建築になりうるという実験を、明快に行った住宅のようだ。

ポジティブに転換?と思わせて実は曲者の「小金井の家」

 「中央林間の家」と「小金井の家」は同じ『新建築』の1980年8月号に発表され、伊東豊雄の論考「建築のコミュニケーションの可能性」が添えられた(注3)。そのタイトルは、百田有希が「小金井の家」について書いたように、設計者がポジティブな姿勢に転換したと思わせる。だが、読み始めたとたん、予想は裏切られるかのようだ。

 「近ごろ私の教えている建築科の学生の設計製図として〈建売住宅〉という課題を与えたのだが、学生たちはたいへん当惑している様子である」という始まりで頭をよぎるのは、ハウスメーカーの住宅めいた「中央林間の家」の姿である。

 その見え掛かりから現在、分裂したものと捉えてしまう「中央林間の家」と「小金井の家」の共通性が強調されているのが興味深い。伊東豊雄は2つの作品を並列して論じ、「ほとんど重なり合って設計されたふたつの住宅の設計において終始考え続けたのも、どのようにして建築のコミュニケーションの枠を拡げることが可能かという問題であった」と記している。次の3つを共通の特徴として挙げる。

 第一は「機能的な関係に基づいた平坦な平面を持っていること」。続けて「共通に小さな吹抜けを持つ以外には中心となる大きな空間もなく、採光の方法も自然で特殊な解決はない」と述べる。言われてみれば、「中央林間の家」の独立窓も自然であるとは言える。そして「小金井の家」の内部は、外観の予想に反してワンルームではない。求心的でも均質的でもない、流動的な空間が内包されている。

 第二は「ステロタイプ化したエレメントを用いている点」。「中央林間の家」については腑に落ちるものの、「小金井の家」はなぜそう言えるのだろうか? 設計者はその「水平に連続する開口」は「明らかに以前からのコルビュジエの初期作品に現われる形態モチーフの使用といった意図に基づいて生じている」と明かす。そうか、これも歴史主義的なポストモダニズムへの接近だったのか。そう思った直後に「しかし以前の作品が個人的なモチーフの意図的な引用であったのに対し、ここではもはやステロタイプとなり、近代建築の最も特徴的なエレメントである水平連続窓のみが外壁に用いられているのである」と続ける。「小金井の家」が意図されたキッチュだったとは、軽い衝撃である。通俗化において、二作品は共通していることになる。

 第三は「きわめて表層的な外皮に覆われている点」。外皮は「それぞれに内部からは自立した皮膜として成立している」と説明される。率直に思えた「小金井の家」の外観は表層だった。それを露呈するように、内部の間取りを規定している鉄骨の柱の位置と、サッシ割とは無関係になっている。そんな重要な柱を黄色に塗っているのは、こちらを主に見せないためだろう。だから、まんまと私たちは表層が主で、平面計画が従であるのように、ある時には感じてしまう。しかし、次の瞬間、薄くされた壁は、それが外皮に過ぎないことを語り出す。設計されているのは、どっちつかずさである。

 「中央林間の家」はああ見えてなかなか素直であり、実はこう見えて「小金井の家」は曲者だ。「小金井の家」の2階に続く階段の手すりは、柱と同様に鉄製で黄色く塗られている。それが端部で、カーブを描いて跳ね上がっている様子を眼にすると、確かに「中央林間の家」と同種と認めざるを得ない。表層化によるキッチュやアイロニーが共にあり、そこに向けた設計の努力が図られている。

伊東豊雄の変化と一貫性の起点は「表層」

 2つの住宅は、ある言い方をすると、素直ではない。つまり、危険である。こっち派とかあっち派とか、認められてしまえば、少なくとも居場所があるから安全なのは、今も昔も同じである。

 伊東豊雄は、危険な建築家なのだ。そのスタンスを自他ともに明瞭にしたのは「表層」を通じてだった。それがほとんど定義によって有する、どっちつかずさが、素直さに絡め取られない可能性を確信させたと私は考える。今日まで続く伊東豊雄の変化と一貫性の起点は「表層」から理解されなくてはならない。

 表層は、付加物ではないのだった。それが従来そう考えられていたのとは異なる本質であることに、伊東豊雄は気づいた。長谷川逸子も捉えた。それは時代の中での出来事なので、他の建築家も無縁ではもちろん無い。ただし、違う時代のものだから一旦、今は否定的であるだけの言葉の力を借りる必要がある。危険というのも、その一つだ。では、危険であるのは、何のためなのか?

「伊東豊雄第1期」の後期をしめくくる「笠間の家」

 「笠間の家」(1981年)は、優美な作品だ。後に伊東豊雄が「第1期の総集編」と位置づけたものである(注4)。茨城県笠間市に陶芸家・里中英人のアトリエ兼住居として建てられ、里中の没後に市に寄贈されて現在、ギャラリーやカフェ、工房などとして公開されている。

伊東豊雄「笠間の家」1981年(写真:倉方俊輔)

 平面的には複雑な形式で、それが断面の変化とかみ合っているが、特徴的なのは内部における面の体験だ。壁も天井も白く塗られた室内に光がまわりこんで、屋根の曲面や家形が現れる。そこにアルミの目地が入ったグレーの壁が浮かんでいる。確固とした空間が存在しているというよりも、人間の位置や光の変化によって起こる現象があるかのようだ。表層が建築を構成している。

