倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」16:渡辺豊和「仮面劇の建築化」から石井和紘「表面性とは装い」へ

Pocket

後述する石井和紘「ゲイブルビル」1980年(左の写真)とフィリップ・ジョンソン「AT&Tビル」(1984年)(写真:2点とも倉方俊輔)

 渡辺豊和が「仮面劇の建築化」という言葉を書いたのは、1976年の「中内邸」発表に際してだった。この手法に依拠することで「1½吉岡邸以後の久方ぶりの設計であったせいもあって〈中略〉また違った方法を探り出せるのではないかという密かな期待があった」と、前作との違いに触れている(注1)。

 確かに、前作の「1½吉岡邸」(1974年)は、まるで表面的ではなかった。これは住宅と診療所からなる建築で、住宅部分は正方形の平面の上に半球形のドームが載っている。診療所は、それを半分に切った形態で、この「1」と「½」とが渡り廊下で接続されている。しかし、前面道路から奥の住宅部分に行くには、いったん診療所の地下に下り、そこから階段で上がらなくてはいけない。すると、眼の前には、ドームがつくる空間の中心に鎮座する屋根付きの和室が現れるといった仕掛けである。

 ここで渡辺豊和は、住宅はこうあるべきだといった社会の常識から離れ、強引な形態操作によって生まれた空間が、新たな思考を喚起する可能性に期待を託している。この時点の彼の設計には、建築と社会とが接する表層への考慮も、表面的な形の操作も見ることはできない。

 「中内邸」(1976年)は、それとは違って、社会からの眼差しを意識して、建築の表面を操った作品だ。住宅の特徴的な妻面が、前面の道路に向いている。急勾配の屋根は、これが建つ奈良県大和郡山市などに分布する伝統的な屋根形状の「大和棟」を思わせる。そこに土蔵造のような縦長窓が施され、バシリカ式教会堂のファサードを彷彿とさせる丸窓が控えめながら中央に付いている。この丸窓は内部で象徴的な役割を果たしている。というのも、入口のドアを開ければ、玄関ホールから奥の階段まで続く中央部が最上部まで吹き抜けになっているという、実にダイナミックな光景が広がっており、そんな空間の要に丸窓は位置しているのだ。社会に面した建築の外側は、内側に呼応しつつ、そこから決定されない存在となっている。

伊東豊雄や谷口吉生と同じ立ち位置だった渡辺豊和

 渡辺豊和の「中内邸」は、連載の第3回で扱った伊東豊雄の「中野本町の家」や、第12回で論じた谷口吉生の「福井相互銀行成和支店」と同様の立ち位置にある。この1976年の3つの作品において、翌年から展開される表層期の作品の母体が、本人も十分に意識せずに見出されたのである。

 この住宅で初めて、渡辺豊和は表層に意識を向けた。その操作を介して、以前から抱いていた現状に対する批判意識を成就しようとしたのである。その批判意識とは、西洋と日本といった地域の隔たりや、古代や現代のような時間の順番を超越した構築物を現前させることによって、それらが分け隔たった現状を転覆させたいといったことだ。「1½吉岡邸」でもっぱら空間に依っていた時空の混成は「中内邸」以降、表層においてもなされるようになった。手法が控えめであり、建築の内外部を分断するものでないことも、表層期らしい新しさと言える。

 「世間体の悪いものはここでは駄目なのです」と、設計者は設計当初に施主から言われたという。「世間体とは要するに周囲への見栄であるから、内側は外側ほどに拘束されることはない」とし、これを「仮面劇」と呼びながら、「集落にあって主体性を保持しようとすればするほど意識をされる体のものであるらしい」と、装いを肯定的に捉えている。

 内部を保持するためにこそ、外面は大事なのである。渡辺豊和はこの単語を使ってはいないが、これは「アイロニー」そのものだろう。本連載の第7回で多木浩二の「アイロニーとは完全には正当化できないものから有効な側面をひろいあげる意識である」という言葉を引用して以来、この時代を理解するための重要概念として、たびたび登場させてきた用語である。では、それとも関連する「キッチュ」はどうか?

