谷口吉生は、境界面を問い続けてきた建築家である。「金沢市立図書館」(現・金沢市立玉川図書館、1978年)について、1979年に谷口吉生は「内と外とが、たえず一方が他方の仮像となって感知されるような曖昧性のある空間である」と語っている(注5)。これこそまさしく「表面」が可能にするものである。
美術評論家の宮川淳が1972年に著し、1975年に単行本化された「表面について」は、当時から伊東豊雄や多木浩二が参照した通りに秀逸な文章で、この連載ですでに何度も引用してきた。そこでの指摘の一つとして、表面は「その背後もまた表面」だということがある。
谷口吉生は先ほど、内側にいる人にとってはこちら側が実在で、あちら側を仮の像だと思え、反対に外側に立てばこちら側が主役で、目に入る眺めがこちらを楽しませてくれるように感じられる空間について語っていた。これは、どちらが表面であるかを決定できないという、表面というものの性質に根ざしている。谷口吉生は「曖昧性」と表現していたが、より正確には「両義性」と呼べる。
「雪ヶ谷の住宅」はまさに「その背後もまた表面」
谷口吉生が表面の両義性を用いたのは、金沢市立図書館が最初ではない。ただし、そう古くからのことでもない。宮川淳の文章が広く知られるようになった1975年に完成した「雪ヶ谷の住宅」は、谷口吉生が丹下健三の事務所から独立して最初に設計した建築である。これがまさに「その背後もまた表面」である住宅だった。
壁で囲われた大きな中庭が特徴だ。それはただ囲われているのではない。床も壁も150mm角の白い磁器質タイルで覆われている。大邸宅のホールでもあるかのように緩やかな階段が設けられ、飾りでも置けそうな窪みも目に入る。そんなしつらえだから、中庭からはこちら側が主役で、向こう側の景色を眺めているかのような気分になる。
室内に立つと、どうだろうか。中庭を囲っていた壁の反対側にも、タイルは正確に割り付けられている。先ほどは入隅だったところが、出隅に変わる。その一部がカットされた開口部も含めて、実感されるのは、厚みのない表面である。表面のラインが、向こう側とこちら側とで空間の見え方を変えている。
そこに実在する人間にとって、どちらが内でどちらが外であるかを決定できないという性質が、この住宅を覆っている。中庭をとりまく壁には、南西の隅に正方形の空きが設けられ、隣家の一部が、窓からのぞく景色のように切り取られている。この内側が表面で、ファサードは裏面なのだ。つくられた幾何学の空間が実像で、現実が仮の像だとすら言いたげである。直角に突きつけにされたガラス面も、内と外のいずれの空間を確定しているのかは不明瞭だ。
この中庭を持つ空間について、設計者は「あたかも屋内と屋外がたえず反転を繰り返えす動的な関係を意図している。」と雑誌発表時に説明している(注6)。これが安住しない、トリッキーな仕掛けであるのは重々承知なのだ。その後に「居間は家の中の庭に、庭は屋根のない居間に変貌し、常に一方は他方の仮象となり、地と像との入れ替わりを繰り返し、無限大へと広がる空間をこの計画の中に求めた。」とある。「無限大へと広がる」のは、向き合う鏡のようなものだからだろう。後述するミラーのイメージは、すでに設計者の脳裏に宿っている。
全体には金沢市立図書館を解説した文章によく似ており、これが最も述べたい内容であることは、「像と地」が解説文のタイトルだということからも分かる。建築家・谷口吉生の出発点には、表面(おもてめん)がどちらかを分からなくする表面(ひょうめん)の発見があった。そう言える。
福井相互銀行成和支店では「銀行らしさはすべて内におし込めた」
「福井相互銀行成和支店」(現・福邦銀行成和支店、1976年)は、大きなボックス型がグレーの磁器質タイルで覆われた外観だ。「この銀行では、ファサードには室内への動線の起点としての意味を持たせただけで、銀行らしさはすべて内におし込めた。」と解説されている(注7)。つまり、この外面は裏面のようなものだ。室内に入って一転した感をもたらす境界面に過ぎない。
