完成まで1年半の衝撃、「ホテルニューオータニ」に学ぶ先読み力と挑戦心(東京/1964年)─TAISEI DESIGN【レジェンド編】

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一般の人が“名建築”として思い浮かべる建物は、いわゆるアトリエ系建築家が設計したものとは限らない。大組織に属する設計者がチームで実現した名建築にも、世に知られるべき物語がある。大成建設が設計を手掛けた名作・近作をリポートする本連載。第2回は、東京・紀尾井町にある「ホテルニューオータニ」(現 ザ・メイン、1964年竣工)を訪ねた。

【協力:大成建設設計本部】

誤解されがちな“日本初の超高層ビル”

 昭和のエポックとなった1964年の東京五輪。新幹線、首都高速道路、ストップウオッチ、冷凍食品、カップ酒、ポリバケツ…などなど、巨大インフラから日用品に至るまで多くのイノベーションが生まれた。建築分野でしばしば五輪イノベーションの象徴として取り上げられるのが「ホテルニューオータニ」(現 ザ・メイン)だ。

北側(四ツ谷側)の車寄せから見た外観。後述するように,、映画『007』シリーズにもこのアングルで登場する(写真:特記以外は宮沢洋)

 イノベーションの1つ目は、「日本初の超高層ビル」であること。地上17階建てで、高さ約70m。竣工当時、国会議事堂を抜いて、日本一高い建物となった(東京タワーや無線塔などの工作物を除く)。

(イラスト:宮沢洋、以下も)

 えっ、日本初の超高層ビルは霞が関ビルディング(1968年竣工)でしょ? そう思った人もいるだろう。霞が関ビルディングは地上36階建て。高さは147mで、ホテルニューオータニの2倍強。形も縦長で欧米の摩天楼のイメージに近い。実は「超高層」に明確な定義はなく、専門家の間では法規制が厳しくなる高さ60m超のものを超高層と呼ぶのが一般的だ。霞が関ビルディングも当初は、「超高層ビルのパイオニア」「本格的超高層建築」などと書かれていたが、次第に限定が外れ、「日本初」のイメージが定着したようだ。

あり得ない!「設計を含めて17カ月」

 ホテルニューオータニのイノベーションその2は、初の超高層ビルを設計・施工を合わせて17カ月でつくり上げたこと。建築に詳しい人は「17カ月? 間違いだろう」と思うかもしれない。今でもこの規模のホテルをつくろうとしたら、施工だけで2年以上かかるだろう。それが、設計を含めて1年5カ月で出来上がったというのである。

 イノベーションその3は、その超短工期実現のために、外装をアルミ・カーテンウオールとしたこと。カーテンのように上から吊るす壁をカーテンウオールと呼ぶ。これを工場で先行してつくり、現場ではめ込むことで工期を短縮した。日本初ではないが、この規模の建物では例がなかった。

 そしてイノベーションその4は、ユニットバス。これは日本初だ。現在では新築住宅の約9割で採用されているユニットバスは、このホテルの建設ために開発されたもので、1044室に設置された。

同時期の大規模ホテルはほぼ現存せず

 今年(2024年)は前東京五輪からちょうど60年となる。ホテルニューオータニも、2024年9月1日に開業60周年を迎える。60年の節目を、開業時に建てられた建物で迎えるのは、競争の激しいホテル業界ではかなり珍しい。

 例えば、五輪のために建てられたホテルにはこんなものがある。ホテルニュージャパン(設計:佐藤武夫設計事務所=現佐藤総合計画、1960年竣工)、パレスホテル(竹中工務店、1961年)、ホテルオークラ(ホテルオークラ設計委員会、1962年)、東京ヒルトンホテル(久米建築事務所=現久米設計、1963年)、東京プリンスホテル(竹中工務店、1964年)。最後に書いた東京プリンスホテル以外は建て替わっている。

 前述したイノベーションの数々は確かにすごい。だが、それが理由で建物が残っているわけではない。この連載では、建物が60年たった今も人々に愛されている理由を探りたい…。

