内藤廣連載「赤鬼・青鬼の建築真相究明」第2回:「それで・・・マジで建築論」

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話題を呼ぶ“赤鬼・青鬼リターンズの第2回は、なぜ「建築の道に?」「なぜ大学を出た後にスペインへ?」というスタート地点の話。内藤廣氏に大きな影響を与えた建築家の山口文象やフェルナンド・イゲーラスの幻影も登場。これは、BUNGA的(言論解放区的)・私の履歴書の予感…。(ここまでBUNGA NET編集部)

[赤] こんなオレたちに建築という思考をぶち込むとどうなるか、ってのがこの連載の本題だろ。

[青] ムリムリ、建築なんてこんなふざけた会話で論じることは不可能だよ、ものすごく複雑なんだから。こんなんで企画がもつのかなー。そもそも、建築ってバランスが取れたまともな人のやる仕事だろ。

[赤] 最初のころは、タッグの組み方がわからなかった。見当違いの技を出したりして大怪我させたり、ひどいもんだったね。

[青] 美術館の課題や卒業設計なんてひどかったね。まるでわかっていない。

早稲田大学建築学科の卒業設計(1974年)。その年の最優秀作に与えられる村野藤吾賞を受賞した(資料:内藤廣)

[赤] まぁ学生なんで、誰も似たようなもんなんじゃないの。今も同じだけど、何にも知らないんだし、それに何にも知らされていないんだし、しょうがないよ。

[青] ただ、こんなのどうかな、って見当をつけてもっともらしい形を作り上げて、それっぽい図面を描いて、それが自己表現だと思い込んでいる。

[赤] 建築っていうのは、外部条件や他者との関わりをどう組み立てるかっていうことなんだけどね。

[山口文象] 建築は社会が作るんだからね。

[青] でも、そうおっしゃいましたけど、その社会は常に流動的でどんどん変わっていくし、とらえどころがないじゃないですか。それと、もし建築は社会が作るって言うんだったら、建築を良くするためには社会を良くしなきゃいけないってことになる。

[山口] ほんとはそうなんだけどね。そんなの待ってたら間に合わないから逆回ししているんだよ。

山口文象

ここで編集部注:山口文象(1902-78年)は1930年代から60年代にかけて活躍した建築家。内藤氏の母親の実家が山口家の隣にあり、幼いころは山口家のプールで泳いだりしていた。内藤氏は高校生の時に山口の下に相談に行き、「何をやりたいかよく分からない」と言うと、「建築をやっていたら何にでもなれるから取りあえずやってみたら」と助言されたという。

[赤] 建築で社会を良くするなんてのは思い上がりですよ。

[山口] そんなことはない !!!

[青] その社会の成熟度以上の政治家は出ない、っていう説があるけど、建築も同じなんじゃないかな。建築が社会的な産物だとしたら、その社会の成熟度を飛び越えた建築なんて実現し得ない、っていうテーゼもありうるかもしれない。

[山口] そんなことはない !!!

[赤] なんかそんなこと考えると、やる気なくなっちゃいますよね。考えすぎなんじゃないですか。

[山口] そんなことはない !!!

[青] でも現実を見るとなー。なんの意思も志もないデザインの巨大開発や超高層ビルがバンバン建っているじゃないですか。あれって、「資本主義っていう無意識」がベースにあるように思えてならないんですけど。

[山口] これが今という時代のこの国の「社会的無意識」ってもんなんだよ。

[赤] なんか無意識のオンパレードですね。

[山口] それに抗おうとしなきゃ建築なんて何の意味もない。

[青] 本当に抗うと冷飯を食わされることになっちゃうんですよね。仕事は来ないわコンペでも落とされるわ、アカデミズムからは白眼視されるわ。

[山口] それが面白い。建築っていうのは、そういう仕掛けができる、つまり問うことができるテリトリーなんだから。

[赤・青] ほどほどに抹殺されない程度に頑張ります。

[山口] 志の低いやつだ。

[赤] たしかに。資本主義はいいとこもあるけど、操作を間違えると単なるマネーゲームになっちゃうよね。そのマネーゲームがそのまま建ち上がった姿が、東京の空を占有しつつあるよね。

[青] 見たくなくても目に入ってくる。

[赤] 麻布台ヒルズの最上階の住居が200億円越え、なんてニュース記事を読むとよけいにうんざりするね。

[青] アメリカじゃあもっと凄いことになってるらしいぞ。

[赤] 権力とカネ、それらしい形ならまだ納得感があるんだけどね。存在感を和らげたり消したりするのがデザイン言語の基調になっているからな。基本的にボリュームが見えにくい姿形になっているんだよ。ステルス系だね。

