倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」03:初期 伊東豊雄論<前編>「中野本町の家」「上和田の家」に見る「表層」誕生秘話

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 1977年に、伊東豊雄も「表層」に気づくことになる。前回に説明した長谷川逸子と同じく、大きく2つの変化が現れるのだ。それまで中心としていた「空間」から別の言葉にテーマが移る、意味の世界と関わるようになる、という2つの変化である。

 内省を通して変化し続ける建築家・伊東豊雄には、顕著に作風の結節点となった代表作がいくつかあり、それは結節点であるがゆえに、前後の時期の特徴の双方を備えている。1976年に完成した「中野本町の家」は紛れもなく、そうした代表作の一つだ。すなわち「中野本町の家」は、1977年から始まる「表層期」には含まれない。同時に「表層期」の母体となっている。

伊東豊雄「中野本町の家」1976年(写真:多木浩二)

軸線を貫くことよりも空間の美しさをとった「中野本町の家」

 「中野本町の家」は「White U」という名称で海外でも紹介され、伊東豊雄の名を有名にした。確かに上から見ると「U」の字型をしているのだが、大胆なのはその形態ではなく、空間の作用であることは、竣工時も後年においても、設計者が言及するものである。

伊東豊雄「中野本町の家」1976年(写真:多木浩二)

 後年の2020年には「2枚の湾曲する壁の間につくられた回遊式庭園のような空間と言えるかもしれない」(注1)と形容されている。文末が推量表現であるのは「回遊式庭園」というのが当時の意図ではなく、竣工から40年以上の距離をおいて省みたものであることを示しているが、まさに幾何学式庭園のごとき左右対称の軸線を崩して「中野本町の家」が成立した経緯は、1976年の作品解説でも次のように述べられている。

 設計の当初は「軸線とシンメトリーというフォルムの操作を手がかりとして」いたが、「U字型プランの中央に縦に軸線を通すことによって、湾曲した大きな壁が左右に分断されてしまう点を納得できないまま」でいた。なぜなら「それはシンメトリーの強いフォルムをもつこと」にはなるが、「緩やかに回り込んでいく壁面の美しさを断つこと」になってしまうからだ。「軸線を貫きたいとする観念の志向と、空間の美しさを求める感性の対立の末に、私は後者を採った。」(注2)

 「観念」ではなく「感性」の側を選択したという劇的な場面だ。一貫性よりも「美しさ」を採ったのである。それにしても、何の美しさだろうか? 「空間の美しさ」を求めたと書かれている。しかし、断念できなかったものが、具体的な「壁面の美しさ」であることは、文章から明らかだ。

 伊東豊雄が問題にしているのは、通常の「空間」ではない。それは作品解説を読み進め、「モルフェーム」というキーワードが現れることでさらに明確になる。人を感動させたり、畏怖させたりするような一体感を持った空間の美しさ。それが焦点ではないのである。

書くことを通してUの字型は解体し、「モルフェーム」が主題となる

 伊東豊雄が「モルフェーム(形態素)」と名付けるのは、Uの字型の内部にある「幾種類もの半径の円弧、雁行を小刻みに繰り返す壁、3つのタイプを異にするスカイライト、複数のアルコープ、空間を横断する蛍光灯の光のライン、円形の大理石のテーブルなどのエレメント」である。この新語は、通常であれば社会的にまったく異なるカテゴリーとされるもの、すなわち建築物の一部である壁、インテリアとしてのテーブル、非物質的な光の効果までもを一緒にするために導入されたと言って良い。

 名付け、既成概念を変更する言語の力を通じて現したいのは「エレメントが既存の意味から切り離されて、単なるフォルムの群として集積される」光景である。伊東豊雄は感性を言語によってドライブさせる。設計の過程において必ずしも完全な自覚を持たずに選択された決定は、竣工後の作品解説によって深い意味が与えられただろう。書くことを通してUの字型は決定的に解体され、モルフェームの働きが主題となる。作者は次のように叙述している。

 「平面ではコンパスによってただ機械的に描かれる円弧が、曲面として立ち上がってくる時、それは幾何学としてではなく、空間の作用として人びとに働きかける。曲面はまったく予期しないさまざまな効果をもたらすモルフェームであることを知った。」

 テーブルにしても光の効果にしても、モルフェームと称されているものが、立体物というよりは、表面の効果によってそう規定されていることが分かる。「面」から始まる「空間の作用」こそが重要なのだ。

