2023年4月に始まったこの連載では、日本の建築史の中に「表層期」を発見した。1977〜81年の建築の実作と言説は「表層」への着目によって特徴づけられる。
具体的な考察はまだ終えていないが、ここまでに明らかになったことで言えるのは、従来のようにシンプルにはいかない、ということである。
シンプルというのは、一つには、チャールズ・ジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』が1977年に出版され、1978年に邦訳されると「ポストモダニズム」の語は流行語となり、箱型の建物に歴史的なモチーフを記号として散りばめたものを始め、百花繚乱の作品が生み出されたといった直線的な理解である。
確かに「ポストモダニズム」の語は、1977〜78年から国内で使用され始めている。だが、この時点での扱いの大きさは「フォルマリズム」や「リージョナリズム」といった海外思潮の紹介の一つを脱していない。それが時代を画するかのようなジャーナリスティックな単語となるのは1982〜83年に入ってからだ。
現実に起きているのは、建築の外面に対する配慮であり、それは同時代においても「表層」や「表面」という言葉で言語化されている。こうした現象は、1976年より前には広く確認できない。建築における表層や表面とは何か? レトリックでなく、字義通りである。内部の単なる延長でもなければ、外部に属してもいない、空間ではない存在ということになる。
当たり前のように使われている「野武士の世代」という概念は正当なのか
これまで丹下健三から長谷川逸子らまでの作品を考察してきたが、その表面は、歴史的な要素を記号としてまぶしたようなものではなかった。反対に、その見た目は、時に箱型の初期モダニズムに回帰したかのようですらあった。1976年以前の「過激さ」が影を潜めた、結局のところ、1977〜81年は停滞のひとときに過ぎないのだろうか。
いや、そうではない。1982年以降の日本のポストモダニズムの展開は、この表層期における建築界の変容なくしては、ありえなかった。これらの建築で商業主義が意識されているのは確かだが、その上で追い求められているのは全体に回収できない何者かであり、表層はその過程で捕捉された。それぞれの建築家によって重心の置き方は異なるが、表層への着目は、近代批判を受け止めた成果なのである。
すると、もう一つ、シンプルには通りづらいことがある。1970年代を通じて「野武士の世代」が台頭し、「百花繚乱のポストモダニズム」を牽引していったという一直線のストーリーだ。ここで表層期が、伊東豊雄に対してと同様に、丹下健三にも適用できた事実を思い出したい。槇文彦や谷口吉生といった、一直線のストーリーから除外されている建築家の個性がこの時期に始まったことも、すでに明らかにした。実際に1977〜81年に見られる特徴は、むしろ世代を超えた共通性であって、「野武士達」を特権化することは困難なのである。
ただし、動かない事実は、建築家に対する「野武士」という形容の起源が「平和な時代の野武士達」という槇文彦の文章にあり、これが『新建築』1979年10月号に発表されていることだ(注1)。まさに表層期のまっただ中である。誤っているのは、槇文彦の見立てだろうか。それとも・・
私たちは、もしかしたら、ずいぶん間違えさせられてきたのかもしれない。だとしたら、そこにも何かの意義があるだろう。今、当たり前のように使われている「野武士の世代」という概念が正当なのか、槇文彦の文章を検討していきたい。
安藤忠雄や伊東豊雄は論じられず
現在、流通している「野武士の世代」の概念は、およそ以下のようなものだろう。
「1970年代に入ると、『野武士の世代』と呼ばれる建築家たちによって、百花繚乱の住宅作品が生み出されていく。野武士の世代とは1940年代生まれの建築家をさす。安藤忠雄(1941-)、伊東豊雄(1941-)、毛綱毅曠(1941-2001)、六角鬼丈(1941-2019)、石山修武(1944-)・・。1940年代生まれの彼らを「野武士」と名付けたのは、彼らより一世代上の建築家槇文彦(1928-)である。」(注2)
