倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」04:初期 伊東豊雄論<後編>時代性を巧みに映した「ホテルD」と「PMTビル」

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前編から続く。

表面のみの世界の「完成」

 しかし、「断層」は閉じられなければならない。「表面のみの世界」と矛盾するからである。引き続き『風の変様体』でその様子を追っていこう。

 「文脈を求めて」(1977年6月)における「⑥断層」の記述は、同書への再録時にも残されているが、こうした要素は、続いて収録された論考では綺麗さっぱりと拭われている。「表層」、それに「表皮」という先の「衣服」や「表面性」と相性の良い用語が併用され、論理と作品との整合性も高い。したがって、次のように長めに引用しても読みやすいものとなっている。

 「私は建築の表皮を特に大切に扱ってきた。表皮は薄いファサードとしてあらわれることもあるし(PMTビル、王子の家プロジェクト)、また壁や天井などのインテリアを白く覆ってしまうこともある(中野本町の家、ホテルD)。いずれの場合にもその表皮は平滑な平面や曲面で構成されており、さまざまな光が照射され、壁を映し出すスクリーンとして作用する。意味の断片を伝えるエレメントもあたかも紙でつくられたかのように軽くグラフィカルに扱われる。紙のようなスクリーンをいくら辿ってもその表面をスライドするだけでものの奥行きはあらわれることがない。それは表層のみを通過してゆく私たちの都市の構造でもあった。私たちは建築においても都市と同様に記号の浮遊する空間を歩き、そこに意味の空間を織り上げる。」

伊東豊雄「PMTビル名古屋」1978年(写真:山田脩二)
伊東豊雄著『風の変様体』1989年

 以上は「建築におけるコラージュと表層性」と題された短文の一部だ。これは『風の変様体』の1978年の章に収録された唯一のものであり、同書中に「初出」と記されたただ一つの文章である。

 前年の1977年に、長谷川逸子は「焼津の住宅2」において「背後に何もないもの」にこだわり、「柿生の住宅」の作品解説で「表層」を強調していたことを連載第2回に示した。この1978年に書かれたかのように読める伊東豊雄の文章(「建築におけるコラージュと表層性」)は、それらも繰り込んで説明可能な性格を持っている。

 「ものの奥行きはあらわれることがない」といった断定は「断層」を閉じるものである。1977年1月の「光の表徴」では、美術評論家である宮川淳の「存在論の文脈から脱けおち」「厚みを持たず、どんな背後にも送りとどけ」ない表面という文章が引用されていた。こうした定義を自家薬籠中のものとし、完成したばかりの自作と見事に関連づけられている。

『風の変様体』に収録されなかった2つの作品解説

 けれども、伊東豊雄が現実に1978年に発表した作品や文章は、そこまで割り切られてはおらず、これが「表層」の重要性をいっそう増すことになる。表層という概念が意外に複雑なこと、いわば言葉と裏腹に「厚み」のある概念であることが分かるのだ。ここからは「ホテルD」(1977年)と「PMTビル」(1978年)に伴って発表された文章を見ていきたい。すべて『風の変様体』には未収録となっている。

伊東豊雄「ホテルD」1977(写真:山田脩二)

 「ホテルD」は1977年11月に竣工した、長野県菅平高原に建つ全35室のリゾートホテルである。「はじめて住宅のスケールを越える建築」(注6)として苦心したことを当時に記し、後に「多木浩二や坂本一成らとしばしば夜を徹して建築論を語り合っていた時期で、私自身の建築に対する思考も揺れ動いていたので、進行している設計と変わっていく思考とのズレにこれほど苦しんだ建築はない」(注7)と述懐している。

 形態で特徴的なのは、モルフェーム(前編を参照)が平面方向だけでなく、断面方向にも使われている点だ。リニアに伸びる平面の中央部が高くなった天井に、ギザギザに雁行する形や円弧の形が適用された。それはトップライトからの外光を受けて、壁も天井も白く塗られたレストランやラウンジなどの空間に微妙な陰影をつくり出している。

伊東豊雄「ホテルD」1977(写真:山田脩二)

