倉方俊輔連載「ポストモダニズムの歴史」05:長谷川逸子と伊東豊雄の距離<1>接近し、分かれるX型の軌跡

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 長谷川逸子の「焼津の文房具店」は、前回にそこで記述を終えた伊東豊雄の「PMTビル」と同じ月に雑誌発表されている。この瞬間に2つの個性は、かつてないほど接近し、そこからまた二股に分かれていく。そんなX型の軌跡は、当時における「表層」の同時多発的な発見と、それがカバーする範囲の拡がりを代表している。したがって、単なる建築家列伝を超えた歴史を執筆するために、今回もう少し、この2人の建築家にこだわりたい。

長谷川逸子が外観を問題にした「焼津の文房具店」

長谷川逸子 「焼津の文房具店」 1978年(写真:大橋富夫)

 1978年3月に竣工した「焼津の文房具店」は、同月に完成した「PMTビル」と同じく、それまでの作者がむしろ無関心をもって扱っていた外観を、明らかに問題にした作品だ。伊東豊雄にとって「ホテルD」(1977年)が内から外にも関心が向かう転換の踏み台であったように、長谷川逸子も同じ前年の「焼津の住宅2」(1977年)において外の「表面」に焦点を当て、「柿生の住宅」(1977年)で「表層」という言葉を探り当てていたことは、連載の第2回に述べた通りである。2人の建築家の最接近は、前触れなく現象したわけではない。

 それでも1978年の2つの作品が、前年までと大きく違っていることは、外観を見るだけでも明白だろう。「PMTビル」がファサードを備えていたように、「焼津の文房具店」も北側の道路から眺めた時、並んだ3つの家形が目に留まる。実際の内部空間はつながっており、また平面的には3つの部分の長さが異なるために、視点の位置を変えて捉えると、正面からは明瞭だったファサードが次第に溶けていく感覚がする。

長谷川逸子 「焼津の文房具店」 1978年(写真:大橋富夫)

 屋根の家形は内部にも連続して、空間の使い方とゆるやかに対応している。3つの家形は「PMTビル」における3つの層にも似ている。互いに完全に自立しているのでも、統合されているのでもない曖昧な関係にある。そして、内側にある機能に呼応しつつ、そこから決定されない存在でもあるのだ。

明快な記号ではない外形

 併行して設計された2作品が、ここまで同じ方向性において、前例のないものになっているのはなぜだろうか。そして、長谷川逸子の文脈で言えば、このように明らかに操作的であるという感触を、それまでの設計作から受けることは、まったく無かったのではないだろうか。

 このような激変を、チャールズ・ジェンクス『ポストモダニズムの建築言語』(原著1977年、訳書1978年)に象徴される「ポストモダニズム」の襲来、といった歴史観で説明できないことは前回に論じた通りだ。「焼津の文房具店」もまた、単一の「記号的」な意味を目指しておらず、表層は内部にもあって「付加的」ではなく、「形式的」という言葉に還元できない素材性に大きな役割を与えている。

 まずは先ほどの外観に立ち戻ろう。3つの家形がぶつかりあったかのような外壁は、鉄骨造の架構とは別につくられ、アルミ樹脂複合版で覆われている。前作の「焼津の住宅2」(1977年)では、作者が「シンボリックな意味の世界と密接に関わってきたもの」だからこそ従来は避けてきたと語る「単純な幾何学的フォルム」である三角形を用い、木造の架構を隠すように、一様なシルバーペイントで外壁を仕上げていた。

 この「焼津の文房具店」でも、作者は雑誌発表時に「外側の面は架構から分離した白く簿いスクリーンで、表面は鈍く光る無機材としてのアルミ板」と表現し、「メタリックな面は断片となって真空のなかにあるような建築にならないだろうかという期待」を示している(注1)。前作で始まった意味の世界との関わりを深めると同時に、引き続き、厚くて重い単一の中心からは逃れたいのである。

