日曜コラム洋々亭50:レーモンド「軽井沢夏の家」が重文内定、救世主は入社2年目の記者─「有名建築その後」秘話

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 記念すべき50回目となる今回の日曜コラムは、“ペンの力”について書きたい。

 文化審議会(佐藤信会長)は、6月23日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、8件の建造物を重要文化財に新規に指定することを文部科学大臣に答申した。8件の中には「軽井沢夏の家(旧アントニン・レーモンド軽井沢別邸)」(1933年竣工、設計:アントニン・レーモンド)が含まれる。現在のペイネ美術館である。

(写真:磯達雄、2006年撮影)

 以下は答申の原文だ(太字部)。

【重要文化財 新指定の部】
木造モダニズム建築の嚆矢(こうし)となった建築家レーモンドの別荘兼事務所(近代/住居) 軽井沢夏の家(旧アントニン・レーモンド軽井沢別邸) 1棟
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町
所有者:有限会社塩沢遊園
軽井沢に位置する昭和8年建築の建築家アントニン・レーモンドの別荘兼事務所。昭和61年に現在地に移築された。バタフライ屋根とスロープ、吹抜を用いて、立体的で動きのある空間を創出し、丸太による木造軸組構造、芯外しの引戸などを駆使して軽快さと開放性を実現した。モダニズム建築を日本の伝統技法を用いて実現した先駆的な事例であり、後の我が国の木造のモダニズム建築に大きく影響を与えたものとして歴史的価値が高い。
○指定基準=歴史的価値の高いもの

 「木造モダニズム建築の嚆矢」──。嚆矢(こうし)というのは「物事のはじめ」という意味だ。つまり、日本の木造モダニズの起点。昨今の木造建築への関心の高まりを反映していると見てよいだろう。意義深い選定であると思う。

これ以降の写真は2011年に撮影。美術館仕様ではなく、「軽井沢夏の家」仕様のときに撮影したもの。通常の美術館仕様では、作品保護のためもっと窓が閉じられている

 ここで書きたいのは、答申の中でさらりと触れられている「昭和61年(1986年)に現在地に移築」という部分だ。重文内定を伝えるどの報道にも触れられていなかったが、この建築は移築前、解体されることがほぼ決定していた。それを救ったのが、筆者の古巣『日経アーキテクチュア』の「有名建築その後」という記事だった。掲載号は1984年8月13日号。筆者は1990年入社なので、その6年前の記事だ。

編集部に伝わる“伝説の記事”、確かにすごい

 この記事は、筆者の指導デスクでもあった村田真記者が書いたものだ。先輩なので村田さんと呼ぶ。入社した頃には、村田さんのこの記事は“伝説の記事”で、必ず読まされた(たぶん、現編集部の人たちは誰も知らない)。読んでみると確かに素晴らしく、筆者がデスク時代に創刊1000号記念(2013年)の書籍『現代建築解体新書』をつくったときには、この記事を“編集部に語り継がれる伝説の記事”と紹介した。

 記事は、1933年の竣工から50年たった夏の家の現状と、完成時の“盗作騒動”の真偽についてリポートしている。“盗作騒動”についてはご存じの方も多いだろう。雑誌『アーキテクチュラル・レコード』で紹介されたこの建物を見たル・コルビュジエが怒り、“これは私が南米チリで計画したエラツリス邸の設計案の盗作ではないか”とレーモンドに手紙を送りつけ、両者の間でしばらく確執が続いた、という話。最終的にはコルビュジエの「ご遠慮なく」というコメントを載せた手紙で両者は和解した(とされる)。そのやりとりは「ル・コルビュジエ全作品集」(A.D.A.EDITA Tokyo Co.,Ltd.)や「自伝アントニン・レーモンド」(鹿島出版会)といった書籍で紹介されていた。

 村田さんの記事がすごいのは、そんな誰もが蒸し返したくないような話を、レーモンド事務所OBで当時、大御所中の大御所だった前川國男や吉村順三に聞いていること。さすが当時の大御所は、それに答える。2人のコメントは、レーモンドとの関係性の違いを表しているようで面白い。

 レーモンド完全擁護なのが吉村順三。「盗作というにはあたらない。レーモンドがオリジナルなテーマを持ってしたことだから。スケールも違うし構造も異なるしね。そんなこといったら日本中、盗作だらけになってしまう」

 一方の前川國男は、微妙な距離感。実は前川はコルビュジエの下でエラツリス邸の計画に参加していた。「夏の家を発表する時、僕はレーモンドにそのこと(自分がエラツリス邸の計画に参加していたこと)を教えて、これはコルのアイデアによるものだというただし書きをつけて発表してくれとお願いしたんだが……。それがどういうわけか途中でとれてしまって、レーモンド独自の作品のように発表されたものだから、コルビュジエが怒ってね」

 前川は「主室の内部が似ているのは当然。真似してつくったのだから」と言いきる。そしてこう言う。「ある特殊な形が出来れば、それを何度も練り直すことによって洗練され昇華されたものがつくり上げられる。(中略)真似されたからといってその人を責めることは感心しない」

 記事の後半では、建物がレーモンドの所有を離れた後に増改築されていることや、当時の所有者である日本火災(現損保ジャパン日本興亜)が建て替えを検討していることを伝えて終わる。締めの吉村のコメントもいい。「思い出深い建物ですよ……。でも、昔の面影は残っていないね。もうしょうがない。壊れた方がいいよ……」