多木浩二との対談ではあえて「ファサード」と呼ぶ

 建築雑誌に発表されたのは1978年3月だった。『新建築』のほうでは、多木浩二との対談「建築を、文化の文脈に」が併せて掲載された。その中で伊東豊雄は「今回の設計ではじめてファサードの問題が出てきた」と述べている。「たとえば、ファサードに2本の柱がある」と言われているのは、切妻型になった立面のエントランス側にある開口部の中央に置かれた2本の縦線である。開口部の右側は円弧となり、左側にはギザギザの形が用いられている。「中野本町の家」で初めてモルフェームが使われた時、それは線も含んでいた。「ホテルD」における新しい出来事は、モルフェームが外観に出現したことだと言える。

伊東豊雄「ホテルD」1977(写真:山田脩二)

 ただし、当時の作者はあえて「ファサード」と言い、「2本の柱」と形容している。歴史的な建築要素の復活を思わせる言葉が選ばれているのだ。ファサードは「ふたつの対立する要素をひとつの面に重ね合わせる操作」を意図しており、「イコンとして操作しようということが、自分の中ではじめて出てきた」と語る。多木浩二は冒頭から、伊東豊雄の作品が「装飾的」であるとし、「ほとんどキッチュといってよい〈中略〉アール・デコ」に近接していると述べるが、伊東豊雄はそれを否定せず、対話は「装飾」や「キッチュ」の肯定的な側面を広げる形で進んでいる。

 『建築文化』のほうでは、伊東豊雄の論考が併載された。その「コルビュジエとヴェンチューリの交錯する地点に今日ひとつの建築が成立する」というタイトルには、対談にも垣間見えたロバート・ヴェンチューリへの関心が、この上なく明快に現れている。表題を受けて「これはパロディでもアイロニーでもなく、ひとつのレトリックである」と書き出し、両者を「スタイルとして重ね合わせようとする形態の問題ではない」とした上で、「コルビュジェが半世紀も昔に、もっとも巧みに完成してしまった近代建築の構成のなかに、ヴェンチューリの唱えるイコニックなシンボル操作を加えていった地点に、建築を今日成立させることが可能ではないか」と、主張は最初の段落において明確である。

チャールズ・ジェンクス『ポストモダニズムの建築言語』発刊の影響も?

 やや意外かもしれない1978年の内容は、この年、海の向こうから「ポストモダニズム」の荒波が一気に押し寄せたことの現れなのだろうか?

チャールズ・ジェンクス著『ポストモダニズムの建築言語』 (竹山実訳、1978年)

 1977年には、一般的に「ポストモダニズム」の画期とされるチャールズ・ジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』が刊行された。1978年10月に邦訳書(竹山実訳、新建築社)が出版され、同じ月には、同著者が近代建築の巨匠の中に矛盾するものの闘争を見出した『ル・コルビュジエ』(原著1973年、佐々木宏訳、鹿島出版会)の訳書も出ている。

ロバート・ヴェンチューリ他著『ラスベガス』(石井和紘+伊藤公文訳、1978年)

 ロバート・ヴェンチューリはと言うと、1966年に彼が上梓した「Complexity and Contradiction in Architecture」は、すでに1969年に『建築の複合と対立』(松下一之訳、美術出版社)として出版されていたが、スコット・ブラウンとの共著である「Learning from Las Vegas: the Forgotten Symbolism of Architectural Form」(原著1972年)は、その一部が『a+u』1974年11月号を通じて日本でも紹介された(松永安光訳)後、1977年のアメリカでのペーパーバック化によって幅広い読者を獲得し、1978年9月に『ラスベガス』(石井和紘+伊藤公文訳、鹿島出版会)として邦訳される。

 歴史的な建築要素を復活させ、記号として操作する。日本の状況は、こうしたアメリカの潮流からの感化として説明可能なのであって、従来と違った色彩を帯びた1978年の文章は、そんな大勢を示すものなのだろうか?

海外の言説を組み込みながら、同時代観を言い換える

 「コルビュジエとヴェンチューリの交錯する地点に今日ひとつの建築が成立する」が、海外の言説を多く組み込んだ論考であるのは事実だ。ル・コルビュジエとロバート・ヴェンチューリを掛け合わせた結論は、前川國男や吉阪隆正が翻訳したル・コルビュジエの言説の引用、「ホワイト派」と「グレイ派」をめぐるヴィンセント・スカリーの評論、ヴェンチューリの2つの著書の内容などを参照した上で導かれている。参照源となっているのはSD選書などの翻訳書や、『SD』(1965年1月創刊)および『a+u』(1971年1月創刊)に掲載された訳文である。ここからは1970年代のアメリカで興隆を見せた建築理論が、昭和期を支えた日本の翻訳文化・出版文化を通じて咀嚼され始めた、当時の時代状況が見て取れる。