しかし、実際に「平和な時代の野武士達」で論じられているのは、誕生順に、相田武文(1937年生まれ)、土岐新(1937年生まれ)、渡辺豊和(1938年生まれ)、早川邦彦(1941年生まれ)、長谷川逸子(1941年生まれ)、富永譲(1943年生まれ)、石井和紘(1944年生まれ)の7名である。先ほど挙げられた建築家は、誰一人として含まれていない。
にもかかわらず、先の引用文がおかしいと思えただろうか? 現時点で有名とされる建築家に1941年生まれが多いこと、石山修武に「武」の字が入っている事実、女性だからという意識からというよりも「野武士」という単語がもたらす偏見が長谷川逸子を退けて、腑に落ちる自然さをつくりだしているのかもしれない。
それならそれで良いだろう。実際の槇文彦の文中には、「野武士の世代」なる語は一度も登場しないのだから。いつしか「野武士の世代」と呼ばれるようになった(諸説あり)といったようなことで。もともと、これは世代論として書かれた文章ではないのだ。
では、何なのか。現実の誌面を見ていこう。
論じる作家や作品は編集部によってセレクト済み
全部で12ページもある文章は「新建築社の石堂さんから電話があった」として始まる。「10月号に掲載される30代から40代の建築家たちの作品を中心に総合的解説をやってくれないかという依頼であった。聞いてみると作品は中国・四国から長野・関東圏一帯に分散していて、これらを全部訪ね歩き、しかもかなり長い文をきわめて短時間にまとめるようなこと」だった。「それは到底できないと思い、一度は依頼を断った」が、一日二日するうちに「こういう“見て考える”機会を与えられてそれを避けるのはプロフェッショナルとしても怠慢ではないかと思うようになった」。したがって「“実物を見てみたい”という衝動がこの役目を引き受ける最大の要因であった」と書かれている。
ここから分かるのは、これは初めに主張すべき何か、例えば世代論などがあって、そのために取り上げる対象を取捨選択した論考でないということだ。論じる作家や作品はすでに編集部によってセレクト済みで、槇文彦はそれを打ち返したのである。
編集部はこの号で、明らかに普段と違う誌面を構成しようとしていた。前後の『新建築』とは異なり、個人名を冠した建築設計事務所の作品のみが選ばれている。それが先に挙げた7名で、石井和紘と長谷川逸子は1作品、他の5名は各2作品が掲載された。通常の作品解説とは別に一人1ページの論考スペースが与えられ、「私の建築と現在」という共通タイトルが付されている。登場した建築家の年齢は当時、35歳から42歳。若手建築家のスタンスを提示する誌面を目指したといえるだろう。
これに槇文彦は、作品と自分とが向き合う姿勢で臨んだ。「これはあくまでも私個人の印象記」であると記されている。印象記の本題が始まる前の部分には、「原稿を書く前に新建築社からもらった各作者たちの作品解説も読まないことにした」とある。また「専門家の眼」とともに「専門家でない常人の眼」が必要だとし、「専門家であろうとするがゆえにそう見ることを意識的に拒否する事象を逆に見失うまいとする眼」、「いいかえればその人のおかれた歴史的な状況の中でつくり出された何か身体の延長としての生理的な眼」の重要性を強調している。
観念が先行した言説への批判
こうなると「印象記」という言葉が俄然、重みを持ってくる。編集部の依頼に対する槇文彦の打ち返し方には、個人の瞬発的な能力によって成り立つ職業としての矜持と、非専門家でも感じとれる現場の印象が第一であるという建築観がうかがえる。そこには専門領域における、観念が先行した言説への批判が見て取れる。
槇文彦は掲載12作品のうち、7作品を訪れた。相田武文については2作品とも訪問し、渡辺豊和の作品は訪れていない。全体のおよそ4分の3の文字数を、各作品の訪問記に当てている。
それらを読み進めていくと、空間の中に立っているかのような印象を受ける。一つは、文中の建物が間隔をあけて建っているからだ。槇文彦はそれぞれの作品について述べる以前に、それが立地する街に鉄道や飛行機あるいは船で向かう過程や、街を歩いて発見の第一印象へと至る様子を記述する。そこに書かれている情報や論理は、すべてが後段で回収されているわけではない。すなわち、必ずしも必要でない内容であるわけだが、この余白が個々の建物に読者を向き合わせることに寄与している。