堀から一番遠い場所に建物を置く

 ここで今回の案内人の登場である。

 本連載は、過去の名作に関しては、現在の大成建設に所属する一線の設計者に案内してもらうことにしている。今回の案内役は3人。右写真の左から大成建設設計本部建築設計第二部の伊勢季彦部長、同建築設計第三部設計室の高橋秀秋室長、同専門デザイン部インテリアデザイン室の髙橋洋介室長。いずれもホテル設計やインテリア設計のプロたちだ。

 まず、伊勢部長の指摘に納得。「普通ならば堀のビューを見せるように建物を計画すると思うが、ここは建物を堀から遠い北側に置き、庭園を生かして建てた。後に、南東側に新館やガーデンタワーが建設され、庭園がクローズされた落ち着いた空間として残った。その先見性に驚かされる」。

南側の庭園から見る。大成建設の高橋秀秋室長は、「庭園あってのホテルニューオータニ。敷地全体の空間美。60年という時間によって魅力が増した」と語る

 そう、それは筆者も感じていた。赤坂見附側から行くと、本館は丘の上のちょっとわかりにくいところにある。庭を守ったのだ。

 ここから先の話は、ホテル建設の経緯を知ってから読んだ方がわかりやすいだろう。

 ホテルニューオータニを創業したのは、大谷重工業を率いた大谷米太郎(よねたろう、1881~1968年)だ。ホテルニューオータニ庭園内に銅像が残る。1881年富山県生まれ。相撲力士を経て、「鉄鋼王」となった異色の実業家だ。

左が庭園に立つ大谷米太郎の銅像

80歳を超えてホテル創業を決意した大谷米太郎

 大谷はかつて伏見宮邸があった紀尾井町の1万8000坪の敷地を1951年に買い取り、自邸とした。この敷地が外国の大使館になるという話があり、江戸から続く日本庭園を後世に伝えたいという思いで購入したという。

 1964年の東京五輪を前に、国や東京都はホテル不足を強く懸念しており、大谷にホテル建設を要請した。大谷はこの場所にホテルを建設することを決意する。大谷はこのとき、80歳を超えていた。

 大谷にホテル経営の経験はない。だが裸一貫から財を成した大谷は、フットワークが軽かったようで、ライバルとも思える大倉喜七郎(1882~1963年)に相談に行く。大成建設の創業者である大倉喜八郎の息子で、1962年にホテルオークラを開業していた。大倉はホテル経営について大谷に助言するとともに、ホテルオークラの設計を担当した建築家の柴田陽三(観光企画設計社の創業者、1927~2003年)や大成建設の設計チームを紹介した。

設計チームはホテルオークラの知見を生かす

 ホテルニューオータニの設計の中心になったのは大成建設の清水一(はじめ、1902~1972年)だ。清水は東京帝国大学を出て大成建設(当時は大倉土木)に入社。戦前にはサンフランシスコ博覧会日本館(1939年)を担当。戦後にはホテルオークラやホテルニューオータニなどを担当し、退職後には日本大学生産工学部教授となった。

 伊勢部長はこう見る。「設計も含めて17カ月という短期間でこのホテルが建設できたのは、清水一さんを中心とする設計チームが、先に完成したホテルオークラで様々な課題を検証した後だったからだろう。建物の形はホテルオークラと似た三ツ矢の形状とし、既存の庭園が最も生きる場所に建物を置き、あとは施工をしながら細部を詰めていったのではないか」。なるほど…。確かに、オークラもニューオータニほど整形ではないが、三ツ矢形だった。

大谷の無茶ぶりに設計者は…

 そして、前回リポートした「ザ・シンフォニーホール」と同様、設計を進める中で奇跡が生まれた。それは「回転展望レストラン」である。外観の特徴になっている上部の円盤部分だ。