コーリン・ロウ著『マニエリスムと近代建築』(伊東豊雄+松永安光訳、1981年)

 伊東豊雄自身が、そうした国内外のつながり方の立役者の一人でもある。論考では自らのル・コルビュジエ解釈を「ホワイト派」とも「グレイ派」(ヴェンチューリ)とも同一でないものとして打ち出している。補助線となっているのが、コーリン・ロウの「理想的ヴィラの数学」である。この論考を収録した『マニエリスムと近代建築』(伊東豊雄+松永安光訳、彰国社)の邦訳書は1981年10月に刊行され、現在も版を重ねている。訳者あとがきに「今から三年ほど前に〈中略〉本書の翻訳を依頼された」と書かれているから、海外の理論もフラットに取り込んだ先の論考は、出版を前提に翻訳を進める過程で最初に現れた成果であることになる。

 そして、主張の内容そのものは、従来からの連続性が強い。このことが重要である。ヴェンチューリの論に対しては「ヴェンチューリのオーディナリーなシンボル操作によって現われるさまざまな記号群は、今日の時代文化と結ぶ可能性を示唆しているように思われる」と独特の解釈がなされているが、これはすでに伊東豊雄が繰り返していた「表面性の時代ともいうべきひとつの文化的状況」や「記号の浮遊する空間」といった同時代観の言い換えとなっている。ル・コルビュジエの「ガルシュの家」を「さまざまなカーヴや折れ線が軸に沿って配列されるかと思うと、途端にそれらは軸からそれて自由な流れをつくり出す」と描写し、「複数の軸線からの規制とエレメントの自由な展開」と述べているが、ここで見出されているのが、自作である「中野本町の家」と同様の「軸線を貫きたいという観念の志向と〈中略〉感性との対立」であることは言うまでもない。

海外の論考によって「持論を補強する」伊東豊雄の新しさ

 一見「ポストモダニズム」の潮流に乗ったようにも受け取れる当時の論考だが、そこには歴史的な建築要素の復活や記号としての操作という以外の内容も組み合わされている。海外の論考によって、かねてからの持論を補強する姿勢に、当時の伊東豊雄の新しさがある。これは国外の動向を国内での主張の正統性に結びつけるメタボリズム・グループ以前の多数の建築家の姿勢とは大きく異なる。『建築の解体』(1975年)などを通じて海外の新潮流を国内に紹介した磯崎新に刺激されているのは確かだが、彼のような対象とのよそよそしい距離感はない。

 この当時に開かれたのは、建築家という個人を通して海外と日本国内とが同時代性によってつながるといった、第二次世界大戦後で初めての局面である。もはや文化を一方が輸出し、他方がひたすらに輸入するという関係ではないのだ。ただし、アメリカの建築界が理論の時代に入ったことは、国内の建築家たちの力関係を書き換える可能性があって、以前からの思考の展開を後押ししただろう。1970年代後半に、海の向こうからの理論の一つとして「ポストモダニズム」もやってきた。歴史的な建築要素の復活や記号としての操作が、そのすべてだったわけではない。ただし、後から見ると、少しそれに寄り過ぎているようには感じられるかもしれない。

「PMTビル」──機能に呼応しながらも、そこからは決定されない外観

 以上のような状況の一つの帰結が「PMTビル」である。1978年3月、名古屋の幅50mの大通り沿いに4階建てのオフィスビルが完成した。

伊東豊雄「PMTビル名古屋」1978年(写真:山田脩二)

 1・2階が吹き抜けのあるショールームで、3階と4階の道路側にオフィススペースが位置し、上部に看板が付いている。1・2階、3・4階、看板の3層は、いずれもアルミパネルの外装で、それぞれに違ったカーブを描きながら、ビルの端部では一つの面となっている。まるでカードボードに切れ込みを入れ、緩やかに折り曲げたかのようだ。開口部などが形づくる3層の中心軸のずれも、統一性と多様性がせめぎあう感覚を高めている。

 壁の内側にある機能に呼応しながら、そこから決定されはしない外観を、意識的に操作している。1976年の「中野本町の家」が外観を問題にしていなかったのに対して、この2年間の変化がどれだけ大きなものか。それでも変わらないものがある。「表層」である。