「分譲住宅は売れなくては何にもならない」

 表層期の始まりとともに、渡辺豊和は「テラスロマネスク桃山台」(1977年)を大阪府吹田市に完成させた。次いで「テラスロマネスク穂積台」(1978・79年)が、同じ地元のディベロッパーの企画で大阪府茨木市に竣工した。敷地は約987㎡と、市街化区域であっても開発許可が不要な1000㎡未満に収め、長方形をした敷地の中央に通した道路の東西に、2階建て連棟式の分譲住宅を全30戸並べる。大都市近郊のミニ開発によるテラスハウスという当時ありふれ始めた類型に、建築家が取り組んだのだった。

渡辺豊和「テラスロマネスク穂積台」1978・79年(写真:倉方俊輔)

 「このような分譲住宅は売れなくては何にもならないのだが、これは設計中にすでに完売していた」と、雑誌発表時の解説文における設計者は得意げである。続いて社会派であるところの「大阪市立大学の某先生」を批判し、「カタチの上で人を楽しませるレベルに達っしたことを眼をかっぱじいて見たらどうか」と威勢がいい(注2)。

 大阪が東京と違うのは、近世以来の庶民住居である長屋が、大正から昭和戦前期にかけて都市の人口が増大する際にも、時代遅れのものとみなされず、伝統的な意匠で前庭を設けたり、洋風のデザインを採り入れるなどして、中産階級の住宅に展開したことだ。

 その理由には、境界壁を共有したほうが一戸が使える面積が多くなり、同時に、まるで大きな家に住んでいるかのような満足感が得られるということがあったろう。もちろん、大阪長屋は構造や施工の面でも理にかなっているが、その展開は供給側の論理だけでは説明できず、暮らす側の心性も働きかけたと見るほうが自然である。だって、建築は選ばれる側なのだから。そこに作用しているのは庶民性であり、合理性である。

狭いインテリ的合理性の世界にいる「学者先生」を批判

 この時期の渡辺豊和は、個人的な妄想に基づいた形を展開しただけではないから興味深い。庶民的合理性の系譜を理解した上で、一連のテラスロマネスクを設計し、自分が狭いインテリ的合理性の世界にしかいないことが分かっていない「学者先生」を批判したのである。

 「テラスロマネスク穂積台」は、いわば現代版の大阪長屋として設計されている。それぞれの住戸の間口は2間(3.6m)で、戦前期には必要なかったガレージを手前にとると、そう多くのスペースは残らない。ただし、鉄筋コンクリート造に変化した構造体は、全体が大きなお家であるという一体感をより高め、それでありながら、木造よりも大胆な造形の変化が経済性の中でも許容される。

 そこで設計者は、西側の第1期、東側の第2期ともに、連棟内の間取りはほぼ共通させた上で、ファサードに変化を付けた。といってもルール無しに装飾するとコスト増にもなるので、第1期では間口をさらに半分に割った造形パターンとし、第2期は4軒分を1ユニットとしてデザインした。

 切妻やヴォールトや平屋根の形が、各戸の個別性を強めている。敷地が緩斜面であるのを反映して、軒高をずらしたことも効果的だ。そうでありながら、デザインに一定のルールがあることが離れた住戸を共鳴させ、統一されたアイボリーの外装はコンクリート造の一体感を高めている。幾何学形の組み合わせが、素朴さと明るさ、それに異国情緒も感じさせる。そんな全体像は「テラスロマネスク」という売り文句を裏切っていない。憧れも含めた、暮らす側の合理性に応えたデザインを提供しているのだ。

内と外とが入れ替わる「フィクショナル・ファサード」

 続く大阪府泉南市の「辻野ハウジング」(1980年)は、全2棟10戸の分譲住宅で、小さな規模を生かした設計になっている。現実には縦割り長屋で、間取りの共通性が強いにもかかわらず、大きくて個性的な2つの家が建っているかのように感じられる。

渡辺豊和「辻野ハウジング」1980年(写真:倉方俊輔)

 そのように見せる上で、建物から自立したファサードが大きな役割を演じている。玄関の手前に取り付けられたアーチや門の形状が、幾何学形を組み合わせた一体感のある造形を補強しながらも、各戸の領域を区分している。憧れの洋館風でもある。

 この新たに登場した手法を目にすると、私たちは思いもかけなかったことに、原広司の言葉を思い出す。本連載の第13回で取り上げた「フィクショナル・ファサード」である。それは内と外とが入れ替わり、実像と虚像とが錯綜する境界面であり、こうした「虚構性」を住居に持ち込むという「フィクショナルに思われる行為が、実はリアルなのだ」というのが原広司の論理だった。