水を差したらずぶ濡れに

[青] 個人的には、資本主義の奴隷みたいになった建築の姿は好きになれないね。あれを動かしているのは巨大なマネーゲームだからね。それを批判してたら建物なんて建たない。でも、それは無いことにして、土地という価値の最大化を目指すゲームなんだから、あれを建築で議論するのは間違っているよ。

[赤] もし「構築的な意思」を「建築」というとしたら、あれはゲームに乗っているだけで「建築」じゃないね。建物に関係する膨大な人が関わっているけど、彼らだって「建築」を作っているとは思っていないんじゃないの。

[青] ゲームの中には、いろいろな合意形成や会社の役員会みたいな障害物が設定されていて、それをどうするかでほとんどのエネルギーを使っちゃうんだよ。

[赤] 障害物競走だね。ゴールにはアンパンがぶら下がってる。

[青] アンパン、昇進とかボーナスとかかな。それにしても、巨大な構築物、それも無意識の構築物、さらには誰が作ったかわからないような匿名の巨大な構築物が出現するんだからね、社会の中に。

[赤] 誰の責任でもない、誰も責任を取らない、っていうのはいかにも日本的だね。そんな日本的無意識って気持ちわるいね。好きになれないな。なんだか危ない世の中になっていくんじゃないか心配だよ。

[青] 評論家の山本七平が、『空気の研究』っていう超面白い本の中でこの辺りのことをシリアスに書いている。こりゃあ今の若い建築家たちには是非とも読んでもらいたいな。必読書だね。この「空気」を共同体の「無意識」って言ってもいい。彼の面白いところは、そこに「水を差す」っていう面白い比喩がでてくる。

[赤] これが江戸庶民の知恵みたいなものだね。

[青] でも、歴史では社会全体がその知恵を使えなかったんだよ。「水を差す」やつは弾圧されたからね。

[赤] ロシアや中国でやっているような言論弾圧はこわいね。世界中いくらでもあるけど。アメリカだってこの先どうなるかわからないしね。

[青] すこしゴマするけど、このBUNGA NETみたいな言論の解放区のありがたさをみんなで再認識しなきゃな。

[赤] 基本的にこれは「水を差す」場だからね。みんな水を差されてビショビショになってください。多少言い過ぎもあるかもしれないけど、だんだん慣れますから。

鬼は黙れない

[赤] もう半世紀も前の古い話だけど、スペインに住んでた時、秘密警察はいるわ治安警察はいるわ、すごく物騒な感じだった。1976年かな。

[青] 今のスペインじゃ考えられないような状況だった。

[赤] 治安警察には絶対に逆らっちゃいけない、って言われていたよね。

[青] 彼らは自分の判断で発砲する権利を与えられているって言われていた。まあ、バスクでもカタルニアでも爆弾テロが頻発してたからね。

[赤] アパートの中の個室でも、友人と社会の話や政治の話はできなかったね。

[青] 一つのブロックに一人、誰だかわからないけど内通者がいて、壁越しに話を聞いているらしかった。

[赤] うっかりしゃべれない。言いたいことも言えないし、表現の自由なんてあったもんじゃない。

[青] ボスのフェルナンドは、悪戦苦闘してたな。まあ、不思議な立場だったね。

[フェルナンド・イゲーラス] だからキミがスペインに来る時、来るのを少し待て、って電報打ったじゃないか。世の中騒然としていて仕事なんてないんだから。テロとストライキだらけだったからな。それでもきちゃったんだから、面倒見なきゃと思ったけど。

[赤] すみません。あれこれやってたら行けなくなると思って、強引に押しかけました。そしたらすごく歓待してくれて、嬉しかったです。

[青] 行く前に山口さんのところに相談に行ったら…。

[赤] 「ヒロチャン(オレたちのこと)、そういう時の方が面白いんだよ。価値観がガラガラ変わっていくからね。僕がグロピウスのところに行った時なんで、窓から見える広場で銃撃戦やってたからね」って言いましたよね。

[山口] まあ、言ったかな。

[青] エッ、無責任な。

[山口] 人生なんてそんなもんだよ。要するに二十代、信じているものを何回壊せるか、が物作りとしては必須なんだよ。壊せば壊すほどいい。僕なんか何回壊したか分からないくらいだよ。