「ファサードのためのファサードとして何をもってくることも許される時代」

 1978年6月の『新建築』の発表時には「薄いファサードについて」と題された作品解説が書かれた。内容としては、3か月前に発表された「ホテルD」で現れた「ファサードの問題」を受け継ぎ、それと「表層性」を明確に接続している。伊東豊雄の言説で「ポストモダニズム」という言葉が使われた最初だが、その刺激を受けて、1977年以来の思考がいっそう磨きあげられたことが重要だろう。「中野本町の家」を内省した時点から一貫して、薄さや表面性が意識されていることは、以下の抜粋から明瞭だと思う。

 「ポストモダニズムという名のもとで、ファサードのためのファサードとして何をもってくることも許される時代がはじまったのである。〈中略〉そのような並列化が進めば進むほど建築家にとって作品に関わる意図、というより態度をどれだけ鮮明にし得るかが問われるに違いない。〈中略〉私はその視点を建築の軽さ=表層性に求めている。〈PMTビル〉に即していえば、宙に浮く紙のようなファサードをつくることであった。建築の軽さなどというと存在感の希薄な、ただ表層のテクニックのみを追従した軽薄な建築と思われるかもしれないが、私にとってはさまざまなボキャブラリーを現代建築として現実に送り返すフィルターとしての意味をこの表層性に託している。〈中略〉私にとって建築のパラダイムを変えることが可能であるとするならば、その平板さ、薄さを磨きあげることにしかない。」

 『建築文化』のほうには、論考として「建築の平板化」が併載された。同月の『新建築』と重ならないよう、単体の作品解説という以上の普遍的な問題が設定されている。主張は3か月前の同誌に掲載した「コルビュジエとヴェンチューリの交錯する地点に今日ひとつの建築が成立する」への批判に対する再説明といった形で始まる。現在、建築家は「近代建築を飾ることが、果たして可能か」と問われている状況にあるが、それは「建築の平板化」というフィルターを通してのみ可能なのであり、ヴェンチューリはそれを行っている点においてのみ、自らの関心と接点を持つと説明される。伊東豊雄の言葉に従えば「建築の平板化」とは「肉体を伴わない知識としてのヴォキャプラリーの参照」であり、その解釈によると「ヴェンチューリ自身の言葉でいえば、デコレイテッド・シェドあるいはシェルター・デコレイションの建築であり、それはきわめて表層的、形式的、記号的、付加的に建築を捉える概念」となる。

「PMTビル」の表層は何かの表象ではない

 ポストモダン的状況と、ロバート・ヴェンチューリの『ラスベガス』の内容、かねてからの持論とが鮮やかに重ね合わされている。同時に、後から見ると、伊東豊雄の内的な深化である表層の追求が、舶来の形式的・記号的・付加的な「ポストモダニズム」と同一視されかねない危うさも感じさせる。

 というのも、一般的に理解される「デコレイテッド・シェッド(装飾された小屋)」と「PMTビル」とは大きく異なるからである。第一、「PMTビル」の表層は何かの表象ではない。単一の「記号的」な意味を目指してはいないのだ。1977年6月の「文脈を求めて」の言葉で言えば、それは「壁の向こうに裏側の世界がひろがっていることを期待しそこに思いをはせる〈中略〉レトリック」であり、さらに遡れば「都市の表徴」や「身体のリズム」と関係するというモルフェームの展開となる。

 それに「付加的」でもない。背後に小屋があり、装飾が追加されているのとは違って、「PMTビル」の場合、表層は内部にもある。ショールームの吹き抜けで1階と2階を穏やかに分けている流れるような面や、階段室の滑らかなガラスブロックの壁は、正面のアルミパネルの外壁と同種の存在である。それらは漂っているかのように、内部と外部の空間の区別をむしろ無くし、階ごとの区分も和らげる。それは宮川淳が言う「厚みを持たず、どんな背後にも送りとどけ」ないものである。視線は表面だけを滑り、どんな背後の意味も確定されず、都市や身体と関係した連想に誘う。

書籍未収録の理由は、「表層的」=「形式的、記号的、付加的」という誤読を避けた?

