倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」09:丹下健三すらも、それまでの作風を明確に脱した1977年

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 作品としての存在感を表層が担っている建築が、1977年ころから幅広く見られるようになる。今回からは、それらにどんな共通点があり、違いは何かを考えていきたい。

丹下健三「草月会館」1977年(写真:倉方俊輔、以下も)

 まずは「モダニズム」の代表格である丹下健三から。ハーフミラーガラスの外装が特徴的な「草月会館」は1977年に完成した。幅の広い青山通りから見える建物全体が、鏡のようなガラス面で覆われている。建て替え前の旧草月会館(1958年)も、同じ丹下健三の設計だった。それが柱と梁の構造を強調した打ち放しコンクリートの躯体に青いタイルを使って、近代性の中にそこはかとなく工芸性と日本的性格を漂わせていたのに対して、こちらは重力を感じさせず、抽象的である。

 青みがかったハーフミラーガラスの大きな面が、空や木々を寒色に映し出して、都会的なイメージをつくりだす。一枚の鏡であるかのように平滑だ。それは当時の日本がようやく、憧れ続けてきたアメリカの施工技術の高さを自分のものにした証でもある。

 さらにこの表面がクール・ジャパンなのは、内部のありようも構造の仕組みも垣間見せていないことによる。それは静かなドラマに貢献している。45度の鋭角を有した巨大な二つのヴォリュームがスリットを介して接する。そんな技術的にも美学的に高度な芸当を軽々と見せている。余裕を感じさせる、都会的な演出だ。作者がこれを近代というより、現代性の表現として提出したのは間違いない。

続く「ハナエ・モリビル」、そして「赤プリ」

 このように丹下健三も、1977年にそれまでの作風を明確に脱したのだった。1973年から計画を進めていた「草月会館」が同年に竣工し、ハーフミラーガラスは翌年に完成した商業ビル「ハナエ・モリビル」(1978年)でも表現の中心に位置づけられた。こちらも表層が、抽象彫刻のような形態と相まって効果を上げている。鏡であることは、この頃、最先端のファッションの街として認識されつつあった表参道に似つかわしいものだった。当時60代なかばを迎えた設計者はまだ、建築のイメージを牽引するリーダーの座を譲っていなかったのである。

丹下健三「赤坂プリンスホテル」1983年

 「赤坂プリンスホテル」(1983年)もハナエ・モリビルと同様に2010年代前半に解体されたが、これは1970年代後半に丹下健三が、設計の対象を官から民へ、生産から消費へと移行する際に、記号的なデザインではなく、その効果が素材の性格と切り離せない表層に表現の中心を託したこと、こうした手法が社会に受け入れられたことを示す象徴的な建物と言える。

 この40階建ての超高層ホテルの計画は、1972年に開始された(注1)。当初はすべてハーフミラーガラスの外装とする予定だったが、最終的にはハーフミラーガラスとアルミパネルを組み合わせることになった。それにより、当初の骨ばったイメージは消え、精巧で、やわらかに仕立てられた布をまとったような雰囲気が生まれた。

丹下健三「赤坂プリンスホテル」1983年

 内部も優雅であると言って良い。大理石の床面は、吹き抜けになったロビー空間において次第に上昇しながら階段となり、円弧や直方体の形に上下することでピアノや装飾品を据える場を、さらりと生み出している。館内のティーラウンジの床と、ガラス1枚で隔てられた外部の庭とを同じ大理石で仕上げているのは、内外空間を連続させるというモダニズムの典型的な好みだが、室内側をラフに仕立てていないところに、世相に合わせた手法の変化が見て取れる。床面は内部も外部も、まるで日本の家屋のように、靴を脱いで歩きまわれそうである。

 ここでも丹下健三が内外ともに意匠を託した素材は、鏡のようなガラス、ステンレス、そして大理石だった。2・3階吹き抜けの大宴会場は、外形と同様の雁行する壁に取り囲まれており、それらをすべて鏡面とすることで華々しさが演出された。最上階のレストランにもシャンデリアがぶら下がることはなく、組み込み照明の天井面が水平に続く空間の中で、構造を隠蔽した大理石や鏡の垂直面が、ガラス面の外にある都会の光を映し出す。