 「焼津の文房具店」は「焼津の住宅2」の手法を前進させることで、長谷川逸子の作品に「表層」が出現した画期となった。その外形は、内部の機能に直結はせず、表面性が強調され、意味が見出されることを拒否してはいないが、断片化されている。つまり、明快な記号ではないのだ。

 それに加え、伊東豊雄の「PMTビル」と同様に、「焼津の文房具店」の表層は内部にも存在する。2階の家具収納場所で独立したカーブを描いている布製のスクリーンや、階段部分に使われたクリンプ金網の均質で透ける面は、アルミパネルの外壁と同じたたずまいを持っている。それらは漂うがごとく、内部と外部の空間の区別をむしろ無くし、階ごとの区分も和らげている。

 こうした目線をすべらせる表層の効果が、素材性と切り離せないことも同一である。各々の場面で、素材がその本性を発揮するかのように使われている。市場に流通している建材を用いながら、その使い方が通常に期待されるものを越えていることが多い。発見的な使用と言える。もしかしたらこの先、表層的な建材を開発するようなこともあるかもしれない。建築を形式的な操作に還元するようなものではないのである。

表層は二項対立を越える

 さて、前述したように「焼津の文房具店」は「PMTビル」と同じ月の『新建築』に掲載されている。その際の論考には「都市への埋め込み作業」というタイトルが付けられている(注2)。作品がある静岡県の焼津は、漁港の町として知られる。それは「都市」なのだろうか。

 冒頭近くで長谷川逸子は「厚みのないまま表面的で現象的であることが、都市と名づけられた空間なのだろうか」と問いかける。焼津は「焼津の文房具店」を含む既成6作品のうち、3作品が建つ町である。ただし、これまで建築をつくってきた東京や横浜の郊外と同じく、ここにも「荒涼とした都市現象が希薄に広がってきている」。「高速道路ができたころから急激に変わり、その表相からは文化の地域性とか周縁性を見出すことをむずかしくするほど、色褪せた特色のない都市になってきた」というのだ。

 この2つ目の引用部の「都市」には「まち」とルビが振られている。このあたりで筆者が、凡庸な二項対立で物事を見ているのではないことが分かってくる。今、地域を侵食している「都市」は悪であり、かつての「まち」は善と単調に割り切れるものではないのである。すると、厚みのないまま「表面的」であるといった形容も、通常とは違って、非難一辺倒の意味でないことに気づいてくる。

 表層は二項対立を越える。長谷川逸子は「焼津の住宅2」も「焼津の文房具店」も古い町家を建て替えたものだと説明し、それらが取り壊される時の「両方の施主の軽い身振りにはおどろかされた」とした上で、「表相からは見出せない都市の深層、都市の中で生きているという厚みは、この壊された家の中にあった重い事物にあるのではなく、その軽がるとしたしぐさの中にあるのを見た思いがした」と記す。

 ここにおける「都市」にはルビが振られてない。長谷川逸子は、自らが育った町である焼津も、東京も同様に、建築が埋め込まれる「都市」と見ている。分断線を引かないのは、現在と過去の関係も一緒だ。都市の「深層」であり、そこでの生活の「厚み」は、過去からの「重い事物」にあるのではなく、今の「軽がるとしたしぐさ」にこそあるというのだから。

物理的都市に建築が向き合うのは「外側の面」

 通常は立脚している「深層」と「表相」、「厚み」と「軽がる」、「まち」と「都市」といった対立概念が、さらりと転覆されている。この反語的な表現は、何に行きつくのだろうか。

 一つは「建築は実際に竣工し、人が住み生活をはじめることによって虚構としての建築が、都市との関係の中で実体として生きられる家となり存在することになる」といった認識である。当時、批評家の多木浩二の著作は、複数の経路で同時代の建築家の思想に影響を与えていたが、ここには『生きられた家—経験と象徴』(初版1976年9月)の反響が見られる。ただし、これは設計方法論に直結はしない。作品との関係でより重要なのは、前回に分析した伊東豊雄の言葉で表せば「都市の表徴」や「身体のリズム」と、建築の表面との関係性に行きつくことである。