文章を通して多様な空間に出会う
地があって、図がある。現代においては、無駄として抹消されるであろう文章による空間は、それぞれの作品を、早急に論理でくっつけてしまわない役割も果たしている。そして、間をおいて描写された建築の像は、後述するように最終部で「野武士の像」が唐突に出現してもおかしくは思わない、読み手の気分も熟成させているのだ。
空間を感じる理由は、もう一つ、すべての作品について、それが描かれているからである。細やかな寸法が示されることもあるが、それだけではない。相田武文の「積木の家Ⅰ(防府歯科医院)」(1979年)では素材と光が響き合う心地よさを、富永譲の「小田原の住宅」(1978年)を訪れた時には空間のシステムを解読する喜びを、長谷川逸子の「徳丸小児科」(1979年)では独立した部分間の関係が織り成す全体の情緒性をといったように、槇文彦の文章を通して私たちは、多様な空間に出会うことができる。それは具体的なスケールを持ち、人の行為に伴って、さまざまな喜びを与えるものなのである。
早川邦彦の「MK邸」(1979年)に関連して「ポスト・モダニズム」の語が登場し、土岐新による「土岐邸」(1978年)と、続く相田武文の2作品では「フォルマリズム」に言及している。文中ではどちらも、形態の操作といった意味で使われている。その他の作品も含め、作品のフォルムの論理を設計者が説明したであろうことが読み取れる。槇文彦が感取しようとするのは、それが実際に効果を上げているかどうかである。スケール、それに素材選択を含んだディテールがよく言及されるのは、それが印象を左右するからだろう。
ここに見られるのは、さまざまな形態が送り出され、それをさまざまな空間として受け取るといった構図である。作り手の論理と受け手の印象という意味では向き合っているが、どちらも教条主義的でない多様性を備え、1979年という時代のあり方を象徴している。
残り半ページでようやく「野武士」が登場
7作品の訪問を終えて、最後の2ページ強で総論が展開される。一種の都市論がなされ、批評論が続き、残り半ページのところで、ようやくタイトルに掲げた「野武士」が登場するのだ。
都市論というのは、建築家は都市を置き去りにしてはいけないという主張である。篠原一男と磯崎新の対談「建築について」(『新建築』1975年10月号)における「猥雑な都市はどうしようもないから自分の建築は防御型か攻撃型にならざるを得ない」という言葉を若い建築家が指針とみなすことの危険性を指摘し、「この数年、外国からやってくる新しい建築の波は必ずしも建築のポスト・モダニズムだけを標榜しているのではない」として、レム・クールハース『錯乱のニューヨーク』、コーリン・ロウ『コラージュ・シティ』、マンフレッド・タフーリ『建築とユートピア』といった、いずれも当時未邦訳の著作を列挙して「最近重要だと思われる図書はほとんどはすべて本質的には都市論ではなかったか」と述べ、「その本質が同じ都市論であった近代建築運動」が日本では「工学的建築」となってしまったが、その結果としての「都市が今日どうしようもないから、また都市と建築を分離して〈芸術的建築〉に向かう姿勢」に疑問を呈する。
次の「批評の批評」の文章が、最も手厳しい。すなわち、「『新建築』誌に毎月掲載されているいわゆる〈月評〉なるものはそろそろやめたほうがいいのではないか」と述べ、「そのマンネリ化と内容の荒廃は覆うべくもない」とし、「月評も含めてこうした場で、特定の評者と建築家たちの間で、彼らだけに通用するらしい私語で語り合い、ふざけ合うのを読まされるくらい気色の悪いものはない」と嫌悪感をあらわにしながら、「こうしたことは本来『新建築』のような一般誌を自分の庭のような顔をしてやることではなく、彼ら自身が身銭をきって〈中略〉発表すべきものだと思う。それが本当の前衛なのではなかろうか」と問いかける。冒頭部分に垣間見えた、観念が先行した専門領域の言説への批判に通じている。体制内アヴァンギャルドとでも言うようなものへの槇文彦の反発は、続いて造形される「野武士」の姿を後押しすると共に、釘を刺す役割も果たしている。
「野武士は主を持たない。したがって権力を求めない。」
