青木淳氏が語った師・磯崎新の2つの顔、「水戸芸術館を創る」展で初めて明かしたあの頃

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 水戸芸術館は、現在開催中の「磯崎新ー水戸芸術館を創る」展に関連して、建築家の青木淳氏による講演会を5月13日(土)に開催した。筆者(宮沢)は昨年末に磯崎氏の訃報に接して以来、「磯崎新」と聞くと胸の奥がむずむずしてくる。展覧会を担当した学芸員から「青木淳さんが磯崎さんについて人前で話すのは初めて」と聞けば、これはもう行かずにはいられない。少し遅くなってしまったが、講演会の聴きどころをリポートする。

青木淳氏。水戸芸術館の控室にて(写真:宮沢洋、以下も)
この日は小雨まじりだったので、外観は今年3月に撮った写真で

 講演会リポートの前に、開催中の「磯崎新ー水戸芸術館を創る」展について知りたい方は、下記の記事を読んでほしい。

水戸芸術館で「磯崎新 水戸芸術館を創る」展がスタート、生前語った「100年後には残らない」の真意

 なぜ水戸芸術館で青木淳氏なのか。その説明は、公式サイトからのコピペ(太字部)で。

 青木氏は1982年に東京大学工学部建築学修士課程修了後、磯崎新アトリエに入所。磯崎新のもとで研鑽を積み、「岩田学園体育館増設」(1985年、大分)「プルックリン美術館増改築」(1991年、ニューヨーク)などを担当、「水戸芸術館」(1990年)担当を最後に、1991年に独立し青木淳建築計画事務所(現在はASに改組)を設立、以後、手がけた作品は住宅、公共建築、ルイ・ヴィトンの店舗に代表される商業施設など多岐に渡ります。(中略)。当講演では、青木が磯崎新アトリエに勤務していた時代のこと、磯崎新との思い出、そして同アトリエ時代最後に担当した水戸芸術館について、お話しいただきます。

 補足すると、青木氏は磯崎新アトリエの現場担当者として、水戸に1人で2年以上常駐した。東京と水戸なら日帰りで監理できそうなのに、なぜ常駐なのか。それは講演を聞くと腑に落ちる。

会場は水戸芸術館のACM劇場。進行役は、建設段階も知る副館長の大津良夫氏が務めた

 この日の講演のタイトルは「水戸芸術館と磯崎新と私」。これって90年代初頭のヒット曲「部屋とYシャツと私」をかけている?

 それはさておき、講演のメイン話題は、展覧会と同じく「水戸芸術館が出来上がるまでのプロセス」だ。だが、筆者が心の中で「そうだったのか!」を連発したのは、磯崎氏と青木氏の関係性だった。ボスの磯崎氏は所員たちにどんな指示を出し、どうプロジェクトを進めていたのか。それを所員たちはどう見ていたか。事務所から独立した後の元・ボスはどんな存在だったのか。そんな話がフランクに語られ、とても面白かった。以下は、そうした部分の抜粋だ。

敷地を超えても幾何学形態に近づけていく

 磯崎さんは1931年生まれで、僕は1956年生まれ。年齢差は25歳。大学時代には『建築文化』で磯崎さんの特集が出て(1978年9月号特集「磯崎新の現在」)、僕も磯崎さんの考えをだいぶ真似しました。

青木氏が大学生時代、シンポジウムに登壇した磯崎新氏

 1982年に入所して最初に担当したのは、「西脇市岡之山美術館」(1984年)でした。西脇市出身の横尾忠則さんの美術館です。最初に磯崎さんから言われたのは、床にガラスを使いたいのでその図面を書けと。収まりもろくに知らなかったのに、いろいろ調べて図面を書きました。幸い、今もガラス床は大丈夫なようです。

青木氏が磯崎新アトリエで最初に担当した 「西脇市岡之山美術館」(1984年)のガラスの床

 当時僕は、プロジェクトの設計のほかに、建築雑誌の特集のための資料づくりも担当していました。当時は、みんな終電帰りなんですが、僕は終電でみんなが帰ったあとに、雑誌のための資料づくりをしていました。

 水戸芸術館の仕事はプロポーザルで取った後に、具体的な設計を進めていきました。建築家の中には1案だけつくって、「はいこれで」と出す人もいますけれど、磯崎さんは複数案を検討することが多かった。水戸でも、大きく3つの方向性を検討しました。

