倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」13:原広司、「有孔体理論」と「様相論」をつないだ「境界論」

Pocket

 前回に論じた谷口吉生ともう一人、表層という時代のテーマを境界面から問題にした重要人物に原広司がいる。

原広司「ヤマトインターナショナル」(1986年)(写真:倉方俊輔)

 1981年に発表された文章を読もう。まさに「境界論」と題された論考は、次のように始まる(注1)。

 「はじめに、閉じた空間があった—と私は発想する。この閉じた空間に孔をうがつこと。それが即ち生であり、即ち建築することである」。境界という主題は、1967年に『建築に何が可能か』で原広司が唱えた「有孔体理論」から派生しているのが分かる。

 そして、閉じた空間に穴が開いたことで何が起きたのかが物語られる。「光や風がゆき来して、人が訪れ、子どもたちが出てゆき、五月の香りが流れこんで」いった。「人々は、境界を飾り、細工をほどこし、巧妙な仕掛けにまで育てあげた」。種々の扉を考案して「境界を意味づけ、息づかせたのだった」。事態を指し示す言葉が、数値化できない美しさを備えているために「孔」から「境界」に論点が移されていることすら自然に感じられる。

伊東豊雄と原広司の境界面をめぐる共通項

 「境界は、私の体をつつむ皮膚が私に個別性を与えるように、空間を分節する。この個別化のはたらきは、境界の第一義的な効果である。」と境界を空間的に説明し、「しかし、このアナロジーがただちに示すように、境界は表情でもある。」と続ける。このように原広司も当時、空間を制御する孔に始まり、面としての境界を発見したのだった。

 ここで伊東豊雄の論考が思い出されないだろうか。1977年に発表され、1989年の『風の変様体』への再録時に書き換えられた文章について、連載の第3回で論じた。そこでは現代の都市を「記号によって衣服のようにすっぽりと覆われてしまい記号が浮遊する表面のみの世界」と描写し、「人びとは平坦な壁の向こうに裏側の世界がひろがっていることを期待しそこに思いをはせる。ここにレトリックの生ずる背景がある。」と指摘していた。

 対する原広司は、インドのジャイプールにある「道をはさんで相対する長くつらなる家並みのファサード(正面)を〈中略〉桃色に染め上げた『風の街』」に言及する。その「巨大なピンクの有機的な二枚の面」は「肉感的快楽の都市形態のうえへの拡張ともなっている」と形容される。

 伊東豊雄と同様、原広司も1981年には、直接的に孔が開いているわけではない境界面に関心を寄せ、それを都市的でありながら身体と直接に結びついた言葉で表現し、その「背後」に想像を通じて到達する存在として捉えていたことが、こうして明らかになった。

「反転」という言葉が谷口吉生ともシンクロ

 谷口吉生との共通点も見逃せない。前回の連載で述べた通り、谷口吉生は「雪ヶ谷の住宅」(1975年)から「その背後もまた表面」である作風をスタートさせた。本人が「あたかも屋内と屋外とがたえず反転を繰り返えす」と述べた手法は「資生堂アートハウス」(1978年)などを通して深められた。

 「反転」という語は、この原広司の論考でも境界面の性格と強く結びついている。3次元空間における反転幾何学によって「球面の外の点は、すっかり球面の内部の点と入れ替わってしまう」ことを解説し、「この模型では、世界がひっくりかえる時、反転という位置の交換の媒介者である球面上の点は、動かない」ことに注意を促す。そして「大げさに言えば(それは事実なのだが)、宇宙全体をテニスボールの中にしまいこむことができる。」というのである。

 数式を伴いながら、一瞬で世界が変貌する様を想起させる語り口が原広司らしい。そして、赤瀬川原平が1963年に制作した「宇宙の缶詰」も想起されるだろう。カニ缶のラベルを内部に貼り直し密封して、「その瞬間! この宇宙は蟹罐になってしまう。この私たちのいる宇宙が全部その蟹罐の内側になるのです」(注2)とした作品だ。