いよいよ「野武士」について語る上で、この語の登場が唐突で、論理を超えていることを指摘しよう。そのことがコンテクストから遊離した、野武士の存在を印象づけている。したがって、その意味を考えるには次のように、言葉が出現したコンテクストの全体を引用しなければならない。
「夏の中国地方は昼の太陽こそ厳しかったが、その山水はあくまで穏やかで、そこここに数百年前と変わらない歴史すら感じることができたのだった。しかし時に田園に、また時として猥雑な都市環境の中に突如として現われ、独りたたずむ彼らの建物の姿は確かに今、他の周辺の建物は全部忘れ去っても、なおかつ、それだけは明瞭に私の意識の上に浮かび上ってくるのであった。孤立した点の建築群と、対称的な古来からの日本の風物、そんなことを思い比べていた時私は彼らの背後にふと戦国時代の野武士の像を見たような気がした。」
これに続くのが「野武士は主を持たない。したがって権力を求めない。」というよく知られたフレーズである。そして、槇文彦が「野武士の世代」と書いていないにもかかわらず、世代論として読まれてしまう理由は、さらに続く文章にあるかもしれない。すなわち、「60年代に大学を卒業した彼らにとって、20世紀のマスターであったコルビュジエ、ライト、ミースらはもはや歴史上の人たちになりつつあった。そして彼らは学園闘争の時代を経て権力に対するシラケさも身につけてきた。」という記述に。
けれど、この文章から世代の区別をことさらに読み取る必要はないだろう。なぜなら、次にあるのは「私自身知っている範囲で、彼らに共通していえることは皆いい人たちであるということである。いいという意味は権力志向型でないということを意味している。」という表現であり、アメリカやヨーロッパ、第二次世界大戦以前の日本と違って「彼らの施主たちもまた時の権力者ではない」現状にも関わらず、「野武士たちは芸熱心(デザイン熱心)」で、「常におさおさ自分の芸を琢磨するに怠りな」く、「手弁当で遠いところまででも熱心に建物を監理し、つくりあげて」、施主たちは「皆一様に驚き、感謝しているようだ」といったエピソードに帰結するからだ。これらは別に、世代で区別される内容ではないだろう。
基本的には、各々の実践にエールが送られていると言って良い。「設計をどんどん下請けに出したり、ジェネコンに書いてもらうのが当たり前になりつつある当節、そのスピリットは貴重であり、少々おかしなものができ上ってもその意気込みは買わなければならないだろう。」といったように。
誤解を含めて意味が広がる契機を埋め込む
皮肉めいても聞こえるだろうか。それが槇文彦の知性だ。よく参照される最終段落も引用した上で、一緒に考えたい。
「この野武士たちはどこへ行くのだろうか。それは私にもわからない。おそらく当分の間彼らは2本の刀を差して日本の建築原野を走りまわるに違いない。ただ望むべくは先にもちょっといったように、でき得ればより広い社会的なコンテクストを持った戦場にどんどん自分から望み、彼らの思い入れたその芸を一段と磨いてもらいたいと思うのである。私はその時、もう一度あらためて彼らの戦歴の跡をゆっくり訪ねてみたいと思う。」
文章全体の大意としては、個人の実践の応援、加えて、都市への誘いといったところだろう。これを、ある世代と他の世代との区別として喜んだり、よって立つ環境や思想が異なる建築家の高みの見物だと悔しがったりするのは、自らを奮い立たせるきっかけとしては良いが、一般的な読み方とは言えまい。
ただし、そのような誤解を含めて意味が広がる契機が、端々に埋め込まれている。だからこそ、話題を集め、現に今こうしているように、再読に耐える内容になっている。
まず、タイトルにある「平和な時代」という形容詞が気にかかる。先ほど見たように「戦国時代の野武士」という表現は文中に見られる。それと意味が対になっているわけだが、こちらは説明されていない。読み手は空白を埋めようとする。「平和な時代」なのに「設計をどんどん下請けに出」さないような姿勢を、ストレートに褒め称えているのだろうか。いや、そうではなくて、そんな愚直さへの揶揄、あるいは「平和な時代」だから「芸熱心(デザイン熱心)」にかまけていられるといった批判が込められているのだろうか。想像をたくましくしてしまう。
槇文彦が彼らに期待しているのは「芸」