 長谷川逸子は「物理的都市にひとつの建築が向き合うのは、建築の内と外を分節している外側の面によってではないだろうか」とし、この観点からデビュー作である「焼津の住宅1」(1972年)以来の自作を整理している。ただし、このように建築の外面を都市との接点とみなす明快な記述は、それまでには見られない。明らかに外観を問題にし始めた「焼津の文房具店」とその作品解説は共に、当時までの歩みがしきい値を越えて新たなステージに達した、1978年の長谷川逸子の姿を示している。

厚みを持たないものへの希望

 それにしても、先ほどのように作者は、古い町家をはじめとした事物に都市の深層を認めてはいなかった。したがって、周辺の建物や街区の形状を参照するコンテクスチュアリズムに向かうことはない。そうではなくて、物理的な都市と接する外面には、物理的なものに還元されない「都市」が置かれるのである。

 長谷川逸子は「建築を実現させるということは同時に都市に埋め込む作業」であるとし、「古い家が壊された時に見た、あの厚みを裏に隠した軽やかさ、あの軽やかさをいま都市に埋め込んでいったなら、真空の中に、見えない無秩序に近い深層を探り出せるものなのだろうか」と述べる。「焼津の文房具店」の外観が、作品解説のタイトルである「都市への埋め込み作業」のために選ばれていることが分かる。都市との接点に置かれた、家形を彷彿とさせながら漂うメタリックな外面は、都市的な「軽々としたしぐさ」に響き合い、内部の表層と共に、生きられた家に向かう媒介となることが期待されているのだ。

 厚みを持たないものへの希望と、これを言い換えても良いだろう。美術評論家である宮川淳の言葉を、すでに連載の第2回で1977年の長谷川逸子とからめて登場させた。それは「表面は厚みを持たず、どんな背後にも送りとどけず(なぜならその背後もまた表面だから)、あらゆる深さをはぐらかす」といったものだった。同じ宮川淳の表現を使えば「それは存在のあらゆるカテゴリーをのがれる」。表層は有りながら、存在していない。内部に属さないし、外部環境の一部でもない。直接に機能を囲い込むことも周辺のコンテクストも信じきれなくなりながら、人とのコミュニケーションを希求した時、表層は現れる。それは二項対立を越えるものへの希望である。

長谷川逸子の鮮やかな展開──「徳丸小児科」

 1978年から、翌年、翌々年と、長谷川逸子の転回は鮮やかである。……長谷川逸子と伊東豊雄の距離<2>に続く。

注1:長谷川逸子「建築の構成について — Memolandamにかえて」(『建築文化』1978年6月号、彰国社)52頁
注2:長谷川逸子「都市への埋め込み作業」(『新建築』1978年6月号、新建築社)168頁

倉方俊輔(くらかたしゅんすけ):1971年東京都生まれ。建築史家。大阪公立大学大学院工学研究科教授。建築そのものの魅力と可能性を、研究、執筆、実践活動を通じて深め、広めようとしている。研究として、伊東忠太を扱った『伊東忠太建築資料集』(ゆまに書房)、吉阪隆正を扱った『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)など。執筆として、幼稚園児から高校生までを読者対象とした建築の手引きである『はじめての建築01 大阪市中央公会堂』(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会、2021年度グッドデザイン賞グッドデザイン・ベスト100)、京都を建築で物語る『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社)、文章と写真で建築の情感を詳らかにする『神戸・大阪・京都レトロ建築さんぽ』、『東京モダン建築さんぽ』、『東京レトロ建築さんぽ』(以上、エクスナレッジ)ほか。実践として、日本最大級の建築公開イベント「イケフェス大阪」、京都モダン建築祭、日本建築設計学会、リビングヘリテージデザイン、東京建築アクセスポイント、Ginza Sony Park Projectのいずれも立ち上げからのメンバーとしての活動などがある。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

※本連載は月に1度、掲載の予定です。これまでの連載はこちら↓。

(ビジュアル制作:大阪公立大学 倉方俊輔研究室)