 これは施工がかなり進んだ段階になって、大谷が「世界中からお越しになるお客さまに、日本が誇る富士山をお見せしたい」と、設計チームに要望したといわれている。突貫工事の真っ最中に、日本ではほぼ例のなかった回転展望台をつくれ、というのである。なんという無茶ぶり。今なら、「あり得ません!」と迷いなく断る話だろう。だが、設計チームは要望を受け入れ、試行錯誤の末に実現した。

 このエピソードを聞くと、施工途中であんなに大きな円盤(直径45m、重さ80トン)を加えることが構造的に可能なのかという疑問が沸く。その疑問に答えると、この建物は当初、地上22階建てで計画されていた。それが途中で17階に減らされたので、構造的に余力があったのだ。高さを抑えた理由ははっきりしないが、皇居方向への視線と富士山レーダーからの電波に配慮したともいわれる。

 「奇跡」と書いたのは、大谷の無茶ぶりに対応できる構造的な余裕があったことが1つ。そしてもう1つは、円盤を載せることで、地上からの外観が明らかにかっこ良くなったことだ。

平面はこういう形

 三ツ矢形といっても、平面は三ツ矢サイダーの形ではなく、正三角形の各辺を伸ばした手裏剣のような形だ。そのため、建物の中心に載せた円盤は、地上から見ると2枚の壁の左側にずれた位置に見え、全体が独特のバランスを生んでいる。おそらく清水も、大谷の無理難題を聞きながら心の中で「それ、いいかも…」と思ったに違いない。

 この建物は開業から3年後の1967年に公開された映画『007は二度死ぬ』に登場することでも知られる(敵組織「大里化工業」のアジトとして)。あの円盤がなかったらロケ地に選ばれることもなかっただろう。

大谷の挑戦心が伝わる富士山の景色

 大谷の無茶ぶりエピソードや『007』のロケの話などを教えてくれたのは、ホテルニューオータニ取締役事業プロジェクト本部長・マネージメントサービス部長の髙山剛和氏だ。この建物への愛情がハンパない。

ホテルニューオータニの髙山剛和氏

 その髙山氏が一番好きなのは、やはり最上階のビュッフェ&バー「VIEW & DINING THE SKY」だという。2019年のリニューアルで回転を停止し、席数を増やした。

 そこからは、大谷が望んだ富士山が今もよく見える。「創業者である大谷米太郎の挑戦心が伝わる場で、従業員の中にもここが好きだという人が多い」。

ビュッフェ&バー「VIEW & DINING THE SKY」からの富士山の眺め(写真提供:ホテルニューオータニ)
現在のシングル客室(新江戸シングル)。2007年の改修工事で外装がアルミ・カーテンウオールからガラス・カーテンウオールに変わり、客室開口部のガラス面も足下まで広げられた。改修設計は日建設計が担当(写真提供:ホテルニューオータニ)

 竣工から60年。超短工期を実現した当初のユニットバスはすでになく、アルミカーテンウオールは2007年の改修工事でフルハイトのガラスカーテンウオールに交換された。

竣工時からある宴会場「芙蓉の間」の扇の装飾。大成建設の髙橋洋介室長は「インテリアは改装されている部分も多いが、芙蓉の間など、日本の伝統を品良くデザインに取り入れた部分は残していただいているのがうれしい」と語る

 2007年の改修工事の前には、建て替えの検討もされたという。そうした危機を乗り越えて当初の建物で開業60年を迎えるということ自体が、現在に受け継がれた大谷の挑戦心の表れといえるのではないか。(宮沢洋)

■概要データ
所在地:東京都千代田区紀尾井町4-1
発注者:大谷観光
設計・施工:大成建設

構造:鉄骨造、一部鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造
階数:地下3階・地上17階
延べ面積:8万4411m2
客室数:1058室(竣工時)
工期:1963年4月~1964年8月
開業:1963年9月1日

■参考文献
『東京大改造マップ2020』(2014年、日経BP )内の「建築家たちの1964〈都市建築編〉」(磯達雄)、『東洋一の巨大ホテル 不夜城作戦に挑む プロジェクトX』(2005年、NHK出版)

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