 フィクショナル・ファサードの概念は、1981年に著された「境界論」において登場する。設計と執筆の時期は重なっており、1936年生まれの原広司と1938年生まれの渡辺豊和とは、生年が2年しか違わないにもかかわらず、従来あまり並べて語られてこなかった建築家である。ファサードの類似から私たちが見て取るべきは、両者の影響関係ではなく、同時代性だろう。

 原広司が「町田市中央通りモール化計画」において、道路の両側に切妻やヴォールトの形を賑やかにデザインしたと記した時、同じ形容は渡辺豊和の「テラスロマネスク穂積台」にもあてはまる。原広司の「末田美術館」(1981年)と渡辺豊和の「辻野ハウジング」(1980年)は、そんな境界を門のような形で実現したものとまとめられる。

 ただし、歴史的なモチーフを直接に使用するのではなく、あくまでも幾何学形の組み合わせであることには、前回に見てきたアルキテクスト・グループの同年代の作品との共通性が確認できる。それでも、この「キッチュ」とされかねない設計は、従来にはない建築家による勇気ある挑戦と言える。

渡辺豊和「サンツモリビル」1980年(写真:倉方俊輔)

 「サンツモリビル」(1980年)にも、自立したファサードが適用されている。鉄筋コンクリート造4階建ての商業ビルを、渡辺豊和は左右対称の段状の形で設計し、真ん中に半円アーチと正面が正三角形になった傾斜屋根を置いた。それらは板状のゲートとなって、来館者の領域を画し、都市への顔をつくっている。やや取り澄ましたそれは、世間に対する仮面と呼べる。アイロニーとキッチュをもって保持されているのは、設計者の主体性なのかもしれない。

「建築家廃業寸前」の中で「仮面劇の建築化」を

 連載の中でも、今回の内容が一番、些細に映っている可能性がある。渡辺豊和という建築家が論じられる機会は現在、多いとはいえない。語られたとしても、俎上に載せられるのは「1½吉岡邸」など過激な形をした初期住宅や「龍神村民体育館」(1987年)以降の公共建築であって、この時期の分譲住宅や商業ビルが分析されたことはない。

 渡辺豊和は後に、1974〜75年の時期を「建築家廃業寸前だった」と振り返り(注3)、「『1½』の完成により、せっかく依頼に来た人々もこの建物の写真や模型を見て逃げて行った」と書いている(注4)。現実には廃業することはなく、後の公共建築が実現できたのは、この時期に、分譲住宅や商業ビルの設計を依頼されたからだ。

 彼は1976年の「中内邸」で「仮面劇の建築化」という新たな手法を見出し、1977年以降の商業建築に展開した。この時期、もともと執心していた空間の操作に加えて、建築の表面的な効果を使い始めたのだった。商業的な仕事に応答できる素質を備えたのである。それによって、設計の依頼を続けて受けることができ、建築家としての主体も保たれた。「建築芸能論」と題して、「私の考える建築設計行為とは芸術創出といったことではなく、自分のもち合わせの芸や術をいかに人びとに売り買ってもらうか」だと、露悪的とも思われかねない口調で語り始めるのである(注5)。このことで可能になった後年の大作の中にも、この時期に発見された手法が溶け込んでいる。渡辺豊和にとっても1977〜81年は、表層期と呼ぶにふさわしい変革期だったのだ。

 このことを明らかにするために行ってきた今回の手続きが、この表層期というものが一見、分かりづらいのだが、注目すると建築家同士の意外な連関もあって面白く、前後の時期を理解する上でも重要であるという、一人の建築家にとどまらない全般的な傾向を示しているとしたら嬉しい。

 とはいえ、この時期のすべての建築家の変化を、表面化や表層化にまとめることができたとしたら、それはおかしなことだろう。前回はアルキテクスト世代について論じた。続いて、それ以後の世代を見ていきたいと思うのだが、例えば1941年生まれの毛綱毅曠や六角鬼丈、1944年生まれの石山修武といった建築家の1977〜81年の営為を、表層という概念で説明することは難しい。無理にでも関連づけるなら、彼らはこの時期の潮流とは相性が悪く、このように認識することによって、それぞれの個性がより明らかになるとは言える。

「ゲイブルビル」で表層を発見した石井和紘

 1944年生まれの石井和紘はどうだろうか?