 「このとき、境界としての球面は、世界を交換する媒介者となっているのである。」と原広司はまとめる。「反転」に言い及ぶことで、表面が持つ3つの特徴が強調されているのが分かる。表面が数学的な定義からして厚みを持たないこと、どちらが表面(おもてめん)であるかを無効にすること、意外なことに強靭で「動かない」ものであることである。

 これは美術評論家の宮川淳による「表面は厚みを持たず、どんな背後にも送りとどけず(なぜならその背後もまた表面だから)」という指摘に相当する。この文章に関わらせて、連載の前回で谷口吉生について論じた。その作品に見られた両義性とアイロニーを、「反転」を語る原広司も十分に備えているだろう。

建築にあらわれる初源的な境界は「エンクロージャー」

 原広司にも表層期があったことが分かったところで、改めて「境界論」の全体を捉え、その後、実作との関係を論じていきたい。

 ここまでに扱ってきた冒頭部ののち、「周壁」「床」「屋根」を「それぞれに異なった空間性を備えた境界」であるとし、「エンクロージャー」「フロア」「ルーフ」と呼び替えて、順に考察を加える。このうち明瞭に面として認識できるのは、ほぼエンクロージャーのみだが、それだけを扱っているわけではないのである。

 ただし、最も具体的に可能性が展開されているのが「塀も城壁も、国境も」と列記するエンクロージャーであるのは事実だ。中でも最終部で現れる「フィクショナル・ファサード」の概念は、それまでの原広司の姿勢とは一線を画している。

 事実、この取り囲むものは「都市や建築にあらわれる初源的な境界あるいは、その空間性は、〈エンクロージャー〉である。」として、境界の代表格に位置づけられている。「この境界の主なはたらきは、三つある」。それが「(1)(フロアの)領域、範囲の指定、(2)指定された領域への入出力の制御、(3)意図のあるなしにかかわらず、意味の表出=象徴」とされる。先ほどの「孔」が(2)、「表情のような境界面」が(3)に該当する。

「ルーフ」はのちに山本理顕らによって現実化

 興味深いのは、原広司がエンクロージャーを日本の伝統にそぐわないものとしながら、本論で執拗にこだわっている点だ。ルーフを論じた部分で「エンクロージャーのある壁の空間の西欧やイスラム圏」に対して「エンクロージャーなき柱の空間の南アジアや日本」といった図式を提出している。確かに、執筆者のいうエンクロージャーは、特に先の(2)と(3)に関して、日本の伝統と結びつけることが困難に違いない。

 したがって、本論はエンクロージャー、フロア、ルーフの3種類を並立させ、適材適所の使い方を述べているようでもある。例えば、以下の部分を抜き出し、そのように読むことは誤りでないだろう。

 「私たちは基本として、領域を明快に定義あるいは、規定しようとする場合はエンクロージャーを、領域を不明確に規定し領域間の相互浸透をはかる場合はフロアを、これら二者の同時存在をはかる場合にはルーフを、それぞれ表現手法として諸部分の在り方を決定し、さらにこれら手法を、諸部分の関連性に対して適用して全体の在り方を仮構する。」

 実際、本論で語られたルーフのありようが山本理顕の「GAZEBO」(1986年)などで現実化されたように、内容は今でも示唆に富んでいる。

巨大なエンクロージャーに対抗する「縮小の美学」

 しかしながら、本論にはエンクロージャーを境界の代表とし、そこに現状からの反転の契機を見る思い—建築家にしばしば見られる、根拠がなく、最終的に合っているのかもしれないヴィジョン—が時折、噴出する。