閉じた幾何学ではなく、「そこから逃れていく表面の効果」を意識

 もう一つ、「幾何学としてではなく」や「さまざまな効果」といった捉えどころのなさそうな表現も意図的で、大事なところだ。作品解説の中では「R・マイヤーらニューヨークスクールの建築家たちが、コルビュジェの建築を純粋にフォルムとして分析」しているエレメントもモルフェームと呼べるとしながら、「私の場合、モルフェームは自己の記憶や意識に留められている風景や造型から抽象されたフォルムでなくてはならない」と続けている。また、それは「都市の表徴」や「身体のリズム」に関係するとも言う。

 これらから分かるのは、伊東豊雄が自らのモルフェームを、意味においては閉じていないものとみなしていることだ。すなわち、それは常に一定の効果をもたらす幾何学ではないし、都市や身体といった外部を参照しない閉じた系でもない。ここからは、1974年にアメリカのUCLAで開催された会議において呼称が一般化した(注3)リチャード・マイヤーやピーター・アイゼンマンらを含む「ホワイト派」と、ロバート・ヴェンチューリらの「グレイ派」のどちらだけでもなく、両陣営を意識していたのが当時の伊東豊雄であることが窺える。この点についてはまた後ほど触れたい。

 ここまでの話をまとめよう。伊東豊雄の「中野本町の家」(1976年)は、閉じた幾何学的な形態であるように見える。だが、作品解説で意識されているのは、捉えようとするとそこから逃れていく表面の効果であった。これは前回見てきた長谷川逸子の「焼津の住宅2」(1977年)が、概略においては、作者自らがこれまで避けてきたと語る「単純な幾何学的なフォルム」でありながら、実は「すべるような面」の効果が問題になっていたことと、驚くほど似ている。

1977年に発見した「表面性」の3文字

 しかし、1976年の伊東豊雄にとって「表面」ないし「表層」は、まだ中心的な主題ではなかった。1976年の長谷川逸子と同様である。それが浮上するのは1977年になってからだ。1981年まで建築を前進させるモチーフとして生き生きと変奏を続け、一定の役割を終えて、ポストモダニズムの次の段階を準備する。

 伊東豊雄らしいのは、できあがった作品を振り返る中で「意図」が明確化され、設計中の作品に反映され、それがまた解釈されるといった観察と現実の往還関係だ。そんな対話を通じた創造に、批評家の多木浩二らも加わっていく。

伊東豊雄「中野本町の家」1976年(写真:多木浩二)

 1977年1月に発表された「光の表徴」が「表面性」を初めて是認した文章となる。それを肯定したり否定したりするのではなく、事実として存在すると認めた是認が、この論考の画期的な姿勢なのだ。

 内容については前回に紹介した。光を主題に掲げてはいるが、8000文字ほどの論考中でただ一か所だけ傍点が付されているのが「表面性」の3文字であり、この語の発見的な性格を示している。「面における光の記号化について考えるとき、私は表面性という問題を避けて通ることができない」というのが、その箇所だ。「千ヶ滝の山荘」(1974年)と「中野本町の家」(1976年)を事例として説明し、「このように壁や床の表皮だけを次々と通過していく像の表面性は、プリント合板やビニールレザーなどのテクスチュアと通ずるかもしれない」とまで言う。「虚偽という以上に私たちの周辺を覆い尽くしている。それは表面性の時代ともいうべきひとつの文化的状況」という文章が現れるのは、そのすぐ後である。悪しきものを否定するのでも、ヒロイックに肯定するのでもない、新しい姿勢。

 後の伊東豊雄の「消費の海に浸らずして新しい建築はない」(1989年)の内容が思い出されるかもしれない。「私の関心はしたがってただひとつ、このような時代にも建築は建築として成り立つだろうか、という問いである」と呼びかけた論考である。従来の建築とされているものの枠に安住するのではなく、よりリアルであろうとする。存在しているものを、単に肯定したり否定したりする「良識派」に留まらない建築家は、1977年前後に、自らの姿勢を自覚し始めたのだった。

 1977年の「光の表徴」が、1976年の「中野本町の家」を論じながら、新たな視座に達していることは、その執筆が竣工から約半年を経ているといった時間的な距離とも深い関わりを持つだろう。雑誌発表時の作品解説に記されていた「都市の表徴」や「身体のリズム」といった概念も、ここでは全体の論理の中にきちんと収まっている。