いずれにしても、槇文彦が彼らに期待しているのは「芸」に過ぎない。世代的な優位性でも、外国からの新しい建築の波に通じていることでも、口にする形態の論理でもない。これも心にしこりを残すかもしれない。褒められたいようには、褒めていない。それが対象をモノ扱いしない、同じ建築家としての槇文彦の敬意と、それを隠そうとしない品位に他ならない。
とはいえ、「芸」という単語が、基本的には肯定的に使われているのは明らかだ。前の部分で「工学的建築」と「芸術的建築」の双方に疑問を呈していた。建築の世界で必ずしも褒め言葉ではない「芸」という語をあえて使用することは、こうした旧来の枠組みと異なる建築観を打ち出すことになる。
「芸」は孤独なものである。それと同時に、生前に社会に認められなければ、存在すらできない。工学や芸術が、独り未来に向けて書き残したり、新しい波に徒党を組んで乗れたりできるのとは、ずいぶん違う。それらが進歩や刷新の概念と切り離せないのとは対照的に、独り磨き上げて求められば良い。それぞれに異なる人間や場所を相手に立ち現れるのだから、工学や芸術とは違って、その論評が施主の話に帰結するのも当然だ。
こうして見ると、槇文彦のいう「野武士」と「芸」が必然的な関係を備えているのが分かる。さらに言えば、この論の主張に対して「野武士」という語は、最適の選択ではなかったかもしれない。だって、「野武士」と聞いて普通、「いい人」や「芸熱心」な人が思い浮かぶだろうか? 「平和な時代の野武士達」が誤読につぐ誤読を生み、生産的であったのは、このイメージのズレによるところも大きいに違いない。とはいえ「芸人」とでもしてしまうと、渡辺豊和が1974年に著した「芸能としての建築」(注3)などに引き寄せられてしまうから、それも採れなかったわけだが。
同年生まれの菊竹清訓や林昌二らとは異なる立場
文章全体が皮肉めいても聞こえるのは、それを「野武士」と同じ「日本の建築原野」にいると自覚する人間が執筆しているからだ。例えば、仮に「芸」を全面的に肯定してしまったら、あとは堕するしかない。また「芸熱心(デザイン熱心)」で平和の中にいる建築家だねといった否定を、槇文彦が年長者や年少者から受けなかったと考えられるだろうか。全面的に肯定も否定もできない人や時代の中で何かを言おうとしたら、アイロニーは欠かせない。
「平和な時代の野武士達」の内容を可能にしたのは「健康を保持しながら懐疑を楽しむ型」である。この言葉が、1978年に槇文彦がポストモダニズムの動向などに触れながら、それによって「幾分逆に住みよくなった」自分のような人間を形容したものであることは、連載の第10回で述べた。翌年に依頼された論評は、当時51歳の槇文彦を、同じくすでに20年近い洋々たる実作経験を積んでいた同年生まれの菊竹清訓や林昌二らとは異なる立場にいると印象づける結果となった。
むしろ「野武士達」に近い。そう思えた人物は、おそらくは槇文彦の「恵まれた」生まれ育ちが邪魔をして、今も昔も多くはないだろう。ただ、建築史において重要なのは、ポストモダニズムの潮流を海外文献からいち早く知ることができ、平均で約12歳下—それほどは違わないのだ—の建築家たちの「実物を見てみたい」と強く思えた槇文彦が、彼らと自分自身との親近性を印象づけられ、また「芸」としての建築を再認識したであろうことだ。連載の第10回で解説したように、表層の操作を含めて、1980年代以降の社会にも対応可能な槇文彦の作風は明らかにこの時期に始まっていて、以後の展開も、若い世代の動向を意識しながらの研鑽とみなせるからである。
注1:槇文彦「総合建築時評—平和な時代の野武士達」(『新建築』1979年10月号、新建築社)195〜206頁
注2:松村淳『建築家の解体』(筑摩書房、2022年)155〜156頁
注3:渡辺豊和「芸能としての建築—続空間変容術」(『別冊都市住宅 住宅第7集』1974年9月号、鹿島出版会)84〜102頁
注4:鈴木博之「私的全体性の模索」(『新建築』1979年10月号、新建築社)145〜148頁
倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。
※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。