 例えば、エンクロージャーを論じた部分で、鴨長明が「最初の屋敷の百分の一の方丈をもって満足した」ことをもって「縮小するエンクロージャー」と呼び、その一例が入れ子状の「多重エンクロージャー」だとするのは、エンクロージャーも日本の伝統に根差させたいという強い思いが伝わる箇所だが、これを単に牽強付会とも片付けられないのは、続いて「この〈縮小の美学〉こそ、後に述べる反転の美学とともに、巨大化した組織の手による巨大なエンクロージャーに対抗し、個人の存在理由を主張する芸術活動が依拠すべき美学である。」という熱い言葉が登場するためだ。

 ここに書かれている「反転の美学」こそが、冒頭にやや唐突に置かれた数学的な「反転」を伏線として回収し、最終部で展開されて、「フィクショナル・ファサード」の概念につながるものである。そちらに急ごう。

虚構性をもった境界面、フィクショナル・ファサード

 境界ではなく「境界面」という単語が登場し、「表層」という言葉が積極的に使われ、それまでに散りばめられていた「フィクション」の意味が明確にされるのは、「境界論」の最終部においてである。そこでは「境界面の表層は、その建築の組みたてから自立した表現力を持っている」とされ、「こうした表層の自立性は、少し前の建築観では、およそタブーとされていた」と書かれている。世界的なポストモダニズムの潮流が、この論の執筆動機の一つであることが窺える。

 この時期に自覚された「表層」は、以前から原広司が関心と共感を抱いていた西欧以外のイスラム圏や南アジア、アフリカなどの建築・都市のあり方に新たな評価の尺度を与え、過去の自作から一層の意味を汲み取らせ、次の設計を後押しした。

 少し前までは「その附加された立面故に、まさに表面的な建築」として高く評価されなかった東欧の広場を、「表層の自立性を家並みの形成にあてている」ことにおいて評価しながらも、原広司は「その表層の秩序の美学は、もはや私たちが目標とする美学ではない」と述べる。その代わりに「混成系の美学」を提唱し、「今日の多様な要素からなる都市の混乱した景観を立てなおすための美学」として、アフリカやインドの集落にも学んだ手法を3つほど提出する。そして、次のように記すのだ。

 「これらの方法は、合わせ適用されるだろう。いずれにせよ、混成系の美学がつくる境界面は、虚構性をもった境界面、フィクショナル・ファサードにならざるをえないだろう。」と。

 「フィクショナル・ファサード」とは、内と外とが入れ替わり、虚像と実像とが錯綜する境界面のことである。なんと前回に分析した谷口吉生と似ていることか。

いかがわしさも含めた都市性を導入する意志

 原広司は、次のように説明する。

 「夜の道を歩いている。家々には、灯がともって、私は外を歩いていると思っている。すすむにつれ、しだいに、道に明るみがでて、人影も見えだし、色彩が浮かびあがる。やがて、店が両側にならび、くだものや、ファッションのショーウィンドウ、音楽、さんざめき。そのあたりを歩くとき私は、内を歩いていると思うのだ。」

 いかがわしさも含めた都市性を建築に導入しようという意志は、むしろ連載の第3・4・7・8回で扱った伊東豊雄に近い。この直後に「反転」の語が再登場する。

 「このにぎわいと明るさのグラデーションは、空間の内と外との〈反転〉をよぶ。この現象は、境界面が誘起する空間効果のもっとも面白い現象のひとつである。私は、こうした反転性を住居のなかにもちこもうとした。」

 こうして「反射性住居」と呼び、それまで「3次元の孔を住居空間全体に表出しようとした」と説明していた「粟津邸」(1972年)や「自邸」(1974年)をファサード、すなわちエンクロージャーする立面の立場から解釈する行為が始まる。

原広司「粟津邸」(1972年)

 具体的には「住居に入れば、ふつう家の中に入ったと感じる。それを外に出たと感じさせるように演出する」ことで「都市的な空間が住居の内部に生じてきて、結果として、さまざまな境界面の効果として内と外との反転が起る」。「住居にこうしてもちこまれる虚構性は、住居をさしあたり、『本気にできない』住居にする〈中略〉そのフィクショナルに思われる行為が、実はリアルなのだ」といった語りである。