「文脈を求めて」(1977年6月)は作品解説を超えた論考

 その5か月後、1977年6月の「文脈を求めて」と題された論考では「表層」という言葉が用いられ、より深い意味が与えられるようになった。「上和田の家」(1976年)の雑誌発表の際に執筆された文章である。

伊東豊雄「上和田の家」1976年(写真:伊東豊雄建築設計事務所)

 「上和田の家」は、X軸・Y軸がそれぞれ10m弱ずつある鉄筋コンクリート壁式構造の一層のボックスの中に、Sの字型に湾曲する壁やLの字型の壁、ギザギザに雁行する壁などが配置されている。これらの壁は、円形の大理石のテーブルを据えた中央の広間とその周囲の寝室やダイニングキッチンなどを区切り、見通しの効くワンルームでも、部屋に分けられた空間でもない状態を生み出す。それは外光を回り込ませて、薄明かりや薄暗がりをつくり出し、空間に断片化された印象を与える面となる。

 「上和田の家」の設計は「中野本町の家」の現場の進行と平行して進められたという(注4)。「中野本町の家」における雁行する壁などは、現場が始まってから登場したというのがクライアントの回想である(注5)。雑誌発表時にモルフェームと名づけられた要素を平面に散りばめ、全面展開した住宅が「上和田の家」だと言える。

 これに併せて掲載された「文脈を求めて」は、単体の作品解説を超える論考となっている。先の「光の表徴」の続編的な性格を持ち、1977年の空気感にあふれている。

 論は、多木浩二の批評との対話として始まり、現代の都市を論じて、それとの関係で自らの作風を語るといった内容である。冒頭では、多木浩二が「中野本町の家」を「文脈ぬきで設計をすすめている」と評したことに対し、「文脈がないといわれても、私自身は絶えずそれを求め続けてきた」と反駁する。そして、自分が「アイゼンマンやリートフェルトの建築よりはグレイブスやコルビュジェの建築に興味をおぼえる」のは「さまざまな文脈をもっていること」に強く惹かれるからだとした上で、「私がこれまで求めてきた文脈はやはり現代の都市である」と宣言する。

「表層の記号的要素のみが剥離して浮遊」

 では、現代の都市とはどういったものか? 「その認識を特徴づけていることば」として「①コラージュ」、「②均質」、「③グラフィック」、「④レトリック」、「⑤リズム」、「⑥断層」の6つを挙げる。このうち「③グラフィック」と「⑥断層」の文章を、順に詳しく見てみよう。

 「③ グラフィック:〈中略〉プリント技術によって、木も石も布もレンガも薄いビニールシートにコピーされ、奥行きのない視覚世界が私たちの周辺を広く囲んでいる。ものばかりでなく人ですらも、その存在としてではなく表層の記号的要素のみが剥離して浮遊し、この記号のみによって世界が構成される。形式的世界。」

 先の「光の表徴」の主張が展開され、そこに「表層」という表現が乗せられ始めたことが分かる。この箇所を引用したもう一つの理由は、この論旨が、後年にも画期的なものと捉えられていたと推測できるからである。

伊東豊雄著『風の変様体』1989年

 本論考は1989年の『風の変様体』に再録されている。その際に「グラフィック」という見出しは「表面性」に改められた。さらに、先ほどの引用文の「記号的要素のみ」から後の部分が「記号によって衣服のようにすっぽりと覆われてしまい記号が浮遊する表面のみの世界が構成される。」に変更されている。『風の変様体』全体でも初出時からの改変はあまり多くない中で、このように書き換えられたのは用語の整理などが目的と考えられるが、文章全体が「衣服」のような「表面性」を強調する結果となっている。

 中でも「表面のみの世界」というのは、強い断言である。この表現は初出時には論考全体の中でも現れていない。「文脈を求めて」で獲得された世界観の重要性が、再録時にさらに明確化されたと言える。そこからの展開を、以下の引用部と関連させて述べていきたい。

 「⑥ 断層:表層的でリズミカルな都市。レトリックで充満した都市は均質で平坦であるが、時として私たちはその表層間の断層に遭遇することがある。表層を横すべりしつづけていた私たちは、表層の裂け目から顔をのぞかせている断層を垣間みて背後の存在の一端を知ることがある。」