表面的には当時、宮脇檀が「秋田相互銀行盛岡支店」(1970年)を皮切りとする同銀行支店の設計でボックス型を用いていたり、先に触れたように黒川紀章がグレーの外装を使ったことに似ているが、まるで違って、周辺環境に期待を抱いていないのである。
ここでも谷口吉生は内部に、表面と裏面のどちらであるかを決定しづらい空間をつくることに注力している。箱型の外壁に斜めに貫入したステンレスの表面をくぐれば、そこは中庭で、さらにガラスで囲われたエントランスを抜けたところに、営業カウンターのあるロビーが位置する。振り返ると、中庭の向こうに、外の通りが景色のように切り取られている。ただし、ステンレスやガラスなど、二つの世界をくぐり抜ける境界面の処理により意識が向けるようになったのが、雪ヶ谷の住宅との違いである。
このような流れを受けて、1977年以降、表層が大きな役割を果たすことになった。金沢市立図書館を訪れると、赤煉瓦とハーフミラーガラスの対比が印象的だ。赤煉瓦は1913年に大蔵省が建設したたばこ工場の外壁である。旧工場の一部を保存して近世史料館に改修し、図書館を新築して接続している。こうした方針は、建築家の谷口吉郎がプロジェクトの総合監修を務めて決定されたもので、本作は父子の最初で最後の共同作業となった。
谷口吉生は建物に囲われた中庭を設けて、赤煉瓦を敷き詰め、それに面した新築棟の壁も赤煉瓦で仕上げた。一つの素材で囲むことで、外部を内部のように感じさせる。雪ヶ谷の住宅の手法が展開されているのが分かる。
ハーフミラーガラスがもたらす、虚像と実像が交錯した景色
赤煉瓦という素材は、保存された旧工場と新築棟とをつなぐために採用された。そこにハーフミラーガラスとコールテン鋼が加わることで、どちらがどちらか判然としない効果が生まれている。詳しく見ていこう。
3つの素材がどれも表層として扱われていることは、中庭から見える赤煉瓦の壁の裏面にコールテン鋼を貼り付けていたり、コールテン鋼の外壁がコーナー部でガラス面に切り替わっていたりといった形態操作からも明らかだ。建築の立体物としての存在感を、表面の効果によって消そうとしている。
中庭を囲うために新築された煉瓦壁がハーフミラーガラスに鏡像として映り、その下に透過した室内の書棚と人びとがぴったり収まっているのを眼にした時、このように虚像と実像が交錯した景色は、ハーフミラーガラスという現代の素材なしには実現していないことに気づく。同時に、赤煉瓦という重みをまとった素材なくしてはありえないことも。ただし、ハーフミラーガラスと赤煉瓦とが新旧の対立や共生といった薄っぺらい話に集約してしまわないよう、その上部でコールテン鋼が反射せずに景色を止めて、あくまでも表層の現象であることを念押ししている。
谷口吉生の表層に対する鋭い感覚は、もう一つの素材として、コールテン鋼を選んでいることにも現れている。目にできることで言えば、コールテン鋼は均質な工業製品でもあり、自然なむらが発生する素材でもあって、ハーフミラーガラスと煉瓦を架け渡している。
直接に見えない事柄としては、これが父と同世代のモダニズムの建築家が好み、全面的に採用した素材だったことがある。エーロ・サーリネンの「ディア・アンド・カンパニー」(1963年)、ハリソン&アブラモヴィッツの「USスチール・タワー」(1970年)のように。ここではそれが相対化され、有効な側面だけが拾い上げられている。コールテン鋼の使用は、先に触れた伊東豊雄や磯崎新と同じように、単純なモダニズムの伝承などではない。むしろこの表層期にモダニズムを相対化できた時流の現れである。谷口吉生も、本連載で言うところのアイロニーと無関係ではないようだ。
新築棟では歴史的な形を一切使わず
保存建物に対する手つきも同じである。新築棟で赤煉瓦を用い、それを表層的に扱っているのは、保存建物を相対化するためだ。谷口吉生は新築棟で、歴史的な形を一切使っていない。その代わりに、素材感を大事にしながら赤煉瓦を適用した。それによって、保存建物の赤煉瓦の表面を持つという属性のみが強調され、立ち位置によって異なる像が成り立っている。