付加的であることを隠そうとしない商店街の壁面

 原広司が従来は看過していたファサードに言及し始めたことは、単なるレトリックではなさそうだ。論考の執筆と並行して、文章の内容を具現化したような計画がなされた。

 「町田市中央通りモール化計画」の全容は、『建築文化』1982年9月号の特集「原広司Encyclopedia over Hiroshi Hara」によって確認できる。計画は町田市からの委託で始まった。「長さ1kmにわたる商店街路を、建物を建て替えることなく活性化させることがテーマ」だった。

 すでにある建物の前面に、それぞれに異なる壁が追加されている。既存の高さが違うため、立ち上がりもまちまちだ。頂部は家型であったり、様式的な妻壁のようであったりするが、どれも簡略化された幾何学的なシルエットになっている。広くない通りの両側に、長く連続したファサードが向き合う。「境界論」の行間から浮かび上がるインドのジャイプールの風景みたいだ。それが「数階の高い家、低い家にかかわらず桃色に染め上げた」ように、ここでは銀色の輝きを放っている。

 付加的であることを隠そうとしていない壁面のありようも、「境界論」を参照することで、東欧の広場から何を学んだのかを明確にする。表層が内側を反映していないことが、街並みの形成に重要なのだ。通りの側から見られることが主役であるといった感覚。

 ただし、それは「古典的な美学」とされていたのと同様に、全体を貫く共通性や基準線を計画に見出すことはできない。部分のコラージュという「混成系の美学」の一つとして記述されていた手法が、ここに適用されている。

徹底して「フィクショナル」であること

 既存の事物の解釈に終わらない、抽象化による一種の飛躍が原広司の論の魅力だった。この計画の不思議さは、ファサードの2階から上、頂部より下に長方形の窪みが設けられ、その中にそれぞれに異なる建物のシルエットが描かれることで極まっている。ピラミッドや摩天楼、既存の他人の作品を彷彿とさせる形もある。長方形の額縁は窓で、商店街を歩く人びとは、内側から外の街を眺めているのだろう。厚みのない境界面が、内と外の反転を起こしている。

 サブタイトルには「フィクショナル・ファサード」とある。論考との密接な関連を、作者が十分に意識していたのは明白だ。計画は「フィクショナル・ファサードの特異性と、建物からの自立性が、差異と同一からなる長さ1kmの装飾をつくり、それが対象地域に場所性を生み出す」と解説されている。「ポップアートのストリート」とも称されている。

 徹底して「フィクショナル」であることが、この計画の最大の特徴に違いない。追加された壁面に、内部空間からの必然性は何もない。頂部の形態はすでにある形態を加工した二次物であり、窓のような仕掛けがつくりものであるのは一目瞭然だ。その向こうの光景がファサード全体と同じスタイルでしか表現されていないことで「本気にできない」感は一層高まる。

 そもそも、計画の方向性自体が、対象地域とは意味的にも空間的にも無縁である。それが「場所性を生み出す」とは、一体どういうことだろうか。「ポップアート」と言っていたので、批評性が鍵かもしれない。いずれにしても、それまでの原広司では考えられなかった表現が成立している。

「末田美術館」にもフィクショナル・ファサードの思考

 再び、論考の最終部に戻ろう。「境界面におけるもっとも直接的な交換は〈反転〉である。内と外との交換である。そのなかで、もっとも魅力ある反転とは、現実と構想する世界、フィクショナルな世界とのあいだの反転であろう。」という文章が、先の引用部の後段にみられる。「町田市中央通りモール化計画」のデザインを説明しているように思える。

 しかし、実際はその直後に「すでにフロアの項でみてきた通り、もし地形的曲面を反転するなら、負の中心すなわち谷は正の中心すなわち稜と置換される。」という文章が現れる。「粟津邸」から、「地理学的コンコース」と称した「京都駅ビル」(1997)までの四半世紀をつなぐような内容である。