 冒頭の部分から、現代の都市の「認識を特徴づけている」とされた6つの言葉の関係性が察せられるだろう。6つを1つに要約した言葉が「表層」となる。それは本論考の後段で「私の求めている建築への文脈が表層的な現代の都市的状況と関わろうとする」ものだと確言していることから明らかである。多木浩二の批評への反駁は「表層」の是認を通して行われているのだ。

書籍『風の変様体』では思考の転換点を明確化

 すると、この「断層」という単語は収まりが悪くなる。ここで述べられている「背後の存在」は、先に述べた重要概念「表面のみの世界」と矛盾するからだ。さらに言えば「断層」や「裂け目」という言葉づかいも、この頃からの著者の持ち味である、乾いたロマンティシズムに見合っていないのではないだろうか。

 この事態は、次のように整理できる。先に現代の都市に関わる6つの言葉を挙げる際には「その認識を特徴づけていることば」と表現されていた。著者は慎重に、意識的に、語りうる対象を「認識」に限定していたのだ。

 個別の言葉の説明についても同様である。例えば「②均質」の部分の文章を見てみよう。言葉の1つとして挙げた「レトリック」の関係については「均質化が増幅されるにつれて、人びとは平坦な壁の向こうに裏側の世界がひろがっていることを期待しそこに思いをはせる。ここにレトリックの生ずる背景がある」と説明されている。ここで言う「裏側の世界」は「⑥断層」の部分の「背後の存在」と同じである。しかし、存在論ではなく、認識論であることが違う。「思いをはせる」ものなのだ。

 そこから生ずるという「レトリック」について知るために「④レトリック」の部分を読むと、記号の浮遊する環境にはレトリックが充満しており「それらは実体とはまったく別の世界」を形成しているとある。「裏側の世界」とは実体と別にある、認識の対象となる世界だということが分かる。したがって、裏側が存在することは「表面のみの世界」であることと矛盾しない。

 このように『風の変様体』(1989年)の書籍では、追記された「表面のみの世界」という言葉を中心に、思考の転換点がより明確化されている。

村上春樹『風の歌を聴け』とも重なる時代の空気感

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』 1979年

 ところで、書籍のタイトルは村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を連想させないだろうか。この小説が世に出たのは1979年、これまで扱ってきた伊東豊雄の論考「文脈を求めて」が最初に書かれた2年後にあたる。これもまた従来の小説らしい深さを持たず、表層的という批判も受けたものだった。それが広く受け入れられ、1987年のベストセラー『ノルウェイの森』に至る。『風の変様体』の刊行はその2年後である。1970年代後半に、社会の中でも理想を手放さないためのアイテムとしての「表層」は生まれ、それが一見スタイリッシュなだけにも見えながらも実は強い存在であることが1980年代後半に幅広い理解を得た—そして、こうした事実は1995年以降、忘れ去られた—のだった。

 乾いたロマンティシズムが対立するのは、隠されていた存在を暴き、悪しきものすら肯定するようなヒロイックな姿勢である。1968年前後の「革命的」な時代状況が遠くに過ぎ去り、その欠片が社会を駆動する新たな養分に生まれ変わった1970年代半ばには、かつての姿勢が脆弱なものと化したことは明白だった。したがって、ウェットではなく、乾いている。美術評論家の宮川淳が言うところの「あらゆる深さをはぐらかす」ことで、このような時代にも絡め取られない領域を温存させようとしている。理想は存在するから「ロマンティシズム」の一種と言える。クールな見た目の奥には、熱さがある。これが当時、幅広い理解を得た理由だろう。このような「表層」の誕生秘話を、1977年の伊東豊雄の論考に記された「背後の存在」は明らかにしている。

伊東豊雄論<後編>に続く。

注1:伊東豊雄『伊東豊雄 自選作品集 — 身体で建築を考える』(平凡社、2020)70頁
注2:伊東豊雄「白い環」(『新建築』1976年11月号、新建築社)230〜231頁
注3:ハリー・F・マルグレイヴ+デイヴィッド・グッドマン著、澤岡清秀監訳『現代建築理論序説 — 1968年以降の系譜』(鹿島出版会、2018)74頁
注4:伊東豊雄「文脈を求めて」(『新建築』1977年6月号、新建築社)206頁
注5:後藤暢子・後藤幸子・後藤文子『中野本町の家』(住まいの図書館出版局、1998)25〜27頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)