『現代日本建築家全集11 坂倉準三 山口文象とRIA』(三一書房)を内藤氏が山口文象氏からもらった時に書いてもらったメッセージ

[赤] エー、そんなんでいいんですか。

[山口] いいんだよ。信じなさい、と言っても、それも壊していいんだけどね。

[赤] うーん、深い。

[青] 若い頃は、分離派の若きエースで、関東大震災後の震災復興局で働いて、創宇社建築会を作って、グロピウスのところに行って、コミュニストになって、戦後RIAを作って、共産党を脱退して、そちらの世界に行く一年前にはキリスト教に帰依、って人生を振り返ると、なるほど壊しまくりですね。

[山口] そうそう、でもその都度真剣に向き合ってきたし、本当に信じていた。信じ切って、突き詰めて、これは違うと思ったら容赦無く捨てる。それが下町育ちの潔さだな。

[赤] まいりました。オレたちそんなに壊していません。

[青] 建築ってやつは実に正直だよ。木密住宅地、郊外の住宅地、都心の再開発、オレたちがどうしても好きになれない超高層、どれも社会っていうやつの無意識の現れって見ることもできる。

[赤] そりゃーそうかもしれないけれど、社会的無意識があるとしたら、それに囲い込まれているってことだろ。それが建築的な価値の限界ってことになるよね。

[青] たしかにそうだけど、それを言っちゃあおしめぇよぉ、ってとこもあるぜ。

マドリッドのムダ話

[フェルナンド] オレの話はどうなったんだ。

フェルナンド・イゲーラス

[青] アッ、すみません、忘れてました。

ここで編集部注:フェルナンド・イゲーラス(1930~2008)はスペイン・マドリッドの建築家。内藤氏は早稲田大学の大学院を修了すると、スペインに渡り、フェルナンドの事務所に勤めた。当時、唯一気になっていた建築家だったという。

[赤] あの頃は仕事がなかったから、その分ボスには時間がありましたよね。

[フェルナンド] うん、暇だった。

[赤] デスクワークをそっちのけで、いろいろなムダ話をしたりして楽しかったです。記憶に残っているのは、『Desde el techo de espana』 っていうスペインの情報観光相が出した電話帳くらい分厚い写真集。全土のスペインの集落の航空写真が載ってる。

[フェルナンド] あれをめくりながら、ここはこう言う気候なんだからこう言う集落の形になる、なんて説明したよね。あの頃は、徹底的にアンチモダニストだったな。

[青] 事務所に届く建築雑誌のページをめくりながら、写真の上に、これはひどい (feo!!)、とか言って線を描いていましたよね。

[赤] 雑誌にポルトガルのシザの作品が掲載されていて、その写真の上に屋根を描いちゃったりしてましたからね。メチャクチャですよ。

[フェルナンド] 嫌いなんだから、腹が立ってくるんだよ。仕事がないとそういうのについ目がいっちゃうんだよね。

[赤] うーん、わかりやすい。

[青] 学生時代に聞いたリチャード・ノイトラの講演の話も面白かった。

[フェルナンド] ノイトラはモダニストだったけど、講演ではスペインの風土の素晴らしさを語り、モダンなんてどうだっていい、君らはこの風土の素晴らしさを形にしなければならない、って熱く語った。学生に向かって、お前らこんなところで俺の話なんか聞いてなんかいて、どうするんだ。目の前に素晴らしい風土とサンプルがいくらでもあるじゃないか、って言ってたね。

[青] そんな講演、感動しちゃいますよね。当時スペインといえば、知られているのはバルセロナのコデルクぐらいだった。構造家ではトロハがいたけど、そんなもんだったからね。まだガウディはバルセロナの変人みたいに扱われていた。

[赤] 当時、ピレネー山脈から南はアフリカだ、なんてパリの連中からは揶揄されたりして、ちょっと悔しかった。全然そんなことはないんだけどね。

[青] 長いファシズム政権のせいで、文化が弾圧されていたからな。人々のメンタリティの根っ子にはラテン的な明るさがあるのに、社会の空気は暗かった。

[赤] でも、ボスのおかげでたくさんのアーティストにも会わせてもらったね。

[フェルナンド] 素晴らしい友人たちだよ。世の中の暗い圧力にめげないで表現の自由を求めて生き延びてきた連中だからな。

[青] とくに、ボスの親友だった画家のセサール・マンリケとアントニオ・ガリシア・ロペス。それと、詩人のフェリス・グランデや土木のエンジニアで彫刻家のホセ・サントンハ。たくさんのアーティストに会わせてくれた。