 さらに「形式的」とも言い切れない。形式という言葉の意味は広いが、仮にこれを図式化できる構成と捉えると、「PMTビル」ではそれに還元できない素材性に大きな役割が与えられている。つるっとしたアルミパネルは、作品歴の中で初めて出現したものだが、これが緩やかなカーブによる正面の構成と切り離すことのできない選択であることは明白だろう。

 素材の物理的属性は、1977年1月の「光の表徴」で描かれたような「都市の光の表情」と呼応する表層をつくる上で欠かせないものである。すると、伊東豊雄が本作で初めてガラスブロックを多用し、赤や青などの色彩を導入したことも、外観をつくるようになったことと同様に、変節とは捉えられなくなる。いずれも「表面のみの世界」に積極的に飛び込みながら、現今の社会に捕捉されないために前進させた手法なのだ。

 このように見ていくと、「PMTビル」の雑誌発表時に作者が記していたのとは少し違って、「表層的」であることと「形式的、記号的、付加的」であることは同じではない。もちろん、先に引用したように、これはロバート・ヴェンチューリに対する形容だった。海の向こうからやってきた「ポストモダニズム」の荒波も乗りこなせるほどに表層をめぐる思考が深まり、拡がりを備えていた証である。

 ただし、今回の連載で煩雑になることを恐れながら復元に努めた当時の文脈を抜きにしてしまうと、表層が「記号」をはじめとする別の概念と同一視されかねないのも事実だ。1978年に書かれた文章が『風の変様体』に未収録である背景には、そんな適切な判断があると思われる。

ピーター・アイゼンマンら主宰の展覧会では「PMTビル」のみを深掘り

 最後に「PMTビル」がニューヨークのIAUS(The Institute of Architecture and Urban Studies)が主催して1978年に開かれた「A New Wave of Japanese Architecture」展において、まなざされたことに触れよう。ロンドンのAAスクールで同年に開催された「Post Metabolism」展と共に、伊東豊雄にとって初めての海外での展覧会だった。ピーター・アイゼンマンらが主宰するIAUSの展覧会に関しては、竣工間もない「PMTビル」だけを選び、しかも、さまざまな距離から日本の都市環境と共に写したほぼファサードのみの写真を、18世紀のフランスの室内で暖炉上部の壁面などに置かれた装飾的な鏡のフレームの中に収めた。

 そこに「覗き込んでいるのは貴方? それとも私?」というタイトルを付けて「『ヨーロッパというフレーム越しに覗き込んだ日本の中のヨーロッパ』ともいうべき二重に反転された建築的状況」を示したのである(注8)。「表面のみの世界」を押し出して、欧米から注目を浴びるようになった日本の現代建築の側から、欧米を見返すといったレトリカルなつくりは、ピーター・アイゼンマンとも、歴史主義的なポストモダニズムとも距離を置くようになったケネス・フランプトンの評価を得ることになる(注9)。「PMTビル」は展覧会を通じても、かつてのように一方的な関係性ではなくなり始めた、当時の国内外の相互作用を代表している。

 1977年から78年にかけての伊東豊雄の言説と作品には、大きな変転と充実がある。そこに一貫しているものが「表層」の発見と前進にほかならない。

本稿で初期の伊東豊雄に着目した4つの理由

 今回、伊東豊雄に焦点を当ててきた。最大の理由は、豊富な言説を通して時代性が映し出されているからである。

 第一に1977〜78年はアメリカの建築理論を中心とした海外動向と国内との相互作用が深まる画期だった。チャールズ・ジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』もその一つであり、その一つに過ぎない。

 第二に当時の日本の建築における記号性と抽象性は、どちらかに行ききらない緊張感を保持していた。

 第三に表層が上記に関わるものとして、主体性・一貫性を持って展開されていた。

 第四に表層への着目は建築の分野に限定されない社会に関わっていた。そのつながりは宮川淳や村上春樹を引き合いに出したような思想や心理といった側面だけでなく、社会的な生産関係においても考えられるだろう。

 こうしたことは、単に一人の建築家に限らない。次回はポストモダニズム期の始まりにおいて重要な「表層」の行方を、1978年以降についても追っていきたい。

注6:伊東豊雄「ホテルD」(『新建築』1978年3月号、新建築社)142頁
注7:伊東豊雄『風の変様体 — 建築クロニクル』(青土社、1989)167頁
注8:前掲書196頁
注9:ケネス・フランプトン「浮世絵と伊東豊雄の芸術」(伊東豊雄『伊東豊雄 自選作品集 — 身体で建築を考える』)86頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)