倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」10:槇文彦が1977年、ヒルサイドテラスにタイルを使ったことの意味

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前回から続く。

 1977年、初めてタイルを外装に使ったヒルサイドテラスが完成した。1969年に完成した最初のA棟・B棟の外壁は打ち放しコンクリートだった。これは1973年に第2期としてC棟が竣工した際に、それと同じ吹付け仕上げに変更された。そして、1977年に竣工した第3期のD棟・E棟に磁器質タイルが使用されたのである。

槇文彦「ヒルサイドテラスD棟」1977年

槇文彦のタイル遍歴を見る

 実は槇文彦はタイルの優れた使い手だった。それが表層期にどのように使われたのかを順に見ていこう。

槇文彦「デンマーク大使館」1979年

 「ヒルサイドテラスD棟・E棟」(1977年)では外壁に150mm角の少し光沢のあるタイルが貼られ、幾何学の組み合わせとしての外観が強調された。隣りに建つ「デンマーク大使館」(1979年)で選択されたのは、細かい溝が付いた淡いサーモンピンクのタイルで、ヒルサイドテラスとの連続性と差異を調整し、デンマークらしさを穏やかに表現している。

槇文彦「岩崎美術館」1978年

 「岩崎美術館」(1978年)で印象的なのは、内部の展示室に使われている白く塗られた煉瓦タイルだ。味わいのある面が、打ち放しコンクリートと鉄骨を組み合わせた硬質な外観を受け継ぎ、変奏しているかのようである。ここでも素材がつくる表面が、現代的な邸宅らしさを生み出すのに大事な要素となっている。

槇文彦「虎ノ門NNビル」1981年

 「虎ノ門NNビル」(1981年)の外壁に使用されたのは、従来になく光沢があるタイルだった。ハーフミラーガラスの窓が壁面と面一に収められ、また建物の角をはっきりさせた形態操作が行われているために、建物は機能を持った立体物というよりも、グラフィカルな面に見える。

イメージは漂い、統一した像を結ばない

 これと対照的な周辺環境が「慶應義塾図書館新館」(1981年)では、同じタイルという素材で解かれている。外壁にサーモンピンクのタイルが使われた。デンマーク大使館で使用されたのと同系列のものだ。隣接する図書館旧館(曾禰中條建築事務所、1912年)の赤煉瓦や、塾監局(曾禰中條建築事務所、1926年)の黄土色のタイルとの関係を考慮したのは明らかである。同時に、淡い色彩が周辺の木立の影を映し出すことも意図されている(注3)。

槇文彦「慶應義塾図書館新館」1981年

 表層はイメージを映し、周辺に呼応することになる。それはタイルだけの効果ではない。他の要素にも目を配ってみたい。図書館の外面にはガラスブロックや、サッシの割り付けを変化させたガラス窓も現れ、多角形に張り出した北東部は、赤煉瓦で築かれた図書館旧館の塔を連想させる。窓の配置などに左右対称性が散りばめられていると同時に、矩形のガラスブロックやガラスの窓は、整然とした初期モダニズムのようにも思える。イメージは漂い、統一した像を結ばないのだ。

槇文彦「慶應義塾図書館新館」1981年

 この図書館が周辺に呼応しているのも、ある種のあいまいさゆえである。建築の外形には、確定しづらさがある。外壁面と、そこから連続しながらも自律的にも見える柱や梁の形、少し奥まったガラス面、その奥に透過している内壁のどれが主で、どれが従であるかが判然としないからだ。基準となるオーダーを感じさせないように、表層は操作されている。奥行きのある表面が、歴史的な建築や木々との調和を生み出している。 

 ここまで、本連載が「表層期」と定義した1977〜81年の槇文彦の作品を見てきた。他に「磯野不動産広尾ビル」(1981年)では、外壁に光沢のあるタイルと打ち放しコンクリートとガラスブロックが組み合わされている。慶應義塾図書館新館と同じように、後年になるにつれて、表層は操作的な性格を強めているのだ。