 今も昔も、日経アーキテクチュアの記事は、というか日経グループの記事は原則、事前チェックがない。あったら、こんな生々しいコメントは記事にならない。村田さんは証拠の録音テープをずっと残しているという。

日本火災社長の心を動かす

 ここまでは村田さんの記者としての力量がすごいという話。入社2年目でこれか。書きっぷりがベテラン過ぎる……と記事を読み返して感嘆した。念のため、村田さんは今もお元気なのでご安心を。で、ここからが一般論としての“ペンの力”の話である。

 この記事は、村田さんも予期しなかった大きなうねりを生んだ。以下、村田さん自身による回想記の要約。

・記事が世に出て約4週間後、村田さんは日本火災担当者から電話で呼び出しを受ける。
・抗議を受けるのだろうと身構えていると、現れた担当者は意外なことを話し始めた。
・社長の品川正治があの記事を見て驚き、いま進めている計画案を棚上げし、「夏の家」を記念した公開設計コンペを実施することになった。ついては、設計コンペをどのように進めればよいのか、まず誰に相談すべきか、あなたの意見を聞きたい。
・村田さんはコンペの歴史に詳しい近江栄・日本大学教授(当時)の名前を挙げた。
・1985年1月にコンペの応募要項が発表。応募登録は1580人、応募点数は654点に上った(当時の最高記録)。
・公開コンペの当選案である秋元和雄案は、「夏の家」の建っていた敷地に、86年7月に「日本火災海上保険 軽井沢山荘」として完成。
・コンペのお祭り騒ぎの陰で、当初84年秋から取り壊されるはずだった「夏の家」は約1年間の猶予期間を与えられる。その間に関係者が走り回り、移築保存されて生き延びることになる。
・中心人物は藤巻進氏。84年当時、塩沢湖畔のスケート池を中心とした遊園地の支配人を務め、冬型から夏型へとリゾート施設のリニューアルを図ろうと動き始めた矢先だった。
・そんなときに藤巻氏は日経アーキテクチュアの記事を知り、建築界の関心が公開コンペに向くなか、「軽井沢夏の家」を移築保存する可能性を探り始める。
・「塩沢湖レイクランド」と名付けた新しいリゾート施設の一角に「夏の家」を移築再生させた「ペイネ美術館」が86年7月、オープンした。(日本火災の新しい軽井沢山荘が完成したのと同じ月)。
・「塩沢湖レイクランド」はその後「軽井沢タリアセン」と名称を変更し、有島武郎別荘、野上弥生子書斎、旧・軽井沢郵便局舎(明治四十四年館)、旧朝吹山荘(睡鳩荘)を順次移築保存して今日に至る。

 そして、移築から37年たった2023年、重要文化財となる。村田さんは、保存活用を狙って書いた記事ではないと思うが、力を込めて書いた記事には人を動かすパワーが宿る。そう信じたい。

自分は品川社長のような人を増やしたい

 実は筆者も近い経験があって、それは2005年の「建築巡礼」で「都城市民会館」(1966年、設計:菊竹清訓)を取り上げたときだった。取材に行ったら、解体の検討をしているということが分かった。たぶん、地元の人以外誰も知らなかった。それを記事で書いたら、保存運動が起こった。日本建築学会が自主提案を行うなど大きな動きになったが、結局、壊されてしまったのはご承知の通りである。

 筆者はそのトラウマがけっこう大きくて、「専門家よりも一般の人に伝える」方向にかじを切った。一般の人の建築への関心を少しでも高めることに力を入れたい。専門家と一般の人をつなぐ人間がいてもいいのではないか、と思い独立したのだ。決してそれが最善とは思っていない。砂漠に水をまくような話だ。建築メディアの人は専門家を動かす記事を書いてほしい。

 ただ、村田さんの回想を読んで、筆者のようなスピンオフの選択も間違いではなかったかも、と勇気づけられた。それは、「有名建築その後」を読んで心を動かされた日本火災の品川正治社長(1924-2013年)のこと。村田さんの回想によると……。

 84年の暮れに初めて品川社長にお目にかかったときはコルビュジエや建築の文化的価値、公開コンペの話にほぼ終始した。

 品川社長が学生時代にコルビュジエの「伽藍が白かった時」を原書で読んで感銘を受けていなかったら、(中略)この公開コンペが実現し、成功することはなかった。

 品川社長は、建築学科出身ではない(東大法学部卒)。なのに建築に理解がある、たぶん「建築好き」な人だったのである。筆者にとっての“ペンの力”は、こういう人を増やすことだ、と改めて思った。

 なお、村田さん自身による回想記(全5回)はこちら↓で読めます。
https://xtech.nikkei.com/kn/atcl/bldcolumn/15/00017/062600042/
https://xtech.nikkei.com/kn/atcl/bldcolumn/15/00017/062800043/
https://xtech.nikkei.com/kn/atcl/bldcolumn/15/00017/070300044/
https://xtech.nikkei.com/kn/atcl/bldcolumn/15/00017/071400045/
https://xtech.nikkei.com/kn/atcl/bldcolumn/15/00017/071900046/

(宮沢洋)