 こうして見ていくと、原広司が表層期に獲得した要素が2つあることが分かる。一つは、ファサードという言葉を通じて、内にも外にも属さない独自の領域として表層を捉え、その効果に勇気づけられて、観念と現実とを交換可能にする設計論を推し進めたこと、もう一つは、実際に表層を設計するようになったことである。

 「町田市中央通りモール化計画」は実現しなかったが、1981年に同様の賑やかなファサード計画で開始された「渋川駅前通り商店街近代化事業実施計画」はその一部が実現した。

 「末田美術館」(1981年)にも、フィクショナル・ファサードの思考が反響している。「湯布院のこの辺りの一角には民家が集められており、風景が定まっているところから、外観はそれに合わせた。」と解説されている通り、木造下見板張りの建物は、遠目には特に変わっているようには見えない。彫刻家夫妻の自宅を兼ねた美術館である。

原広司「末田美術館」(1981年)、下も

「粟津邸」でも外壁目地にグラフィカルな操作

 しかし、近づいていくと、家形や緩いカーブ、格子状の形状などが見えてくる。それらは開口部を中心に分布している。幾何学的だがチャーミングで、それぞれを独立した建物のようにも思わせる。内と外との境界を、どちらがどちらを見ているか分からないものに変えようとしている。

 こうした外観の操作は、それまでの原広司の建築にはあまり見られない。けれど、先の「境界論」でも暗示されていた反射性住居の始まりである「粟津邸」で、意外なことに気づく。密やかではあるが、外壁が表現されているのである。開口部まわりに、コンクリート目地のグラフィカルな操作が加えられている。それは窓の配置をまとめ、部分を自立させて、それらの関連性からなる全体を意識させるものとなっている。建築家の制作は、特に若き日においては一枚岩ではないものであり、この36歳の実作にも境界面への意識は内包されていた。表層という時代のテーマが、それを自覚させたに違いない。

原広司「粟津邸」(1972年)

 「町田市中央通りモール化計画」の長さ1kmにわたるファサードは、「ヤマトインターナショナル」(1986年)や「京都駅ビル」などの外観を連想させる。先に触れた地形による反転の美学、人工と自然との架橋といった構想力が、こうした後年の大規模作品を可能にした。今回、精読されることの少ない「境界論」に着目したことで、両者がともに、表層という主題に反射して生まれたことが明らかになった。

境界面それ自体を問題にしたことが「様相論」誕生の契機に

 なぜ、既往の論はそうではなかったのか。端的に言えば「境界論」を単行本に再録する際の解説で、著者自身が「境界があいまいであること自体が、ひとつのきわだった様相であると思えてきたのである。」と綴っているためだろう。しかし、実際には、境界面それ自体を問題にするという契機が、こちらは頻繁に語られる「様相論」が誕生する上で欠かせなかったのである。

 より拡げて言えば、これまで連載で扱ってきた丹下健三も、黒川紀章も、磯崎新も、谷口吉生も、原広司も「表層」の段階を経る必要があったのだ。もちろん、このような進歩史観的な把握がすべてではなく、この時期の建築に固有の面白さがあり、またそこから今、発芽していない建築の可能性が得られることは言うまでもない。

 連載のそれ以前には長谷川逸子と伊東豊雄を厚めに論じたが、それは表層が開いた可能性の幅を最も体現する建築家だからである。

 両者が直接に向き合い、日本のポストモダニズムを語る際に頻繁に登場するのが、1979年に槇文彦が発表した「平和な時代の野武士たち」である。次回はこの論から始めて、本連載が有効な概念として提出する「表層期」(1977〜81年)の全貌により迫ろう。

—-

注1:原広司「境界論」(『叢書 文化の現在〈8〉交換と媒介』岩波書店、1981年)。原広司『空間〈機能から様相へ〉』(岩波書店、1987年)に収録

注2: 赤瀬川原平『東京ミキサー計画―ハイレッド・センター直接行動の記録』(PARCO出版、1984年)

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)