新築棟の側から保存建物を眺めた時、どこからが、どれくらい新しいのかは判然としないだろう。新旧の煉瓦壁を連続させ、同じような仕上げにしているためだ。虚像と実像が入り交じるハーフミラーガラスの効果が、保存建物も幻想に思わせる・・これは言い過ぎだが、少なくとも赤煉瓦を軽快には見せている。それに、境界面の効果は、その内側に身を置くとまた変貌する。
赤煉瓦とハーフミラーガラスとコールテン鋼は、それぞれに素材と切り離せない独特の質を有し、イメージを喚起する表層である。それがどちらか表面であるのかを決定できないという空間構成の効果を高めている。
自らが新築する棟も保存される建物も、どちらも裏面にしたくない。そんな設計者の思いが、内側から周辺環境を規定する手法をさらに前進させ、大正時代の建物も現代的に感じさせる場を成立させたに違いない。「その背後もまた表面」なのである。
孤高のモダニズム作品ではない「資生堂アートハウス」
谷口吉生を「イリュージョンの建築家」と称しては、語弊があるだろうか。しかし、1980年に日本建築学会賞(作品)を受賞した「資生堂アートハウス」(1978年)も、境界面における幻影と無縁ではない。
外装に使われた光沢のある銀色の磁器質タイルは、長谷川逸子が1978年の焼津の家2に対して行った「この立面がすべるような面になるように全体をシルバーペイントで仕上げた。」という形容が成就したような感覚で、周囲の風景を鈍く映し出している(注8)。この円形が内部の美術展示室の外形を規定し、裏側に続いて、資料展示室の中庭の形となっている。滑らかなシルバーの面は、内と外とが反転するというデビュー作以来の空間に寄与している。
ただし、写真で見る静謐な印象が、現地で揺らぐのも事実だ。設計者も同じだったようで、雑誌発表時に「はじめて敷地を訪ずれた時、この建物の建設予定地からわずか60mぐらい先を走りぬける新幹線のスピードに、まず驚かされた。」と打ち明けている(注9)。そして「新幹線側から見る建物の外観の表現が気になり、何度も上下線を往復したことが、今思い出される。」と続ける。この建築は、従来になかったことに、向こうから見られる形を考慮したものなのだ。その意識はどう表現されたのだろうか。
確かに「そのような状況の中で、私はこの資生堂アートハウスの外観の表現について考えた。」と谷口吉生は明言している。状況とは、新幹線ともう一つ、ポストモダニズムである。轟音で行き交う近代の産物と「最近は建物の外観の表現とか意匠について、ポスト・モダニズム論議」がかしましいこと、資生堂アートハウスは、迫りくる両者を受け止めて設計された。決して孤高のモダニズム作品などではないのである。
恒常的な空間や形態ではなく、表面による一瞬の印象
こちらに立てばこちらというタイプの設計者であるから、文章もシンプルにはいかない。タイルやハーフミラーガラスを同一平面上をおさめていることなどを挙げて、「表現上の問題に限っていえば、この建築はまさに反ポスト的建築であろう。」と書いた後に「私の場合はやはり建築の外側は、あくまでも枠組でしかない。建築の内部機能の表現を意図したり、別に研ぎすまされたような機能的な印象を外観に追求したわけでもない。」と、やや謎めいた文章が続く(注10)。「枠組」の解釈は複数可能だろうが、2文目からは「建築の外側」が内部にも外部にも属するものでないという思考が明確だ。
解説は、次の文章で終わっている。「エレベーションは抽象へ、コンセプチュアルへと志向していった。それは内からはメタリックな曲面、モビールの彫刻、疾走する白い車体とすべて流体の印象であり、新幹線の窓からは、ただ銀色の一閃である。」
最後に印象づけられているのは、内と外の2つの世界である。どちら側から眺めるかによって、建築家が設計した「建築の外側」であり「エレベーション」は、まったく違ったものになる。内側の白色の表面に、新幹線の車体という連想も繰り込まれているのが分かる。外側も記号的な意味を持たないがゆえに、銀色の表面が残す印象だけが期待されている。どちらも語られているのは、恒常的な空間や形態ではない。表面による一瞬の印象だ。1978年における谷口吉生は、表層に浮かぶイメージを拒否しておらず、磁器質タイルの活用に見られるように、その素材の重要性に意識的だった。これは従来までに述べてきた表層期の特徴に他ならない。