 表層期に編み出された、風合いのあるタイルを使うことで歴史的な建築に寄せるという手法は、次の「操作期」(1982〜86年)に、様式性が求められた「前沢ガーデンハウス」(1982年)や「慶應義塾大学・大学院棟」(1985年)などを可能にする素地になった。他方、都会的なタイルの光沢は「ガーデンプラザ広尾」(1984年)で引き続き用いられ、「藤沢市秋葉台文化体育館」(1984年)の下部で役割を果たした後、主に「スパイラル」(1985年)以降は、アルミパネルの輝きに引き継がれる。私たちが知っている槇文彦らしさを獲得した時期として、表層期の重要性が分かる。

1977年以降の槇文彦の変化

 1977年以降の槇文彦の変化を分析したい。まず明らかな変化は、表面の仕上げに目が向けられたことだ。それまでの打ち放しコンクリート面の表情に対する気づかいは、この時期、表面をいかに被覆するかというテーマに帰着した。表層の操作は、以前からの特徴である人の動きに寄り添う空間操作、明快で軽快な形態操作と融合し、建築家の個性を際立たせることになる。

 現在「モダニズム」の建築家とみなされている槇文彦の印象と「表層操作」という言葉の組み合わせに違和感を覚えるかもしれない。しかし、それは確かに三位一体の要素の一つである。ただ、1981年以前においては前述したように、後に「TEPIA」(1989年)や「富山市民プラザ」(1989年)で最高潮に達する操作性は、まだ強くない。この時期に存在感を放っているのは、仕上げられた面の拡がりである。

 槇文彦が被覆に用いたタイルは、建築のヴォリュームをあいまいにすることに貢献する。ヒルサイドテラスの第2期(1973年)と第3期(1977年)を見比べて、そのことを確かめたい。

 第2期に建てられたC棟は、実と虚のヴォリュームが合成された印象が強い。全体の形が幾何学的な立方体や円筒形の組み合わせによってつくられ、開口部や天窓部分もガラスによる立体としてそれに加わっているからだ。吹付け仕上げの壁が、彫塑感をより高めている。

 これに対して、第3期のD棟・E棟は立体としての形よりも、個々の面が目立つ。そこには表面の仕上げに設計を合わせるといった工夫がある。タイルの寸法を基準に各部の長さを決め、コーナーにL字型の特殊なタイルを用いている。開口部のデザインも重要だ。こちらの大きさもタイルの目地に合わせ、壁と面一に収めている。面が角で接し合う感じが際立つ。このようにして建築を自律した面の集まりに分解したところで、それまでの槇文彦の作品では目立っていなかった形、すなわち壁面と柱・梁の連続性や、D棟の東側に見られる微妙にカーブした斜めの壁などが導入されている。

被覆に目を向けたことで作風が大きく前進

 従来の作品でも、統合された建築の重々しさを打ち消す方向でヴォリュームが操作されていたのだが、実と虚の対立から、多彩な面の戯れへと手法を移行させたことで、建築はより軽くなった。槇文彦のタイルは、風合いはあっても基本的に光沢を保持しており、いかにも貼ってあるように処理されている。組積造への憧れを振り払っているのだ。表面しかないような軽やかさは、周辺の木立や都市を映し、微地形に寄り添い、さりげなく人を支える空間をつくるのに向いている。

 毅然としながら、日本的にも感じられる槇文彦の作風は、被覆に目を向け、主にタイルを前提に空間や形態を組み立てることによって大きく前進した。そうした表層はイメージを映すことも可能なので、様式的であったり、都会的なイメージが求められた場合にも、自己を失わずに応答できる。1977年は来たる経済発展に支えられた建築の時代にも対応可能な手法を、槇文彦が確立した年である。

 当人にとっても画期だったのだろう。ヒルサイドテラス第3期の雑誌発表時に、第1期からの計画の軌跡を時代の変化と共に捉えた論考「遠くからみた『代官山集合住居計画』—代官山の3つの計画を通して—」が発表された(注4)。