 確かに、設計者が述べるように「笠間の家」はある種の完成であり、批評性を欠いた洗練に建築の道はないと仮定すると行き止まりであるのかもしれない。その上で「第1期」と呼ばれていたものを二分したい。デビュー作である「アルミの家」(1971年)以降のすべてをまとめるのではなく、そこから「中野本町の家」(1976年)を完成させるまでと、「中野本町の家」を内省することから始まる翌年以降の展開を分けるほうが実態に即している。以後の伊東豊雄の歩みも理解しやすくなるはずだ。

 次回以降で詳しく論じる通り、1977〜81年という区切りは建築界全体の潮流にも妥当する。伊東豊雄の建築の批評性が常に当時と対峙したものであることからすると、不思議な現象ではないだろう。ただし、建築の批評性とは、当人の言語による批評とイコールではない。長谷川逸子が切り開いた同等の批評性を、すでに前回までの連載で明らかにした。その作品から得られたのも、やはり1977〜81年といった区分の有効性だった。 

 「笠間の家」には、1977年から「中野本町の家」(1976年)の中に現れた形態を「モルフェーム」と称した上で「表面性」の語を肯定的に使い始め、1978年の「PMTビル」から面の素材感や色彩を操作し、1979年の2つの住宅で通俗性と戯れるようになった伊東豊雄の展開が総合されている。

「これまでに設計した住宅のなかで最もバランスのとれた作品」

 1989年に出版された『風の変様体』には、1971年からの論考が収録され、それに現在ともまた異なる1980年代末時点の伊東豊雄による自作の位置づけが加えられている。連載の第3回では、これが第一級の資料であるのは、再録時に書き換えや追加がなされたり、後年の再解釈である可能性も含めて解釈されるべきだからであることを示した。

 「笠間の家」の雑誌発表時の解説文は『風の変様体』に収録されていないが、1981年の出来事を述べた文章の中で、以下のように説明されている。

 「この年の暮れに完成した〈笠間の家〉は、私がこれまでに設計した住宅のなかで最もバランスのとれた作品と言えるかもしれない。〈中略〉しかしこの住宅が完成した時、純白に覆われた空間を眺めながら、私は何か満ち足りない気分を拭い去ることができなかった。この被膜の下には何かが欠落しているように思われて仕方がなかった。〈中略〉形態操作によって人々の家のイメージを浮かび上がらせたいという観念的な作業は、次第に住むことのリアリティとは何かという別の関心へと置き換わりつつあったわけである。」(注5)

伊東豊雄「笠間の家」1981年(写真:倉方俊輔)
伊東豊雄「笠間の家」1981年(写真:倉方俊輔)
伊東豊雄「笠間の家」1981年(写真:倉方俊輔)

 少し注釈が必要なことがある。一つは「笠間の家」の被膜は、そこに内包されているボリュームとの二項対立においては実感されないことだ。確かにこの住宅の外壁は薄いが、内部で感じられるのは、厚さや薄さといった物理的な存在感ではない。厚みのない「表面」にほかならない。特に2階のリビングルームにとられた奥行きのある開口部は、被膜らしさを裏切っている。それは建築の外壁も内壁も、単なる表面として眺めさせる。そのあり方は、俯瞰的な建築の構成で語るよりも、冒頭で引用した宮川淳の「厚みを持たず、どんな背後にも送りとどけ」ない表面という形容のほうが適切である。

 もう一つ、「人々の家のイメージ」という言葉にも注意が必要だろう。完成時の設計者の思考からしても、現実の体験に即しても、「笠間の家」の家にあるのは、単一の家のイメージに向かう動きではない。浮かび上がるのは、通常は相反するように思われるものも含んだ、複数の家のイメージである。それが形態操作に起因するという設計者の説明は正しいが、形や空間の操作が直接に鑑賞者に伝わるのではなく、それによって表面に出現する現象が知覚される点が、この住宅の新しさである。

アイロニーを通じて価値を拾い上げる

 「笠間の家」は表層にのみ留まっている。表面に浮かぶのは家の伝統的なイメージであるかと思えば、モダニズムのようでもあり、それもキッチュとして扱っているように感じられる。それでいながら魅了される。

 ここにあるのは批判のための批判ではない。むしろ肯定である。アイロニーを通じて、従来は捨て去られていた要素の中から価値を拾い上げている。それは狭い建築界に留まるのではなくて、これまで彼らが視界に入れてこなかった実社会と関わろうとする意志に始まっている。

 もちろん危険な行為だ。インテリの閉じた遊戯としてしか受け止められないかもしれない。単に社会に受け入れられる結果に堕するかもしれない。そんな緊張感が、両義的な表層の力を引き出すことによって、「笠間の家」の優美が誕生している。

 この時期に伊東豊雄がつかみ取ったものが、以後の展開を支えた。では、その他の建築家に「表層」はどのように現れたのだろうか。

注1:伊東豊雄「歴史を映し出す『シルエット』の意味—大橋晃朗氏の合板による家具」(『インテリア』1980年4月号)
注2:百田有希「『小金井の家』を未来へと引き継ぐ」(『新建築』2021年5月号、新建築社)26頁
注3:伊東豊雄「建築のコミュニケーションの可能性」(『新建築』1980年8月号、新建築社)252頁
注4:伊東豊雄『伊東豊雄の建築1 1971-2001』(TOTO出版、2013)41頁
注5:伊東豊雄『風の変様体 — 建築クロニクル』(⻘土社、1989)266〜271頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)