 磯崎さんはスタッフが書いた図面の上にトレーシングペーパーを乗せて、その上に指示を書きます。だから敷地の形は正確です。でも、何度もトレーシングペーパーを乗せて書いていくうちに、平面が都合の良い形になっていく。

水戸芸術館の設計初期に、磯崎氏がトレーシングペーパーに書いたスケッチ(下も)

 磯崎さんは、設計過程で何かを選択していくときに、幾何学的形態に近づけていく癖がある。機能的には辻妻が合わなくても、幾何学形態へと向かっていく。ときには敷地さえ超えてしまう。スタッフは、その形が成立するように考えるわけです。

 水戸芸術館の場合は、3つの比較表をつくって、プレゼンしました。でも、施主も選べませんよね。「次は、3つをまとめて1つの案を見せてください」と言われて、2、3週間後くらいにもっていった。その案は、現状にかなり近いものでした。

3つの比較案の詳細については、開催中の「磯崎新ー水戸芸術館を創る」展で見ることができる

 水戸芸術館は、ジョン・ソーン(1753年~1837年、イギリスの新古典主義を代表する建築家)の影響を強く受けています。ジョン・ソーンの建築というのは、それまでのヨーロッパの建築が行き詰まって、もうこれ以上先に行けないという危機的な状況に対するものとして出てきた。水戸芸術館の美術館は「ダルウィッチ・ピクチャー・ギャラリー」を、コンサートホールは「イングランド銀行」の内部を設計の手掛かりにしています。         

ジョン・ソーンが設計した「イングランド銀行」

現場に入ってから本気になった磯崎氏

 現場は大変でした。現場に入ってから館長の吉田秀和さん(1913~2012年、音楽評論家、随筆家)をはじめとする運営体制が決まったんです。そこで磯崎さんは本気になった。それまでの設計を見直し始めた。

 議会では、「なんでこんなに設計変更が多いんだ」って怒られるわけです。僕が議会に出て答えたこともあります。質問した議員に、「もしあなたの家をつくっているときに、工事の途中で、こうやったらもう少し良くなると言われたらそうしませんか」と。すると、その議員は「そうする」と。いい時代でした

 正直、工事発注段階では図面が未完の部分もありました。タワーなんか、どうつくるかわからなかった。構造の木村俊彦先生も、構造計算上は大丈夫なので、つくり方も含めて提案できる施工者に決めると。外装のチタンも、使うことは決まっていたけれど、どう使うかは決まっていない。現場で外装の設計がスタートするわけです。現場は大変です。駆け抜けるようにして、その2年間は過ぎました。

事務所時代と独立後の磯崎さんは「別人」

 僕にとっては、2人の別人の磯崎さんがいるように感じています。

 事務所では、我々スタッフは磯崎さんのスケッチを見て、自分で判断して図面にする。アシスタントですよね。対等な立場で磯崎さんに意見を言うようなことはありません。磯崎さんが今何を考えているのか。それは読者と同じように雑誌や本に磯崎さんが書いたものを読んで、「そういう考えなのか」と知るんです。

 事務所での磯崎さんは、すごく怖かったですよ。呼ばれて蹴られるとかではなく、無視される。無視されて、1週間、2週間と目も見てくれない。存在そのものが許されていない気持ちになる。「もう辞めさせてください」と言いたくなる。

 ところが事務所を辞めてからはガラッと変わりました。

 実は1991年に辞めてからは、磯崎さんを避けるように生きていたんです。「イスタンブールに行きます」と言って事務所を辞めたのですが、実際には行かなかった。だから、逃げるようにしていたのですが、青森県立美術館のコンペ(2000年)の二次審査に進んだとき、「これはチャンスだ」と思って磯崎さんに相談にきました。こういう機会なら会いやすいだろうと。「10分でいいから、助言を聞かせほしい」と連絡して会いにいったら、1日、話を聞かせてくれた。他の予定をキャンセルして、朝から夜まで。

 その後もいろいろな場面で時間を割いてくれました。辞めてからの磯崎さんは本当に優しい人。事務所時代とはまるで正反対。今でも僕の中には2人の別人の磯崎さんがいて、どちらの磯崎さんの話をすればいいのか迷ってしまいます。
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 なお、展覧会の「磯崎 新 ―水戸芸術館を創る―」の方は6月25日(日)まで見ることができる。入場無料。詳細は公式サイトで確認を。(宮沢洋)

「磯崎 新 ―水戸芸術館を創る―」 展の一部。これも無料