「懐疑を楽しむ」という槇文彦のアイロニー

 最後の章は「第3期の計画の頃(1975〜1978年)」という名だ。「この最後の4年間は、第1期から第2期の頃以上に世の中も激動した。バラ色の未来は灰色に色彩を変じたし、急に世紀末が近づいてきたような予感を皆がもつようになった。」と冒頭から、表現は勇ましくない。それに続くのが「僕のようにどちらかというと、健康を保持しながら懐疑を楽しむ型は、同じような型の人たちが周辺に増えただけ、幾分逆に住み良くなったかもしれない。」という印象的な文章である。

 貴族的なアイロニーで知られる文筆家・吉田健一の『ヨオロッパの世紀末』(1970年)を次に引き合いに出し、「建築界もいうなれば、この5年間、われわれが何であるかを問い出しているともいえる」と述べる。その例として挙げるのが、ピーター・アイゼンマンらが主催するIAUSの展覧会—この連載の第4回で伊東豊雄が「PMTビル」を出展したことに触れた—や季刊誌『Opposition』における議論といった作品制作以外の盛んな活動であり、1977年に歴史主義的なポストモダニズムを牽引することになるロバート・スターンとニューヨークで食事をした際、彼が「“仕事は少ないが、しかし、建築に文化が帰ってきたことが喜ばしい”といっていたのが大へん印象的だった」というエピソードである。

 ここからヒルサイドテラス第3期の説明に移り、「第3期の計画を通じてシステム的な展開とか、あるいは“統一”とか、いわゆる概念的な言葉で行為を代弁することをできるだけ避けたかった」と、その主題が語られている。明言してはいないが、師の丹下健三や共にメタボリズムグループだった黒川紀章などに対する違和感と読み取れるだろう。

槇文彦「ヒルサイドテラスC棟」1973年

 この論考で、槇文彦は国際派の建築家らしく、1978年の世界を俯瞰し、ポストモダン的状況を捉えている。いくつもの大きな建築を「名古屋大学豊田講堂」(1960年)以降に完成させた建築家が、当時は「住み良く」なかったと語るのだから、このポストモダニズムの基盤となる状況への親近感は明白だ。

 ここに記されている「懐疑を楽しむ」という姿勢はアイロニーである。「完全には正当化できないものから有効な側面をひろいあげる」槇文彦の性分は、1977年以降の時代状況で開花した。もう出しても良さそうだ、と当人が思ったのだろう。ヒルサイドテラス第3期がそうして生まれた最初の作品であることを論考は告白している。

槇文彦は1977年から着実な歩みを始めた

 1977年以降の作品における表層の意図されたあいまいさは、その引用元が「完全には正当化できない」ことと、そこから「有効な側面をひろいあげる」こととの両立としてある。この手法が、歴史的な建築の隣で設計することも、都会的な建築を引き受けることも可能にした。そして事実、できあがったものは周辺環境を調停し、都市をより良くしているのである。

 アイロニーという面から言えば「岩崎美術館」(1978年)が、この時期の著しい達成ではないだろうか。私立美術館として求められる贅沢さが、架空のヴィラのイメージに重ねられ、美しい打ち放しコンクリートの外装と、内部の白く塗られた煉瓦タイルなどの表層が、過去に戻ることも未来に行き着くこともない幸せを歌っている。

槇文彦「岩崎美術館」1978年

 吉田茂の子に生まれた吉田健一のように、アイロニーは高貴なもので、一代では成し遂げにくい文化的な贅沢の産物なのかもしれない。

 だが、アイロニカルなモダニスト、すなわちモダニズムが総体としては正当化できないと分かりながらも部分的に有効な側面を組み合わせる建築家としての槇文彦は、その生まれ育ちのみで誕生したわけではないだろう。ポストモダン的状況を母体に、1977年から着実な歩みを始めた。丹下健三とはまったく異なる型の人間であることが明らかにされたのだ。槇文彦という建築家は、ポストモダニズムの文脈を抜きには捉えられない。

注3:槇文彦「最近の設計から(III)慶應義塾図書館・新館をめぐって」(『新建築』1982年6月号、新建築社)174頁
注4:槇文彦「遠くからみた『代官山集合住居計画』—代官山の3つの計画を通して—」(『新建築』1978年4月号、新建築社)149〜154頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)