飲まれるのではなく、消費の世界も飲み込もうとした丹下

 丹下健三・都市・建築研究所は、ホテル内の飲食店やショップなどのデザインもすべて担当した。丹下健三は消費の海に飲まれるのではなく、消費の世界も飲み込もうとしたのである。この商業建築は、建築家が都市からインテリアまでをトータルに設計し、内外に一貫した解答を与えられるといったモダニズムの夢の残り香だった。それが時代錯誤に終わらなかったのは、軽やかな面が生み出すイリュージョンという新たな個性を「表層期」(1977〜81年)に獲得していたからに他ならない。

田中康夫『なんとなく、クリスタル』

 雑誌発表時の作品解説で、丹下健三は「建物全体の雰囲気を表現してみれば『クリスタル』という言葉がふさわしいのではないだろうか」と書いている(注2)。100万部を売り上げた1981年の田中康夫のベストセラー『なんとなく、クリスタル』を想起させる表現を臆面もなく使っていることに、過去の権勢に頼らない建築家の姿勢を見るようで嬉しくなる。

 ハーフミラーガラスも、鋭角による造形も、元を正せばアメリカでケヴィン・ローチが「カレッジ生命保険会社本社」(1971年)や「アーウィン・オフィスビル」(1972年)などで用いて、師であるエーロ・サーリネンとは異なる頭角を現した手法である。丹下健三はそれを取り入れ、シンプルで繊細なものに磨き上げることで、シンボリックなマッス(塊)ではなく、厚みのない面を組み合わせた表現を開発した。

 それはモダニズムと連続的でありながら、力みのなさや優雅さにおいて、丹下健三も一時期踏み込んだいわゆる「ブルータリズム」とはまったく違っている。直接に日本的でないことによって、かえって経済発展に支えられた、日本の文化に対する自信が表現されているのである。この赤坂プリンスホテルまでに案出された手法が、手強い競争者を制した1986年の「東京新都庁舎案」を可能にしたことは明らかだ。ただし、この丹下案は操作的であることにおいて、それ以前とは一線を画しているから、続く時代区分で扱うべきだろう。

丹下健三は「アイロニー」とは無縁

 これまで1970年代から80年代にかけての丹下健三の作品が論じられることは少なかった。強調したいのは、この時代に丹下健三の作風は転換し、それが社会に受け入れられたという事実である。

 『なんとなく、クリスタル』が「なんクリ」と略されたように、「赤坂プリンスホテル」は「赤プリ」と呼ばれ、1986年以降のバブル時代の風景となった。丹下健三は質の高い民間建築によって、再び国民的な建築家となった。成功は1977〜81年の空気感を反映した、表層への転向を通じて果たされたのだ。

 ただし、ここに来て読者は違和感も抱かれるのではないだろうか。前回まで「表層」をテーマに長谷川逸子と伊東豊雄を論じてきたのと、同時代の丹下健三の軌跡を同一視できるのか? それは前者が後者を乗り越えようとした挑戦を、あまりに小さく見積もっているのではないかと。

 確かにそうである。丹下健三は引き続き、統合的な全体をつくろうとしている。精度が高い表層は、例えば工業化社会と情報化社会が矛盾なく統一されていることの現れだ。そのように社会を象徴する美しい形をまとめ上げるのが建築家の役割であり、それが可能だと信じているのである。

 端的に言えば、丹下健三はアイロニーとは無縁なのだ。同じ形容は前川國男や菊竹清訓といった他のモダニズムの建築家にも当てはまる。しかし、1970年代に彼らの作風が表層からますます離れていったのとは異なり、丹下健三だけが時代と同期していた。美しさにおいて同時代的であろうとする心が、現代性を獲得させ、建築家として最後の輝きを放たせたのだろう。ただし、そこには前回、「完全には正当化できないものから有効な側面をひろいあげる意識」といった定義を引用して述べたアイロニーは存在しない。丹下健三は表層期の拡がりを表現するのには有効だが、ポストモダニズムを論じる上では不適当ということになる。

アイロニーは誰から? その候補は槇文彦

 では、表層に関わるアイロニーが見られるのは、誰からか。生年が古い方から見ていった時、まずその候補となるのが槇文彦だ。

 1977年、初めてタイルを外装に使ったヒルサイドテラスが完成した。

槇文彦「ヒルサイドテラスD棟」1977年

 第10回に続く。

注1:丹下健三・都市・建築設計研究所「都心に建つ高層ホテル」(『新建築』1976年5月号、新建築社)194〜198頁
注2:丹下健三「赤坂プリンスホテル新館」(『新建築』1983年9月号、新建築社)149頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)