 そういえば、この連載は前々回から、今、当たり前のように使われている「野武士の世代」の概念に疑問を呈し、槇文彦が1979年に発表した「平和な時代の野武士達」を良く読んだのだった。そこに登場する最年少の建築家が石井和紘だった。

 同号に掲載されているのは「54の屋根(建部保育園)」(1979年)だ。名称の通りに、一般的な屋根の枠組みを54個用いた幼稚園である。家型のフレームは、背後にある実際の屋根と合っていたり、合わずに上半分が透けていたり、完全に独立して領域を画するゲートになっていたりする。フレームの向きはさまざまで、近くでは層状になった空間を、遠目からはまとまった家並みを生み出そうという意図は明確だ。空間的、立体的な本作を、表面化や表層化で語ることは難しい。

石井和紘「ゲイブルビル」1980年(写真:倉方俊輔)

 石井和紘が表層を発見するのは「ゲイブルビル」(1980年)においてである。ギザギザになった頂部のダッチゲイブルも、銀色に輝くペディメント状の線も、表面的に処理されている。中央のバルコニーに施された模様も同様で、これらが歴史的なモチーフを連想させながら幾何学形の組み合わせに留まっていることには、同年の渡辺豊和による「サンツモリビル」と同じ、この時期の性向が見てとれるだろう。壁面は1階部分でめくれ上がるようになって、1枚の仮面の操作に過ぎないことを、いささか露悪的に示している。

 やはり頂部に特徴がある「AT&Tビル」(1984年)の完成模型を手にしたフィリップ・ジョンソンの写真が、雑誌「TIME」の表紙を飾ったのは1979年1月のことだった。「ゲイブルビル」の設計期間は1979年4~8月だから、影響関係は明白だろう。高さとしては約6分の1だが、全体のプロポーションも、中央部と左右部の扱いもよく似ている。

フィリップ・ジョンソン「AT&Tビル」1984年(写真:倉方俊輔)

「表面性とは装いであり、本体と遊離せざるを得ない」

 2つの建築の類似はあまり指摘されてこなかったが、あからさまであることに、従来の建築家とは異なる活路を見出したのが石井和紘という建築家だから、意図的な行為とも捉えられる。要素としての家型は「54の屋根(建部保育園)」(1979年)や「児玉邸」(1979年)の延長上にある。単なる模倣に終わらない、内発的な展開だ。

 その上で、1980年に、表面的な形が出現したことが画期なのである。建築と社会とが接する表層が考慮され始め、後年の「直島町役場」(1983年)や「同世代の橋」(1986年)を可能にしたのだから。

 雑誌発表時の解説文には、次のように書かれている。「最近表面性という言葉が単なる表面を指して使われるのを聞くが、あれはつまらない。あれは表面性でなく表面である。表面と本体の遊離することがあって初めて表面性である。表面性とは装いであり、本体と遊離せざるを得ない理由があるはずだ。」(注6)

 石井和紘も、当時の「表面」に関する動向を捕捉し、自らを変革する動因にしていたのだった。けれど、彼にしても他の建築家にしても、表層をめぐる論を十分に展開させることはなかった。続く時期に導入される「ポストモダニズム」なる語が、すべてを分かったような気にさせてしまったのかもしれない。綴られなかった表層論に向けて、この連載も継続されることになる。

石井和紘「直島町役場」1983年(写真:倉方俊輔)

注1:渡辺豊和「世間体ということ—仮面への誘い」(『新建築』1976年9月号、新建築社)263頁
注2:渡辺豊和「テラスロマネスク 穂積台—第2期工事」(『新建築』1980年3月号、新建築社)211頁
注3:渡辺豊和『建築を侮蔑せよ、さらば滅びん—ポストモダニズム15年史』(彰国社、1988年)60頁
注4:前掲書73頁
注5:渡辺豊和「集合住宅形態実写法—建築芸能論の試行」(『建築文化』1978年12月号、彰国社)89〜90頁
注6:石井和紘「フォールス・ファサードとしてのゲイブルとベース」(『新建築』1981年5月号、新建築社)246頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、建築公開イベント「東京建築祭」実行委員長、「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」実行委員、一般社団法人リビングヘリテージデザインメンバー、一般社団法人東京建築アクセスポイント理事などを務める。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)