[赤] とくにアントニオですね。彼はスーパーリアリズムの元祖として超有名だった。おそろしいほど素朴でピュアな人。彼とサッカー見に行ったりもしたね。

[青] ずいぶん後になって、彼のドキュメントをビクトール・エリセが「マルメロの陽光」ってタイトルで映画化した。ほぼ一年、ひたすら庭先のマルメロの木を描くだけ。日本でも上映されたけど、いい映画だった。

[赤] 純粋で透明な宝石のような素晴らしい人だった。彼らに会えたのは財産だね。それもフェルナンドがしてくれたこと。感謝してます。

[フェルナンド] 彼は親友だった。若い頃に彼に会って絵描きになるのをやめたんだからな。

[青] 建築学科に入学したけど、絵に溺れ、ギターに溺れ、卒業するまで八年もかかった。まったく、どういう学生だったんだろうな。

[赤] たしか大学二年と三年の時に、全国の水彩画部門で二年連続ゴールドメダルだったんですよね。すごいですね。

[フェルナンド] まあな。

[赤] あのバラの静物画は素晴らしい。鬼気迫るものがありますよ。オレたち鬼だからよくわかる。

[青] そこでアントニオに会って、こいつにはかなわない、って断念して、今度はギターの巨匠のアンドレス・セゴビアの弟子になった。そして卒業設計で話題になって、若くして独立。そしてモンテカルロの芸術文化センターの国際コンペ。

[赤] あれはすごい案だった。なにより美しかったし、それまでの建築とは全く違う視点での建築感の提示だった。まさに天才の仕業。それも二週間で図面も模型も作ったっていうのも信じられない。なにかが閃いて、すべての焦点が合ったっていう感じですね。すごい才能。

[青] でも、アーキグラムに負けて二位、あれが建ったら世界の潮流も変わったと思うんだけどなー。残念でした、unbuilt。そこまでで三十代の後半、尋常じゃないですよね。

[フェルナンド] わかってればいいんだよ。

[青] 事務所で一月にいっぺんはパーティをやっていた。そこにはマドリッド中の著名なアーチストが集まってきた。みんなフェルナンドの才能を認め、人柄を愛していた。今になって考えてみれば、フェルナンドの事務所が解放区になっていたんだね。

フェルナンドの事務所でのパーティーの様子。中央付近に内藤氏(写真提供:内藤廣)

[赤] 若い頃にはでに脚光を浴びちゃったから、建築家協会の若手からは旧体制のシンボルみたいに見られてたみたいだし、 『Nueva Forma』なんかの建築雑誌からも手のひら返しで締め出されていた。その前は何度も一冊丸ごと特集なんか組まれてたのにね。

[フェルナンド] あいつらなんにも分かってない。世界中で唯一、日本の『GA』の二川幸夫と『A+U』の中村敏夫編集長とだけは付き合いが続いた。

[青] 中村さんにはお世話になりました。初めてフェルナンドに会いに行く時に推薦状を書いてもらった。二川さんがマドリッドに来た時は案内役をしたりもしたな。

[赤] フェルナンドのことを思うと、世の中の建築に対する価値観なんて当てにならないもんだなとつくづく思うね。

[青] 建築ってのはそういう時代の波を越えていくんだよ。それを乗り越えたものだけが残っていくのさ。

[赤] そう考えると、図太いっていうか、気にしないっていうか、時代に鈍感な建築の方が残るのかもしれないねー。

(今回はここまで!)

内藤 廣(ないとう・ひろし):1950年横浜市生まれ。建築家。1974年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。同大学院理工学研究科にて吉阪隆正に師事。修士課程修了後、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所、菊竹清訓建築設計事務所を経て1981年、内藤廣建築設計事務所設立。2001年、東京大学大学院工学系研究科社会基盤学助教授、2002~11年、同大学教授、2007~09年、グッドデザイン賞審査委員長、2010~11年、東京大学副学長。2011年、東京大学名誉教授。2023年~多摩美術大学学長。

【展覧会のお知らせ】丸和 新社屋(和歌山県紀の川市)にて竣工記念展示「建築家・内藤廣 赤鬼と青鬼の果てしない戦い」を開催中です。会期:4月27日(土)~5月25日(土)/休館日:日曜・祝日/開館時間:10:00~16:00/入場無料、申込み不要/会場:丸和新社屋(1・3・4階)※保育所棟の内部は見学できません。https://twitter.com/naitohiroshi/status/1776219959879979008

本連載はおおむね月に1回掲載の予定です。連載のまとめページはこちら↓。

(イラスト:内藤廣、ビジュアル制作:内藤廣建築設計事務所)