その上で、表層に対する谷口吉生の独特の貢献は、内と外、図と地が入れ替わる感覚を建築がもたらすことができるというデビュー作からの確信を延長して、裏側がなく「その背後もまた表面」であるという表面の原理を作品化したことにある。人は境界面を通過することで、先ほどは見えなかったものを表面として受け取り、以前に立っていた空間は景色に変貌する。それは奥行きがなく、仮の像のように受け止められるかもしれない。
これを言い換えれば、設計は、どちら側が主体であるのか決定不能な両義性を実現できるのだ。これは朗報だろう。裏側がなくなれば、敷地のすべてを表面(おもてめん)として活かせる。さらに言えば、敷地という制約からも抜け出せるかもしれない。両義的な表面の効果は、内側から無限遠までを景色のように見せ、外側をそれとは別に眺められるオブジェと化すことも可能なのだから。
新幹線が建築を見ているのか、建築が新幹線を見ているのか
表層期には、これに境界面の操作が加わった。金沢市立図書館に関してすでに述べたが、同じ1978年に完成した資生堂アートハウスでも、ハーフミラーガラスには大きな役割が与えられている。
内側における窓は、外部に立つ人にとっては、継ぎ目のない一連の鏡のようだ。鏡の下部を拡げた造形が、一層こちら側から眺められるものとしてつくられたと感じさせる。外部から捉えた時、それはほぼ完全に、新幹線を映す鏡台である。
エントランスから内部に入ろうとした人は、そこで疾走する新幹線を目にするだろう。像は曲面の上にしかいられないことに従って、数学的に歪んだ姿と不均質なスピードに変換され、どこかユーモラスでもある。それは内部には存在しない。外部そのものでもない。厚みのない境界面にしか存在しない現象である。
この時、新幹線が建築を見ているのだろうか。それとも、建築が新幹線を見ているのだろうか。両者が表面で出会って生まれたイリュージョンは、新幹線の存在を拒否はしていない。とはいえ「完全には正当化」しているとは思えない。両義性とアイロニーは、谷口吉生が出発点から備えていた要素だった。出自が敏感にキャッチさせた海外のポストモダニズムの状況は、そうした性分に自信を持たせたかもしれない。そして、表層はこの時期、作品の総体に、本当か嘘かを超えた存在感を備えさせる起点となった。
こうして、表層からの建築史の再考は、谷口吉生が古典的なモダニストと一線を画していることも明らかにする。前々回の槇文彦に関する論考が思い出されるかもしれない。
注5:谷口吉生「設計ノート」(『新建築』1979年7月号、新建築社)154頁
注6:谷口吉生「像と地」(『新建築』1976年6月号、新建築社)174頁
注7:前掲、175頁
注8:資生堂アートハウスのタイルについては、槇文彦「最近の設計から(II)—表層のマチエールについて」(『新建築』1981年11月号、新建築社)199頁において、槇文彦が「金属的なイメージを与える〈中略〉はっきりと新しい感覚を持ったタイル」と評して「資生堂アートハウスに用いられたものの金属性をもう少し高めたのが」、前回の連載で取り上げた「虎ノ門NNビル」(1981年)と「磯野不動産広尾ビル」(1981年)に使用したタイルであると説明している。多くの建築家の目が表層に向いていた当時らしい文章と言える。
注9:谷口吉生「設計について」(『新建築』1979年9月号、新建築社)158頁
注10:「でもない」と否定されている対象がモダニズムの建築を思わせることからも、モダニズムvs反モダニズム、ポストモダニズムvs反ポストモダニズムといった二項対立に与さない姿勢が分かる。つまりは、両義性である。しかし、本来「ポスト〜」とはそのような態度ではなかったか。そして、ハーバード大学で学び、1978年にもハーバード大学で教鞭をとっていた谷口吉生が、そうした本質的な理解に達していなかったと考える理由があるだろうか。
倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。
※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。